むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

小高城(福島県)

2022年12月30日 | 百名城以外の城
小高城おだかじょう
別名紅梅山浮舟城・浮舟城
構造平山城
築城者相馬重胤
築城年代14~16世紀
指定史跡県指定史跡
場所福島県南相馬市 地図

小高城は、相馬重胤が1326年(嘉暦元年)下総国から移り、以後相馬氏の本拠地としていました。
1597年(慶長2年)原町の牛越城に移り、小高城を支城としましたが、
慶長7年に再び小高城へと戻ることになりました。
慶長16年、拠点を中村城に移すと小高城は廃城となりました。



小高神社

現在、相馬小高神社がある場所がかつての小高城です。


境内案内図

「相馬野馬追」でも知られている神社で、駐車場もあるのでとても訪れやすい城址です。
駐車場の入口、大きな鳥居脇に境内の案内図が設置されています。


城址碑

南二の曲輪の登り口にある城址碑です。
この階段を登ると南二の曲輪です。


案内看板

本丸と南二の曲輪の境目に立てられた案内看板。
ここから社殿側が本丸になります。


神社本殿

小高神社は、国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の3日目の野馬懸の祭場地として広く知られています。
相馬野馬追は相馬氏の祖といわれている平将門が下総国に野馬を放ち、
敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられています。



相馬野馬追三日目のこの地では、「野馬懸」という放たれた野馬を神社境内に追い込み、
白装束の御小人が素手で神馬を捕らえ神前に奉納する神事が行われます。
よく神社に行くと「絵馬」に願い事を書いて奉納しますが、
「相馬野馬追」が絵馬祈願の原点だと言われています。



ちょっと幻想的な小道を入って行くと、辨天宮等鎮座があります。
左手には土塁があり、土塁の向こうには堀があります。


辨天宮等鎮座

この社の背後にも立派な土塁があります。
このお社をL字に巻込むような形で土塁が良好に残っているので
神様の背後に回るのはちょっと気が引けますがここでの見所となります。


堀切

北二の丸との間にある、唯一の堀切です。
縄張図を見ると、堀切はここだけのようです。


奥の院

寺社の本堂・本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭った所にあたります。


御神水舎

御神水は御利益のある水のことですが、
こちらでは馬追の儀式でも使用されます。



周囲を散策していたら、なんと、お馬さんがやってきました。
さすが相馬、イベントやお祭りではないのにまさかのお馬さん登場!とは。
このあと、普通に住宅路地を馬が歩いていたので相馬ならではの光景を堪能しました。

 
本丸

本丸は直角三角形で面積は約六千坪あります。
けっこう広いです。


棚機神社

棚機神社は、古くから伝わる七夕の織姫にちなんだ織物の神様で、
織物の技術や繁栄を願う儀式を伝える神社のようです。


北二の丸

城を囲む一段低い場所は水田になっていますが、
この水田が水堀の役割をはたしていたと思われています。
東側は「馬場」であったとも伝わります。


貴船神社

小高城の麓にある貴船神社は、五穀豊穣・出世・武芸を司る神様で、
現在は火災を防ぐ火伏せの神として崇められています。
一説には、相馬重胤がこの地に移るより以前から信仰があった神社と伝わります。


遠景

相馬一族が討死するなど、戦国時代は激戦地となった小高城。


中村城に比べると、かなりシンプルな造りです。
まだ牛越城へ行ったことが無いので比べられないのですが、
牛越城へ移って、また小高城に戻って来ているところをみると
使い勝手の良い城だったのかなと想像します。
廃城になっても、この地が風化することなく重要な場所となっていることをみても
相当の思い入れのある城であったのかなあと個人的には思っています。

令和3年10月31日登城

今回の参考本



世良田東照宮(群馬県)

2022年12月29日 | その他
世良田東照宮せらだとうしょうぐう
別名
構造神社
年代1644年(江戸時代)
指定史跡国指定史跡
場所群馬県太田市世良田町3119−1 地図

三代将軍徳川家光により、日光東照宮の元社殿や宝物などを移築したもので、
徳川氏発祥の地の東照宮として知られています。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の源義重が上野国新田荘を治めるようになり、新田義重と名乗りました。
義重の死後は義重の子である義季が、徳川郷・世良田郷・他4郷を受け継ぎ、
徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。
その後、足利氏の討伐により世良田郷を追われた、九代目の親氏は諸国を流浪の末、
松平信重の娘を娶り、愛知県豊田市の松平郷に土着して松平親氏と名乗りました。
後に生まれた松平信康は、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を称していることを知り、
松平姓から徳川姓を名乗るようになり、徳川家康と名乗るようになりました。



駐車場

拝殿は、日光東照宮奥社拝殿として1615年~1623年(元和年間) に造営され、
1642年(寛永19年)に徳川氏発祥の地であるこの地へ移築されました。
その他にも日光東照宮奥社神廟前にあった門も移築されています。
総社藩主秋元越中守長朝の命により造られた、高さ4.95mの当時としては
日本一大きい鉄燈籠が奉納されています。


助平屋

およそ100年の歴史ある老舗の焼きまんじゅうということで、
世良田東照宮へ行ったらぜひこちらの焼きまんじゅうを!
群馬と言ったら「焼きまんじゅう」です。


焼きまんじゅう

焼きまんじゅうと言えば、定番のものと、あんこ入りのものは食べたことがあるのですが
こちらのお店には抹茶・ごま・きなこ・マヨネーズと、普段見かけない味もあって
どれにしようか迷いましたが、この日はマヨネーズ味を注文してみました。


この日、世良田東照宮に訪れた本当の目的は、助平屋さんに焼きまんじゅうを食べに行ったこと。
近くに東照宮があったので寄ってみたら、徳川発祥の地ということで驚いた記憶があります。
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で、世良田東照宮に行ったことを思い出し、
写真を引っ張り出して来てみたのですが、もっと沢山撮影したはずがこれしか残っていなかったので
近いうちに、また行く事にことになりそうです^_^;

NHK前橋放送局では、開局90周年を記念して大河ドラマ「どうする家康」関連イベント「ミニ巡回展」「ぐんま巡り」を実施します。
このようなイベントも開催されるようなので、2023年になったら行ってみたいと思います。






岩崎陣屋(秋田県)

2022年12月23日 | 陣屋・館
岩崎陣屋いわさきじんや
別名
構造陣屋
築城者佐竹義理
築城年代1869年(明治2年)
指定史跡
場所秋田県湯沢市 地図

1868年(慶応4年)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、
岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置きました。
その後、廃藩置県以降は岩崎藩を岩崎県と改め秋田県になったため、
岩崎陣屋は1873年(明治6年)に消滅しました。



いわさきこども園

重機がある、お奥にある建物が「いわさきこども園」です。
この辺りが陣屋地であったようですが遺構は消滅しています。



羽州街道の東方の山手寄りに藩庁や学館、武館があり、
それらを中心に米蔵、弾薬庫、家臣の屋敷が立ち並ぶ城下町が作られていました。



明治3年2月、佐竹義諶は岩崎藩の藩主となりました。
義諶は近くの椿台陣屋(岩崎城)から移転し、戊辰戦争戦いぬきました。
しかし、明治3年4月に義諶が岩崎藩発足後わずか2ヶ月で急逝。
翌年には廃藩置県により岩崎陣屋は廃され、岩崎県となりました。
その後、秋田県に統合となったことで岩崎県も廃され県庁としての役割を終え、
その建物の一部が岩崎城の麓の八幡神社に残っています。


八幡神社

1087年(寛治元年)、源義家が奥羽の豪族清原家衡、武衡を金沢柵に攻める際に、
岩崎霊符森に八幡神社を建立し、鐙を奉納し戦勝祈願したと伝えられます。
1803年(享和3年)、秋田藩九代藩主佐竹義和から源義家奉納の鐙を
藩庫に納めるよう命があり奉進したと伝わります。



岩崎藩陣屋からの移築殿舎が現存しています。
唐破風は陣屋の殿舎のもので湯沢市の文化財にも指定されています。
良く見ると、懸魚には岩崎藩主佐竹家の家紋(五本骨扇に月丸)が付いています。
瓦に家紋があるのは普通ですが、懸魚に家紋が付いてるのはあまり見たことがないかも。

岩崎陣屋は、現地に行ってみても遺構もなく保育施設になっているため
中はもちろんのこと、あまりうろうろ出来る場所ではないので
「湯沢市ふるさとふれあいセンター」という施設に寄って資料を探してみました。
展示交流ホールに歴史書や鹿島様に関してのチラシが置いてあったのでここだけであれば無料で利用できます。


令和4年7月17日訪問


今回の参考本



森下城(群馬県)

2022年12月21日 | 百名城以外の城
森下城もりしたじょう
別名鎌田城・天神城
構造崖端城
築城者森下氏
築城年代1558年ー1570年(永禄年間)
指定史跡
場所群馬県昭和村森下甲354 地図

鎌田城とも呼ばれ、沼田城団の一つとして造られたといわれています。
1582年(天正10年)に真田氏・北条氏によって前衛の砦として利用され、
北条氏邦に攻められた加藤丹波守は奮闘するも、北条の大軍勢に押され
城を出て、ここより約500mほど離れた石の上で切腹し果てたという場所が今でも残っています。
また、反町大膳亮幸定に討たれたという説もあり、その後北条氏の沼田城攻めの際の
拠点になったとも伝わります。




駐車スペースが無いので、近くで車から降ろしてもらい、
徒歩で様子を見に来ました。



この先、正面が郭のようですが足元にはロープが張られていて
中に入って行くことは出来ません。
私有地であり、民家の間を通らないと郭の中には行けそうにありません。
道路から眺めるしかない。


標柱と看板

主郭には標柱と看板が立てられているのですが…。
道路から見ても、肉眼では何が書いてあるのか読めません。
カメラのズームを使ってやっと読むことが出来ました。
双眼鏡が必要です。



ガードレールの切れたところから入れそう!
と行ってみたのですが、やはりこちらもロープが張られていて
看板のある場所へは行けそうにありません。


堀跡

堀跡から侵入して堀をよじ登れば行けないこともないけど、
これだけロープで抵抗されているので、やはり立ち入って欲しくないということですね。
気持ちはわかるので、眺めるだけにしておきます。



主郭はもっと広かったらしいですが、大部分が片品川に崩落してしまい
残っているのは御覧の景色の通りです。


せめて看板だけでも道路側の読める場所にあったらなあ。
でないと、望遠レンズが欲しくなってしまうので看板立てるなら誰でも読めるようにして欲しいです。
というのを理由にして、今度もう少し望遠の利くレンズ買ってもらおうかな(#^^#)
なんて企んでみる。。。


令和4年12月10日登城





川田城(群馬県)

2022年12月20日 | 百名城以外の城
川田城かわだじょう
別名下川田城
構造崖端城
築城者川田四郎景信
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所群馬県沼田市下川田町792 地図

川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男である川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられます。
川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域で、
本丸は五角形で堀を巡らせ、帯曲輪が構築された特徴的な構造でした。
沼田城の西の守りとして真田軍と北条軍の激戦地であったとされ、多くの地侍が討死しています。
後に、一国一城令により川田城は廃城となりました。
三浦系沼田氏の祖は1247年(宝治元年)の執権北条氏・安達氏と三浦氏の争い「宝治合戦」で
北条氏に追われこの地に逃れてきた三浦泰村の次男景泰と伝わります。



遠景

北東側から見た川田城の東先端です。



半月型の小郭が突き出ています。



内宿公民館の入口に加沢平次左衛門の墓の案内看板があります。


案内看板

「加沢記」で知られる加沢平次左衛門の墓があります。
加沢平次左衛門は、沼田城主真田信利の家臣で1541年(天文10年)から
1590年(天正18年)までの利根・沼田・吾妻の様子を記した人物で
後にその名から「加沢記」と名付けられ、戦国時代の歴史を知る貴重な書を残しています。


土塁

左側は一段高くなって土塁になっていたようです。


内宿公民館

かつてここには薬師堂がありました。
また、ここより北(主郭の北)には、川田四郎光清の建立した円珠山光円院遷流寺があります。
名を光円と改め、宮塚の薬師堂を円珠庵として開基しました。
下川田町滝にあった阿弥陀山川田寺が焼失したことにより、現在の場所に円珠庵を移し、併せて伽藍を建立しています。



薬師堂があった時の名残でしょう。
庚申塔や石仏があります。



公民館の西側を入って行くと加沢平次左衛門の墓があります。
ここで主郭のある段と小郭との段差が見られます。


加沢平次左衛門の墓

角形の墓石が加沢平次左衛門の墓です。
正面に「覚誉皈本居士」「覚誉持本大姉」と左面に「申五月廿八日 加沢氏墓」の刻銘があります。
「覚誉皈本居士」というのが加沢氏の法名になります。



崖端にある半月型の小郭と住宅のある主郭との間に小道があります。
この道はお墓へ行くための道のようです。



堀は埋め立てられてしまっていますが、縄張図と照らし合わせると、
この道が堀の名残りでははなかろうか。



こちらは現代になってからの墓地のようです。
これといった遺構は無いようなので、静かに退散することに。



東の帯郭とされる場所とされる場所は竹林になっていて
覗き込んでみたものの、土塁などはないようです。


沼田市のホームページでは「所有者の承諾あれば見学可」とありました。
しかし、所有者にお伺いせずに行ったので主要な部分は見学しませんでした。
宅地でない公民館周辺だけの見学となりましたが、加沢氏のことや、三浦氏、石田氏など
調べればまだまだ面白い歴史を読み解けそうな、興味深々なお城であります。


令和4年12月10日登城




江尻城(静岡県)

2022年12月16日 | 百名城以外の城
江尻城えじりじょう
別名小芝城
構造平城
築城者武田信玄
築城年代1570年(永禄13年)
指定史跡
場所静岡県静岡市清水区江尻町 地図

江尻城は、駿河に侵攻した武田信玄が1570年(永禄13年)に築いた城です。
その後、穴山梅雪は天守を築き、「観国楼」と名付け城や城下町を本格的に大改修しています。
天正10年徳川家康に攻め込まれ、穴山梅雪は降伏し、江尻城は徳川の手に渡りました。
その後、1600年(慶長5年)廃城となりました。



本丸門

「本丸門」と書かれた江尻小学校の門です。
江尻小学校がある場所が本丸になります。


二の丸町看板

本丸門から北に向かって進むと、「二の丸町」の看板があります。
二の丸はそのまま町の名前になったんですね。



とりあえず学校の周りを巡ってみました。
この道は堀の名残かな?


案内看板

小学校の駐車場の角に案内看板が設置されています。
道路から見えるものなので、ここで縄張りなどを見ておきます。
武田の城で高層の楼閣が建てられたとのことですが、どんな櫓?だったのでしょう。


江尻城復元図と小字名

江尻城復元図を拡大してみました。



この先に城址碑があるのですが…中に入ることが出来ません。
もちろん、無断で入るわけにはいかないのでとにかく教職員または学校関係者を
探してみました。



学校の中に居た方に事情を話し、中に入れて頂くことが出来ました。
城址碑がどこにあるのか教えていただきました。


小芝城址碑

この地を所有していた本郷町の望月謙吉氏は1909年(明治42年)に、
江尻城のあったことを記念して小さな公園を造り、この城址碑を建てました。
その後1923年(大正12年)に工場が建設されるということで、小芝八幡宮の境内に移されました。
それから72年を経て、本来あったこの本丸跡に戻したいと平成7年3月に再び移設されました。


魚町稲荷神社

穴山梅雪が一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って
この地に社殿を造営したと伝わります。



サッカーではないが、必勝の神様にしっかり願い事を伝えに!


少年サッカー発祥の地

昭和30年代、江尻小学校にサッカー好きな教師が赴任して来た際、
この教師は毎日子供たちとサッカーをしていました。
しかし、当時はボールを足で蹴ってはいけないという校則がったという。
サッカーの虜になった子供たちを見て、校長がサッカーを許可しました。
これが日本ではじめて少年サッカーチームを生むきっかけになったようです。
江尻小を皮切りに、清水市に小学生サッカーチームが次々に誕生し、
どんどん発展してサッカーのまち清水となり、現在も多くのJリーガーが誕生しています。


娘の同級生に江尻さんが居たので、御先祖様はこちらかなと思いながら
遺構は期待せずとも訪れてみようと思ったのがきっかけでした。
ご本人も、うちの娘もまったくそんなことには関心がなく過ごしているけど
まあ、それはどうでも良いのです。(訪れたという自己満足)
来年の大河ドラマでスポットが当たるのかどうかちょっと期待してみてみようと思います。


令和4年8月15日登城




幕岩城(群馬県)

2022年12月15日 | 百名城以外の城
幕岩城まくいわじょう
別名
構造崖端城
築城者沼田泰輝
築城年代1519年(永正16年)
指定史跡
場所群馬県沼田市柳町 地図

幕岩城は、1544年(天文13年)に三浦系沼田泰輝の子顕泰が沼田城を築いて移るまでの居城でした。
沼田氏発祥の荘田城から小沢城へ移り、その後幕岩城での13年間を経て、沼田城へ。




城域はほぼ宅地と畑になっており、あまり撮影出来る場所がみつからず、
それでも先にリサーチしておいたので城址碑探しをしておりました。
一度ここを通り過ぎてしまったので、戻ってここのはずだよなあと、石を覗き込んでみると
うっすら文字が見えたので「ここだあ!」と車を停めてもらい、慌てて撮影。


城址碑

文字が見ずらいですが「幕岩城二の丸跡」の石碑があります。
遺構は無いですが、延いて言うなら今立っているこの場所に堀があったのかな…。


天気が良かったこともあり、近所の方も外に出ていたりしたのでなるべく宅地を写さないように
配慮した結果、撮影出来たのはこの城址碑だけでした。
カメラを持ってあまりうろうろ出来ない場所です。
そして、意外にも車の通りが多かった。
道も狭いので、あまり住民の方の迷惑にならないよう早々に退散しました。
本丸の北側に水場があるようなので、またの機会に寄ってみようかと思います。


令和4年12月10日登城


今回の参考本




大堀山城(埼玉県)

2022年12月14日 | 百名城以外の城
大堀山城おおほりやまじょう
別名大堀山館
構造平山城
築城者扇谷上杉氏
築城年代室町時代
指定史跡県指定史跡
場所埼玉県川越市下広谷332 地図

大堀山城は、東には南関東と北関東を結ぶ鎌倉街道と
西には扇谷上杉氏の川越城鉢形城、山内上杉氏の五十子陣をつなぐ
当時のルートが交差する重要な地点に築かれた城館です。



入口

南側にある入口です。
ここをまっすぐ入って行くと主郭です。


案内看板

案内看板はここの他に、ここから真裏の三の郭側にもうひとつ立てられています。


主郭

郭の中は竹林になっています。
が、しっかり遺構が残っているのでそれなりに見ごたえあるので進んで行こう!



中は広い竹林です。
土塁と堀が巡っているので当時は良い感じの館があったのだと思います。



西側を見ると、奥の方が一段高くなっているのが見えます。
天守台でもあるのかのようなしっかりした段です。


主郭西側

土塁に沿って登り口が付いています。
石段になっていたようです。



上は程よく平になっています。


外堀

主郭を取り巻く堀です。
更に外側にも堀があり、二重堀になっています。



主郭の北の方を見ると、竹林の間から社が見えます。


神明社

神明社は天照大神または伊勢内外宮の神を祀った神社のようです。
お稲荷様がいらっしゃるということは、農業をはじめ商業や産業を守る神様ということですね。



手前は主郭の土塁で、その先の凹みが主郭と二の郭の間の空堀です。
堀の向こうが二の郭になります。


空堀

浅くなってしまっていますが、見事な堀があります。
こんな林の中にひっそりとあるのがもったいないような…
と思う私はあまり普通の人ではないんだろうなあ。
(共感したあなたもあまり普通の人ではないかも💧)



折れのある堀。
この他に、三の郭との間にも堀があるのですが、こちらは少し水が溜まっていて
ぬかるんでいるので行きませんでした。


案内看板

三の郭を抜けて道沿いに設置されている案内看板。
内容は南側にあったものと同じようです。



うっそうとしているせいか不法投棄が絶えないようです。
ゴミや便器まで捨てられいました。


外からは、ただの藪?にしか見えないけど、郭内に入ってしまうと自分の世界に浸れてしまう城跡です。
手入れをすればなかな良い堀と土塁が見られるんですけど…。
でも、思いのほか楽しめました。


令和4年2月27日登城





城峰城(群馬県)

2022年12月13日 | 百名城以外の城
城峰城じょうみねじょう
別名城峰塁・西中条城・西中庄要害・新域
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所群馬県中之条町西中之条604 地図

城峰城は、胡桃沢川と枯木沢川に挟まれた丘陵上に築かれ、
嵩山城の支城であったと推定されています。
しかし、城について詳しいことはわかっておらず、
嵩山城が落城するとその役割も終え、
存在意義が無くなった城峰城は廃城となりました。




「城峰城址」の矢印看板に従ってこの道を
山に向かって進んで行きます。



「ほほえみ工舎」を目標に「城峰城址」の矢印看板に従って
そのまま素直に進んで行けば迷うことはありません。



終点が「ほほえみ工舎」で東側が「城峰城址」です。
ちなみにこの道路部分はかつて堀切になっていたと思われます。


標柱と看板

道路から真っすぐに見えて来るのでここが城址であることがすぐにわかります。
指定史跡になっているので標柱と看板があります。
なんとなく虎口になっているのがわかりますが…藪。


主郭

何とか藪漕ぎしながら主郭に入ってみたものの、
土塁に囲まれた単郭のようで、なんとな~くそれっぽいことはわかりますが
ここでギブアップします。



郭内は平らなようではあるのですがとても先へは行けません。
実は更に東の尾根を進むと物見台のような旗塚と呼ばれる場所があるようです。


土塁と虎口

草木でわかりずらいのですが、高い土塁の中央に土塁の切れ目があるようです。


標柱と看板が見えた時にはめっちゃ期待したのですが、なんと藪でした。
種が着いてくる草ではなく、篠なので強行突破しようと思えば出来なくはないが…。
行った先に絶景でもあれば行ってみたいけど、そんな期待は出来ないので帰ります😩

令和4年12月10日登城

本日の参考本




嵩山城(群馬県)

2022年12月12日 | 百名城以外の城
嵩山城たけやまじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代室町時代
指定史跡町指定史跡
場所群馬県中之条町五反田 地図

嵩山城の築城者は不明ですが信仰の場、霊場であることが知られています。
1563年(永禄6年)に、岩櫃城が真田幸隆に攻められ落城。
岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守の子・城虎丸や吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に籠城しました。
しかし1565年(永禄8年)、激戦の末に城虎丸をはじめ一族(女子供も)は
大天狗の岩から飛び込んで自決し、嵩山城は落城しました。
江戸期には山伏の道場として利用され神聖の場として名高い霊山です。


案内看板

登山道入り口、鳥居の隣に立てられた案内看板です。


表登山口

ここが大手道で木戸になります。
神社の入口から神社までの間に城下の集落があったものと伝わります。



親都神社北側に「道の駅霊山たけやま」があるので駐車場はこちらが利用できます。
風情ある茅葺屋根のお蕎麦屋さん。
11時から15時の営業だったので間に合わず、閉店しているところでした。残念。


道の駅霊山たけやま

山を見上げ、「男岩の更に向こうかあ…。」
片道1時間以上かかりそうなのでこの日は登城を断念。
二種類の「御城印」とりんごを買って、サクッと行けそうな城址をもうひとつ探して
帰ることに。


この日は数か所登城してからここに来たので既にクタクタ。
何より運動不足すぎて体力が持ちません。
時間的にも城址往復は無理そうなので今回は下見ということで出直すことにしました。
十割蕎麦も食べたかった~。
体力付けて、お蕎麦屋さんの営業時間に間に合うように行って来られる計画を
練り直してリベンジしたいと思います。


令和4年12月10日登城


今回の参考本



古瀬間城(愛知県)

2022年12月08日 | 百名城以外の城
古瀬間城こせまじょう
別名巴城
構造平山城
築城者松平宗忠
築城年代1506年(永正3年)
指定史跡
場所愛知県豊田市志賀町城山 地図

古瀬間城は、新城街道を見下ろす丘の上に築かれていました。
浄願寺に残る位牌から、丸根城とともに松平一族の城であったと考えられています。
徳川家の祖とする松平三家の織田・今川・武田と対峙する要の城でした。



浄願寺駐車場

浄願寺の駐車場です。
こちらに駐車させて頂きました。


案内看板

城址公園やハイキングコースになっているので案内の看板が設置されています。
城址公園にハイキングコースの南口の出入口があります。


城址碑と案内看板

浄願寺入口にある城址碑と看板です。
ここに城があったことが一目瞭然になっています。


山門

お寺と公園の共同の入口となっています。



表から見た時は気が付かなかったのですが、裏に回ってみたら
梵鐘のある山門でした。


本堂

古瀬間城を築城したとされる松平宗忠の位牌が祭られています。


大平の門

ここにはかつて城門(冠木門)があったようですね。
階段が見えるので、そこから城址公園へと登って行きます。


墓所

大平の門から間もなく左手道下に「松平弥三郎宗忠公墓所」が見えて来ます。



獣除けのゲートがあるので、ここを開けて通過します。
そして、通ったらまた扉は閉めること。



遊歩道はしっかり整備されています。
どうやら5年ほど前に整備されたようです。


虎口

さて、古瀬間城の郭の入口が見えて来ました。



主郭より一段下がった場所に四阿があります。
ここまでの道のりはきつくないので、四阿での休憩は割愛して先へ進みます。


櫓台

一段登った右手に櫓台があります。
主郭より若干高台になっているようですが、主郭にある見張り櫓の方が
下々が良く見えそうです。
となると、当時はもう少し嵩上げされていたのかな?


案内看板

主郭には縄張図もあります。
これを見ると、単郭に腰郭が付けられているように見えます。
下にあった看板の二の郭(陣地)とはどこのことを差すのでしょうか。


主郭

昭和57年に城址再建記念に約50本の梅を植えて、現在は立派な梅林になっています。


見張り櫓

「主君家系譜」「宗忠公のお墨付き」等の古文書にもとづき、
豊田市が昭和57年に見張櫓と先ほどあった四阿を再建したことが記された看板があります。
ところで、この建物「土足厳禁」となっています⁉
吹き曝しなのでとても汚いのですがマジですか!
これにはちょっと困惑しました。(靴下が雑巾になります💧)
上履きかスリッパを持参しましょう。


眺望

紅葉ではなく、季節外れの桜が咲いていました。
これはこれで眺めに花を添えてくれていい感じ😊


腰郭

腰郭へは立入禁止とは表示されていないものの、立入れないようにされているので
見張り櫓から見るだけにしておきました。(何か植樹でもしたのかな?)


こせま城址歌碑の里

ハイキングコースの方へと伸びる遊歩道には歌碑があります。



小督局墓所まで続いています。



小督局墓所が見えて来ました。
これより先はハイキングコースで山の中へ。


小督局墓所

小督局とは高倉天皇の女官とのことで、平安時代末期の女性です。
高倉天皇の寵愛を受けた小督局が平清盛の怒りに触れて京都の清閑寺で出家させられているのですが
その小督局の墓がここにあるのはなぜでしょう。
京都の清閑寺の高倉天皇陵内にも、小督局の墓と伝える宝篋印塔が存在します。
そして九州にも小督局の墓と伝える宝篋印塔が存在します。
どれも、平清盛の怒りに触れて追い出されたところまでは話が同じなので、
その後の行方がはっきりしていないということなのだろうか。
京都説が一番知られていてそれっぽいけど、真相はいかに!


令和4年10月30日登城







勝保沢城(群馬県)

2022年12月05日 | 百名城以外の城
勝保沢城かつほさわじょう
別名
構造平城
築城者斎藤氏
築城年代戦国期
指定史跡
場所群馬県渋川市赤城町勝保沢 地図

築城年代は不明ですが、城域内にある宗玄寺を開基した斎藤加賀守真氏が
1590年(天正18年)に前田・上杉軍に攻略され、白井城とともに落城した後は
城域の一部を寄進して宗玄寺を建立したと伝わります。
勝保沢城の城主であったと思われる斎藤氏は、北条氏の勇猛な武士であり、
「加沢記」では、1580年(天正8年)に真田氏の攻略を受けており、
戦国期の戦乱の中、勝保沢城は居館や砦として利用されていたものと思われます。



渋川市赤城歴史資料館

勝保沢城の中にある渋川市赤城歴史資料館へやって来ました。
駐車場もあり、資料館もあり、しかも平城なのでとにかく見学しやすい城址です。


駐車場

とりあえず「駐車場」の看板のある所まで行って駐車しました。
靴を変えたり、カメラの準備をしたりしていたら、
資料館から女性が出て来て「ウォーキングですか?」と聞かれたので
城址を見に来たことを伝えると、
帰りに資料館へ寄ってねと言われたので後程寄ることにしました。


空堀

駐車すると目の前に見える堀や土塁が気になって仕方ない。


土塁

はっきりわかりやすい堀と土塁が円周してます。
遺構が残っているのがこの部分だけなので、丸い城のようなイメージですが、
主郭部が丸いというだけで実際の縄張りはもっと広範囲になります。



斎藤加賀守の居館が宗玄寺付近にあったと思われ、
彼の墓も宗玄寺裏の墓地にあります。


主郭

うっかりしていたのですが、堀を超えて主郭内部に侵入してくるのを忘れました💧
お皿にプッチン!したプリンのような感じで、上は平らになっています。



北西角が一番掘り下げられ、堀の交差点のようになっていて
更に北側にも堀が伸びています。



遺構はコンパクトながら見応えがあります。


歴史資料館

ひと周りして資料館へやって来ました。
中には周辺の城郭などの展示もされているのですが、写真を撮ることはOKでしたが
ブログで紹介するには届出が必要ということだったので中の様子は現地でご覧になって下さい。
お願いするとこちらで申請用紙を貰うことが出来ます。(提出先は別)



この本が1冊500円で、縄文時代から鎌倉・室町時代までの古墳や城跡が
記載されているので購入してきました。
復刻版で、内容はかなり古いものになります。


資料館とセットで見学出来るので訪れやすい城址です。


令和4年10月15日登城







賤ケ岳城(滋賀県)

2022年12月01日 | 百名城以外の城
賤ケ岳城しずがたけじょう
別名賤ケ岳砦
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所滋賀県長浜市 地図

本能寺の変により織田信長の死を知らされた羽柴秀吉は中国大返しを敢行、
山崎の戦いで首謀者の明智光秀を討つと、織田家では羽柴秀吉と柴田勝家が対立し賤ケ岳の合戦へと発展。
賤ケ岳城は、賤ケ岳の戦いよりも以前に築かれていた城であることが「信長公記」にみられます。
山頂近くまでリフトで登ることが出来ます。



遠景

正面に見える山が賤ケ岳です。
頂上の樹が伐採されていて、山に一直線にリフトのラインが見えています。


駐車場

麓のリフト乗り場駐車場に到着。
リフトが午前9時から稼働ということで、9時になる前に他の城に寄り道をしてから
やって来ました。
この日は天気も良かったので、この後すぐに満車になりました。


リフト乗り場

駐車場から少し歩くとリフト乗り場です。


登山道

ここでリフトに乗らない選択肢もあります。
私はもちろん、楽して頂上目指します!



券売機で往復900円のリフト券を買って、いざ!
なお、冬場はリフトが動いていないので運行状況を確認してください。



いや~ 楽ちん楽ちん♪
なんて乗ってたんですけどね~
…。



上に行くに従って角度はキツくなってきて、結構怖い😱
地面とは近いので、いざとなったら飛び降りることが出来そう?なんて考えながら乗ってました。



リフトを降りてからは自分の足で頂上(賤ケ岳城)まで登ります。


賤ケ岳合戦戦没者霊地

途中、賤ケ岳合戦戦没者霊地というのがあります。
天正11年4月20日、21日に起きた賤ケ岳の合戦の死者を弔う石仏が
野山に点々とあり、里人がずっと無縁仏を守っていたとのことです。
それらを合戦400年を機に、麓からこの地に移して山開き祭に供養するようになったといいます。
近頃の戦争問題を考えると、これからこの先戦の無いようお願いしてしまいました。



頂上が見えて来ました。
暑さと運動不足で結構体力消耗しました💧


南郭

ようやく南郭に辿り着きました。
めちゃめちゃ眺めが良いです\(^o^)/



こちらが琵琶湖です!
なんて美しい景色でしょう。
こんなところで戦なんかしてはいけません!


主郭

天気が良いので皆さん食料を持って、景色をおかずに食事してます。
私はパンを持っていたのですが、カップヌードルを食べている人が羨ましかった🤣
ほんと、そういう気分になりますよね。


石碑

この石碑のある場所は主郭西側の土塁跡です。


無名武将像

この銅像は、ずっと敗北し、疲れ切った柴田勝家像なんだと思い込んでいたのですが
「武者の像」であって柴田勝家とは記されていませんでした。


北郭

北郭にはトイレが設置されています。
山頂にトイレとは、さすがに観光地です。(ありがたい)


縄張図

三の郭にある看板に縄張図があります。
観光地化していますが、ここでの戦いと共に城としての役割が示されているのは
ありがたいことです。



戦場跡地としては有名ですが、城跡としては知名度が低いので
この縄張図によって城(砦)であった実感させられます。
よく見たら、いつかお会い出来たらいいなと思っている方のひとりでもある長谷川氏の縄張図と解説だったんですね。


三等三角点

三等三角点なるものがここにあります。
山城でたまにお目にかかることがありますが、三角点は地球上の正確な位置(緯度・経度)を示すもので
測量に使われる重要なポイントです。
ここでは三等と付いていますが、この等級によって設置の間隔が違います。
三等は4km間隔で設置されているなどの基準があるようです。
また、この三角点を移動させたり破損させたりすると懲役または罰金が科せられます。
重要なものなので大切にしましょうね。


余呉湖

1573年(天正元年)に小谷城で織田信長と対峙した
浅井長政の救援に駆け付けた朝倉義景の陣が置かれていたこともあります。
織田信長の後継者を決める織田家重臣会議「清洲会議」が引鉄となり、賤ケ岳合戦へ。
長浜城主の柴田勝豊は援軍が期待できず降伏し、秀吉との決戦を覚悟した勝家は本陣を玄蕃尾城とし、
余呉湖を挟んで睨み合い、激戦となりました。
そして余呉湖はこの2日間の戦いで、血で赤く染まったという。
戦とは別に、余呉湖には水浴をしていた天女が羽衣を失くして天に帰れなくなったというあの「羽衣伝説」も残されています。
ここだったとは、知らなかった。(三保の松原あたりの話だと思ってました)


ガイド

2名のボランティアガイドさんが説明をしてくれています。
そしてここでは近江の城カードをいただきました。
じわじわ知られてきている城カードがもらえたので天気の良い日にはぜひガイドさんの話を聞いてみてください。


二の郭虎口

二の郭は比較的土塁が残っていて、虎口も確認出来ます。
低いので何気ない凹凸に見えるのですが、元々主郭もほぼ全周に土塁が巡っていたようですが
現在は西側に残っているだけです。



歩て降りてこようかとも思ったのですが、日光に結構当たって体力消耗したので
帰りもリフトに乗ったのですが、高所恐怖症ではないのですがジェットコースターなど苦手なので
この急勾配は長野の車山高原で乗ったリフトを思い出して怖かったです。


七本槍

福島正則・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明の七名が
七本槍と呼ばれる戦国武将です。
戦国鍋TVで知った賤ケ岳の戦い。
きっかけがなんともあれですが、おかげで七本槍全員の名前もすぐに言えます!
でも、実は9人いたという話を本で読んだことがあります。
桜井家一と石川一光が居たはずなのですが戦死と病死したという説があるそうです。


天気に恵まれたこともあり、とにかく景色が美しく
お弁当を持って登りたいという気持ちになります。
一日中過ごしていてもいいなと思うような気持の良い場所なので合戦場のイメージが湧きませんでした(^^;
顔出しの家紋を見ながら、次は誰?と考えながら登るのも退屈しなくて良いですよね。
山城ながらとても賑やかでした。


令和4年10月2日登城


今回の参考本