ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

アデレード行:ハーンドルフアカデミー

2019年12月29日 | オーストラリア:アデレード

3日目は雨の中、アデレードから
クルマで30分ほどのドイツ村
ハーンドルフへ。

あまりの大雨で散策を断念し、


「ここならお店も、ギャラリーも
博物館まであって、いいかも

と適当に飛び込んだ場所は


1857年創立とある黄色い壁の
ハーンドルフアカデミー



確かに学校のような外観です。



英語とドイツ語の学校として
1857年に開校したそうです。
その後、全寮制寄宿学校となり


1871年には2階が増築されて、
1872年には塔も建てられました。

(※古い写真はホームページより)


1877年にアカデミーはルーテル教会に
売却され、教会の学校になったものの


10年足らずで再び個人に売却され、
ハーンドルフカレッジという私立校
として700人以上の卒業生を送り出し
ますが1912年に閉校。学校としての
55年の歴史に幕を下ろします。


1917年からその後20年間はなんと
病院兼老人ホームとなり、999人
が入院/入所し、赤ちゃん580人が
ここで生まれたそうです


1938~1959年は役場や歯医者、住居、
娯楽施設になり、第二次大戦中は
地元の軍施設にもなったそうです。

1950年代の様子


しかし、1960年に自治体から安全上の
問題を指摘されて公開入札にかけられ、
個人が落札したものの、暴風雨被害
で劣化が進み、荒廃していきました。

1965年頃


1966年に行政から取り壊し命令が出て
再転売されて修復されました。1998年
には自治体が購入して公共施設に。


現在はハーンドルフアカデミー基金
が運営し、観光センターも兼ねた
街の中心の観光名所になっています。


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アデレード行:雨のハーンドルフ

2019年12月28日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の初アデレード
やっと3日目に入りました。


歩き倒した2日目から一転、
クルマを借りて郊外へ

徒歩圏内だったレンタカ―屋


やってきたのはハーンドルフ

アデレードに現存する最古の
ドイツ村で、その始まりは
1838年までさかのぼります。


カフェハウスという名のカフェ。



見るからに19世紀の建物。



朝の一杯

市内からクルマで30分なので
飲まず食わずでやってきました。


内装も時代がかっています。



梁が剥き出しの天井



日本のショートケーキ
のようなレモンチーズケーキ

朝から食べる物ではなく、
残念ながら見るだけ。


外は大雨

前日の晴天が嘘のよう。


夫はソーセージロール

かなり大きめ。
オージーサイズなのか
ドイツサイズなのか


私は自家製チキンヌードルスープ



ほぼ想像通りのものが来ました

チキンや根菜で身体が温まり
ホッとするような優しい味
給食のようなパン付きです。


雨で紅葉が瑞々しく鮮やか



しかし、ホントに大雨💦



散策にはもってこいの場所で、



気になるカフェ



お店もあって

(※ナイフ専門店)


古い建物にも興味津々ながら



靴の中まで雨がしみそうで

(※旅行中で何足も持っておらず)


カメラのレンズも濡れるしで



街歩きは早々に断念しました。



でも中心部はこんなものかな(笑)



本当に小さい町、というより村

週末の利用が多そうなホテル


ドイツ村の中華料理店の軒先での
雨宿りという絵になる構図

店は営業していないようでした。


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アデレード行:コス 18リー

2019年12月27日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の初アデレード


1日歩き回ってさすがにクタクタ
ブログの記事だけでも1日で12本
過去最長かもしれません(笑)


夜はサクっと下見をしておいた

コス18リーへ
20分シティーですから
ホテルからも徒歩圏内。

コスは店名。18リーは
リーストリート18番地。

この辺はレーンウェイという
裏路地で、リーストリートと
隣り合うピールストリート
には飲食店が鈴なりでした。


バーっぽいイケイケの店は苦手
なので、静かに食事ができそうな
レストランのコスにしました。



日中とは打って変わって雨も降り



なんとお客は私たちだけでした



地産地消といえどもメニューに
カンガルーがあるのは世界中で
オーストラリアだけでしょう(笑)



ドアストッパーがワインのボトル

雨が降っていても寒くはなく
ドアは開けっ放しでした。


コフィンベイのオイスター

レモンとライムが来ましたが
やっぱりレモンが合うかな。


どこでもシーザー



コックル貝のボンゴレ



「今日のお魚」は

19ヵ月前のことで
忘れました(笑)💦
がっつり焼いてある。


ポーチドペア



好きな赤いチューリップカップ



ウエイトレスと「どこから来たのか」
という話になり、「NZから」と言うと
ここのシェフもキウイでした


いい店でしたが1年後に再訪したら
もうなくなっていました。

賑わう通りは競争も激しそう。


ここも気になりましたが、どうかな?

ぜひいつか


13話目にして2日目終了


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アデレード行:多民族社会の底力

2019年12月26日 | オーストラリア:アデレード
アデレードの移住博物館
誰もが目にする「移民」と
題された入口のブロンズ像

右も左もわからないまま
子どもの手を引き、荷物を
持って降り立つ新天地


勇気と誇りと夢と達成

移民第一世代ならば、国籍も
民族も問わず、台座の文字が
胸に響くでしょう。


私たちも15年前に10歳と7歳
だった子どもたちの手を引き、
真冬のオークランドに降り立ち
NZに移住した移民一家です。


慢性的な人手不足で喉から手が
出るほど労働力がほしかった
オーストラリアですが、1901~
1973年は有名な白豪主義を採り
イギリスかアイルランドからの
移民だけを強く求めていました。


しかし、外交上の問題で、民族や
肌の色で移住希望者を排除する
ことが明文化できなかったため、
非白人排除のために荒唐無稽な
書き取りテストを導入しました。


その試験とは、入国拒否のために
移民官が任意で行えるものでした。

入国しようとする移住希望者に対し
本人がわからないヨーロッパ言語の
50文字の試験を受けさせ、
答えられなければ入国を拒否する
というものでした。


スウェーデン語の試験を受けさせ、
アイルランドに帰れという指示。

アイルランド人でも外見次第では
こうして拒否されたようです。


例えば英語が堪能な黒人の場合、



ハンガリー語の試験を受けさせ

入国拒否


イギリス国籍でも、インド系や
フィジー系など白人でなければ
同じように拒否されました。


そして白人のイギリス人移民なら



青信号でオーストラリアへようこそ

となったわけです。


差別の対象となった外国人とは、
アジア系、アフリカ系、南太平洋
島嶼系(ただしNZを除くそう)で、
1920年代にはイタリア、ギリシャ、
旧ユーゴスラビア、アルバニアなど
の人々も入国を制限されました。


それでも第二次大戦後は戦禍で
本国を追われ、元に戻れない
ユダヤ人など多くの人を人道的
に受け入れました。



15歳以下の戦争孤児の
受け入れも行われました。

(※戦中戦後のNZでも、どちらの
受け入れも実施されています)


問題はあっても受け入れは続き

1861年に南オーストラリアでは
40%だったオーストラリア生まれは


わずか30年で70%を突破しています。

ドアを開けている以上、どんなに
狭い隙間でも移住を希望する人は
あの手この手で挑戦するものです。
世界は広く、オーストラリアが
ほしい人材もたくさんいます。


移民やその子孫は、建国の担い手
となり、盤石な多民族社会を築く
無数の柱となっていきました。


こんな絵にはほっこり(笑)

辮髪でクリケットをする中国人
中国人だけを対象にした人頭税など
最も差別を受けてもこの通り(笑)


1954年に入国したイノウエ・ヨシコさん

初期の戦争花嫁だったそうです。


暮らしてみて、その一部となって
つくづくわかる多民族社会の強さ。
言語や習慣や文化が違う不便さを
遥かに超えた社会のすそ野の広さ
という豊かさには圧倒されます。


さらに、違うはずの人たちが、
いざという時にはさっと駆け寄り
手を差し伸べて助けたり、
肩を抱いて一緒に泣いたり、
必要時には驚くほど寄付も集まり、
その営みの美しさには感動します。


最近ではNZのクライストチャーチの
銃撃テロ後の市民の反応に、そんな
社会の底力を見ましたが、緊急時の
オーストラリアもきっと同じでは?


今までもこれからも、移民たちは
このブロックように肩を寄せ合い



社会の一部となっていくことでしょう。

(※名前、出身国、移住年などを
記した寄付と思われる博物館の
庭に敷かれたブロックより)


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アデレード行:無主の地

2019年12月25日 | オーストラリア:アデレード

謹賀新年
もう少し後出し日記が
続きますが、ここも
早晩2020年に入ります。
今年もよろしくお願いします。


=============


2018年5月の初アデレード
移住博物館で思いがけず、


クニ・ジューン・アン・マキナニー
Kunyi June Anne McInerney
特別展『私の絵が私を語る』
を観ることができましたが、


今度は常設展の方へ。

AUSSIE
(オーストラリア人の俗称)


今の多民族国家になるまでには
長い長い道のりがありました。
その長い道のりは未来にも続き
NZも同じ道を歩んでいます。


今や200年近く前となる19世紀、
1830年代のイギリスでは、移住
ブームが巻き起こっていました。

新しい身分への旅
行くかとどまるか?
行くならどこへ?
アメリカかオーストラリアか?
残していく年老いた両親は
誰が面倒を見るのか?
家族全員の旅費は?


これだけを読めば200年前も今も
移住前に考えることは一緒


しかし、手に一定の職がある場合、
渡航費免除の移住があったことは
今との大きな違いでしょう。

既婚の農業労働者、大工、石工、
鍛冶工といった職業の人は無料で
南オーストラリアに移住できる
機会があると謳った当時の広告
(※この手のスキームは他の場所
でも多数ありました)


移住ブームにはさまざまな背景が
あるものの、最も象徴的なのは
産業革命を終えたイギリスで
機械化により職を奪われて
貧困化する人々の問題解決と、
独立したアメリカに代わる新たな
植民地として白羽の矢が立った
オーストラリアでの人手不足を
一石二鳥で解決できる
という本国政府、植民地政府の
強い思惑がありました


貧しさから逃れるため、
よりよい生活を築くため
階級制度のない新天地へ
多くの人が脱出しました。



しかし、オーストラリアまでの
旅は決して生易しいものではなく
新天地に足を踏み入れることなく
命を落とす人も。水葬の様子。



南オーストラリアへの移住は
1836年に始まり、ほとんどの移民は
数ヵ月にわたって海辺での野宿を
強いられ、後の船はアデレード港
へ入港するようになったそうです。



1840年と彫られた礎石

NZではワイタンギ条約が締結
され、植民地化が本格化した年


移住してきた人たちへの区画

イギリスはオーストラリアを
定住者のいない誰のものでもない
土地「無主地」(テラ・ヌリウス)
と定義し植民地化を進めました。


いかし、オーストラリアが無主の地
であろうはずがなく、5万年以上前
から住んでいる先住民アボリジナル
たちとの衝突が繰り返されます。



彼らには土地を所有するという
概念がなかっただけで、山や川、
動植物も含め、悠久の昔から
部族を挙げて土地の共同管理を
怠りなく続けてきました。


土地を追われるということは
水や食べ物も奪われることで、
アボリジナルが「私有地」に
入り、そこにいる「家畜」を
狩れば、それは「略奪」になり



処刑されたり



報復されたり。

NZでもマオリと入植者の間で
同じ悲劇が繰り返されました。


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アデレード行:世代を超えて

2019年12月24日 | オーストラリア:アデレード

「盗まれた世代」を描いた
映画「裸足の1500マイル」
からクニの話に戻ります。





上の絵は「マキナニーと書かれた箱」
洗濯部屋でいつものように、おねしょ
で濡らしてしまったラグを洗っていた
クニは、自分たちの名字マキナニーと
書かれた段ボール箱に気がつきます。


「なぜ私たちの名字が書いてあるの?」
嫌な予感がしました。
しかし、シスターに質問することは
禁じられており、クニは動転します。


下の絵は「最後の列車」と題された絵
子どもたちだけが乗車していて、
外で見送るアボリジナルの大人。


クニはこの列車で、収容施設が
あったアウトバックの小さな集落
ウードナダッタを出て行きました。


自分の名字が書かれた箱を見ていた
ので、自分やきょうだいが帰れる
のかどうか不安に慄いていました。


母親に手を振ることはできず、
罰を恐れて泣くこともできず、
孤独に苛まれたクニは約9歳。
嫌な予感は的中します。


母親には「子どもは遠足に行った」
と告げられました。


クニは21歳で母親と再会します。
子どもを奪われてからの母親は
仕事の後、毎日違う木の下で
子を想って泣いていたそうです。

12人の子どものうち9人を奪われ
白人家族との養子縁組や里子で、
誰も戻っては来ませんでした。


1人はパプアニューギニアに送られ、
何人かは再会を果たせぬまま、
母親は50代でこの世を去りました。


「私が生い立ちを語るのは、一緒に施設に
収容されていた他の子たちのためです。
誇れるものがあれば、ともに癒されます。
楽しかった時、辛かった時、哀しかった時
すべてを赤裸々にしたいのです。施設では
非常に厳格に育てられ、母親が子どもに
絶対にしないようなこともされました。
創作が私の命を救ったと信じています。


どんな状況の中でも諦めなかった
誇りと創作

子どもたちの活き活きとした表情
の意味が少し理解できました。


子どもたちは苦しみと寂しさの中に

小さな楽しみを見つけ出し


懸命に生きていきました。



過ちから学べる最良の教訓は、
繰り返さないことだと思います。
そのためには過ちをきちんと
理解することが欠かせません。

この展示がオーストラリア中の
子どもたちの目に触れ、世代を
超えて受け継がれていくよう
願って止みません。


=============


ここはしばらく2019年が続きますが
リアルでは大晦日ですね。
どうか良いお年をお迎えください。
新年もどうぞよろしくお願いします。


西蘭みこと


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アデレード行:裸足の1500マイル

2019年12月23日 | オーストラリア:アデレード

20世紀のオーストラリアで、
「白人」になるための過酷な
同化政策で「盗まれた世代」
となってしまった子どもたち。

彼らは白人との混血児で、
より「白人化」させやすい
と政策的に狙われました。


移住博物館で特別展を開催していた
クニ・ジューン・アン・マキナニー
Kunyi June Anne McInerney
は白人の父を持ち、その1人でした。


クニの絵を観ながら、すぐに
思い出したのが2003年の映画。
NZに移住する直前に日本で観た
「裸足の1500マイル」でした。


原題は「ウサギよけフェンス」で
2002年のオーストラリア映画です。


1930年代の同化政策のただ中に、
誘拐同然に連れ去られた3人の
10歳前後の混血少女たちが、
収容施設を抜け出し、2400キロ
離れた母親の元に裸足のまま、
水の1本も持たずに帰るという
壮大な実話の映画化でした。


頼りになるのは、アボリジナルと
して培った、厳しい自然の中を
生き抜く知恵と、故郷まで延々と
続いているはずのフェンスだけ。


灼熱の太陽が容赦なく照らす、
木の1本も見えない砂漠の際に
少女3人が立ち、その先は海の
ようなアウトバックが無限に
続く光景に息をのみます。


すぐに捜索が始まりますが、
「白人だったら3日ともたない」
という台詞があった気がする
アウトバックは砂の海でした。


道すらない場所のどこをどう
行けばいいのか。


何もない、家に帰りたい一心の
アボリジナルの少女3人と、
ありとあらゆるものを総動員
できる白人の男たちとの知恵比べ。


少女たちがウサギよけのフェンス
沿いに歩いていると気づくのは
脱出からかなり経ってからでした。


「石器時代に生きているのに」
と彼女たちの英知に舌を巻きつつ、
イライラを募らせる白人たち。
知恵比べは少女たちの勝ちで
無事母親の元に帰りつきます。


15年も前に観た映画なので曖昧な
記憶ですが、映画の中で写真を掲げ
混血児を白人と混血させていけば
確か4世代ほどで白人と見分けが
つかなくなる、と説明している
シーンがあり、唖然としました。


同化政策の正体は、先住民たちに
西洋の文化、言語、教養を身につけ
させるという建前を超え、外見から
見分けがつかないほど、彼らを抹消
することだったのがわかります。


それゆえに映画での執拗な追跡や
クニたちの孤児院での暮らしぶりに
将来にまでわたる「同化」の意味が
深く、残酷に影を落としてきます。


子どもたちは白人と結婚できるよう
育てられていたも同然だったのです。


次はクニの話に戻りましょう。


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アデレード行:「白人」になるために

2019年12月22日 | オーストラリア:アデレード

仕事納めや体調不良、
他のブログの後出し解消で
今度はこのブログが止まる💦
というあちら立てばの展開。


今年も残すところ3日となり
希望的観測では年内に終わる
はずだったこの旅行記も
年越し決定です(笑)


まぁ、すでに1年半遅れなので
年越しだろうがなんだろうが


=============


2018年5月の初アデレード
12話目ですがまだ2日目の話で
移住博物館の特別展の続きです。


『私の絵が私を語る』

クニ・ジューン・アン・マキナニー
Kunyi June Anne McInerney
というアボリジナルの画家の
絵と文の展示でした。


オーストラリアで1967年まで続いた
白人との混血児として生まれた
アボリジナルやトレス海峡島嶼系
の子どもたちを親から隔離し、
白人としての教育を受けさせた
同化政策による「盗まれた世代」。
クニは典型的なその1人でした。


最初に目にしたのはこの絵でした。

子どもたちの楽し気な声が聞こえ
てきそうな活き活きとした描写。
しかし、ズラリと並ぶ10個の
おまるが非日常を物語ります。


私は自分の生い立ちを伝えたい。
そうすれば、これが2度と繰り返される
ことはないでしょう。私は自分の
家族、言語、文化を奪われました。
私の話は作り話ではなく、真実です。
ぜひ皆さんに知ってほしいのです。」


ク二の絵も文も非常にストレートで
観る者の心に真っすぐ届いてきます。
子どもの目を通じた正直な真実の
いかに力強いことか。


クニが収容された場所は子どもの家
と称されていましたが、親の元に
帰るとはできず実質は孤児院でした。


そこでの生活が鮮やかな色彩で
平易に淡々と描かれています。



子どもらしい日常に笑みが

こぼれそうになりますが


「白人」になるために収容されて
いるのですから、日々の生活は
過酷な現実と表裏一体でした。



部屋の隅に立たされる罰

孤児院の生活は軍のキャンプ
のようなもので、怒鳴られ
叩かれ、時には部屋の隅に
1日中立たされることも。


シスターたちは言うことを
聞かないと罰を下すのですが、
英語にも白人の習慣にも
不慣れな子どもたちには、
何を言われたのかわからない
ことが’多々あったのです。


「おむつの罰」と題された絵

おばあちゃんが教会に来たのに
一緒に帰ることを許されず、
それを悲しんで泣くクニに、
泣くのは赤ん坊の印とおむつを
履かせる罰がくだされた様子。


「禁じられた新聞」

飛んできた新聞に、疾走する
馬の写真がたくさんあり、
みんなで喜んで見ていると


カンカンに怒ったシスターが
棒を持って現れ罰を受けました。

英語の読み書きができない
子どもには競馬も賭け事も
わかりようもないのですが、
罰せられてしまいました。


「からしの罰」

大さじのからしを口に入れられ
吐き出すなと怒鳴られました。


「ジャガイモ袋の罰」

遊んでいる時に服を脱ぐと
ジャガイモ袋を着せられて
罰せられました。


「おねしょ」

おねしょをした子は日の出前に
濡らしたシーツ代わりのラグを
洗わなくてはなりませんでした。


真っ暗な中、どんなに怖くても
庭を通って洗濯部屋まで行くのです。
クニは収容されて早々におねしょを
してしまいますが、その時わずか4歳。


小さな後姿をそっと抱きしめて
あげたいほど切なく哀しい光景。


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アデレード行:盗まれた世代

2019年12月21日 | オーストラリア:アデレード

オーストラリアの森林火災が
南オーストラリア州の
アデレード周辺にも拡大し
1人が亡くなり住宅十数軒が
消失したという報道に接し
言葉もありません。


アデレードヒルなど知った
地名も出てきて、ワイナリーの
ブドウ畑も被害に遭っている
そうで胸が詰まる思いです。


一刻も早い鎮火をお祈りします。


=============


2018年5月の初アデレード
まだまだ2日目が続きます。


南オーストラリア博物館
後にやってきたのは、

移住博物館


期間限定のアボリジナルの
画家の展示に足が釘付けに。

『私の絵が私を語る』
直訳するしかない真っすぐな
クニ・ジューン・アン・マキナニー
Kunyi June Anne McInerney
という画家の絵と文の展示


彼女は典型的な「盗まれた世代」で
オーストラリアで20世紀に入るや
始まった、白人との混血として
生まれたアボリジナルやトレス海峡
島嶼系の子どもたちを、連邦政府や
州政府、教会等が家族から隔離した
悪名高い差別政策の犠牲者でした。
制度は1967年、場所によっては
70年代まで続いたそうです。


クニは南オーストラリア州に生まれ
50年代の4歳の時にアボリジナルの
母親から引き離され、ウードナダッタ
というアウトバックの小さな集落の
教会の孤児院に収容されました。


孤児院ではアンと名付けられ、
英語を話すことを強要されました。
母親や祖母に会うことはかなわず、
きょうだいのうちの3人も一緒に
家族から引き離され、孤児院の
仲間が新たな家族となりました。


白人のシスターと子どもたち

大人と子どもの極端な体格差は
心理的な格差を表しているの
でしょう。花柄に包まれた
厳格で冷酷なシスター


自分の家族からも、村からも
訳もわからずに引き離され、
違う名前、言語、生活、文化、
価値観、教育、宗教を強要され
「矯正」されていく子どもたち。



その寂しく苦しく辛い日々の中に
なんとか楽しみや友だちを見つけ
懸命に生きていこうとする
健気な姿に心を打たれます。



こんなにも理不尽な制度と生活を
受け入れるしかなかった世代。



残酷な現実が切ないほど
鮮やかで明るい色の中に
生き生きと描かれていて、
自分の姿を探すかのように
見つめてしまいました。

オーストラリアらしい雄大な
夕陽の前に並ぶ小さな後姿には
思わず涙が溢れました。


コメント (2)
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夢見:プラスチック紙幣

2019年12月20日 | 浅き夢見し

「私」は次男といます。
今の次男ではなく、
一緒に暮らしていた頃の
ちょっと若い設定です。


出かけていて数日ぶりに
次男に会ったようです。
旅行の話をしながら、
荷物を片づけています。


旅行で履いていた古着で
買ったジーンズを持ち、
「古着ってワルくないよ。
ポケットからお金が出て
くることがあるのよ
と、下世話な物言い(笑)


ゲラゲラ笑う次男の前で
前ポケットに手と入れると
無造作にたたんだNZドルの
20ドル札が出てきました。


ビックリする次男に、
「あ、これはママが入れたの。
旅行中にドライブスルーで
何か買うつもりだったの。」


と言いながら、別のポケットに
手を入れてみると、見慣れない
紙幣が出てきました
60ドルと書いてあります。


「えぇぇぇえ
と驚いてお尻のポケットも
調べると、今度は35ドル紙幣。
いずれもプラスチック紙幣で
シンガポールドルでした。


お尻のもうひとつのポケット
からもさらに10ドル紙幣が
見つかり、自分でも
105ドルの発見にビックリ
「プラスチックだから洗濯
してもなんともないしね」
と思って夢が途絶えます。


=============


60ドルとか35ドル紙幣とか
「こんなものがあるのか
と思い金額を覚えていました。
(※ありませんって💦)


夢占いとかだったら、
「金運アップまちがなし
と言われそうですが(笑)
深い意味はなさそうです。


プラスチック紙幣を初めて
見たのはシンガポール。
だから夢でもシンガポール
ドル紙幣だったのか


「こんなツルツルの、
手が切れそな、おもちゃ
みたいな紙がお札なの?」

と思った記憶があります。


ググってみたところ、
プラスチック紙幣は1988年に
オーストラリアが初めて開発し
通貨として発行したもので、
シンガポールでは1990年に
50ドルの記念紙幣が発行され
当時住んでいた私はそれを
手にしていました。


立派な台紙に挟まった紙幣は
紫がかった色だったような。


些細であっても新鮮な発見は
記憶のどこかに、いつまでも
刻まれているのでしょうか。


ちなみに今までの古着デニムでは
ラグ&ボーンが一番の掘り出し物



4万円クラスが2ドル(150円)
で手に入って泣きました(笑)



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夢見:4階建ての家

2019年12月19日 | 浅き夢見し

久々に鮮明な夢を見たので
アデレード旅行記を中断して
記録しておきます


「私」と30年前にパリで出合った
古い女友だちは、共同出資で
家を建てました。
(※設定からして荒唐無稽💦)


設計から何からすべて
彼女にお任せだったので、
「私」と夫は完成した家を
初めて見に来たところでした。


まずその大きさに驚きました。
四角い4階建ての家で、傍目には
アパートメントのようです。


「いくらぐらいかかったんだろう?」
と当事者なのに他人事のように
話しながら入っていきました。


全体が黒っぽいモダンな造りで
1階の下半分はランダムに積んだ
黒い玄武岩のような石で囲われ
石垣のようになっていました。


なかなかシャレた造りで直線的な
ラインに石が上手く使われており
彼女のセンスを感じました。


友人は登場せず、声がしたのか
事前に知らされていたのか、
私たちは好きな部屋を選ぶよう
言われていました。


「私」と夫はきょろきょろしつつ
4階に上がってみました。


エレベーターを出るとドアが開いた
部屋が現れ、いざなわれるように
中に入ってみました。


右手が一段低くなったリビングで
窓の外は素晴らしい眺望でした。
左手は一段高く、灯りを落とした
場所に白いリネンのベッドがあり
私たちのために用意されたような
広からず狭からずの部屋でした。


「ここでいいよね。」
「そうだね。

私たちは一目で気に入り、そこを
部屋にすることにしました。


部屋を出て他に何があるのか見ると、
すぐ左手に廊下のような空間があり
奥にソファーがあるのが見えます。


入ってみると、ソファーだけでなく
いろいろな物が置かれており、
そこが友人の部屋のようでした。


「〇子さん、〇子さん」
「私」は部屋の奥に声を掛けて
みましたが返事はありません。


ソファーの上にはルイヴィトンの
大判なシルクのスカーフが3、4枚
掛けてあるというよりも無造作に
置いてあり、パッケージの包装も
その辺にポンと置いてありました。


仕事でプロモ用に使った品が
余ったのだろうと思いました。


友人の部屋はL字型になっていて、
L字に窓面が広がっていました。
私たちの選んだ部屋はLの内側の
四角い部分で窓は一面のみでした。


「彼女が4階を使っているのなら、
私たちは他の階にした方がいいな。」
と思いながら、気がつくと外でした。


「私」と夫は家から短い坂を下りて
店が集まった場所に向かっています。
坂はちょっとした草地の小道で、人が
歩くのでそこだけ草が生えていません。


その代わり一段低くなっているので
雨の後には周囲から流れてきた
ゴミが溜まるようで、物が堆積して
歩きにくく、なぜかサバのような
新鮮な魚が1尾転がっていました。


そこはNZではなく、見覚えのない
アジアの街のどこかのようでした。


その時ふと、
「ここに越して来るということは
家を処分しなければならない?」

と思い浮かんだのはNZの今の家です。


リム材の床が目の前に広がり

(※リムはNZ原木で今は伐採禁止)


「あそこを出るのは嫌。
木の上で暮らしたい。」

と焦ったところで夢が終わります。


=============


友人は結婚してインド在住です。
あの場所はインドだったのか?


夢を通じて「ブレない自分」が
確かめられたように思います。


高価で美しくてもヴィトンには
興味がなく、同じスカーフが
何枚もあって、友人がいたら
「仕事で余ったの。あげるわよ。」
と言われたでしょうが、タダでも
ほしいとは思わない自分


新築でモダンな中層の家よりも
築75年の木造の平屋の家に
猛烈に帰りたいと思う自分


アラカンのこの安定感、
迷いのない心の平安を
嬉しく思う年の瀬です。


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アデレード行:アデレードでメラネシア

2019年12月18日 | オーストラリア:アデレード

博物館参観は体力が要る
と信じています。


前にもどこかでそんな事を
書いた気がしますが、
(※このブログだったか?)


展示物を見て
説明を読んで
展示物を見直して
時には前に戻って
展示や内容を比べて
写真を撮ったり
じっくり見たり


入ってみるまで何に
出会うかわからず、
内容の濃い展示や
興味深い説明に
思いがけず時間を
かけることになる
ことが多々あります。


そのためヘトヘトに
なって1回では回り
切れない博物館は
アタリ🎯


南オーストラリア博物館
はそれでいくと
アタリでした(笑)


化石や鉱物などの展示には
たどりつくこともできず💦



アボリジナル関連の後は、
オーストラリア周辺の島々
からの展示物をみました。



これはフィジーのベルト



フィジーの切手

切手のモチーフが
素晴らしい


バヌアツ

他の島々からの展示物比較は
ニューカレドニア博物館でも
見ましたっけ?


フィジー

南太平洋の小さな島々でも
文化や民俗が違って
見慣れてくると、
「これはトンガらしい」
「これはサモアっぽい」
と多少は見分けがつくよう
になる場合もありますが、


ここの展示はかなり異文化。

フィジーのヘッドレスト
これで楽なんだろうか


こーんなスゴいのもある~

ここまで3Dで透かし彫りになると
もういっそインドネシアに近い


「こんなのバリだよね~」

知らないなりに思ってみる。


うんと簡単にしたようなのが

おみやげ屋にあったりしません?


この辺はみなパプアニューギニア
からのもので、被り物の多さが

見慣れたポリネシアンと大きく違う


それもそのはず、NZも含まれる(笑)

ポリネシア文化圏とは違って


フィジーもバヌアツも
パプアニューギニアも
メラネシア文化圏

(※この図はニューカレドニア
博物館のものなのでフランス語)


彫刻の3Dぶりと



仮面や被り物に

装飾性や伝統芸能が感じられ
私のごく限られた経験では
やはりバリ、インドネシア
に近く感じられました。


そもそもニューギニア島は
2つに分かれ西はインドネシア
東はパプアニューギニアと
なっているぐらいだから、
似ていて当然なんでしょう。
島自体はメラネシアだそう。


パプアニューギニアの中に
ニューアイルランド州とか



ニューブリテン州というのが

あるのも知りませんでした。


ニューブリテンはぐっと素朴。



パプアニューギニアはさすがに
安全性の問題があり💦
(※NZ政府は勧告を出しています)

行くことはなさそうなので


いろいろ見られたのはラッキー

(※フィジーはぜひいつか)


これもパプアニューギニアの
マサワ(カヌー)でした。

こういうのでグングンどこへでも
行けちゃったんでしょうね。


この博物館はまた出直します



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アデレード行:南オーストラリア博物館

2019年12月15日 | オーストラリア:アデレード
2018年5月の初アデレード


2日目も朝から歩き回って
やってきたのはノーステラス
南オーストラリア博物館



併設されているカフェで一休み

未就学の小さい子どもを連れた
親子や祖父母らしい人たちが
何組もいて、その年齢から博物館
に親しめる環境が素晴らしい


NZもそうですが入場料は寄付のみで
親子で何度も来やすい事も大事

入口奥のステンドグラス


でも周囲にはアボリジナルアートが



たくさん展示されていて

なんともオーストラリア


元祖顔認証

彫りの深い顔に似合う~


オーストラリア先住民である
アボリジナルは約5万年前に
東南アジアから移り住んだ
人々と考えられています。



矢じりの数々

魚、動物、鳥と、生きていくための
獲物をしとめるため、また装飾用など
さまざまな目的で作られたよう。


男たちが狩りに出ている間、
女たちはシャベルや容器を
持って食べ物を探しに行き

男たちが手ぶらで帰っても
必ず食べる物があるように
周到に用意していたそうです。


ブッシュ玉ねぎ

ものすごく小さいですが、
ちゃんと玉ねぎの形


トリュフ

植物や果物、貝を採集して
くるのは女の仕事でした。


狩りは男の仕事

猟犬化したディンゴを連れ
オオトカゲを仕留める図


狩り使われたブーメラン

いろいろな用途があったよう
ですが、おもちゃや運動の
ためじゃないんですよね(笑)


河川が多く海もあって水資源
が豊かな南オーストラリア。
さまざまな方法で魚介類を
捕まえて食糧にしていたよう。

漁の絵が生き生きしています。


網もだけど、ここでも
ブーメラン



アースカラーの柔らかさと
白い直線のシャープさが
ほどほどに交じる美しさ

素朴でも洗練されています。


装飾用の盾

軟材なので実用的ではなくても
彫ったり削ったりが楽そう。


植物、動物の毛や人毛も使われた
紐というものもアボリジナルの
生活に重要な役割を果たしたそう。

網でも繊維でもロープでも
紐といえば紐ですからね


あやとりの橋

これだけで彼らがぐっと
身近な存在に感じられました。


5万年以上前に別れたとはいえ



元はアジア人だった彼ら。



素晴らしいアーティストでもあり



ますます興味が湧いてきました。



コメント (2)
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アデレード行:ノーステラス

2019年12月14日 | オーストラリア:アデレード

アデレードオーバルから見えた
大きな2本の尖塔を持つ
セントピーターズ大聖堂

1869年に建設が始まった
イギリス国教会
植民地各地で築かれた
シンボル的存在のひとつ


カトリックほどの絢爛豪華さはなく
完成まで資金難の連続だったよう。



天井もバラ窓もシンプル
というか質実剛健



1877年に寄付で購入された
パイプオルガン



祭壇の後ろのリアドスという
装飾壁が独特の色と大きさで
多くの聖人が浮き彫りにされ
華やかに着色されたイギリス製

1904年に設置されたそう。


宗教心がないのでどうでも
いいことなのですが(笑)
これぐらいの装飾度だと
逆に神性を感じるような



オーバルの方から見えていた

橋が気になり行ってみると、


道路橋なので普通に道でした

アデレード橋
1929~30年にかけて建設され
1931年に開通。まさに大恐慌の
ただ中にギリで完成した、
8車線の当時としては大工事


この橋はキングウィリアムロード
という市の中心部への幹線の一部
をなしており、老朽化で10年以内に
閉鎖するか架け替える必要
があるそうです。


公園にはNZでは見ない鳥が
そこら中にいて楽しいです

レンジャクバト


タテガミガン
カモだけどガン

スタイリッシュなライン


レインボーロリキート

スズメ並みに普通にいます(笑)


アデレードは建物が美しい



小さなバルコニーが付いた
建物がたくさんあります。



南オーストラリア州議事堂

財政面から1874~1939年にかけ
65年の歳月を費やして完成した
コリント式の大理石の建物


当初の設計ではドームと2本の
尖塔が建設されるはずでしたが
最終的に設計から外されました。

(※写真はウィキメディアより)


メルボルンのビクトリア州議会堂
とまったく同じ展開です


資金不足で中断していた工事は
30年代に再開し、大恐慌による
失業者救済策の一環にもなり、
アデレード版ニューディール政策
ともなったようです。


資金繰りに苦労しながらも
歴史的な一大計画をコツコツと
粘り強く続けて完成させ、
後世に長く残するところが
アデレードの美徳に思えました。


成長が早く、民間資金が身近な
シドニーやオークランドは
経済効率の面からどうしても
造っちゃ壊しになりがちです。


隣接するのは旧州議事堂で



個人的には一番好みな建物

アデレードに現存する数少ない
1850年代の建物だそうです。


そのせいか何にも似ていない
<
住宅と公共の建物の中間のような
簡素な中にも威厳を感じる美しさ。


この辺りはノーステラスといい

公官庁や大学が密集したエリア


戦没者記念碑

一等地の非常に大きな碑で
哀悼の意が伝わってくるよう。


やっとコーヒーブレイク



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アデレード行:アデレードオーバル

2019年12月13日 | オーストラリア:アデレード

アデレード駅から伸びる
カラウィラパリ(トレンス川)
に架かる幅広い橋を渡ると



そこは大きな楕円の球場



その名もズバリ

アデレードオーバル
1871年にクリケット場として
完成した球場で、5.5万人収容。
現在はクリケットだけでなく、
一番人気のオージールールズと
ラグビーリーグの球場に。


入口の銅像は

オージールールズの
バリー・ロブラン
1967~1980年に活躍し
南オーストラリア最高の
選手と目されているそう。


こちらはクリケッターの

クレム・ヒル
1896~1912年の間国代表
として活躍したそうです。


もちろん、どちらも全然
知らないので調べました。
NZにはオージールールズが
ないし、クリケットは全く
見ないのでどちらもご縁なし。


アデレード行の飛行機の中で
隣に座った息子の年齢の青年が
「アデレードでスポーツと
言えばフッティー(オージー
ルールズ)とクリケット。
サッカーもするけれど、
周りでラグビーしてる子は
3人しか知らない。
と衝撃的な話をしていました。


ラグビーはしないし見ないし、
ルールもよくわからないかも、
なんてオーストラリアで
若い青年に言われるとは


フッティーと呼ばれるオージー
ルールズとはオーストラリア
独自のスポーツでラグビーどころ
ではないスキルとフィジカルを
要求される世界一タフな球技では
ないかと思います。
(※詳しくはコチラでも)


丸い(笑)



客席まで丸い(笑)



街の規模に比べて立派な球場

いかにフッティーとクリケットが
盛んなのかがわかるようです


フッティーのポールは4本

中央なら6点で両脇なら1点
サッカーのように蹴って入れ
ラグビーのようなトライはなし。


ここはフッティーの地元チーム
アデレードクロウズと

ポートアデレードの
両チームの本拠地で
両チームの対戦は
さぞや盛り上がりそう


3Dコピーの模型がキレイ



本当に丸くてラグビーとは無縁



NZもウェリントンのウエストパック
球場はクリケット場も兼ねた楕円で
オークランドのイーデンパークも
クリケット用に丸くできますが(笑)

ここまで本格的に丸いとオーバルと
呼ばれるのもよくわかります。


球場内にはミニ博物館が併設され
いろいろな展示がありました。

19世紀のプレーヤー
ノーウッドという1878年
創立のフッティークラブ


1923年

ユニフォームが袖なしで
これもフッティー


1934年の学生のマスゲーム



1942年の大戦中に行われた
米兵のアメフトの試合

ありえない泥んこぶり(笑)


2011年に行われた最初のAFL
(フッティーのリーグ)の試合



滞在中にアデレードクロウズ
の試合をテレビで観ましたが



いつかはぜひオーバルで




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