ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:世界遺産ポートアーサー史跡

2024年02月29日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡



この地の流刑植民史は1830年
に質素な木造の建物として始
まり、1833年に流刑施設とな
るやその重要性が急激に増し


1845年には流刑囚が4階建て
の製粉所兼穀物倉庫を建設。

(※写真は1870年代)


1840年代の受刑者数は1,100
人にのぼり、1854年には製粉
所兼穀物倉庫の刑務所への改
築工事が始まり1857年完成。



格子窓に刑務所を感じます。



同年に2階建ての台所や洗濯
場も増築され、時計台も設置

その後も増改築が続きます。


建物は自由に参観できます。



改築により、1、2階には各
136室の独房が設けられ、重
刑の素行の悪い囚人を収容。



人1人が横になるのが精一杯
な大きさだったようです。



3階は食堂、図書館、教会で
夜間は学校に。4階は素行良
好な囚人348人の寮でした。



当初7年間1862年頃まで、こ
こはトイレのある休憩場兼運
動場で、囚人たちが仕事後の
時間や週末を過ごしました。



1862年以降、施設が閉まるま
での15年間はトイレを撤去し
てレクリエーションルームに


素行良好な囚人は喫煙もでき
1815年のワーテルローの戦い
戦勝記念パイプも発掘され当
時の暮らしぶりを知ることに



1870年の報告では、11ヵ所
の風呂にはタオル、石けん、
櫛も用意されお湯も出たそう


しかし、ここが刑務所である
ことには変わりなく、夏場は
4時45分、冬場は6時15分起
床で1日重労働に駆り出され



看守への不服従や粗暴な言葉
使いでも処罰がありました。



ここを出て自由になるには長
く厳しい道のりがあり、その
期間と労力こそが、植民地建
設を推し進めるカギでした。

(※流刑囚が焼いたレンガ)


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タスマニア行:世界遺産囚人遺跡群の半分がある島

2024年02月28日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


ハート型のタスマニア島の南
東に位置する、ひと際入り組
んだ地形の奥に州都ホバート


そこから東にぐるりと回り込
むカニの爪のようなエリアが
タスマン半島

(※出所:ウィキペディア)


ホバートから90kmでも、非動
物園アンズー
から目と鼻の先の



世界遺産ポートアーサー史跡



なんとも壮麗で、まるで城跡



でもここはかつて、流刑囚た
ちに最も恐れられた流刑地。



おとぎ話のような外観とは似
ても似つかぬ過酷な史実の場



18世紀の大英帝国はアメリカ
での独立の機運の高まりを受
け、キャプテン・クックを密
使に「アメリカに代わる植民
地の発見」という賭けに出ま
す。クックは東回りでオース
トラリアに到達し、1770年
に東岸をニューサウスウェー
ルズと称して領土化を宣言。


その前にNZも「発見」したの
にご不要だったようで植民
地宣言はされませんでした。


1776年、アメリカ独立宣言。
独立戦争は1783年まで続き、
最終的にイギリスはアメリカ
を失います。5年後の1788年
にオーストラリアへ初代総督
アーサー・フィリップを送り
込み新たな植民地建設に着手


建設の担い手となったのは流
刑囚たち。殺人や強盗はもと
より、パンや家畜を盗むとい
った軽犯罪でも、島流しとし
てアメリカに代わり遠いオー
ストラリアへ送られました。


1788~1868年までの間に、
実に16万5千人の流刑囚が送
り込まれ、オーストラリアの
植民地建設は流刑囚なくし
ては、あり得ませんでした。

(※流刑囚のための足かせ)


オーストラリアの世界遺産20
ヵ所のうちのひとつは、かつ
ての囚人遺跡群で(2010年に
文化遺産に登録)、それらは
11ヵ所で構成されています。

(※フリーマントル刑務所も)


そのうち約半数の5ヵ所がタ
スマニア
にあるという数字か
らしても、この地がイギリス
の流刑植民地政策上いかに重
要だったかがうかがえます。


5ヵ所のうち最大にしてタス
マニアの流刑政策を雄弁に物
語るのがここポートアーサー

壮麗さには訳がありました。


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タスマニア行:非動物園の生き物たち

2024年02月27日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


UnZooという名の非動物園は
檻がないどころか、敷地の境
界の柵も取り払っているので
保護しているタスマニアデビ
以外は出入り自由。確かこ
のコ👇は自らやって来たと言
っていたので、入るのは自由



カンガルー🦘も多数います。



適度に身を隠せる藪もあり、


走り回れる開けた場所もあり



ヒトはごはんをくれて写真を
撮っているだけなので安全

ゆっくり近づけば逃げないし


すぐそばまで来たりします。



ちょっと立ち話という感じ



コミュニティーができている
よう。もめ事があれば出てい
くこともできて、自由です。



この鮮やかな鳥は、



サンショクヒタキ

オーストラリア固有種


「キミはどこかで会ったね?」

顔が蛍光色の大きなガチョウ


このブログをググってみたら

カンガルー島で会ってました。


ロウバシガンという名前で、
世界で最も希少なガチョウの
1種。塩水でも生きられるそ
うです。ゆえに天敵のいない
小島でも暮らせるのだとか。

体重4kgの大きな鳥で多くの
肉食動物には歩くご馳走か


一時は絶滅の危機に瀕し種の
保存のためにNZにも移入され
ましたが、タスマニアでは個
体数が十分戻っているそう。



アンズーの個体は自由に外に
出られるものの、ここに留ま
り、水鳥全般がそうなように
同じ番と生涯ともにいるとか

安全でごはんもあってイイね
(※農家にすれば害鳥だし💦)


このコは多分初めてでは

タスマニアヤブワラビー
和名はアカハラヤブワラビー


タスマニアのヤブワラビーは
左のアカクビヤブワラビーと
右のタスマニアヤブワラビー



タスマニアヤブワラビーは体
重5~6kgほどで、ずんぐりし
ていて耳の短いウサギのよう



なんとも穏やかな小さい動物



人慣れしていて近くで見られ
るのは自然界と違うところ。



また会おうね



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タスマニア行:デビルに恋して

2024年02月24日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


クルマで向かったアンズー

UnZooなので非動物園とでも


檻がないどころか、敷地の境
界の柵も取っ払ってしまい、
野生動物が敷地内を自由に出
入りできるというコンセプト



どんな動物や鳥に会えるかは
その日次第という場所です。

カンガルーは必ず会えます。


なんと言ってもここの目玉は
タスマニアデビル



その名前のとおり、今やタス
マニアにしか生息しない有袋
類最大の肉食動物。顔は熊の
ようで大きさは小型犬ほど。


アンズーでは必ず会えるとい
うので期待していましたが、

お留守💦


ここもお留守か見えないか

夜行性で会うのは難しいのか


園内はよく整備されていて、



『ヒト』だけが檻に入っていて

自分から都会という檻に入り
自然との接触を失っていると
いう、皮肉たっぷりの解説




薄っすらとピンクのものが


やっぱり

デビルの耳でした
フカフカの草の上で寝てる。


なおも行くとデビルの墓地が

ここで亡くなったデビルたち
が手厚く葬られていました。


ここは1日数回デビルショー
があるそうで、どこにいる



待っているうちに参観者同士
で「あれじゃないか」と発見



仰向けになって完全無防備で

寝てる


なんとも人間くさい足と手(笑)



飼育員が登場してご機嫌伺い



か、可愛い



ぐっすり寝ていたところを起
こされお冠夜行性ですから

八重歯も可愛いデビルの歯
は生涯伸び続けるそうです。


ごはんの生肉をもらい巣穴へ



肉食なので食事は新鮮な肉



タスマニアデビルの寿命はた
った5年で、平均で4年とか。
大人になるまで2年なので、

ヒトの10年はデビルの1年
哀しいほど短命な動物です。


かつてはオーストラリア中に
生息し、死んだ動物を餌にす
る森の掃除屋でしたが、野犬
を祖先に持つディンゴがアジ
アから導入されたことで、餌
にしていた小動物がディンゴ
の餌食になり、3500年前に
大陸からは姿を消したそう。

(※ディンゴ)


しかし、ディンゴがタスマニ
アにまで来なかったため、島
のデビルは生き残ったそう。

よかった


デビルの餌の50%は小型カン
ガルーのワラビー、40%はポ
ッサムだそうで、鋭い嗅覚で
死んだ動物を探し出すそう。


デビルは雄たけびの強烈さか
ら命名された名前ですが、ハ
ンターではなく闘う術もない
ため死んだ動物を食べるとか



死んだウシでもウマでも何日
もかけて骨まで食い尽くしま
すが、一番の逸話は、打ち上
げられて死んだクジラが悪臭
を放つ中、数十匹のデビルが
その中に棲みついて、食べ続
けているのが目撃されたこと



私はナゼかデビルにぞっこん




夫も相当気に入ってしまい



アンズーでぬいぐるみを買い



旅行に行くときはいつも一緒

@タイ、チェンマイ


デビルの話になるとキリがな
いのでまた改めて続けます。


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夢見:万歳

2024年02月22日 | 浅き夢見し

「私」は家族らしき数人と自
宅らしい家にいました。背後
から人の話声が聞こえてきて
和やかな落ち着いた雰囲気。


「私」は廊下に立っていて、
これ以上はない笑顔で見下ろ
しています。下によちよち歩
きの小さな女の子がいます。


立っているのもやっとのお誕
生前と思われる女の子です。


「私」を見上げ、女の子はゆ
っくりと両手を挙げ、まるで
「抱っこ」と言わんばかり。


愛らしい姿に「私」は感無量
で、抱き上げることも声を出
すこともできませんでした。


「〇〇が手を挙げたわよ~」
とやっと口にできた叫び声。
親と思われる若いカップルが


「ホントだ!手挙げてるよ」
と感動の面持ちで言い、辺り
に光と喜びと幸せが静かに満
ちていくように感じました。


=============


思い出せるのはたったこれだ
けの一場面ですが、起きてか
らも胸の中に仄かな温かさが
残っているような夢でした。


歩けるほどの赤ちゃんはそれ
以前に「抱っこ」とせがめる
はずですが、なぜかみんなで
その姿に感動していました。


さて、この赤ちゃんは誰か?


①知り合いの妊娠が発覚して
「女の子」というお告げか

 
②若いカップルは次男とガー
ルフレンドのようでもあり、
「私」の「初孫」か


これが一番確率が高そうな、
③次男たちが飼っている保護
犬「ベス」の擬人化かも



私は犬を飼ったことがないの
で、いまだにベスが前足を挙
げて再会を喜んでくれる姿に
心から感動しています。夢の
中の感覚もそれに似ていて、
慕われることの幸せなのか。


赤ちゃんの万歳を見るまで、
他の大人との会話があり状況
がもう少しはっきりしていた
のに、あの笑顔を目にするや
すべての記憶が飛んで、〇〇
という名前さえ思いだせず。


=============


ここまで書いて早数日経過。


今になりさらに浮上してきた
2月3日に永眠した母かも


という突拍子もない発想。な
ぜか夢から覚めたときも母の
ことが頭に浮かんだのです。


私がビデオ通話で目にした生
前の母の最期の姿は万歳で、
居合わせた私たち夫婦、長男
と妹夫婦は、揃って驚きと喜
びの声をあげたものでした。


腕を挙げている寝たきりで
もこんな体力が残っている

その3日後に母は逝きました。


家族が揃った場と万歳という
設定が共通しており、私に母
を起想させるお膳立てが揃っ
ていたように思えるのです。


笑顔で見つめ合うことなど物
心ついてからなかった母子。


すべてが終わった証左なのか
夢は深淵です。


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タスマニア行:充実のカフェカルチャー

2024年02月21日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア初日


予約していなかった夕食は行
き当たりばったりのマレーシ
ア料理。オフィス街にあった
ので空いているかと思ったら
大盛況(笑)

(※マレー凧のインテリア)


ちょっと待って席を作っても
らえたのはラッキーでした。

@サワックカフェ


タスマニアといえども侮れな
いオーストラリアの外食事情



スリラチャがある

この時点でメキシコでのハラ
ペーニョの凶作で、スリラチ
ャはスーパーの棚から消えて
いました(ハワイやオースト
ラリアのスーパーでも探して
いた私)。類似品を置くか、ス
リラチャのボトルに類似品を
詰め替える店が続出していま
した。みんな苦労していた頃


夫はラクサ



私も麺で



さらに焼き餃子



この店でオークランドからホ
バートまで同じ飛行機だった
カップルとばったり再会。声
をかけたら、なんとアメリカ
からの旅行客あの後シドニ
ーに行くと言っていました。


コロナ禍が去り、大旅行時代
が戻って来たのを実感するよ
うな経験でしたが、この後、
それどころではない体験も


ホバート2日目も快晴。ホテ
ルからクナニ山がよく見え、
ロケットのようなNTA塔も



ブランチに選んだカフェ

ボーン・イン・ブランズウィック


ホバートの食材とメルボルン
の洗練をタスマニア生まれの
オーナー2人が追求したとか



この1皿に興味を持ちココへ



タスマニア産タコのスクラン
ブルエッグ+ペースト状サラ
ミのンドゥイヤの組み合わせ

地元産のタコがあったのは、
けっきょくココだけでした。


バーガーがビーフではなくチ
キンだったので、夫はコーン
とズッキーニのフリッターに



凝った料理ばかりだったのは
オーナーの1人がアマチュア
料理人の登竜門であるTV番組
マスターシェフ・オーストラ
リアの出場者だったからか


イマドキのオーストラリアっ
ぽさが、タスマニアでは新鮮



ピジョンホールといい、ココ
といい充実のカフェでした。


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タスマニア行:ホバート最高峰クナニ/マウントウェリントン

2024年02月20日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア初日


カフェの後はクルマで約30分

クナニ/マウントウェリントン
という山にやって来ました。


山頂はゴツゴツの岩で覆われ



標高1,271ⅿ。タスマニアの
州都ホバートでは最も高い山



州政府は2013年から先住民ア
ボリジナルの言語と英語での
名称併記政策を推進しており
クナニ/マウントウェリントン
が正式名称。地元では単にマ
ウンテン(山)やクナニが通称



標高は低くても緯度が高い地



冬は雪で覆われてスノボもで
きるというのは驚きでした。



同名のマウントウェリントン
はオークランドにもあり、こ
ちらは標高135mの火山🌋



英連邦ではどこでもウェリン
トン。1815年のワーテルロー
の戦いでナポレオン率いるフ
ランス軍を破った名将として
イギリス人がどれだけ自慢し
てもし足りない英雄(笑) NZ
は首都の地名ですからねぇ

ウェリントン公爵


岩ばかりの荒涼とした山頂で
ひと際目を引くのが2本の塔

ロケットのようなNTA塔


よくある鉄塔のWIN塔



いずれもラジオ・テレビの電
波塔で、元は2塔とも1960年
に建てられた鉄塔でした。し
かしNTA塔の前身PMG塔(高
さ104m)は風雪での損傷が激
しく1995年にコンクリート
で保護した現在の塔(高さ13
1m)に建て替えられました。


NTA塔の特異な外観に建て替
えは反対運動も起きたそう。


それ自体が絵になる展望台



レンガとガラスの組み合わせ



頂上までの道ピナクルロード
は1930年代の世界大恐慌の際
タスマニア版ニューディール
政策として、失業者救済と観
光誘致のために建設されたも
のでした。雪や暴風雨など過
酷な気候の中での危険な工事
は4年間続き、1937年に完成

(※開通を称える銘板)


道路開通前の1890年代の頂上
と20世紀初頭のピクニック



展望台内部と



外の眺め



息をのむような美しさです。



山頂までの深い森は絶好の
ハイキングやマウンテンバ
イクのコースだそうです。



やはりダニーデンに似てる



驚いたことにここにも、オル
ガンパイプスがありました

パイプオルガンのパイプのよ
うな円錐や角錐状の細長い岩


ダニーデン



タスマニア



ダニーデン



凍結と溶融の繰り返しと南極
からの暴風雨で独特の形状に
なり、ロッククライミングの
メッカにもなっているそう。



1965年に開通したタスマン橋

なんとも端正で古く美しい街


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タスマニア行:街歩きはハト小屋から

2024年02月19日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月の初タスマニア


NZから4時間弱の場所なので
初日からたっぷり時間がある
その分、早起きしましたが💦


さっそくクルマで街へ



検索していて一目で気に入った

カフェ、ピジョンホール


ハト小屋という名前がぴった
りな、小さくて奥まった店内



明るい窓際に席を見つけて、

まずはタスマニア初の1杯


まさに食べたいものがある



すべてがホームメイド🏡



非常に凝ったメニューです
ジェイミー・オリバーのレシ
ピとか熱心に探究してそう。

ニョッキもイタリア語だわ、
ペルシャ料理のシラジサラダ
だの頻繁に変わるようです。


ピミエントス・デ・パドロン
だなんて、なにかと思ったら
スペインのししとうでした


ここはウェストンファームと
いう農園を経営するウェスト
ン夫妻が自分たちの農作物を
紹介するためのカフェだそう

どうりで鮮度も種類もピカ一


店内の椅子も地元の手作り品
というこだわり方でその名も
ピジョンホールチェアだとか
ここまでこだわれたら素敵


近所にこんな店があったら、

ちょいちょい通うでしょう。


居心地も抜群で外テーブルで
はマンガを描いている人も。

何人もが隣に座り話していて
気軽な感じ。有名なのかも


到着早々、大アタリでした🎯


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夢見:親なき子

2024年02月18日 | 浅き夢見し

「私」は4歳から19歳で家を出
るまで15年間暮らした横浜の
実家近くを浮遊しています。


夢日記をつけるうちに気づい
た自分の身長より1、2mほど
高いところから見ている独特
のポジショニング。さらにそ
のまま移動していくので、ま
るでドローンになったよう。


母校の小学校が見え、通学路
を抜け、見知った風景の中を
かなりのスピードで通過して
いきます。通常の夢の中での
移動より遥かに速く、それは
見えているものに興味がない
証拠でもありました。先を急
ぐあまり見過ごしているだけ


ただ心の中で「ここにはもう
来ない。ここには戻らない」
と繰り返し念じており、最後
のお勤めとばかりに何の感慨
もないまま通り抜けました。


=============


2月3日節分の日に母が91歳
で他界しました。日本に飛び
8日に葬儀を済ませ、NZに戻
ってから自宅で見た夢です。
母が亡くなりちょうど2週間


ドローンのように飛んでいた
のは「私」だったはずなのに
目覚めた瞬間にそれは「母」
だったと感じました。成仏す
る前の見納めだったのでは。


夢は幽体離脱体験だと夢日記
をつけるにつけ深く実感して
いますが、帰る肉体を失った
「母」が「私」の身体と思考
を借りて飛んでいたかのよう


最後のお勤めと感じたのも感
慨がなかったのも「母」とい
う客を乗せていたからで、た
またま「母」の視線と思考を
共有するところとなったのか
まるで夢の中のUberです。


=============


15年間暮らした横浜の実家と
ここに書き出してみて改めて


あれはたった15年だったのか
と愕然とするほど、子どもの
私には長く辛く苦しい日々。


不仲や仲たがいというにはあ
まりにも不公平な親子の関係


年端もいかない子どもにとり
我慢以外の選択肢はなく、私
は自分を守るために心のシャ
ッターを下ろしていました。


家を出ることで私は別の人生
を切り開くことができました
が、母の思考は堂々巡りで私
を疎む気持ちは年を追うごと
に強まっていったようです。


=============


「あれは母の視線と思考
と気がついた直後に、今度は


「私は子どもではなくなった」
という突拍子もない発想がど
こからともなく降ってきてな
んとも清々しく感じました。


子どもとしての義理は尽くす
というのが私の揺るぎない方
針だったので、疎まれても関
係を保ち葬式も出しました。

(※母の母のものと思われる
に包まれての旅立ちでした)


天井の低い家から外に飛び出
し青天井になったような気分


物心ついたときから閉まりっ
ぱなしだった心のシャッター
が初めて開いたのでしょう。


母の冥福を祈ります。


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タスマニア行:20世紀初頭からの風景

2024年02月17日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月の初タスマニア


宿泊したリッジス・ホバート
は19世紀末に障がい者支援施
設として建設され、見るから
に学校のような病院のような
で職業訓練も行われました。



レンガの建物がいくつもあり



この辺は後年の増築のよう。



部屋は非常に広々していて、

手前がリビングエリア


細長い廊下を抜けていくと



ベッドルームと



バスルーム



広い部屋の中央にバスルーム
を後付けして2間にしたのか

ベランダもあり居住性抜群


隣のフッティー(オーストラリ
アンフットボール)のグランド

ノースホバートオバール
楕円の球場はみんなオバール


AFL(オーストラリアンフット
ボールのプロリーグ)タスマニ
アデビルズ
のホームグランド



さすがプロリーグの本拠地



草1本生えていない見事な芝



ホテルが良く見え、ホテルか
らも試合が良く見えるのかな



ここは1844年にレンガ工場と
して開発され、その後1882年
までは女囚施設、移民施設、
障がい者施設として使われ、
1898年に今のホテルが視聴覚
言語障がい者施設として開設


1921年に球場として生まれ変
わりタスマニアのAFLの顔に



視界に優しいレンガと緑と空
タスマニアはずっとこんなで
20世紀初頭から変わらぬ風景


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タスマニア行:オーストラリア最南端の旅

2024年02月16日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月は初めてのオース
トラリアはタスマニア島へ

いつか行きたかった秘境の地


NZとタスマニアの間にはか
つて、直行便がありました。
しかし、私たちの移住後は経
由便のみで近くて遠い場所に

(※緑の上には雲ができがち)


それがコロナによる観光需要
の落ち込みでオーストラリア
政府がテコ入れを始めたせい
か20数年ぶりに直行便復活



「これはもう行くっきゃない」




かなり混み合うNZ航空で、
約4時間弱。ありがたい近さ

(※広大な農地と点在する家々)



(※ここでも雲は緑の上)


「ダニーデンみたい」が第一印象

オタゴ湾とオタゴ半島のよう



(※オタゴ湾とオタゴ半島)


レンタカー会社に来ました。

オーストラリアはクルマ
あると行動範囲が段ちです。


ガレージ内に貼ってあったポ
スターが古き良き時代を彷彿

ポスターから情報を得るなん
て、なんともノスタルジック


面白そうでも日程が合わず



「あれキミはカラス?」



そうでした

確かミナミガラスという日本
にはいない種類ではないかな


NZにはカラスがいないので、
珍しくて可愛く見えます
(👆根本的にトリ好きです)


こんな糸巻き杉の中でお食事

住める太さでもあるのかな


やって来たのは北ホバートの

リッジス・ホバート


学校のような病院のような

ここは1898年に開設された
視聴覚・言語障がい者支援の
施設で、歴史的建造物指定。
今は64室のブティックホテル


目の前はオーストラリアでは
フッティーと呼ばれる楕円の
ボールと円形球場を使うオー
ストラリアンフットボール場

かつては障がい者の運動場で
もあったのか。敷地が広いの
で駐車もしやすく、なんとも
いい宿を夫が見つけました。


念願のオーストラリア最南端
の旅の、始まり始まり~


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ハワイ6回目行備忘録:2023年2~3月

2024年02月11日 | 海外:ハワイ備忘録

2023年2~3月のポストコロ
ナ後初、6回目のハワイは8泊
9日(機中1泊)で計20本に


いざ12月に書き始めたら、ラ
ハイナの心から寛いだ記憶と
その後の大火の惨状が蘇り、
自分でも驚く1ヵ月半の中断


写真を開いては閉じ閉じては
開きで時間が経過しました。


オールドラハイナに哀悼を捧
げつつ、いつの日かのニュー
ラハイナの誕生を祈ります。


恒例の自分用備忘録です


ポストコロナのマウイ

コロナ禍を経て3年2ヵ月ぶり


ラハイナ入り

真っ先に来たかったラハイナ


思い出の中の街

今やすべて思い出の中に


一番会いたかったキミ

コロナを生き延びたノナミ


パパナラホア岬ショアライン

ドライブは前回の続きで・・


最初で最後の走破

風光明媚な悪路を走破


サレペペの再起を祈る

家庭的な温かく美味しい店


マウイオーシャンセンター

水族館以上の水族館


カホオラウェ島の暗黒の半世紀

知らなかったマウイの歴史


一生の思い出ラハイナグリル

行っておけたことが幸運


クラボタニカルガーデン

こぢんまりした個人植物園


滑り止めのパイア

観光地に助けられました。


ありがとう!メリマンズ

被災した西マウイ住民に3ヵ
月間で9万食以上を提供する
という偉業を達成しました。


マウイからオアフへ

これが最後の最後のラハイナ


平等院テンプル

こんな場所があったとは


墓ガーデン

夫が興味津々。分骨する(笑)


カフクでガーリックシュリンプ

ハレイワとはひと味違う


ドールプランテーション

初めて有名観光地へも🍍


最後の1日

天気もワルく買い物の1日


ホノルルのメリマンズ

4島全部のメリマンズ全クリ


今年もまた行けますように
年越しでの長期間のお付き合
いありがとうございました。


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ハワイ6回目行:ホノルルのメリマンズ

2024年02月09日 | ハワイ:オアフ島

2023年2~3月の6回目ハワイ


7日目最後の夜はMマークの

メリマンズ・ホノルル店


ハワイに初めて上陸した(笑)
2017年には主要4島のオアフ
島にだけ店がなく、不思議に
思いましたが2018年に開店


カカアコ一帯の再開発に合わ
せ満を持しての出店だったか



入ってみて他島3点と違って
地元民率の高さが見て取れ、
完全にコンセプトが違う店

(※シャンパンで旅に乾杯🥂)


この店だけは、オーナーのピ
ーター・メリマンの好みを反
映して、記念日を祝う特別な
店ではなく、オールドハワイ
にインスパイアされた行きつ
けの店を目指しているとか。



夫はオニオンスープ



私はアボカド&キュウリサラ
ダにしましたが、やはり本丸
のシーザーにすべきだった


サイドのブロッコリーはかー
なーり焦げ焦げで、これでも
出すの(笑)

$7也


夫はワギュウウマミバーガー

和牛とは関係ないワギュウ


私はメニューにあったロブス
ターがなくエビ🦐に降格(笑)



すべてカジュアル路線でみん
なワイワイガヤガヤ飲んでる

(※我々も第2段に突入です)


知り合いに会ってハグしてい
たり、飲み物を手に他のテー
ブルに行ったり、ローカル率
の高さが見てとれ、なんとも
和やかでご近所感あるある


メニューの品数は限られてい
ても、値段もリーズナブル



山積みの支払い済み伝票(笑)



ホノルル好きの私たちには合
いそうな、新たなメリマンズ



ぜひまた行こう



最終日8日目。フライトの関
係で最後の日はメチャ早い💦

空港のスタバで朝の1杯


ユナイテッドのラウンジがキ
レイになって、食事もちょっ
とよくなっていてやや驚き

やればできるんじゃ~ん(笑)


6回目のハワイ、無事終了

また次回を楽しみに


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ハワイ6回目行:最後の1日

2024年02月08日 | ハワイ:オアフ島

2023年2~3月の6回目ハワイ


6日目のドールプランテーシ
ョン
を出る頃は雨も上がって

大きな虹🌈
こうなると雨もワルくない


ほとんど行かないワイキキへ

1回ぐらいは顔出しとこう(笑)


お手軽なコースメニューがあ
ったのでフラッと入った店。
バサルト・ワイキキ・レストラン


出てきたパンに大ウケ

まさにハワイのバサルト(玄武岩)


ハワイ島カイルアコナのアレ

ホントに真っ黒(笑) 
今はこれが繊維になる時代だ
そうで注目の新素材らしい


前菜は夫がロブスタービスク



私はミックスサラダで



メインはシーフードパエリア



デザートはバスクチーズケーキ

どの辺がバスクなのかな


いつもは食後にコナコーヒー
なのですが閉まっていて残念



プランBでスタバで1杯



クルマを返却後の7日目はア
ラモアナ界隈で買い物デー
夫の『衣』はほぼハワイ頼み
特に今回からゴルフ用品も


朝はホノルルコーヒー



アサイも食べ納め



ここも割とよく利用します。

ゆったり広々とした店内


一転ごちゃごちゃな店内(笑)

やっと来られたベトナム料理
フォービストロ2。毎回必須


買い物途中の軽いランチに🥢

生春巻きと


チキンサラダでエネルギーと



この2人で笑顔をチャージし



向かったのはお馴染みドンキ

ここで日本よりは高くでもNZ
よりは安い日本の食材を購入


雛人形はそのままヒナドール

ハワイはこういうものが普通
に売れて行く所なんですね
なんだか新鮮な発見でした。


掘出し物はアバクロのロンT

7色セットで1週間分か(笑)


しかもこれアバクロキッズの
15~16歳用でボーイズ用

私は男子中3か高1体型らしい


シンプルさと素材の良さで、
1年後の今も着倒し中です。


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ハワイ6回目行:ドールプランテーション

2024年02月06日 | ハワイ:オアフ島

2023年2~3月の6回目ハワイ


せっかくレンタカーもあるこ
とだし、次男お勧めのもう1
ヵ所にも足を伸ばしました。


水田か畑のようですが、



生えているのは鋭い葉の

パイナップル🍍


ハワイの商業パイナップル栽
培の発祥の地ワヒアワのドー
ルプランテーションに到着



創業時1900年を彷彿とさせる
素朴な木造の建物に入ると、
 


思っていた以上のおみやげ屋

ドールのロゴ入りトレーナー
とかがどんどん売れていき、
アメリカ人の購買意欲スゴっ


ガイドツアーもあって次男は
参加して大いに感銘を受けて
いましたが、親は園内の展示
を見て回るだけにしました。

(※英語の日本語表記)


実は私、パイナップルを食べ
ると口がイガイガする方でこ
れはタンパク質分解酵素ブロ
メラインのせいらしいです。


今やこういうものを見ている
だけでも口角がイガイガ



アジアで暮らした若い頃は大
好物で、台湾やタイでは小さ
いのを丸ごと食べていたのに
生涯の許容量を超えたのか


説明によると、パイナップル
の起源はパラグアイで、15~
16世紀には交易の対象となり
オーストラリア、インド、中
国でも栽培が始まったそう。



いつ頃からハワイでパイナッ
プルが栽培されるようになっ
たのかは定かでないものの、
イギリス人キャプテン・ジョ
ン・キッドウェルが、1800年
代に様々な種類の栽培を試み
た結果、1880年代に『スムー
スカイエン』という今に続く
種類を選び出し、ハワイのパ
イナップル産業の草分けにな
った、と目されているそう。

(※キャプテン・キッドウェル
香港、シンガポール、NZと旧
英連邦を渡り歩いているせい
か19世紀の英国人に親近感)


そこにやって来たのがボスト
ン生まれのジェームス・ドー
ル。ハーバード大の園芸学位
と1,500ドルを引っ提げて、
ワヒアワに東京ディズニーラ
ンドの半分ほどの土地を購入

(※その当時、弱冠22歳!)


試験的にいろいろな果実や野
菜を栽培したものの、火山性
の鉱物資源を多く含んだ赤土
では何も育ちませんでした。


その不毛の地で唯一スクスク
と育ったのがパイナップル
🍍



1901年には現在のドールフー
ズに続くハワイアンパイナッ
プルカンパニーを設立。ドー
ルが1889年にハワイに上陸し
て以来、2年目のことでした。


ドールは事業の成功のカギを
握るのが缶詰であることを見
抜いていて1903年には手動
で製造した缶詰を本土に出荷

(※みんなムームー着てます!)


1906年にはワヒアワまで鉄道
が開通したことで、パイナッ
プルをホノルルまで運び、郊
外に広大な缶詰工場を建設し
1930年代のピーク時には世界
のパイナップル供給量の3分の
2をハワイが担っていたそう。

(※1993年まで残っていた缶
詰工場のパイナップルタワー)


こうしてドールは「パイナップ
ル王」の名をほしいままにし、
ハワイ史の1ページを飾ります。



せっかくなので2人で1つを



食べているほんの数分の間に

滝のようなスコールが


南国ですねぇ



園内をトロッコが走っていて
家族連れにはよさそうな場所

さて帰りますか


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