ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

パース行:舌切り雀のおじいさん

2021年11月22日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパースは着いて
早々から夫婦で気に入り
この街でホテル投資に出るか

ということを検討しながら観
光して回る旅となりました。


同じ旅程でもこういう目的意
識を持つか持たないかで、視
線が変わり面白いものです。


観光客しかいないような観光
地でも、どういう人たちがど
れぐらいいて、どれぐらいの
おカネを落としていくのか、
彼らの消費力に注目します。

(※ロブスターシャック)


アジア人かそれ以外か。個人
旅行か団体旅行か、はたまた
低予算のバックパッカーか。

ココでは日本からの修学旅行
生の団体を見かけました。


アジア人は概ね滞在期間が限
られるため、旅行中は観光、
買い物と消費をしつつ短期決
戦で楽しむ傾向が強いです。

アジア系イスラム教徒の多さ
も印象的で、インバウンドや
ハラルの食事の充実を実感。


観光客が多ければ多いほど、
乗り入れ航空会社や便数も多
く、日帰り可能な距離や時間
帯でなければ、クルーもホテ
ルに滞在します。航空会社の
利用は契約がある限り収入が
保証されるので心強いです。

パースは遠隔地のため国内線
からも需要が期待できます。


ビジネス街も歩き回って入居
している企業や行政機関から
の出張需要も探りますが、パ
ースほど大都市だとその必要
もないほど需要があります。



左のリッツカールトン



ウェスティン

点灯している部屋数で大まか
な稼働率が見てとれます。


ダブルツリー・バイ・ヒルトン

建設中でしたが2020年開業


こうした高級ホテルは部屋の
ばら売りをしないので、単に
業界の俯瞰ですが、稼働率を
推測するのも重要で楽しい

ハイアット


国内市場ではイベント需要も
見逃せない点で、数万人が集
まるスポーツ観戦もその一つ

私たちもオールブラックス観
を主目的に来たのだし(笑)
AFLの人気ぶりも実地で体験


クラシックカーに愛情をかけ
流す人たちも毎年集うはず。



私たちが投資したいのは立地
抜群の3.5つ星ぐらいのホテル



オーストラリアでは2~4つ星
ぐらいのホテルを1室ずつば
ら売りしている場合があり、
国民やNZ国籍は投資が可能



建設中でしたが、ここもそん
なホテルチェーンの1つです。



クレーンの重さで持ち上がる
のか宙に浮いているトラック

なにがどーなってる


写真を撮る私に笑顔の運転手



調べているうちに判ったのは
パースの場合、ホテル管理会
社が年間利回りを保証し一括
で借上げる方法が多いこと


この利点は年間収入が保証さ
れ実際の宿泊状況に収入が左
右されないこと。想定以上に
宿泊があればホテルの勝ち

しかし、オーナーといえども
自室には宿泊できません


驚きだったのがその利回りで
5.8%だの6.5%だの6%前後で
低金利下ではありがたい高さ


国内投資家も遠いパースとな
ると自分で宿泊する機会はあ
まりなく、利回りを保証され
た方が妙味が高いのかも

(※ヌーサとアデレードは私
たちにとり訪ねる愉しみも)


家主にそれだけ払っても利益
が上げられる需要の強さと、
商業不動産市場の悪化による
物件価格の低下が高利回りを
実現している、非常に稀な市
況が数日の滞在でよく判り
投資を始めるには絶好の好機


最終日には気に入った物件を
見に行き、「顧客情報だから
宿泊客の話はできない」と
言いつつ、話好きのフロント
係がアレコレ実情を話してく
れ企業の出張者向けや航空会
社の借上げの話を小耳に挟み
思った以上の好条件でした


しかし、私たちは投資を見送
りました。条件は良くても、
その時点での不動産投資への
借り入れは億を超え、借金億
り人
でした。すでに取引銀行
からは電話で融資の認可を受
けていましたが、これ以上は
投資ではなくマネーゲーム
という自覚もあり、儲かるか
らと老後に必要な資金以上を
レバレッジを効かせて追求す
るのは慎むことにしました。


常に『舌切り雀』のおじいさ
んでいたいと思っています。


その半年後にはコロナが勃発
し、世界はひっくり返りまし
た。人流が止まり、海外旅行
など遠い話となり、投資先ホ
テルの宿泊は数ヵ月もゼロに

(※ハワイの子も開店休業💦)


それでもローンの返済は続く
ので、利回り保証があるとは
いえ見合わせてよかったか。


パースの商業不動産は統計上
翌月9月に底入れしたようで
私たちはどん底を見たよう。


いつか観光客として再訪して
広い西オーストラリア州を存
分に堪能したいと思います。

NZ航空ラウンジもあるし


パース旅行記、これにて終了
旅行からは2年3ヵ月ぶり、旅行
記でも2ヵ月ぶり長々とお付き
合いありがとうございました。


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パース行:大英帝国の生き証人パース造幣局

2021年11月21日 | オーストラリア:パース

あと数時間後にはNZ行きの
飛行機に乗るという、2019
年8月のパース最終日6日目
になってようやくやって来た
パース造幣局



到着初日に知ってから毎日の
ように前を通過するほどホテ
ルから近く同じ通りでした。

資源で潤ってきた西オースト
ラリアの出発点、ゴールド


パース造幣局は1899年に開業

陽の沈まぬ大英帝国を完成さ
せたビクトリア朝の威信と帝
国植民地の富を象徴する場所
(※写真は1901年)


参観は専属ガイド付きの団体
行動。場所が場所ですから

ガイドのクレイグ。なかなか
味のあるいい小父さんで
「こんなに大きいのがあった」


「こういう形のもあった




中には圧倒される巨大コイン

レプリカではなく本物の金と
いうところがオーストラリア
直径80cm、厚さ12cm、重さ
1トンの巨大ソブリン金貨
表はエリザベス女王のカメオ


これはカンガルー1トン金貨
と呼ばれ2012年にここで鋳造

世界最大の金貨としてギネス
入りも果たしているそうな。
普通に展示されていましたが
「重すぎて盗まれない
というのがクレイグの説明


パース造幣局建設の目的は、
紙幣の印刷ではなく、当時の
金本位制を支えるために、そ
の裏付けとなる本位貨幣のソ
ブリン金貨を鋳造すること。


当初20年間に持ち込まれた金
塊は800トン近くに上り、鋳
造された金貨は通貨としてオ
ーストラリアだけでなく大英
帝国内で広く流通しました。



ソブリン金貨の製造はイギリ
スが金本位制から離脱した19
31年まで続き、造幣局はまさ
に大英帝国史の生き証人


西オーストラリアは1892年に
パースから東へ600kmの内陸
部クールガーディーで大規模
な金鉱が見つかりゴールドラ
ッシュが巻き起こりました。


一攫千金を夢見る男たちは馬
やラクダ、自転車や徒歩で野
営をしつつ金を探しました。



道なき道を行くのだから大変

食料や採掘道具持参での長旅


まさに砂漠のエルドラド



砂漠にはラクダが付きもの



1908年には金輸送の専用鉄道
が開通し、警察の護衛のもと
14時間をかけて造幣局まで金
塊が運び込まれて来たそう。


ここからツアーのハイライト

エプロンをしたクレイグ登場


開業当時を彷彿とさせる場所



防火服とフェイスシールドで



メラメラ燃える炉の蓋を開け



慎重に取り出す溶けた金

遠くで見ていても熱気が判る


これを型に流し込みます。



この形はゴールドバー



冷房もない時代のパースの夏
は灼熱の職場だったのでは。

(※1901年当時)


1950~70年代でもこんな



まるで町工場のようです。



完成

ライトを落として金が主役


デキたてホヤホヤの延べ棒



クレイグ、ご苦労さま



両手で支えてかなり重そう



まるで映画のシーンのような
積み上げられたゴールドバー



最後に体重計があって乗ると

その日の金相場に換算して、
金額が出る観光客ウケな余興


記念の金額を印刷したシール

みんなワーワーキャーキャー


結婚30周年の今年、再訪して
ここでセカンドマリッジリン
グを買う予定でいましたが、

コロナで夢の夢になりました。


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パース行:最後に目抜き通り

2021年11月19日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパースも6日目
いよいよ最終日となり、まず
ホテルからすぐだったカフェ
ハイヤーグラウンズ

兄弟がママのレシピに忠実な
お袋の味を出す店でした


ビルの1階の店で、ここには
西オーストラリア商工会議所
が入居していたので、入口に
は州を代表する産業の絵が



鉱業に加え農業も主要産業



その後は最後の街歩きでCBD
オフィス街の中心業務地区へ

どうしても空室や売り物件が
目につき投資には心強いか


ここからさらに下がっても底
は知れているように感じられ

長期的にはこの国やNZの成長
性と潜在性を信じています


商業施設の規模が大きくなり
目抜き通りマレーストリート
に到着。買い物をしないので
最終日にやっとショッピング
のメッカに来たようです(笑)



ヴィトンの新店舗が開店直前



こういう店があることこそ、
CBDの証明かと思います



近くにチョコレート専門店マ
ーガレットリバーもあって、



そそくさIN

スワンバレーの店とはまた違
った雰囲気で結局買ってる
(👆ダークチョコレート好き)


裏通りに入ったとたん壁画ア
ートが花盛りでビックリ



裏が裏でなくなる華やかさ



こんな場所があったのか~

ろくに観光案内を見ないので


不意の出会いが新鮮で印象的



これはアートではなく固形石
けんの古い看板がそのまま。

コチラによると1950年代物
石けんは今でもありました


今のパースを感じた光景

資源メジャーのリオティント
の高層ビル。その手前には州
の新たな主要産業である観光
業を担う、アジア人観光客に
好まれそうな立地と価格帯の
ホリデーイン。正面には半分
壊された古いレンガの建物。


この街は急速に変わっていく
だろうと、強く思いました。

コロナのコの字もなかった頃


平日に賑わうアップルストア

CBDの昼間人口の多さを実感


東京駅の寿司という寿司バー

スゴく混み合み合いは遠慮


都会のオアシス的な緑地



そしてアートも。

パースは壁画もアートも好み
のものが多く、メルボルンと
は異なる落ち着いた雰囲気


オーストラリアらしい建物



アールデコビルのアーケード

ここにも空室の広告が


トリニティーアーケード



アーケードの存在が歴史を感
じさせます。今のモール文化
もいずれそうなっていくのか



ソウルオリジンというランチ
バー的なフランチャイズ店



サラダバーが充実していて
ここでパース最後のランチ



コメント (2)
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パース行:カフェイタリアで最後の夜

2021年11月18日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパース5日目夜


パースでもホテル投資に出る
かどうか、さぁどうする
と言いながらやって来たのは

カフェイタリア


パース到着の日に立ち寄って
「夜のレストランにもおいでよ」
とお店の人に誘われていた店

ホテルから目と鼻の先です。


人気店らしく予約なしでフラ
りと来られる店ではなく、毎
日のように煌々と灯りがつい
た満席の店内を見ながら前を
通り過ぎ、最後の夜に参上



声を掛けてくれた彼が夜もい
て、覚えていてくれました。



観光客以上に地元のお馴染み
さんで賑わい、ジャケット着
用、糊のきいたYシャツ
ポケットチーフといったひと
際身なりのいい席ではイタリ
ア語が飛び交っていました。



こういう機会のためにも、ド
レスシャツやワンピースの用
意は必要で、そうなると靴、
バッグと持ち物が増えます。
でも、いい大人だし、それぐ
らいは愉しまなくちゃ


中華でもイタリアンでもその
国の関係者で賑わう店には間
違いはないと思っています。



そしてもちろんその通りで、



美味しい食事と和やかながら
華やかさのある雰囲気の中、



天気に恵まれあちこち足を延
ばしながらも、投資に出るか
どうかを真剣に検討し続けた
旅の最後の夜に祝杯を挙げ、

(※って写真はティラミス)


5泊6日の旅を振りかえりつつ
「勝負は明日

と気合を入れていました。


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パース行:安定高利回り期待

2021年11月17日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパース5日目
さらに続いてこれで9本目❕


パース市内に戻り、夕方のス
ワンリバー河畔をぶらぶら。



都会の真ん中に出現する広い
遊休地は河の氾濫に対応する
ためのものなのでしょうか。

平時にはただただ美しい緑地


都会にあっては贅沢な空間

大陸の広さを実感するオース
トラリアでも、都市部でこれ
だけの広さは貴重なのでは?


河沿いのリバーサイドドライ
にはランナーやウォーカー
が大勢繰り出していました。



私たちも遊歩道に沿って歩き



ねぐらに戻って来たらしい、
レインボーロリキートに遭遇

いつも番で仲がいいねぇ


街中から遠ざかると葦が茂り
これで水質管理をしている❓



そんな先に忽然と姿を現した

オンザポイント


パースで最も新しい商業区域
だそうですが、平日のせいか
ほとんど人影がありません。

週末混み合うスポットなのか


フェリー乗り場もありました。



公共の自転車修理スタンド

新しい場所はこの手のものが
充実している所が多いです。


5泊6日の初パースの滞在も
いよいよ翌日までとなり、夕
暮れ散歩をしながらの私たち
の会話はもっぱら不動産投資


この街でホテル投資に出るか
ということをずっと検討し、
滞在中も不動産業者と連絡を
取り合ってきました。しかし
希望の物件に買い手が現れ、
下見ができなくなったりし、
話は具体化しませんでした。

(※気に入った白鳥黒鳥の街)


これまでヌーサアデレード
も同じ展開で投資してきまし
たが、パースも同じぐらい気
に入り、アジア人観光客の多
さにはヌーサやアデレードに
はない可能性も感じました。

東南アジアからだとパースは
最も身近なオーストラリア


2年前のパースの商業不動産
は街中の至る所で売却や賃貸
の広告を見かけ、市況の悪化
がかなり進んでおり、投資に
出ても高値つかみにはならな
そうなタイミングでした。



その証拠に売値で見た賃貸利
回りは身を乗り出すほど高く
冷かし半分で見ていたのが、
前のめりになったのは安定し
た高利回り期待ゆえでした。

ホテルというニッチ分野であ
れ、市況動向は同じでした。


さぁ、どうするか
まずは夜ご飯へ


コメント (2)
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パース行:カフェ・ポステ

2021年11月16日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパース5日目が
なかなか終わらずこれで8本
書いている本人も意外なり


スワンバレーからギルフォ―
ドに戻りました。街はアンテ
ィークショップでも知られ、
古い街並みによく似合う



持って帰れないのが残念な品
が、かなりお値打ちでした



古本屋



ローズ&クラウン

1841年開業の現存する西オー
ストラリア州最古、全国でも
2番目に古いホテルだそう。


今も昔もホテル兼パブです

(※1800年代半ばの様子)


酔っ払いの溜まり場となり、
刑務所や裁判所建設に拍車を
かける要因にもなったそう



ほぼ180年後でも日中から飲
んで楽しむ大勢の人たち(笑)



『150年前のガラスなので窓
近くに駐輪しないで下さい』

という張り紙があったのは、


弁護士事務所

何かあっても勝てなそう(笑)


ギルフォードはパース市内か
ら拍子抜けするほど近いので
次回の下見も兼ねてブラブラ
(👆再訪する気満々)



緑に囲まれた素敵なカフェ兼
レストランですが営業時間外



次回は夕食に来れるかな?



市内に戻る前にぜひ立ち寄っ
てみたかった場所に滑り込み



ガーデンセンターなのですが



フレンチというかプロバンス風

外の鏡はできそうでできない


すべてが商品なのでしょうが



無造作に置いてあるようでい
て、どこか端整でなんとも粋



バナナとレモンの素敵コラボ

パースの気候ならではかな


真似したいアイデアの宝庫

すべてが鉢植えで、何だった
ら一晩で全部動かせるかも


その気になればガーデンはど
こにでも造れるというお手本

赤い郵便ポストがアクセント


ここはカフェでもあります



草花に囲まれ最高のひと休み



食事も好みで美味しかった



再訪の時もぜひ立ち寄りたい



郵便局の建物にある



カフェ・ポステ&ガーデン
デザインセンター
ポステは
フランス語で郵便局だし
近所なら入り浸っちゃう

来るたびに違うアレンジが見
られるはずで、季節も感じら
れる素晴らしい場所でした


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パース行:スワンバレーと過去世

2021年11月15日 | オーストラリア:パース

引っ越し後1ヵ月で飼い猫が
いなくなり、1週間後に見つ
かって、猫も飼い主も緊張の
7日間から解放されました。

(※現行犯逮捕)


いつものペースに戻ります


=============


2019年8月のパースも5日目
リアルでは2年3ヵ月前の話


ギルフォードの街歩きを終え
クルマだったら目と鼻の先の
7、8km先のスワンバレーへ


ここのチョコレート専門店、
マーガレットリバーチョコレ
ートカンパニー
に来ました

商標のマーガレットリバーは
パースから南へ270km行った
オーストラリア最南西端の街


そこを本店にスワンリバーと
パース市内に店があり、ここ
は敷地内に姉妹店の食料品店
やワインショップもある観光
客を狙った大型店舗でした。

(※おみやげ向けのビン詰め
などを売る系列の食料品店)


店内にびっしり詰まれたカラ
フルで多種多様なフレーバー
のチョコは金の延べ棒型

金で栄えたパースだから❓


その種類と量も圧巻ながら、

ヒジャブ(イスラム頭巾)を被
ったアジア系らしいイスラム
教徒の多いこと、多いこと。


パースに着いた時から気づい
ていましたが、観光地のここ
は特に多く感じられました。



スワンバレーはワインの郷と
しても知られていますが、宗
教上絶対禁酒の彼らが集まる
のはチョコレートショップ

納得できる光景でした


多分、マレーシア系かインド
ネシア系の人たち。かつてシ
ンガポールに住み国内にもイ
スラム系がおり周辺国の人た
ちも多かったので懐かしい


ワイナリー巡りをしない私た
ちも同じようなものかな(笑)



パースの沖合ロットネスト島
に生息するクオッカのチョコ

旅先のノリで買っちゃう


次に訪れたオールセインツ教
会は1840年に完成した西オ
ーストラリア最古の教会で、
1827年にこの地に到着し、後
に植民地初代総督となるキャ
プテン・スターリング
の野営
地跡に建てられたそうです。



人の手で1つ1つ焼かれ積み上
げられたレンガ造りの小さな
小さな教会は、教徒でなくと
も『祈りの場かくあるべし』
と思わる清らかな空気に包ま
れた静謐とも呼ぶべき場所。



1841年1月10日に初の礼拝が
行われたそうで180年の歴史



教会の敷地に足を踏み入れた
時から鳥肌が立つ思いがし、
「私はこの地を知っている?」



そう思うと、ついつい墓地で
眠る人たちが身近に感じられ

(※苔の美しい縁取り)


幼くして逝った知らない誰か
に涙がこぼれるような想い。



66歳だったご主人と91歳ま
で長く未亡人だった奥さん



多くに惜しまれた74年の生涯



両親に挟まれた7年9ヵ月の命



立派な墓石は一家3人が眠り



1913年に16歳で溺死した子

1917年に55歳で没した父
20年後1937年に没した母


10歳と9歳



2歳

『ママの近くにいて』


ハンドヒーリングのレイキの
師によれば、私は気感という
目に見えないけれど存在する
ものを感じる力が高いそうで
初めての地で不思議な経験を
しその事を思い出しました。


NZに移住してから移民の先
駆者たちに親しみを覚え、地
方で墓地を訪ねることがよく
ありますが、ヌーサでの探し
求めていた風景
との出会いに
強い衝撃を覚えて以降、過去
世で縁があったのは『むしろ
オーストラリア』なのでは
とぼんやり思い始めました。

(※2年前2017年のヌーサ)


鳥肌が止まらない不思議さを
確認するため、クルマに戻っ
た後にお布施の紙幣を持って
再び敷地内に戻り、賽銭箱の
ある小さなキオスクの下で、
「私はココを知っている」
とより強く感じ、小雨が降り
出す中クルマに戻りました。

(※教会のらしい黒牛たち)



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パース行:民家の歴史保存

2021年10月31日 | オーストラリア:パース

翌日はいよいよ帰国という、
2019年8月のパースも5日目


目抜き通りの歴史的建造物を
後に住宅街に入ってくると、

歴史保全指定を受けている建
物にはプレートがあります。


外観を変えられないなど、保
存のためにいろいろ規制があ
るそうです。その点、オース
トラリアは非常に厳しい印象
再建という話もあったり。

その点NZは緩くて残念です


19世紀末か20世紀初頭の家と
レンガ造りの店舗らしい建物



柱に貼ってある張り紙は

「ただちに歴史的建造物保護
を求む」
とあり戸建ての家と
しての保全を求めています。


文言は違いますが、この家も
保全指定を求めているよう



指定を受けると建物だけでな
く、庭や庭木まで保全しなけ
ればならない場合もあり、現
状維持のために団体や州から
助成金が受けられるとか。



生きた歴史を保全したい、し
かし古い家は維持費がかか
るという点で、指定を受けた
いと考える家主も多いよう。



特に年金に頼る高齢者にとり
維持費は相当の負担のはず。

また高齢者こそ来し方に誇り
や愛着もあることでしょう。


19世紀のと思われるレンガが
保存されています。同じもの
はもうありませんからね



ひと際立派な家には張り紙が
なく、すでに指定されている
のか家主が負担できるのか。



見事な多肉鉢

やってみたいのですが、なか
なかこの大きさにならない


大きなレンガ造りの邸宅や、



相当な広さがある邸宅と庭園



でも心惹かれるのは小さい家

クラシカルでエレガントな垣根
街路樹とのバランスも絶妙


見たことのない古そうな石畳



珍しい2階建て。かつての宿
泊施設が民家になったのかも



19世紀のらしい個性的な家

屋根飾が珍しく、デッキのエ
ンタシスは後付けでしょう。


立地からしてここも古い家だ
ったのでしょうが、改装して



ガレージも増築されてモダン
な造りになっています。誰も
が歴史保全を望むとも限らず
街並みを維持するには、行政
が関与しないと難しいです。

それには費用もかかります


最後に元ギルフォード消防署

ギルフォードの消防団員だっ
たKCダンカンが設計し1934
年に完成したアールデコで、
西オーストラリア州の消防署
の雛形になったそう。半鐘や
団員の宿泊所などもあります
が、消防署は2014年に転居


コメント (4)
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パース行:町ごと州指定遺産のギルフォード

2021年10月29日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパースも5日目
時間も限られているので刑務
所見学ではなく、街歩きへ


1829年にスワンリバー植民地
の要所として建設されたギル
フォードは1984年に町全体が
歴史文化保存団体ナショナル
トラスト西オーストラリアの
保存指定を受け、1989年に州
指定遺産に登録されました。


私のような古い建物好きには
もってこいの場所でした

1865年に完成した地域集会場
後に技術訓練校となり、無学
の人たちが工芸や建築技術を
習得する学校となりました。


刑期を終えた流刑囚の社会復
帰支援も兼ねたのでしょう。

入口部分が増築された現在


郵便は植民地化当初は物資と
ともに民間の水上交通でまか
なわれていましたが、1835年
に郵便局が開設され、1870年
木造の建物が建設された後



1897年に町のランドマークと
なるレンガ造りの郵便局が新
設され、1901年に時計と鐘
が追加され時を告げました。

(※1897年の郵便局)


現在の郵便局

時計台部分が造り変えられ胸
壁ができ、鐘はそのままなが
らもう鳴らされていません。


保存状態はあまりよくありま
せんが、今でも郵便局です。



壁にはエリザベス2世の治世
を示す銘板。保守の地です。

それが古い街並みに似合う


1918年完成のカウンシルチェ
ンバー(町議会堂)と1938年完
成のタウンホール(市議会堂)



後者は典型的なアールデコ

現在もほぼ原形のままです。


当時のコートオブアームズ

こんなに内陸の錨マークが河
港の象徴ですが、この頃から
"陸の孤島”と呼ばれたそう。


1853年完成の流刑囚労働者の
兵站部。100km先の道路建設
などもここから担いました。



1933年以降はギャリックシア
タークラブという演劇場に。



増築に増築を重ねてゴールド
ラッシュの最中に完成した、
円屋根のギルフォードホテル



現在も変わらぬ外観ですが



なんと2008年に火災に見舞わ
れ、修復後2016年に営業再開

その3年後だったため非常に
美しく保たれていました







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パース行:ミセス・テイラー

2021年10月27日 | オーストラリア:パース

ギルフォード刑務所
OPEN

あったのは、


コレのことでした

私でも脱走できる
と思ってしまうほど小さい(笑)


植民地化で宿泊所ができて、
外部から人が流入して来たこ
とで地元民とのトラブルが増
え、1841年に留置所として建
設されたものが、1851年にL
字型の建物となり、その後も
増減築を繰り返しつつ1969
年まで(私が小学校2年生)
使用され、現在は博物館に。



紫色の流刑囚施設とは別の緑
色部分の地元民用刑務所施設

隣同士だし、ややこしい💦


フリーマントル同様に
フリーマントル刑務所

当初は流刑囚用


ラウンドハウス

地元民用


に分けて収容していたため、
人口の割に刑務所が多く、流
刑植民地ゆえにその重要性も
高かったのだと思われます。


犯罪者がいれば裁判も必要で

1866年に建設されたギルフォ
ード裁判所は後の警察署で、


現在は観光案内所(笑)

時代とともに町にとって最も
重要と思われるものが入居


1866年となるとレンガが違う

大小濃淡の組み合わせです。


ここは1870年頃郵便局として
建設され、1898~1913年は
警察官宿舎となり、それ以降
は洗濯場となった建物です。

1913年当時の典型的な洗濯場


室内には郵便局風の展示が



心惹かれた小さなコテージ



ここはテイラー家コテージと
呼ばれ1860年代の典型的な
労働者階級の家。他所にあっ
たものを町の中心の一等地に
建て替えて展示しています。

長い軒下がベランダ代わり。


しかし、家は1LDKの一間

ここが一家15人の家でした。


元流刑囚エドワード・テイラ
ーは1874年の37歳の時に17
歳のエマを娶り、2人は13人
の子を設け、エドワードは青
果商として一家を養ったとか



同時に15人が暮らした訳では
ないにしても、電気も水道も
ない時代に両親はさぞや働き
づめだったことでしょう。



トイレは外



金だらいと洗濯板



広い軒下は気温が高いパース
で通年重宝したのでしょう。



元流刑囚に嫁ぎ13人を生み
育てたミセス・テイラー
天晴です


NZやオーストラリアでこの手
の木造の小さな家を見るたび
懐かしさと既視感が募り、過
去世のどこかでこういう家で
貧しくも楽しく暮らしていた
ことがあったに違いない私

この時もそう感じました


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パース行:ギルフォードと流刑囚

2021年10月26日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパース5日目は
パース近郊のギルフォード
再び流刑囚の刑務所見学


フリーマントル刑務所

(※1851年に囚人により建設
開始、1855年より収監開始)

ラウンドハウス(右下)

(※1831年完成の初の刑務所)


と、フリーマントルでも流刑
囚用と地元民用の刑務所を見
学してきたばかりでした💦


ギルフォードでは1852年に木
造の50人分の流刑囚収容所が
完成し、1856年にはレンガ造
りの200人分に再建され、囚人
専門病院、刑務官宿舎、事務
所、店舗も建設され、"流刑囚
需要”の高さがうかがえます。

(※1871年の収容所等の施設)


しかし、1850年から制度が廃
止される1868年までの18年間
に1万人近い流刑囚がスワンリ
バー植民地に送り込まれたこ
とを考えると、ギルフォード
の200人規模は町の経済規模
の反映といえ、タダ同然の労
働力をもってしても発展の余
地は限られていたようです。


収容所は1878年に閉鎖され、
単線だった鉄道の複線化で、
1897年に取り壊されました。



線路は今でもこのとおり。

役目を終えた収容所は姿を消
し、刑期を終えた流刑囚の多
くは労働者として雇われたり
事業を起こしたりして、町の
発展に貢献していったそう。


という訳で、流刑囚の刑務所
見学は幻に終わりました。濃
紫部分が主な流刑囚施設跡。



しかし、ギルフォード刑務所
OPEN

とあり、まだ刑務所がある
入場料は大人$5、子ども$3


こんな刑務官も立ってるし💦



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パース行:生き残りを賭けて

2021年10月25日 | オーストラリア:パース

キャプテン・スターリングが
1827年に到達し、「見たこと
もない美しさ」と評して情熱
とロマンを掻き立てられた
ルフォード
は新しい植民地の
内陸の河港として期待され、
さらに内陸のヨークまで道路
建設が進められることに・・



しかし、それ以外はスワンリ
バーの水上交通に頼る陸の孤
島で、ギルフォードは植民地
総督となったスターリングの
思惑とは裏腹に、厳しい茨の
道を歩むことになりました。

(※入植者の自給自足生活が
しのばれる当時の生活用具)


入植はしたものの、植民地建
設に必要な資金も労働力もな
かったギルフォードは、土地
を得た地主といえども生き残
りを賭けて必死でした。カン
ガルーを撃って食用にし、領
土とそこからの食糧を奪われ
たアボリジナルから家畜を守
るため紛争が頻発しました。


土地を追われ、水や食べ物を
得る場所がなくなったアボリ
ジナルも、生き残りを賭けて
必死でした。「私有地」に入
って、そこにいる「家畜」を
狩ればそれは「略奪」となり
処刑という厳罰が待っている
という悲劇はオーストラリア
全土で繰り広げられました。



1829年の植民地化から5年後
の1834年にはアボリジナルと
の内戦状態に陥り、多大な犠
牲を出しました。1837年には
小麦の自給に成功したものの
余剰分を現金化する市場がな
く、食料不足が続きました。


1839年にスターリングの後任
にハット総督が着任し、入植
者とアボリジナルの子どもの
学校建設、蒸気製粉機導入、
白檀輸出などに力を入れたも
のの景気低迷が続きました。


川沿いの細長い耕作地は牧場
に適さず、ギルフォードを後
にする入植者が続き、労働力
としての流刑囚受け入れへの
要望が高まっていきました。


スワンリバー植民地の労働力
不足は、フリーマントルでも
見たように、局地的な問題で
はなく、植民地化開始から20
年の紆余曲折を経て西オース
トラリアはとうとう1849年に
流刑植民地化を決定
、翌年よ
り受け入れを開始しました。


囚人受け入れとなると必要と
なるのが、受け入れ施設で、
またまた刑務所

旅行中にこんなに刑務所見学
をするのは初めてでした


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パース行:情熱とロマンのギルフォード

2021年10月24日 | オーストラリア:パース

引っ越しとその後の家の修繕
でちょっとバタバタしていま
した。しばらく不定期になる
かもしれませんが、できるだ
け更新しようと思います


=============


2019年8月のパースも5日目
せっかくレンターカーを借り
たので再び遠出と思ったら


目的地ギルフォードは激近💦

パースからたったの13kmで
バスや電車もあり、フリーマ
ントル
の20kmより近い


まずはメインストリートのG
MB(ギルフォードミルクバー)


ミルクバーという名前が古色
蒼然。NZやオーストラリア
では小さな町の雑貨屋やカフ
ェ、今のデイリー(NZ版コン
ビニ)的な存在だったものら
しく、地方によくあります。


そういう場所なのでお年寄り
が集い、高齢者割引もあり



ここで簡単な朝ごはんに



レトロなコークのスタンド

店の雰囲気に合いました。


地方にありがちなアジア料理
ここはベトナム料理でした。

NZやオーストラリアの小さな
町ではたいがいバーやパブな
ど飲む店しかなく、移民のア
ジア人が飲食店を出すとかな
りの確率で成功し地元に定着
します。でも人口が限られる
ので事業規模も限られます。


ギルフォードの近代史はパー
スと同じく1829年に始まり、
200年近い歴史があります。


西オーストラリアの拠点とな
るスワンリバー植民地建設の
命を帯びたキャプテン・ジェ
ームス・スターリングは1827
年に総勢18人の調査団と小舟
でスワンリバーを遡上して、
ギルフォードに到着します。



スターリングは「見たことも
ない美しさ」と評し一目で気
に入り、入植地として情熱と
ロマンを掻き立てられます。


一帯はよく開けた平地で「1
エーカー(64m四方)に樹木が
10本」という入植に理想的
な状態が報告されました。



肥沃な土地にスワンリバー。

大河は周辺の水系と交通の動
脈という植民地建設に欠かせ
ないライフラインを保証する
ものとして期待されました


しかし、調査団はこの時点で
4万年前からこの地で暮らす
アボリジナルが何世紀にもわ
たって焼き畑で一帯の管理を
行ってきたこと、肥沃な土地
は川の氾濫原にほぼ限定され
ることを知りませんでした。



スターリングの報告を基に、
1829年よりスワンリバー植民
地建設が始まり、最初の公式
拠点は港町フリーマントル、
内陸の河畔パースとギルフォ
ード、ケルムスコットの4ヵ所
で、ギルフォードは農業地帯
の河港として期待されました。



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パース行:動く砂丘

2021年10月13日 | オーストラリア:パース

2019年8月のパース4日目も
夕暮れが迫り、ピナクルズ
出てパースに向かって南下



行きがけに見た陸側の砂丘?
砂山?
が気になっていたら、



ココだったのか



1年前に訪れたクイーンズラ
ンド州の世界最大の砂の島フ
レーザー島
を彷彿とさせます
が、ここは木が枯れている



雪のように真っ白な美しい砂

でも覆われたら最後の死の砂


砂が薄い部分では植物の必死
の生き残りが続いています。



ここはモバイルデューン、動
く砂丘といい、インド洋から
吹きつける波と強風が砂丘の
破壊と形成を繰り返すことに
より、年間12ⅿの速度で南下
を続けている、生きた砂丘
遠目には雪山のようです。



ロブスターのセルバンテスか
らランセリンという場所まで
一帯に広がり、内陸の古いも
のから海岸に近い比較的新し
いものまで3つの部分からな
るそうで遠くまで続きます。



インド洋に沈む西日を受けて



ほんのり赤く染まる死の砂丘



覆われると植物は死に絶え、



砂丘が過ぎると緑が蘇る



この辺もかつては覆われてい
たのか海からの強風で育たな
いのか高い木がありません。



夕方だと一段と幻想的です。



ランセリンには海岸沿いに四
駆で走れる砂丘もあるそう。


パースに戻ってホテルのバー



ハッピーなハッピーアワー



夫のビールはコレでした。



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パース行:ピナクルズ

2021年10月10日 | オーストラリア:パース

ロブスターシャックを出た後
パース方面の南へ向かうと、
ナンバン国立公園に出ます。



クルマのまま入っていくと、



驚くべき光景が広がります。



ピナクルズ砂漠と呼ばれる
ライムストーン(石灰岩) の
石柱が無数に立ち並ぶ場所



一目見た時から墓石のようだ
と感じましたが、多くの人が
そう感じているようで、英語
でもトゥームストーン(墓石)
という感想をよく見ました。



こんな光景などナントカ霊園
という感じで端整で明るい

永代供養かもしれない(笑)


ここはロブスターシャックか
らほんの20分ほどの場所。パ
ースからは200km、2時間強



不思議な石柱は2万5,000年
~3万年前に海岸線が後退し
インド洋との海陸風に長い年
月晒され続けた結果、脆い部
分から失われ、石柱だけが残
った状態と言われています。



しかし、その状態は一様では
なく、短いものから長いもの
では3.5ⅿにもなるそうです。



頭が丸いキノコのようなもの



円錐のようなもの



そのすべてが強風に晒され、
目に見えない速度で日々朽ち
ていくのかと思いながら、し
げしげと石柱を見ているうち



なんだか石にも意思があるよ
うに見えてきたから不思議。


こんな光景は石同士が身を寄
せ合い互いを守っているよう


周りの砂の海はいつかの我が身



崩れ去る前に砂に埋まったり



ニョキっと頭だけを出したり



大きさがあれば木を育てたり



大きな石の周りには窪みがで
きている場合が多く、そこに
水分があり、種が付着すれば

芽を出す幸運に恵まれるかも


木が大きく育てば日陰ができ
根には保水力もでき、石の風
化を遅らせられるのでは



もっと育てばブッシュとなり
防風防砂林として、石はさら
に守られるように見えます



芽吹く木があれば、



枯れてしまう木も。



厳しい自然の中で共に生き残
ろうとする姿がなんとも切な
く、そして何よりも墓石への
お供えのように見えました。



砂漠化を食い止める唯一の方
法が緑化なのだと気づかされ



それが人手を借りずに自然界
で懸命に起きていることに、

深い感動を覚えました。


砂になるまい、



させまいとする姿



せいぜい100年しか生きられ
ないヒトの出る幕ではない。



このまま自然のチカラに委ね



自然の時間を刻ませるべき



ひと言で自然美と括れない

この旅行で一番の思い出に


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