風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

原敬についてちょこっと語ってみる。【エピローグ】もののふの道

2017-06-14 13:53:09 | 岩手・東北





戊辰戦争が比較的中規模な内乱で終わったのは、「水戸学」の御蔭だったといっていい。



武士が最終的に仕えるのは天子様(天皇陛下)である。このような観念が日本中の武士の隅々まで浸透していた。だからこそ「錦の御旗」一枚を掲げられただけで、幕府軍はへなへなとなってしまった。

鎌倉のころは、武士は将軍の命令に従うのであって、上皇の命に従うわけではないとして、後白河上皇の許可もないまま奥州平泉に軍を差し向けた。そのころとは基本的な意識が違っていたんですね。


会津藩をはじめ奥羽越の同盟諸藩も当然水戸学の影響下にありましたから、彼らが新政府軍と戦ったのは新政府に胡散臭いものを感じ、こいつらにまかせたのでは天子様のため、御国のためにならないと感じたからであって、守ろうとしていたものはどちらのサイドも同じだったんです。


原敬が「戊辰戦争殉難者五十年祭」の祭文に記した一文、


【戊辰戦役は政見の異同のみ】


とはそのことを語っているんです。


天子様天皇陛下のため、御国のため、国民のため身命を賭して働くのが武士。盛岡藩家老の家に生まれた原敬は、終生自分は「盛岡藩士」であるという意識を持ち続けました。刀は持たずとも、戦場に立たずとも、自分は盛岡藩の武士である。


原はその生涯を賭けて、盛岡藩に着せられた「逆賊」の汚名を雪ぐために戦い続けたのでしょう。


それが、盛岡藩士の務めであると信じて。












薩摩に村田新八という人物がおりました。


尊敬する西郷隆盛が政府を辞して薩摩に帰り、どうやらいくさが起きそうな気配。新八はいくさを辞めるよう進言するため、西郷のもとへ向かいます。

新政府ができてまだ十年、色々不満もあろうが今はいくさをするときではないと村田は進言しますが、その場に居合わせた薩摩武士の桐野利秋、かつて中村半次郎の名で「人斬り半次郎」と恐れられた桐野が、村田に一言


「村田君、君はまだ議論をしようというのか?」


こう云われた途端、村田は黙ってしまい、一言も口をきかなくなったそうです。


一度決したこと、こうと決めたことは曲げない。戦うことを決めた以上、これ以上議論を続けようとするのは卑怯未練というもので、武士としてもっとも恥ずべき行為でした。

「君はまだ議論をしようというのか?」こう問われて、村田は武士としてもはや曲げられないことを悟ったんですね。


その後村田は西郷の指揮の下、軍の先頭に立って戦います。戦闘は苦戦を強いられ、若い兵士が思わず村田に尋ねました。

「村田さん、このいくさは勝てるんでしょうか?」

村田は答えます。

「これは義のための戦いであるから、勝ち負けは関係ない」


こうして村田は田原坂にて討死。その目には一筋の涙が……。





原敬もまた武士として、政界という「戦場」で戦い続けた。


そこに勝ち負けは関係ない。ただ「義」を示すのみ、その為のみに戦い続け、


見事、討死を遂げました。



そこに、悔いはなかったでしょう。原は見事に生き切った。



その生涯は、まさに




「もののふ」でありました。





原敬が尊敬して止まなかった盛岡藩家老、楢山佐渡の辞世。


【花は咲く柳はもゆる春の夜にうつらぬものは武士(もののふ)の道】


※私なりの解釈をすると、花(桜)が咲き、柳の新芽が萌えるように、この世のことはすべて移ろい変化していく。そのように移ろいゆく春の夜でも、移ろわないもの、変化しないものがある。それが武士道、もののふの道である。


つまり佐渡は自らの選択に一点の曇りなく、一切の悔いはないと云っているわけです。自分は武士としての義を通した。勝敗は時の運に過ぎない。

佐渡は武士の誇りをもって、胸を張って死んでいったのです。



佐渡を尊敬してしていた原敬もまた……。


奥州武士道、これにあり!



おわり