むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

泉妙見山城(千葉県)

2022年02月24日 | 百名城以外の城
泉妙見山城いずみみょうけんやまじょう
別名泉城・中城
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県柏市泉 地図

泉妙見山城は、中城と称する北東向きに突き出た台地を利用して築かれています。
三つの郭から構成され、郭内には現在も妙見社が祀られています。
相馬に移住したという相馬氏の関係の城と考えられています。



標柱

この場所は「中城」という小字で、戦国時代に館があったところといわれています。
御神体は妙見大名社で、二月二十二日、二十三日に鳥ビシャの神事がおこなわれます。
主郭はこの奥に見える民家の敷地になると思われ、ここより先には行っていません。


土塁

妙見社のある方を見ると、堀と土塁らしきものが見えます。


土壇

土塁らしき場所には建物(拝殿?)が建ち、土塁というよりは土壇になっているようです。



建物の裏側に回ってみると、妙見社と石碑があります。
妙見社はこじんまりとしています。
建物の陰になってしまい、肝心な本殿を見逃してしまいそう😅
でも、ちゃんとお参り🙏しましたよ。


石碑

この土壇に妙見社があったことを示す石碑です。
「庚申代石」が隣にあったので読んでみると、
享保十二年申戌天十一月に
五十人が同行して妙見社の御神木の松を講金(寄付金)で買って奉納したので、
今後ここに住む僧侶は神木を伐ってはならないというような内容が記して
あるようですがどうでしょうかね。(違ってたらごめんなさい)
そして、ここから東側に進んだ三夜堂のあるあたりに吉祥院があったようで、そこの住僧が建てたようです。


おせし様板碑

ここにあるのは、泉地区にある手賀西小学校の校門と道を隔てた小高い場所にある
板碑と呼ばれる中世に代表される塔婆の一種です。
この辺りでは庚申待ちの供養が盛んだったようです。


肝心なお城に関してはあまり情報が無く立ノ台にある泉城の支城という説がありますが
雰囲気としては、泉妙見山城の方が遺構が見えるところに残っていて実感があります。


令和3年12月30日登城





泉城(千葉県)

2022年02月18日 | 百名城以外の城
泉城いずみじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県柏市泉立ノ台 地図

泉城は、鎌倉時代に陸奥の相馬郡に移住したという
相馬泉五郎胤康に関係があった城であろうと考えられています。


石祠

郭の中央付近に祀られている石祠は、もしやと思って覗き込んでみたら
小ぶりではありますが、やはり妙見さまのようです。
古くから妙見さまを大事にお祀りしてして来たようですね。



ずかずかと勝手に畑に入って行くのも躊躇われるので、この辺で退散。
泉妙見山城とごっちゃになっていてよくわからない。
調べようにも資料も少なく、泉城と泉妙見山城と区別されているようで
区別されていないようで、どちらかがどちらかの支城のようで…んんん?

結局よくわからないけど、周囲を見回してみるとそれっぽいのがわかる。


令和3年12月30日登城





大井追花城(千葉県)

2022年02月14日 | 百名城以外の城
大井追花城おおいおっけじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県柏市大井 地図

大井追花城は、相馬の一族である高城氏が城主であった記録が残りますが
築城した人物や時期は分かっていません。
大井追花城と戸張城の城主はとても仲が悪く、戦で両者は取っ組み合いになりながら落馬し、
その際どちらかが相手の鼻を食いちぎったという伝承があります。
また、平安時代から平将門(大井)と藤原秀郷(戸張)の争いから
農民も互いに戦い、長いこと大井と戸張は不仲であり、
縁組をすると不幸になるという言い伝えがありました。



主郭

郭内に入れないかと周辺を一周してみたものの、
かつて大手口であったであろう場所は宅地があって入れない。
主郭部分は藪のようで、とりつく場所もみつからず外から眺めるだけとなりました。


妙照寺

大井追花城の東側にある妙照寺のある場所は出丸であったとされていますが
現在はほぼ墓地と化しています。


鉄塔がある場所が主郭となってるのですが、近づくことはできませんでした。
しかし、出丸とされる妙照寺の墓地は眺めて来ました。
墓地なのでカメラを向ける気にならず写真には納めて来なかったのですが
台地の様子は確認することは出来ます。
出丸側から大井追花城側を遠景で撮れば良かったなあと今更思ってしまいました😔


令和3年12月30日登城





平塚城(東京都)

2022年02月11日 | 百名城以外の城
平塚城ひらつかじょう
別名豊島城
構造平山城
築城者豊島近義
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所東京都北区上中里1-47-1 地図

平塚城は、豊島近義が城館を築いて後に石神井城へ移るまで本拠地とした城です。
奥州遠征の凱旋中に源義家が城に立ち寄り、この時近義に鎧を与えました。
源義家の死後、賜った鎧を城内に埋めて塚とし、城の鎮守として祀ったとされています。
その甲冑塚は高さがないことから平塚と呼ばれ、平塚城の語源ともなっています。



駐車場

有料ではありますが、平塚神社の駐車場があります。
手前にアルファベットの有料駐車スペースがありますが、神社参拝であれば無料で境内近くに置いくことが出来ます。
いずれにしても料金所窓口に一声かけるのが無難かも。


境内

平塚神社には、平安時代末期の英雄・源義家(八幡太郎)をはじめ、源義綱(賀茂次郎)、
源義光(新羅三郎)の三兄弟が祭神に祀られています。


石室神社(石神明神)

豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。
秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。
村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。
石神明神は崇めれば必ず答えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。



江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、
三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復しました。
貞久は、お礼として自分の資金で平塚明神の社殿と別当である城官寺を再興し、
買った田地も城官寺に寄進しました。
そんな貞久の忠誠心に感激した家光は、貞久に250石の知行地を与え、
内50石を朱印地として平塚明神に寄進させたという逸話も残っています。


御料稲荷神社・大門先元稲荷神社

全国各地にある稲荷神社は3万とも4万とも言われていますが、
稲荷神社は「稲が生る」というのが語源であるという説(いろいろある)があるように
こちらの神様は御料と付くだけに、穀物の豊作を願って祀る神様ですね。


菅原神社(平塚天神社)

菅原神社と言えば、学問の神様と言われる菅原道真公を祀っている神社です。
菅原道真公とともに、大己貴命、豊島太郎近義命を合祀しています。


拝殿

私も、商売繁盛と子供の大学合格を祈願をしました。


社務所

平塚神社は、北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」と、
古文書「平塚神社文書」が所蔵されています。
残念ながら、これらは一般公開されていないので見ることは出来ません。


蝉坂

「蝉坂」の名前の由来は、太田道灌が平塚城を攻めた際の「攻め坂」が転じたとの説があります。
蝉がいっぱいいたとかいう話ではなかったのですね(^^;

お城とはちょっと脱線してしまう話をします。
この日、稲荷神の御遣いであるお狐さまを見て来ていないのですが
この狐が咥えているもので授かるご利益が違うのだそうです。
巻物を咥えている狐は稲の豊作を願う神様ではなく、学業の神様なのだそうです。
今度から稲荷社を見たら意識して見てみたいと思います。


令和3年12月30日登城





手賀城(千葉県)

2022年02月03日 | 百名城以外の城
手賀城てがじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県柏市手賀 地図

手賀城は、手賀沼の南岸湿地に突き出た高台に位置します。
千葉介勝胤の子や孫らが手賀六百貫を治めることとなり、手賀城に居住していましたが、
後の天正十八年、豊臣秀吉による小田原攻めの際に落城し、廃城となりました。



興福院

手賀城は二つの郭から成り、伏見稲荷大明神のある主郭と、
興福寺の境内になっている二の郭で構成されています。


興福院山門と標柱

山門脇には標柱があり、興福寺の寺域が手賀城の城域であったことが記されています。
門柱を見ると、現在は門だけになっていますが柱の穴からすると
横に袖塀でもあったのでしょうか。


力石

この丸石は「力石」といい、祭礼など人の集まりのとき、
力自慢の若者がこの石を持ち上げて力比べをし、
その力強さを神仏に奉納したものです。



石に刻まれている数字は、石の重さを示しています。
右側の「四十五メ目余」と刻まれた石は168Kgもあるそうです。


飾り瓦

さてさて、立派な飾り瓦。
お城や神社仏閣に行くと、最近はどんなものがあるのか探してしまいます。
こちらは牡丹でしょうか。
蕾ですが三段になっているのはとても豪華に見えますね。



主郭と二の郭の間の道は、なんとな~く堀跡っぽく見えます。
(城郭大系にはそのようには書いてないけど…)


主郭

主にこの郭が使われたと思われますが、眺めも良く広い平場になっています。


城址碑

城址碑は主郭と二の郭の間の虎口と推定される場所にあります。


伏見稲荷大明神

最北端には伏見稲荷大明神があります。


眺望

伏見稲荷大明神の裏から手賀沼方面を見ています。
眺め良いですね。



真っすぐ北を見ています。
遠くに霞んで見える山が筑波山です。


筑波山

ズームしてみました。
我が家からも条件が合えば見ることが出来る筑波山。親しみ感あります。


土塁

南西角に残る土塁です。
ちょっと削れつつありますが、まだ土塁と判別出来る高さに残っています。


気持ち良く野菜が作れそうな畑(主郭)です。
何か残ってないかなあと思って歩き回ってみたのですが土塁らしきものも見当たらない。
さて帰ろうと思ったところで土塁に遭遇。
通過してきた北西の道も、おそらく堀であったと思われます。


令和3年12月30日登城


今回の参考本