風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

原敬についてちょこっと語ってみる。【その4】原敬暗殺

2017-06-12 04:44:33 | 岩手・東北





原内閣の閣僚はそのほとんどが政友会より選出されており、党員でないのは海軍大臣など極一部のポストのみ。

これまでの薩長閥による藩閥政治を打破し、日本発の本格的な政党内閣の樹立でした。








原敬が総理大臣に就任した時代は、ちょうど「大正デモクラシー」華やかなりし頃でした。

自由と平等を謳う大正デモクラシー。デモクラシーを「民主主義」と約したのはだいぶ後のことようです。この時代、デモクラシーは「平民道」と訳されました。


訳者は新渡戸稲造。農学者で国際連盟創設にも携わり、原敬と同じ盛岡藩出身で、原よりは6歳年下。その著作『武士道』は世界滝ベストセラーとなり、一時期は5千円札の「顔」でもあった、あの新渡戸稲造です。


原の日記に新渡戸のことは2度しか出てこないことから、両者の間には交流はほとんどなかったのではないかと云われています。しかし二人の間には共通の知り合いがかなり多いことから、実はお互い見知っていたのではないかとも言われています。


原が「平民宰相」と歌われたのは、この「平民道」を行おうとしていたから、との言説もあるようです。






さて、原がその施政方針演説で挙げた基本政策は次の4つ。


一、教育施設の改善充実

二、交通通信機関の整備

三、国防の充実

四、産業及び通商貿易の振興



御国のために働ける人材を育成するには教育機関を充実させること。原は高等学校や官立と私立とに限らず大学の新設を奨励し、それまで私学の専門学校であったものも大学となり、早稲田大学なども腹の時代に大学化したものです。


交通機関に関しては、鉄道や道路の整備が図られ、鉄道路線が各地に作られました。岩手県内だけでも大船渡線、山田線、花輪線が原内閣の時代に着工しています。


このうち、大船渡線の路線を眺めると、面白いことがわかります。大船渡線は岩手県の一ノ関駅を起点として、宮城県の気仙沼駅を通り、海岸沿いに岩手県に戻り、陸前高田駅、大船渡駅、盛駅へと至ります。

この路線、真っすぐ宮城県の気仙沼駅へ向かうかと思いきや、途中で大きく迂回し、山の中をうねうね曲がりながら、岩手県の大東町摺沢駅に至り、そこからまた大きく回って千厩駅に至り、改めて気仙沼駅へ向かうというなんとも遠回りな、変なかたちの路線になっているんです。

普通なら一関から真っすぐ千厩を通りそのまま真っすぐ気仙沼へ向かった方が遥かに近く、合理的な路線であるはずなのに、何故わざわざ大きく迂回するのか。



実は摺沢から政友会の党員が立候補し、当選しているんです。

まあ、ご褒美と云いましょうか、早い話が利益誘導ですね。


鉄道が通れば、駅のある地元の産業は大いに潤う。当時の選挙は限定選挙といって、一定の金額以上の税金が払える者たち以外には選挙権が与えられていませんでした。つまりそれだけの税金が払えるということはそれだけ「稼いでいる」者達、地元の経済人、商売人に限定されるわけです。

そういう者たちを潤わせることで、さらなる集票に繋がる。これがいわゆる利益誘導というやつです。



すべては政界における政友会の力を強めるため。ひいてはそれが政党政治を守ることに繋がる。

原は決して私利私欲のために利益誘導を行っていたわけではありません。なによりもまず、政党政治を確立しなければならない。

全てはそのための布陣。



しかしこうしたやり方には当然批判も多かった。同じ政友会の西園寺公望などは、こうしたやり方をかなり嫌っていたといいます。


いずれにしろ、政党政治の悪癖(?)の一つである利益誘導型の政治は、すでにして原内閣の初めからあったわけですね。



原の政策はどうしても政党を守る方向に傾きがちだったようです。野党が提出した普通選挙法案(一般の成人男子全員に選挙権を与えるという法案)を時期尚早であるとして退け、政友会に有利な小選挙区制を導入し集表力を高める方向に進んでいきます。


経済政策なども、集票力の高い政商、財閥よりになっていく。こうしたことに対する不満は、一部でかなり高まっていたようです。


また、当時の皇太子殿下、のちの昭和天皇に海外留学を勧めこれを実行したことも、一部の層の怒りを買いました。

「畏れ多くも皇太子殿下を、汚らわしき異人どもの国へ行かせるなどとは何事か!」

外交官経験のある原としては、いずれ天皇となられるお方に、世界の見聞を広めてもらいたいという純粋な思いからでしたが、これに右翼などが反発、過激派右翼の五百木良三などは、原の暗殺を予告します。



警備の強化も進言されましたが、原はそれを受け付けませんでした。





大正10年(1921)11月4日。原は翌日京都で開催される政友会近畿大会に出席するため、東京駅にいました。

午後七時過ぎの神戸行きの記者に乗り込もうと改札口へ向かった原に、突然一人の青年が襲い掛かります。


短刀で刺された原はその場に倒れ、ほぼ即死状態でした。


犯人の名は中岡艮一。原の政策への不満が同期だと自供しているようですが、その背後関係には様々な噂があったようです。玄洋社という過激な政治団体と関係があったなどととも噂されましたが、その辺りのことはハッキリしないようです。



原はすでに死を覚悟していたようで、刺殺される8ヶ月以上前に、すでに遺書を用意していました。

その遺言に従い、死後の叙勲等はすべて断り、遺体は直ちに盛岡へ移送され、菩提寺である大慈寺へ埋葬されました。


その墓石には、やはり遺言通り、「原敬墓」とのみ刻まれ、名前以外は一切なにも刻まれませんでした。



享年65歳。その人生はまさに、


「もののふ」であったと、私は思います。



もうちょっこっと、続けたいと思います。




つづく





原敬