むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

柄杓山城(群馬県)

2019年01月30日 | 百名城以外の城
柄杓山城ひしゃくやまじょう
別名桐生城・桧杓山城・桐生桧杓山城
構造山城
築城者桐生国綱
築城年代1350年(観応元年)
指定史跡市指定史跡
場所桐生市梅田町1 地図

柄杓山城は桐生城とも呼ばれ、桐生氏が居城したと言われています。
三筋の堀切で各郭を分断し、郭には腰郭を巡らせた螺旋状の構造になっています。



県道66号線のおりひめバスの「城山入口」バス停前に
「柄杓山城跡遊歩道」の案内看板があるのでそれに従って進んで行くと
遊歩道入口まで辿り着きます。


駐車場

案内看板に従ってどんどん進んで行くとトイレが左手に見えて来ます。
その先が駐車場です。
この駐車場にも案内看板があり、この先道には「工事関係者以外一般車両立ち入り禁止」の看板があります。
しかし、看板をよく見ると、「遊歩道あります」と書いてあるので徒歩であれば通過しても良いようです。


遊歩道入口

今回も搦め手側からの登城となります^^;
案内板の先を見ると工事現場のようで侵入禁止かと躊躇してしまいますが
遊歩道の入口はこの奥にあるのでここを入って行きます。



この先は建設会社の残土置き場になっていますが、以前はここまで車で来て
ここに駐車出来たようですが、関係者以外立ち入り禁止になっているので
車は下の駐車場に置くことにしました。



残土置き場の山に向かって右端に遊歩道への小道があります。
ここを登って行くのですがちょっとわかりずらく、遊歩道というには
ちょっと狭い道ですので注意して探してみてください。


残土置場

現在はこのように重機も入っている状態です。



残土置き場を見下しながら細い小道をどんどん山の中へ進んで行きます。


休憩舎

登り始めて間もなく休憩舎があります。


三の丸

三の丸という看板が落ちているのですが、実際はここは
三の丸より手前のようです。
この先見事な堀切があり、その上が本来の三の丸のように思えます。


堀切

三の丸の堀切です。
これを見た時は「おお~」と堀切を行ったり来たりして観察。



三の丸を右手に、道は二の丸に向って続いています。
道から真直ぐ正面に見えるのが二の丸になります。


堀切

三の丸と二の丸の間の堀切です。
向って左手に獣道のようにうっすら道が付いています。
そこから二の丸へ登れるようですが、まずは一旦本丸を目指します。



二の丸を左手に、道は南斜面側を歩いて進みます。
ベンチがあり、木が無ければここからの眺めが良いはず…ですが眺望叶わず。


堀切

そして二の丸と本丸の間の堀切です。
ここもきっちり郭と郭を切り離した形になっています。



北側を覗き込むと結構キツイ竪堀です。
日が当らず不気味な空気が流れています。



ここを登り上げると堀切を見下せるようになっているので
そこから堀切を通過する敵を狙い撃ち出来たんでしょうね。



道は主郭の南下を通って本丸へ。



石垣?が見えて来ました。
石と木材で補強しています。
これは現代に造られたものですね。崩れやすかったのかな?


大手道

南斜面に付けられたこちらの道が大手道になります。



日当たりもよく、眺めもよくなってきました。
本丸も近い!と感じられる場所です。


本丸虎口

本丸の虎口です。
わりと広いようです。


本丸

立派な城址碑があります。


国有林野買受記念碑

昭和28年8月12日に登記されたこの城の値段はなんと¥2,129,877‐


桐生桧杓山城碑

柄杓山城について記された説明文です。
写真では読めないかもしれませんが、横に読んで行くと大体のことがわかります。


眺望

山麓に領主の居住地をつくり、梅原館を下屋敷としました。
そんな桐生の町が眼下には広がります。


本丸東側

本丸の東端から下を見下すと、腰郭が見えます。
迷うことなく降りて見ることにしました。



本丸の東側の腰郭から南側に廻ってみました。
めっちゃ斜面!
こんなところは歩いちゃいけません!!


大手道

本丸東側から南斜面を無理矢理歩いて大手道に出て来ました。


二の丸

本丸と二の丸の間の堀切から二の丸へよじ登ってみました。
平場ではありますが、こちらは木が伐採されていないので夏場は
藪になってしまいそうです。


四の丸

二の丸から北へ延びる尾根伝いに郭が続いています。
目の前の堀切の向こうが四の丸です。



斜面に付けられた獣も滑りそうな道で元の道へ戻り帰路へ。
しかしこの歩くのに辛い斜面に付けられた小道が
もともとある二の丸への連絡路なのです。


遠望

柄杓山城を下山し、南に面した麓へやって来ました。
柄杓をひっくり返した形をしているので柄杓山と呼ばれているそうですが
この角度ではそう見えないですね。
撮影ポイント間違えました


日枝神社

日枝神社は、平安末期に桐生氏始祖六郎が桐生入部の時に
その守護神である近江国日吉神社の分霊を勧請したのに始まりです。


拝殿

いつものようにお参りです。


桐生城跡日枝神社のクスノキ群

桐生国綱が神祠を建立し、神木としてクスノキ5本を献じたと伝わります。
暖地性の植物が一ヶ所に数株を見るのは珍しいようで、県の天然記念物に指定されています。


柄杓山城跡遊歩道

この道からも登ることが出来るようです。


こんなに素晴らしい山城だとは思わずに訪れたので、めっちゃ大はしゃぎしてしまいました^^;
郭と郭を切断する堀切には興奮しました!
切った先(奥)が見えないのがそそられます。
しかも両方の切り立った頭の上から狙い撃ちですよ。すご~い!!
とも楽しめました。満足です


平成31年1月19日登城


戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部

長野堰用水(群馬県)

2019年01月28日 | その他
長野堰用水ながのせきようすい
別名長野堰
構造
開削者長野康業
開削年代約千百年前
指定史跡世界かんがい施設遺産
場所高崎市江木町134 地図

長野堰用水の開削が始まったのは約千百年前と言われ、
烏川から取水して榛名白川を横断するルートでサイホンを新設して
榛名白川を横断したという記録が残っています。
平成28年度世界かんがい施設遺産に登録したことを発表しました。
関東地方では、本県甘楽町の雄川堰に続き2例目の登録です。


円筒分水堰

この辺りの地域では、干ばつのたびに激しい水争いが起きていました。
しかし、この円筒分水の設置によって争いがなくなりました。


円筒分水堰のしくみ

中心部から用水を溢れ出させて、越水を均等に分配する仕組みです。
自然落差を利用して4つの堰に均等に分配しています。


長野堰の歴史

長野堰用水路は、長野康業が水路を築き、康業の子孫である長野業政が整備したとされ
室町時代から農業や生活に利用されてきました。
明治時代には高崎市の水道用水にも取水されたり、
水車を使っての米つきや、防火用水としても利用されていました。


長野堰用水系統図

明治時代に榛名湖からトンネルで水をひき、
その水を公平に分けるため円筒型の分水堰が作られました。


スクリーン除塵機

現代では除塵機を使ってゴミを取り除いて水を流しています。


長野堰幹線水路

現在では一級河川烏川から取水し、幹線水路は15箇所の水門で分水しながら、
円筒分水堰で4支線に分岐し、この分岐した4支線の先で今も水田を潤しています。


甘楽町の小幡にある雄川堰にも触れたことがあるのですが、昔も今も人間や動物は生きて行くためには
水がとても重要で、その水をいかに確保できるかはものずごく重要で、
その水の奪い合いが起きるほど、人は昔から治水、用水に携わってきました。
その争いをうまく治めた仕組みと水路を知ることで、
その周囲の営みを知ることが出来ます。
と言うことで、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設をちょっとばかり紹介してみました。


平成31年1月19日訪問


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)
黒田基樹
戎光祥出版

荻窪城(群馬県)

2019年01月23日 | 百名城以外の城
荻窪城おぎくぼじょう
別名
構造平山城
築城者赤荻氏
築城年代1353年以前
指定史跡
場所前橋市荻窪町918 地図

荻窪城は大胡城の出城であったと伝わります。
城主は赤荻一族と推定されていますが築城時期は不明です。
この地区に伝わる古文書には1353年(文和2年)に足利尊氏郷の末派で
赤荻主馬之介智宣、同弾正智則が居城していたことが記されています。
このことにより荻窪城はこより以前の築城と考えられています。



入口の看板(北側)

荻窪南公園側の道路から入る入口です。


堀のなごり

北側から入った道の突当りの道で二の郭に沿った小道です。
ちなみに、突き当たりからは車は通過できそうにないので車で入って来ない方が良いです。
そしてこの道はかつては堀として機能していたと思われます。
堀幅も垣根の中に見える土塁のところまであったのではないでしょうか。


二の郭

道を歩いていると、垣根の間からチラチラ見える土塁にちょっとわくわく


土塁

北から南へと段になって下っています。
段差が見える場所です。


荻窪城址標柱

主郭入口に立つ荻窪城址の標柱。


主郭

平場になっていて、奥には案内看板と土塁が見えます。


荻窪城推定復元図

この図を見ると北は荻窪南公園、南は寺沢川の方まで城域であったようです。
自然の地形を利用した形で造られていたことが歩いて見るとよくわかります。



この案内看板には沢山のロープや紐が張られています。
このロープの内側は何が起きてるのか?何が危険なのか??
落とし穴でもあるのか!?


主郭西側の階段

この階段の両脇に見える窪みは横堀です。


堀切

土橋の上から横を向くと堀があるのがわかります。


入口の看板(西側)

西側の入口を確認して、再び主郭へと戻り元来た道を南に進むことにします。



ちなみに道路に隣接してこのようなスペースがあるので
ここに車を置くことが出来そうです。



主郭から大手の道に出ました。
両脇に郭を見ながら南の入口へと下ってみます。


四の郭

三の郭は住宅で埋め尽くされています。
四の郭は二の郭の下の一区画だけ畑で、こちらも宅地になっています。


入口の看板(南側)

住宅地の間にある入口です。
搦め手道に当たる場所と思われます。



ここも屋敷や水田があったものと思われます。


北側の入口から入ったのですが、同じタイミングで年配の男性が歩いて来たので
男性に着いて歩くような形になってしまい、カメラを持った怪しいおばちゃんに
着けられてる!なんて思われない様に距離を置くのに苦労しました^^;
一脚棒にカメラを付けて(武器w)うろついてると、
男性でもだいたい逃げて行ってしまいます…

あまり資料を持ち合わせてないので詳しい事が判らない城です。
参考になるエピソードは無いのですが、とりあえずこのようなところです。


平成31年1月19日登城


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毒島城(群馬県)

2019年01月21日 | 百名城以外の城
毒島城ぶすじまじょう
別名
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所伊勢崎市赤堀今井町2丁目815 地図

毒島城跡は周囲を水田に囲まれ、平面形は東西約150メートルの円錐台形をしている。
古くは沼の中に孤立した島であったといわれ、この沼には大蛇が住むという伝承がある。
この城の構造は、上段部に本郭、下段部にそれを囲む腰郭からなっており、
虎口は西南面中央1か所だけである。



周囲の水田は、かつては沼地であったようです。
城主は、毒島勘解由長綱で永禄年中(1558年~1569年)は桐生氏に属し
後に桐生市広沢の「広沢の寄居」に移りました。



大手入口には案内看板があります。
かつては毒島城跡の標柱もあったようですが、見当たりません。


案内看板

案内看板によると、毒島城には次のような伝説があります。
三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた際この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいました。
そこで三浦河内守謙庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、
大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちたという。
この時の城主は青木入道で三千騎の軍勢で攻め入られたようです。
兵より手強い大蛇が居たということか、沼に大蛇を放して守っていたのか^^;


大手道

主郭への入口はここ以外にも東西にありますが、
本来の出入り口はここ一ヶ所だけだったようです。


虎口

主郭部分と腰郭部分と二段になっていることがわかります。


主郭

主郭と腰郭の一部は畑になっています。



主郭の右手半分は現在でも畑として使用されているようです。



主郭の部分は結構広いです。



主郭の西側です。


腰郭

堀?と思ったのですが、篠を一部無い状態で堀状に見えただけで
篠を全体的に刈ると腰郭が現れると思われます。


出入口(西側)

西側に付けられた出入口。
一見虎口かと思ったのですが、案内看板によると本来の虎口は
南側の一ヶ所だけなのでここは農地のための後世に造られた出入り口のようです。


土塁

入口の案内看板の縄張り図によると、南側の離れたところに転じてある茂みが
土塁のように思われます。


竣工記念碑

土地改良事業の記念碑である竣工記念碑があります。
この竣工記念碑の所からも腰郭へと登る道が付いています。


城に大蛇説はわりと聞く話ですが、毒との関連性はこの大蛇(毒蛇?)なのか
三浦河内守謙庭が石臼で作った毒なのか、毒の島であることが由来であろうと
いうのは想像出来ます。
伝説では大蛇との表現ですが、実は山から調達した「ぶす(トリカブト)」で飲み水などに使う
川に流して毒島城の兵を毒殺してしまったのではないのだろうかなどと妄想してしまいました^^;
名前が先か、伝説が先か定かではありませんが毒々しいイメージとはかけ離れた
現代では長閑な農地の風景の広がる地でした。


平成31年1月19日登城



群馬の古城―歴史散歩してみませんか強者どもが夢の跡 (中・東毛編)
山崎 一
あかぎ出版

宝積山光前寺(長野県)

2019年01月18日 | その他
宝積山光前寺ほうしゃくざんこうぜんじ
別名
構造寺院
造営者本聖上人
造営年代860年(貞観二年)
指定史跡国重要文化財(弁天堂)
場所駒ヶ根市赤穂29 地図

開基本聖上人は比叡山で修行の後、太田切黒川の瀑の中より不動明王の尊像を授かり、
駒ケ岳の麓の地に寺を開かれました。
古くは武田・羽柴家等の武将の保護を受け、特に徳川家からは地方寺院としては破格の
六十石の寺領と十万石の大名格を与えられるなど、隆盛を極めました。
樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、十余棟の堂塔を備え、長野県下屈指の大寺で、
南信州有数の祈願霊場として広い信仰を集めています。


仁王門

昭和十九年に再建された仁王門。
門内の金剛力士像は室町時代に七乗門院雲慶十三代慶延法が作ったとされています。
屋根には鯱鉾が載っています。


杉並木参道

苔の古道とも呼ばれ、参道石垣の隙間に「光り苔」が昔から自生しているところです。
近年は光り苔を取って行ってしまう者がいたり、量が減って来ましたが、
光線に反射して美しく神秘的な光を放っているそうです。
残念ながら、石垣の隙間を覗き込んでも一度も見たことがありません^^;
もっとも、そもそもこの時期には見られないのですが。


三門

三門は1848年(嘉永元年)に再建されたもので、山門ではなく三門と書きます。
涅槃に入る為の三解脱門の意味だそうで、楼上には十六羅漢が安置されています。


三本杉

境内には多くの大杉がありますが、この三本の大杉は
樹齢およそ七百年といわれる巨木です。


弁天堂

弁天堂は、1576年(天正4年)の建立で堂内には室町時代末期の製作になる厨子があります。


一切経蔵

1802年(享和2年)再建されたもので、多くの経巻とともに霊犬早太郎報恩のため奉納された、
遠州見附の満宮に奉納された大般若経六百巻ほか、多数の宝物が所蔵されています。


本堂

1851年(嘉永4年)に再建されたもので、外観は入母屋唐破風造りこけら葺きの建築様式です。
本尊は不動明王・八大童子を祀っています。
ここでお参りを済ませ、早太郎の置きもの付きの「早太郎みくじ」を引いてみました。
結果は…中吉でした。


延命水

本堂の脇には、裏山の清水が引かれ、
冷水に命も延びるようだという思いから延命水と呼ばれています。
ここで延命水を飲んで、先程のおみくじを縛って先へ進みました。


早太郎の墓

「霊犬 早太郎伝説」は幼き頃に聞かされた民話で、私も自分の子供に絵本を買い与えました。
~遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社では田畑が荒らされないようにと、
毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、
生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがありました。
村を通りかかった旅の僧が祭りの夜に様子を窺っていると、大きな怪物が現れました。
『信州信濃の早太郎。早太郎には知られるな』などと言いながら、娘をさらって行きました。
すぐに信州へ向かい、光前寺の早太郎を借り受けると、
早太郎が娘の代わりとなって怪物(正体は老ヒヒ)と戦い、退治しました。
早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くき、
和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。~

という伝説が残されています。
その早太郎のお墓がここにあります。



こちらには、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方の真田幸村の配下で戦ったという
「上穂十一騎」の碑があります。
いままでこちらまで足を運んだことがなかったのでこのような碑があることを
知りませんでした。
早速見に行ってみましょう!


上穂十一騎之碑

駒ヶ根一帯を治めていた千村氏の家臣11名が真田幸村の味方をするため、
密かに大坂城に入城しました。
駒ヶ岳大弐坊・春日昌義・小林義国・塩木九四郎・湯原三四郎・田中員近・北村政明・荒井圓書之助・
横山五郎・北原春之助・木下大隅で、大阪冬の陣においては真田幸村部隊に味方し、
出城である真田丸において奮戦し武功をあげたと伝えられています。
また、夏の陣では伊達政宗軍と戦い徳川方本陣にあと一歩のところまで
迫りながら、全員討死となりました。


三重塔

三重塔は、1808年(文化5年)の再建で塔内には五智如来を安置しています。
高さ五丈六尺四寸(約17メートル)で、立川和四郎の手による品格のある彫刻が施されている。
そして、早太郎の石像もあります。



延命水から流れ出た水は、一段下の水堀のような水路に流れ出ています。



寒さで動かない鯉。


鐘楼

昭和35年に開基1100年記念に再建された鐘楼の大梵鐘は、
重量360貫(1340kg)あるそうです。
早速ここで煩悩を振り払うべく鐘を撞いてお祈りです。


大講堂

昭和55年に本尊である不動明王の御開帳記念事業として建立しました。

こちらのほうにお札や御守りが売っているので、御守りを買って帰ることに。


荒城

光前寺のお隣には「荒城」や背後には北割の古城があります。


すぐそこに「城址が~」とひとり呟きながら、今回は実家の両親を連れての
初詣ということで大人しく帰ることにしました。
光前寺にしても、お隣の家族旅行村にしても若い頃にはよくドライブに来たり
していたのに周囲に城址があることにはまったく気付いていませんでした。
その頃土の城には興味がなかったからですね^^;


平成31年1月3日訪問



日本の伝説 はやたろう
石井 勉
子どもの未来社

蒼海城(群馬県)

2019年01月16日 | 百名城以外の城
蒼海城おうみじょう
別名苗城
構造平城
築城者長尾忠房
築城年代不明
指定史跡
場所前橋市元総社町1丁目31-45 地図

足利直義が戦功により鎌倉に入部すると、家臣である長尾左衛門尉景忠は
上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。
忠房は上野国府の地を城郭化し、「蒼海城」と称し
宮之辺の地より総社神社を現在の地に移しました。


駐車場

総社神社北側にある駐車場に車を停めて、いざ、散策です。
この日は風が冷たくさんぽするにはちょっと寒く、空っ風が身にしみる~


総社神社推定復元図

現在地の総社神社推定復元図です。
総社城主秋元氏により再建されたものです。


総社神社

総社神社は、国内の諸神を国府近くの一ヶ所に合祀し総社としました。


二の鳥居

二の鳥居の前に狛犬が居ます。
こちらの狛犬は関東では一般的な玉取りと子取りで、子孫繁栄と良い事が長く続くことを
願ったものと思われます。
最近狛犬も気になって注目してしまいます^^;


拝殿

拝殿は天保14年に再建された豪華な建造物です。


本殿

本殿は慶長年間の造営で、桃山時代の様式を残し群馬県指定の重要文化財に指定されています。


宝塔

1349年(貞和5年)に建てらたと思われる宝塔は、
長尾氏一族によって建てられたであろうとされています。


九十九社

平安時代、律令制のもと「総社制度」が施行され上野国総鎮守として「総社大明神」と称しました。
それに伴い、勒際社と全国の一ノ宮を「九十九社」と称して本殿東側に御祀りし
上野国の繁栄と国家の安泰を祈念したと伝えられています。


案内看板

これだけ大きく掲げている蒼海城跡地図をみると、ここが蒼海城跡なのかと
思い込んでいたのですが、よく見るとなんだかここではないようです。
あれ???


蒼海城跡地図

現在の地と照らし合わせて位置関係を確認。



グーグルマップに「蒼海城」と入れると「蒼海公園」へ引っ張ってかれます。
この周辺をぐるぐると蒼海城を求めて探していると、石柱が目に留まりました。
車を降りて近付いてみと…


旧地名 阿弥陀寺(元総社町)

この辺り一帯の各地に、このような石柱があるようです。
地図をよ~く見ると、そこには「蒼海城」の文字が!!
これを手掛かりに蒼海城跡捜索です!


御霊神社

ここには土塁が残っていたようですが…工事中のようです。
神社も曳き屋の最中で、どうやら移動している模様…。


土塁

御霊神社の土塁は工事中でかつての姿から変わってしまっているのではないかと思い
隣接した場所で土塁の捜索をしてみました。
ちなみにここは御霊神社の東側で、土塁の続きだと思われます。


宮鍋神社

総社神社はこの地にあり、現在の総社神社はここから移されたものと考えられます。
そして、総社神社移転後の跡地には鋳物を業とする人々が定住したことから
製鉄の神・金山昆古神・金山昆賨神を合祀して「宮鍋神社」と称したものと推定されています。
周辺の道路はかつての水堀だったのであろう。
堀はほとんどが埋め立てられていているようです。


上野国府正庁推定復元図

7世紀頃に設置されたであろう上野国府の正庁はこの図(推定)のようなかたちで
この地にあったとのではないかと思われます。
現在は宅地化されていて、これだけの規模のものがあったと想像するのが難しいです^^;


旧地名 殿小路(元総社町)

宮鍋神社にも石柱が設置されていました。
ちょっと文字が読みずらいですが、それでも貴重な手掛かりです。


宮鍋神社由緒

宮鍋神社内にある案内看板です。



ここは宮鍋神社の裏側です。
ここも城域になるのですが、空き地となっているのはわずかで
住宅地を避けて散策出来る場所は少ないです。


年末の城さんぽとなったこの日は、風も冷たく神社はとても静かで年始を迎える準備が
着々と行なわれていました。
とにかく元あった蒼海城を探すべく住宅地の道をひたすら捜索。
さすがに城郭跡はいつもながら道は狭く鍵の手に曲げられ、大きな車では苦労します。
ま、そのあたりは私の運転ではないので私はひたすら窓から目を凝らして遺構探し。
こんな一年でしたが、今年もまた新しい城さんぽが始まっています(^_-)


平成30年12月29日登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

箕輪城(長野県)

2019年01月14日 | 百名城以外の城
箕輪城みのわじょう
別名しろ山
構造平山城
築城者箕輪氏
築城年代室町初期
指定史跡町指定史跡
場所上伊那郡箕輪町中箕輪 地図

箕輪城は、箕輪氏の居城で室町初期の築城と推定されています。
天文のはじめの頃は福与城の持城で木下総蔵が居城し、木下氏が下伊那へ移ると
福与城主藤沢氏の養子で左衛門尉重時が箕輪城へ入城しました。
しかし、1582年(天正10年)に徳川方の酒井忠次の下にあった
保科氏らの急撃を受けて、田中城主の藤沢氏とともに討死しました。


養泰寺

養泰寺の裏山の墓地が箕輪城の主郭です。



1617年(元和三年)飯田城主脇坂淡路、箕輪領一万石を支配するため
木下陣屋に加集六兵衛以下十騎、同心など派遣したとされます。


駐車場

養泰寺の駐車場をお借りして散策開始です。



道路側から養泰寺の裏手に行くと箕輪城跡の看板と案内看板があります。


案内看板

箕輪氏は木曾氏の末流高遠太郎義信を祖とし、
その嫡男箕輪左衛門尉義雄が箕輪城を築いたとされています。


腰郭

こちら(北側)は平になっていて墓地として使用されていますが、
この奥へ進み左に折れると西と南は平ではなく、堀になっています。



先程の腰郭を横目に、とりあえず入口から真直ぐ延びる主郭へ続く道を登ります。


虎口

主郭が見えて来ました。
主郭はお墓で埋め尽くされています。


加集氏の墓

こちらには1617年(元和3年)~1672年(寛文12年)まで箕輪領を支配していた
飯田城主脇坂氏の命により木下陣屋の代官である加集氏の墓所があります。


主郭

写真に納めるのが躊躇われる墓地です^^;
その墓地を守るように土塁が囲んでいます。



この奥には稲荷社がります。
お寺の中に鳥居があるとは…。


野口在色の墓

野口在色は談林派の大俳人として知られ、
36歳の時に木下へ移り住み、妻をめとり酒屋や建築業を営んでいました。
京都御所の造営にも従った腕前だったようです。


堀切(主郭南)

南側の堀切を主郭から覗き込んでみました。
かなりの高低差があります。



堀切の向こう側に付けられた道は南城の墓地へと続く道です。


主郭南の土塁

主郭南の土塁の上から主郭内を見ています。
墓石より高い所に土塁があることがわかります。


土塁(西側)

西側の土塁は見事です。
かなり高く、下には堀が見えるので高さ増し増しです


堀切(西側)

主郭と木下公園墓地(南城)との間には堀があります。
道路で幅が縮められているかもしれません。


土塁(西側)

美しいアールを描いた土塁です。
下には道路も見えて、実際は結構高い!


堀切(南側)

ここの堀は、おそらく埋められて浅くなっていると思われます。
もっと幅もあったと思われます。
そして、堀はこの先観音堂脇まで滑り台のように落ちています。


南城

南城は更に南へと広がり、物見や砦があったようですが
今回も下調べ不足で散策には行っていません。またの機会ということで。



南の堀を観音堂まで下ってみたいと思います。



主郭は段丘になっています。


観音堂

観音堂まで下って来ました。




主郭の真下には池もあって水の心配も無さそうです。


北城

1周して養泰寺の駐車場を通り越し、今度は道路の北側(箕輪城氏跡看板の反対側)へやってきました。
階段の上に社が見えるので気になっていました。




北城は宅地化が進み城址の面影はないようですが、
ここだけは何かあった雰囲気が漂います。


眺望

まるで物見のようです。
正面の山の麓には福与城が見えます。
田中城も見下すことができたでしょうし、ここは物見に最適です!



縄張図には何も記されていませんがとても怪しいでしょ?


報恩碑

脇坂氏に従い加集氏箕輪郷家臣で、安政4年命により木下村名主を務めた
小林氏のことが記されているようです。



北城から見た主郭です。


小学校時代の担任の先生がこの付近に住んでいて遊びに来た思い出が蘇ります。
そんな頃に興味を抱いていればいろいろ教えてもらえただろうに…。
小学生時代は土器や化石の方が興味があって、守屋山の林道でよく化石採りをしていました。
今となっては惜しい事をしたなあと悔やまれます。
これから帰省したら徐々に伊那谷の城址を巡って行きたいと思います。



平成31年1月3日登城


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

浜川砲台(東京都)

2019年01月11日 | その他
浜川砲台はまかわほうだい
別名
構造鮫洲抱屋敷
造営者土佐藩
造営年代1854年(嘉永7年)
指定史跡
場所品川区東大井2-26-18 地図

1853年(嘉永6年)6月、アメリカ合衆国はペリー提督率いる4隻の艦隊を派遣して
日本に来航し開国を迫りました。
国書を幕府に渡すと、来春再来航すると言い残してペリーは去りました。
幕府は、防衛のため土佐藩の鮫洲抱屋敷に砲台を築いて異国船の再来航に備えました。
その際、佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬も警備の任に着きました。



冠木門

新浜川公園に復元された砲台跡です。
ここにはかつて土佐国高知藩の下屋敷、鮫洲抱屋敷がありました。



2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」があります。
浜川ポンプ場近くにある「浜川砲台跡」や竜馬が描かれた壁画、
北浜川児童遊園には「二十歳の龍馬像」もあります。
残念ながら今回は下調べしてなかったので散策していません。


大砲

坂本龍馬の生誕180年を記念して、品川龍馬会のメンバーを中心に
地元の人々が資金を集めて造り、区に寄贈されました。
この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つで、「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を
原寸大(全長3メートル、車輪の直径1.8メートル)で再現したものです。


案内看板

余談ですが、私は幕末以降の話は苦手です^^;



砲台の礎石が発見され、実際は8門の大砲を備えていましたが
中でも一番大きかった大砲の六貫目ホーイッスル砲が再現されました。
他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあったそうです。^^;


公園

訪れたこの日は天気も良く、遊んでいる子供こそはいなかったのですが
寝ている人やカップルが居るような長閑な公園でした。


続100名城で選定された品川台場。
城じゃないじゃん!と思うのですが、国内には800もの台場が造られたとされるので
深く考えずに、日本各地にある台場も巡ってみるとそれはそれでおもしろいかも。



平成31年1月2日訪問


東京湾・台場―その歴史と現認レポート
石田 進
批評社

蕨城(群馬県)

2019年01月09日 | 百名城以外の城
蕨城わらびじょう
別名根小屋城
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市蕨 地図

蕨城は、麓を根小屋といい多平良城・仁井屋城・麻場城などの近隣城郭と同時代に築かれ
小幡氏に属していたと推定されています。
しかし、詳しいことはわかっておらずまだ城域の細部も解明されていません。


搦手口

根小屋にある権現社から登る道が本来の登城口で、大手道ですが主郭へ行くには
竹藪がひどく、搦手側からの登城となりました。



さて、登り始めたところで何やら獣らしき足音がします。
ガサガサ、ゴソゴソと動いています!
新年らしくイノシシの登場か!!
応戦するにはカメラを付けた1脚棒しかないのだが、勝てるのか?(ドキドキ)
・・・・・・・・・・・・・・・・
どうやら去って行ったようです。
カモシカならば姿が見えるはずなのでイノシシだったのでしょう。
カモシカよりイノシシの方が怖いなあ。


堀切

まず目に付いたのが二の郭の北側にある堀切です。
こちらは後から散策するとして、とりあえず主郭を目指します。



二の郭に出ました。
目の前には堀切と一段高い主郭が見えます。


二の郭

郭は畑と化しています。
でも一目で郭と堀切が判ります。


堀切

畑にするために埋め立てられたであろう堀切ですが、かつてはもっと深くて
幅も数メートルあったように見えます。


主郭

一番高く平たくなっている場所で、こちらも二の郭と同じく畑です。



主郭の周囲は竹藪になっていて、その先は見えません。
ここで行き止まりと断念して、二の郭の北側を散策することにします。



二の郭に付けられた虎口を下り、最初に見た二の郭北側の堀切を散策へ。


腰郭

二の郭から主郭を西側へ回り込むように腰郭が付いています。
大手道を登って来ると、どうやらここに出て来るようです。
しかし藪化しているので今回は三の郭、大手道を断念します。


堀切

さて、堀切へ突入してみます!


虎口

堀切を進むと虎口らしき場所に出ました。
ここでは二の郭に背を向けた状態で北側を向いていますが、正面が開けているようで
左右は堀切、背後は二の郭への道が付いているように見えます。



ここから先は縄張り図に載っていない場所になるのですが
素人目ながら、城域がまだ続いているのではないかと思われるような場所なので
独自に紹介しようと思います。



だいぶ草刈がされている斜面です。
ソーラー畑になっっちゃうのかなあ。
車?の轍が見えるので、辿って行ってみると搦手道に合流します。



道は更に北へ続いているようなので進んでみます。



しっかりした道が付けられています。



また郭のような場所に出ました。


石碑

ここには石碑があります。
本当にここは城域ではないのだろうか…。
石碑には昭和十年四月十四日と 城田肇という文字が刻まれているのが読みとれます。
それほど古いものではなさそうで、何の石碑なのか?



そして虎口?のような場所に出ました。
さすがにこの先は城域とは思えないのでここで引き返すことに。



思いつきの通りすがりで寄り道したので縄張り図や資料も持たず、予備知識もないままに
散策したので城域っぽい所を歩きまわってみたら、縄張り図に無い場所を歩いていました。
とはいえ、宮坂武男氏が訪れた時は藪化していて「城地は藪がひどく虎口など細部は観察できなかった」
とあるので、実はまだまだ未解明な部分があるのではないかと。(素人の勘違いか)
私には二の郭から北側も何らかの郭であるように思えてならないのですが、まったくの見当違いなのかなあ?
なんだかすっきりしない疑問だらけの城址です。


平成31年1月5日登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

反町館(群馬県)

2019年01月07日 | 陣屋・館
反町館そりまちやかた
別名反町城・新田義貞古城
構造平城
築城者新田義貞
築城年代鎌倉時代~南北朝時代
指定史跡国指定史跡
場所太田市新田反町町896 地図

反町館は、新田義貞が鎌倉・南北朝時代に地下水が豊富なこの地に平城を構えました。
その後戦国時代には、三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられ
大館氏明、新田義興、矢内時英が居館としたという伝承もあります。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の北条攻めの祭、廃城したと伝えられます。


駐車場

十分すぎるほどの広い駐車場が完備されています。


水堀

まず目に付くのは水堀です。



南側の水堀です。
南側ながら日当たりが良くないらしく、堀の水が凍っています。



入口には大そう立派な藤棚があります。
藤の花が咲く頃に来ると水堀に映えて奇麗なんだろうなあと想像出来ます。


標柱と案内看板

境内に入ってすぐの左側に「反町館跡」の標柱と「太平の里」の案内看板があります。
余談ですが、カメラのレンズの内側にゴミが侵入してしまいこのような見にくい写真となってしまいました。(このところずっとこのゴミが邪魔していて悩みの種だったのです)
分解修理をメーカーに依頼すると高いそうなので、家に帰ってから掃除機でズームを出した状態で吸引して
何とか排除することができました。
これで多少はピンボケが減るかも^^;(知恵袋)



山門

山門に近付いてみたのですが、初詣に備えて設置されたテントで全体を写すこと叶わず。



本堂正面の入口にやって来ました。
こちらが正式な正門になります。


新田義貞公古城碑

正門の右脇に「新田義貞公古城」の碑があります。


石段

土塁に登るための?ちょっと古そうな石段があります。


土塁

境内南側に壁のように仕切られた見応えある土塁です。


水屋

とても立派な水屋で格式がわかる建屋です。


鐘楼堂

この鐘楼堂、誰もいないのに鐘が鳴ります
近寄ってよ~く見ると、どうやら無人で鐘を撞く装置が設置されているようです。



そして、屋根を見ると…鐘楼堂の屋根に鯱鉾が載っています!
これも格式の高さを象徴しています。



この鐘楼堂の盛り方はすごい!


拝殿

着々とお正月の準備がされています。
関係者の方たちが机など運んで並べているところをお邪魔しました。


小僧

本堂の右脇に竹箒を持ったかわいらしい小僧さんが居ます。
ちょっと微笑ましい光景です(^^)


巨石

本堂と参籠堂を繋ぐ太鼓橋の前にある巨石です。
何か意味あり気に佇んでいるのですが…なんだろう?


参龍堂

カラフルな幕で飾られています!
な~んて言ったら神社仏閣に詳しい方に叱られそうですが、華やかです。


大師堂

弘法大志様のお堂です。


左中将新田公城址之碑

大師堂の左側にある石碑には「左中将新田公城址之碑」と刻まれた城址碑があります。
最近のものは館跡と表記され、古くの石碑には城址や古城と刻まれているので
どっち?という疑問でもやもやします。


城址碑

左中将新田公城址之碑の更に西側にも一回り小ぶりな城址碑があります。
こちらの石碑の方がやや古そうですが、以前は館跡というよりは城跡という認識の方が
強かったのでしょうか。



お寺の方に断って裏側に廻らせていただきました。
この道は参籠堂の裏にある西虎口から続く道で、北側へ回り込む小道です。


里定標(里程標)

北側の土塁に里定標があります。



東側南隅部は「隅欠」になっています。



西側にも虎口があったとみられ、位置的には解明されていないのですが
水堀外と繋がる部分としてはこの写真の奥の地続き部分に土橋か木橋が
存在したのではないかと思われます。


とにかくここだけでなく周囲に見所がいっぱいで、案内看板を見ていると
あっちもこっちも訪ね歩きたい史跡がちりばめられています。
今回も、用事と用事の合間に訪れたので周辺の散策までには至りませんでした。
周囲の史跡も勉強しながら訪れると数倍楽しめると思うので、藤棚の藤が満開の時期に
また訪れてみたいと思います。


平成30年12月30日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

上野国分寺

2019年01月06日 | その他
上野国分寺こうずけこくぶんじ
別名
構造国分寺
築城者
築城年代750年頃
指定史跡国指定史跡
場所高崎市引間町250−1 地図

奈良時代に聖武天皇は国の安泰を願うため国ごとに僧寺と尼寺を創ることを命じました。
そして、七重塔をもつ大規模の僧寺を「国分寺」と呼ぶようになりました。
上野国分寺は全国の国分寺の中でも最も早く完成し、国府の西に僧寺、北に尼寺が
並ぶように建てられていました。


駐車場

大型バスも駐車出来る大きな駐車場が完備されています。


案内看板

駐車場にある案内看板です。


史跡案内図(上野国分寺の伽藍)

位置関係の確認をして、いざ上野国分寺の伽藍へ。
国ごとに僧寺と尼寺を建立するとなると、全国にはこのような造りの国分寺が68箇所も
あったということになります。


染谷川

駐車場と国分寺との間は染谷川で区切られています。


国分寺橋

「天平の道、こくぶの橋」開通式典を行うのと同時に「上野国分寺まつり」実行委員会が組織され、
平成22年11月3日に「第1回国分寺まつり」が実施され、毎年「上野国分寺まつり」が
執り行われるようになりました。


南大門跡

国分寺橋を渡ると、正面に南大門が見えます。
建物は復元されていませんが、門の両脇から伽藍を囲む築垣が復元されています。


ガイダンス施設

なんと、残念なことに12月29日~1月3日まで年末年始休業で中に入れませんでした。



仕方ないので、外からガラス越しに中を覗いてみました。
中には模型や発掘調査で出土した品々が展示されています。



これだけの建物が復元されたら凄い観光地になりそうだなあなんて想像してしまいます。
当然莫大なお金がかかるのでしょうからそのような考えは無いと思いますが
あったらすごいだろうなあ。
特に七重塔は見てみたい


築垣

断面が見られるかと思ったのですが黄色い板で保護されてました。



ここに復元されているのは一部ですが、この塀が伽藍の四方を囲んでいました。


七重塔基壇

創建当時の工法と同じように、棒でつき固めた土を積み上げる版築で造りました。
礎石の一部など、1200年以上もの間ここにあったと思うと、なんだか不思議な気分になります。


金堂基壇

奥に見えるのが金堂の基壇です。
土台を囲む化粧石は、榛名山から産出された安山岩を加工して積んでいます。



碓井郡と勢多郡の豪族の造営協力があって建立されたと推定されます。
こうしてみると、やはり国府があったところはどの地方に行っても
広さを感じますね。


案内看板

西大門跡(推定)に立てられた案内看板。


当初ここは訪問予定ではなく、蒼海城の情報を求めてガイダンス施設へ来てみたのですが
残念ながら年末年始休業で何の手がかりも得られず、せっかくなので国分寺跡も散策しました。
秋田城や多賀城を思い出させるものでこんな立派な史跡があったんじゃん!などと今更ながら
国分寺跡があることを知ってしまいました^^;
これで、「群馬にも国分寺跡あるよ~ん(*^^)v」なんて言えます。
あ、でも他県でも国分寺跡なんて案内看板を見たことあるよなあ。
身近なところで長野でも見たので、今度通りすがったら散策してみようかな。。。。


平成30年12月29日訪問


国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部
イカロス出版

一之宮氏館(群馬県)

2019年01月02日 | 陣屋・館
一之宮氏館いちのみやしやかた
別名
構造
築城者尾崎氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市一ノ宮1465−1 地図

貫前神社を間に東に一之宮氏館跡、西に弥勒屋敷跡がある古くからの歴史を持つ重要な拠点です。
この館は初めは正神主である尾崎氏が居館としたのがはじまりです。
一之宮氏は、尾崎氏とともに貫前神社の社人でした。
戦国期には小幡姓となり武田、北条、徳川と移り変わり属していました。


貫前神社

1400年の歴史を持つ貫前神社は、社伝には安中市の鷺宮に物部姓磯部氏が、
氏神である経津主神を祀り、531年(安閑天皇の元年)その鷺宮の南方、
蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが創建にあたります。
「下り宮」が特徴で、総門をくぐると、下りの階段が参道となっており、
社殿を見下ろしながらの参拝となる珍しい形式になっています。


拝殿

御祭神は「経津主神」と「姫大神」で、現在の社殿は三代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
建物は東照宮など手掛けた職人さんの手によって、現在も管理されているので
その造りや装飾も同じように美しく鮮やかで見事なものです。


堀切

本殿東側にある大堀切。


大杉(藤太杉)

樹齢約1200年と伝わるこの大杉は、栃木県佐野市にある唐沢山城主である藤原秀郷が
天慶2年、平将門伐採の際貫前神社に参詣し歳の数(36本)の杉苗を奉納しました。
そのうちの1本がこの杉の木だそうです。
思わぬところに縁がありました。


三重塔礎石

戦国期の武田氏と通じていた資料など展示されている宝物殿の東側にあります。



ここにはかつて三重塔がが建てられており、薬師堂、観音堂、六角堂、鐘楼等の諸堂が
軒を並べていました。
天保12年に灯篭の火事により焼失してしまい、その後再建の声が上がったのですが
再建は叶わず礎石だけ残りました。


堀切

宝物殿と社会教育館の間にある堀切です。
ここにある道路が堀切の名残で、アスファルト化されていないない部分は
堀切が残っていて当時を偲ぶことが出来ます。


社会教育館

この敷地内が一之宮氏の館跡になります。



この奥に主郭があります。
主郭の前には堀切があり、その上に建物が建っています。


記念碑

社会教育会館の門の袂にある文化庁の「登録無形文化財」の記念碑。


記念碑裏

寄贈されたこの石は、宮城県で採石された「伊達冠石」という名の石です。








堀跡









土塁


リス






毎年、初詣の帰りに寄り道して辺りを散策して帰ります。
まだ弥勒屋敷跡方面を散策していないので
次はそちらの方の紹介が出来ればなと思っています。
そして本年も城さんぽはここからスタートです。
よろしくお願い致します。


平成31年元旦登城
平成31年3月31日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版