むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

小浜城(千葉県)

2023年09月29日 | 百名城以外の城
小浜城こばまじょう
別名
構造海城
築城者土岐頼定
築城年代1493年(明応2年)
指定史跡
場所千葉県いすみ市大原10439 地図

小浜城は、万木城主土岐頼定が伊南領を守るために万木城の支城として築きました。
天正16年、当時の城主鑓田勝定は、館山城主里見義頼の命により
相模国三浦の北条氏直と合戦、小浜城の留守をついて勝浦城主正木左近大夫が
150騎で押し寄せ落城しました。
翌年、鑓田勝定は忍者を使って城内に潜入し、火を掛けて城を奪還しましたが
本多忠勝に攻められ、敗走したた城は壊滅、廃城となりました。



鳥居

八幡神社の入口にある鳥居です。
現代では八幡神社への参道として使われています。
周囲に駐車場がありませんので駐車には十分注意してください。



登り始めてすぐに、トイレや四阿があります。





虎口

コンクリートで固められた土塁は、
コンクリートのおかげ?でこの高さを保っているようです。



「小浜八幡さま 紅いもんが好きだ 染めてあげましょ 花染めに」は、
はだか祭りの代表的な祭り唄として知られています。


帆万千館跡

城内で一番広い郭です。
その後、ここには「帆万千館」という宿があり、文化人が多く訪れたといわれています。
確かに良い眺めですもん。



太平洋戦争の時代には、この辺りには小浜基地が置かれていたようです。
確かに、最初にナビで案内された場所は城の北側で、格納壕や基地の跡がある側でした。
これは入口を間違えたと思い、八幡神社の入口を目指してここまでやって来ました。


歌碑

若山牧水の歌碑です。
ありがたや今日満つる月と知らざりしこの大き月海にのぼれり
そして、歌碑の隣に小浜城の案内看板があります。
歌碑の説明かと思ったら、小浜城の説明だったので素通りしないように。






大原漁港

大原漁港はイセエビ日本一の水揚げ高で有名です。
神奈川県小田原市の「港の朝市」や神奈川県三浦市「三崎朝市」などを参考にした
港の朝市も賑わっています。(買った魚やイセエビをその場でバーベキューなど)



西側の土塁がそのまま尾根状に南の方へ続いています。


堀切

よ~く見ると橋が架かっている場所があります。
堀切られています。


石祠

先端にある石祠です。
海を見守る神様でしょうか。



石段の前に城址碑があります。



一度外に出て社務所側から八幡神社へと行って見ようと思います。


社務所



記念碑

手前には境内の工事に寄付された方のお名前が書かれた記念碑と
その奥には小さな洞窟、そして正面奥に八幡神社の拝殿が見えます。


洞窟

洞窟を覗いてみると、そこには沢山のお稲荷様がいらっしゃいました。


八幡神社

八幡神社のある一番高い場所が主郭です。



八幡神社には長寿の絵馬、刀、槍、大型の錨などが納められているとのことですが
大型の錨とはこれのことなのでしょうか?
でも外に置くかなあ。
私にとって、錨なんてめったにお目にかかるものではないので注目してみました。



主郭の周りをぐるりと一周出来ます。


切通

左手は更に郭があるとのことですが入って行くことは出来ません。
この切通は堀切になっていたとも考えられるようなので、郭と郭の間に出来ています。



こちらは主郭(八幡神社)の背面の郭になります。
主郭から南(背面)の先端に向かって二つの小郭も城館跡と推定されています。


眺望

水軍の根拠地として、船の出入りの監視や
船溜り、軍船の繋ぎ場として利用されていたと考えられています。






これで1週して八幡神社まで戻って来ました。





駐車場が無かったので、主人を車に残して私だけ城さんぽに出かけたのですが
登ってすぐに主人とさんぽしたかったなあと思いました。
天気も良かったので尚更です。
今度はぜひお弁当を持って主人と来たいです。


令和5年1月4日登城




月輪館(埼玉県)

2023年09月27日 | 陣屋・館
月輪館つきのわやかた
別名月輪城・大堀
構造
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所埼玉県比企郡滑川町月輪 地図

月輪館は、室町時代に存在した月輪兼実の居館であったと伝わります。
百間堀があったとされ、別名大堀とも呼ばれています。
堀の遺構は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争により
航空基地として飛行場が造られたために消失してしまいました。




げんざい私有地となっているため中に入って散策ということは
難しいので、周辺の道から見える範囲での遺構探しとなります。



奥の方に残る土塁が見えます。



若い頃によく訪れた場所ですが、その頃とはすっかり様子が変わり
当時は城跡(館跡)があろうとは思っても見てなかったので探すことなく
時は過ぎていました。
現在は百間堀の一部が名残として見ることができます。


令和4年2月27日登城

今回の参考本



茨木城(大阪府)

2023年09月25日 | 百名城以外の城
茨木城いばらきじょう
別名
構造平城
築城者楠木正成
築城年代1334年~1336年(建武年間)
指定史跡
場所大阪府茨木市片桐町10−10 地図

茨木城は、茨木氏の城館で織豊期には中川清秀や豊臣氏の城として機能していました。
関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となり、
江戸期になると「一国一城令」を発布により、摂津では高槻城のみが残り
茨木城は、茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで取り壊しとなりました。



茨木小学校の校門

片桐氏が奈良県大和郡山市の慈光院に移築したという山門を模して
小学校の校門にしています。


案内板

この案内板によると、茨木小学校の北部に本丸があったとされています。



慈光院に移築した門の原寸大で復元されています。



茨木神社の西側の緑地は遊歩道が整備され石垣が目を引きます。
この緑地はかつて茨木川が流れていた場所で、城の天然の堀として
利用されていたものと思われます。
  

令和5年7月16日登城


今回の参考本



日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.03【おんな城主 おつやの方】

2023年09月22日 | むぎとうしの歴史さんぽ
日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.03【おんな城主 おつやの方】


次回は9月29日に配信します。
毎週金曜日に空撮と交互に配信を予定していますので
ぜひチャンネル登録をしてみてくれると嬉しいのだ。


堀城(大阪府)

2023年09月20日 | 百名城以外の城
堀城ほりじょう
別名中嶋城
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府大阪市淀川区十三本町2丁目17−85 地図

堀城は別名中嶋城と呼ばれ、室町時代に築城された城です。
織田信長が三好勢を攻めた際には足利義昭を迎え入れています。
大物崩れの合戦時には既に存在が文献によって確認されていますが
城の詳細についてはいつ誰によって築城されたのか明かになっていません。
現在は武田薬品工業を含む付近一帯が城址であると推定されています。



武田薬品工業前

堀城は明治43年に廃川となった中津川のほとりに築城されていたと思われ、
近代の淀川改修事業で付け変わり、城の名残も完全に消滅したため推定地が明確ではありません。
そのため、推定地として武田薬品工業の門塀に案内看板が設置されています。


案内板

遺構も城址碑も無く、この案内板がだけが城址を示すものとなります。
別名、中嶋城と云われるものの、実際は堀城と中嶋城が同一の城であるかは
明治期には既に宅地化が進んでおり、明かになっていません。



細川澄元と細川高国の細川氏の内紛において、阿波、堺、京都の中間地点となっていたのが中嶋で、
防御する側としても、攻め込む側双方としても、重要な地点となっていたことが
推定地からの位置関係で推測することが出来ます。

堀城が大きく改変されたのが1566年(永禄9年)に細川藤賢によるもので
ここを堀城の起点として築城したと考えられています。
やはり川の近くに築かれた城は、後に川の改変によって変化が齎されるもので
詳細が不明になることが多いので、堀城もまた改変により位置が確定できず
今に至っていると思われます。


令和5年7月15日登城






三津屋城(大阪府)

2023年09月18日 | 百名城以外の城
三津屋城みつやじょう
別名中島城
構造平城
築城者楠木正行
築城年代1336年~1338年(延元年間)
指定史跡
場所大阪府大阪市淀川区三津屋中1丁目6 地図

三津屋城は、南北朝時代の城で楠木正行によって1336年~1338年(延元年間)に
築城されたと伝わります。
現在の光専寺一帯に城が存在したことを地名から読み取ることが出来ます。




路地を入ったところに山門が見えます。
子孫である末弘治郎左衛門が1453年(文明5年)に
本願寺8代法主蓮如上人に帰依し、開基したと伝わります。


山門

ここは光専寺であり、境内には保育園があります。
それだけにこれ以上中の写真は遠慮しておきました。


案内板

塀には三津屋城があったという伝承の案内板があります。


入り組んだ路地を入って行くこともあり、駐車場もなくカメラを持って歩くにも
人目が気になる場所だったので早々に退散しました。
遺構も残っていないので伝承地としての紹介となります。

令和5年7月15日登城





飛山城(栃木県)

2023年09月15日 | 百名城以外の城
飛山城とびやまじょう
別名
構造平山城
築城者芳賀高俊
築城年代1293年~1298年
指定史跡国指定史跡
場所栃木県宇都宮市竹下町 地図


現在の飛山城跡は約300年続いた時代の移り変わりの中で城域が最も広がった
戦国時代の輪郭を残し、史跡地内に古代から豊臣秀吉の命で破却されるまでの
中世を中心とした建物や堀・土塁など復元した史跡公園となっています。




飛山城史跡公園のパンフレットは木橋の前のボックスととびやま歴史体験館に置いてあります。
とびやま歴史体験館は無料で見学できるので、まずそこで情報を得てから散策されると良いですよ。


木橋

堀と土塁が立派です。
とびやま歴史体験館で見た模型を思い出し、この土塁の上から狙われるところを想像できます。


桝形

木橋を渡って来た敵に対しての防御の場とされていた。




土塁の上から門を支える穴が見つかっていることから、ここには塀重門があったと考えられています。


中世竪穴建物

地面を約1.5m掘り下げて、地面に直接屋根を葺いています。


ここが入口のようです。





古代竪穴建物

この地の発掘調査により「烽家」という文字が書かれた墨書土器が出土されたことから
のろしの番人の詰所であったと考えられます。


かまどの煙突



4号堀


中世掘立柱建物

城主を守る将兵の詰所として建てられたものと考えられています。


建物内部




建物内部も公開されているので各建物を覗いてみてください。


石積遺構

川原石を積み上げているのですがどういう役割をしていたのかは不明。



園内にトイレ完備。





飛山城跡看板



1号堀

城の北側を防御していたとされる。


木橋と2号堀

2号堀を渡るための橋で、堀は鉤の手になっておりこの先は中心部になっているため
真直ぐに入ってこられなよう工夫されています。


富士見ポイント

見晴らしが良い場所に城があったことから、城めぐりをしていると意外と多い富士見ポイント。



ご近所の方らしきご夫婦からビューポイントと時間を聞いて日の入りを待ちました。
そうしているうちに富士山の絶景を見ようと人が集まってきました。
日の入りの頃には公園が閉園になってしまうのですが、いろいろな隙間から入ることが出来ます。
むやみに立ち入るのはお勧めできませんが富士山を見に立ち入ることは公園管理者は大人の対応をして
くださるので秩序ある行動で富士見を楽しませていただきましょう。

ちなみに、とびやま歴史体験館は駐車場も午後5時で閉まってしまうのでお気をつけあれ。



この日は残念ながら雲がかかっていたため、
夕日はきれいだったのですが富士山は見ることができませんでした。


平成28年12月18日登城



大物城(兵庫県)

2023年09月13日 | 百名城以外の城
大物城だいもつじょう
別名尼崎古城
構造平城
築城者細川高国
築城年代1519年(永正16年)
指定史跡
場所兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6 地図

大物城は、尼崎古城とも呼ばれ尼崎城の前身となった城です。
大物主神社を含む地域にあったと思われ、
赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を壊滅させたという
「大物崩れの戦い」で知られていて、最終的に高国が大物で捕らえられ処刑されてります。



大物主神社

大物主神社を含む領域に城があったと推定されていますが
遺構などは残っておらず、城についての詳しいことは解っていません。
それだけに尼崎城北側の大物町にさしかかる場所にあったという説もあり
場所の特定は出来ていないのが現状です。


義経弁慶隠家跡の碑

大物浜から源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため船出したことで知られるのが
この地であったようで、神社の脇に石碑が立てられいます。
当時大物浦と呼ばれる入江で、船舶の発着地として発達し、港町として栄えていました。
また、大物駅北口の公園脇には、大物崩れの戦跡碑があります。


汁醤油発祥之地

1470年頃、伊丹の酒造家が酒造に加え醤油作りがはじまり、
明治から大正期にかけて醤油蔵が軒を連ねたと言われますが、
その後は醤油造りは減少し、太平洋戦争後には一軒の業者もいなくなり
「尼の生揚」は 消滅してしまいました。
現在では地元の有志により尼の生揚醤油保存会が
「尼の生揚醤油」を、「尼の生(なま)醤油」として復活させています。


令和5年7月15日登城


今回の参考本



芥川城(大阪府)

2023年09月11日 | 百名城以外の城
芥川城あくたがわじょう
別名
構造平城
築城者芥川氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所大阪府高槻市殿町8 地図

芥川城は、芥川宿を本拠として領主化した芥川氏の居城と伝わります。
芥川城の北側にある三好山に芥川山城が新たに構築され、
北摂津の支配の中心が山城に移っていき、
この頃芥川城は破却、廃城となったと考えられます。



城址碑

民家の垣根の中に城址碑が埋もれています。
気が付かずに一度通り過ぎてしまいました。



民家にあるとても古そうで立派な門があるのですが
何分誰かのお宅のものなので表札もあり、正面からの撮影は遠慮しておきます。



殿町という地名からも推測できるように、JT生命誌研究館の西側に館が構えられていたと考えられます。
芥川城より北の方角には西国街道が通り、芥川宿があります。
芥川城を避けるように街道が折れ曲がっているのも特徴で、街道が出来るより前に
この地に城が存在していたことが推測出来ます。
西国街道宿駅としても大きい方であったとされています。


令和5年7月16日登城

今回の参考本





日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.02

2023年09月08日 | むぎとうしの歴史さんぽ
日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.02 【昭和期以降に燃えた天守】

今回は前回にくらべ、ちょっと長くなってますがクスっと笑えるところもあり。
次回は9月15日に配信します。
毎週金曜日に空撮と交互に配信を予定していますので
よかったらぜひチャンネル登録をしてご覧になっていただけると嬉しいのだ。



目垣城(大阪府)

2023年09月06日 | 百名城以外の城
目垣城めがきじょう
別名
構造平城
築城者溝咋氏
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市目垣1丁目5−5 地図

目垣城は、山田十三城のひとつとして知られていますが、
詳しいことは分かっていません。
戦国期には、この辺り一帯を溝咋村と称し溝杭氏のおさめる
溝杭荘がありました。
元禄年間まで溝杭村から分村して目垣村が成立し幕府領となりました。
江戸時代に入ると、下総古河藩土井氏が納めていました。



奥田光記念館

仏照寺の正面にある奥田光記念館があり、この辺りには弥生時代から奈良時代にかけての
目垣遺跡がありました。


城址碑

偶然見つけた奥田光記念館の敷地内にある城址碑(石柱)は、緑豊かなその中に埋もれるように立っていました。
自分でもよく発見できたなあと思ってしまいました。

溝杭氏は、後白河法皇の妃高階栄子との関係で知行として溝杭を与えられています。
あまり多くのことが分かっていないのですが、当時の村の様子は記録が残されているので
そこから明治までの目垣村のことだけは少しばかり様子を察することが出来ます。

令和5年7月16日登城

今回の参考本



三宅城(大阪府)

2023年09月04日 | 百名城以外の城
三宅城みやけじょう
別名
構造平城
築城者三宅氏
築城年代14世紀前半
指定史跡
場所大阪府茨木市蔵垣内3丁目15−3 地図

三宅城は、三宅氏の歴史を辿ると14世紀前半から更に遡り、
その頃には三宅城または城塞のようなものが存在していたものと思われます。
現在は区画整理事業の為、全く形が変わってしまい、遺構を見ることは出来ません。



城址碑

蔵垣内公園の片隅には城址碑と案内看板があります。
城址碑はここの他に、もうひとつは阪急京都本線沿いにあります。


案内看板

城址碑と共に看板も設置されています。
三宅氏は細川氏に属していましたが離反と帰参を繰り返し、三好氏に属し、こちらも
離反と帰参を繰り返し、永禄5年に三好氏と対立した際三宅城を捨てて堺へ逃れ、廃城となっています。



現在では、その面影も見ることは出来ません。



令和5年7月16日登城

今回の参考本




伊豆国・長浜城(空撮)

2023年09月01日 | むぎとうしの歴史さんぽ

今週は伊豆国長浜城の空撮をお届けします。
今後も毎週金曜日に空撮と動画を交互に配信しますので、ぜひチャンネル登録していただけると嬉しいです。