むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

膳所城(滋賀県)

2020年01月27日 | 百名城以外の城
膳所城ぜぜじょう
別名石鹿城・望湖城・浮城
構造平城
築城者徳川家康
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所大津市本丸町 地図
城郭検定出題あり

膳所城は松江城、高島城とともに日本三大湖城のひとつとされています。
関ヶ原の戦い以降、徳川家康が最初に築かせた城は膳所城で、大津城を廃して造らせています。
縄張りを行ったのは藤堂高虎で、湖面に張り出し琵琶湖に突出した形状をしています。
築城の資材は明智光秀の居城であった坂本城や、大津城の解体した資材を
利用して築城しています。


城跡公園の城門

本丸跡は現在膳所城跡公園となっていて、入口には模擬城門が建てられています。


膳所城跡公園

古来から東国と京都を結ぶ要害の地でもありました。


案内看板

公園にある城門は模擬城門ですが、城下には移築された城門が多く残されています。
現存している移築門を訪ね歩くのもいいですね。


模擬城門

公園入口には城門を模した門が建てられています。
模擬とは言え、なかなか立派な門構えです。



瓦には本多氏家紋(本多立ち葵)が入っています。
屋根の隅にはまさに葵が立っています。


模擬城門(裏)

裏に廻って見ると高麗門であることがわかります。
屋根には鯱も載って、とても立派そうに見えます。



市民の憩いの場となっている本丸。


平和の礎

滋賀県戦没者英霊塔があります。
戊辰の役から大東亜戦争に至る多くの戦いで国難に殉じ、尊い命を国家にささげた英霊を
慰さめ平和の祈りを込めて慈母観音を祀っています。


城祉碑

この城祉碑の文字は最後の膳所藩主で本多康穣氏の甥で本多亀男氏の揮毫です。


石鹿地蔵尊

ここに並ぶ石地蔵は、最初に織田信長が明智光秀に命じて築城した坂本城に使用した礎石で、
もともとは焼き討ちした比叡山延暦寺にあった石地蔵です。
その後豊臣秀吉が浅野長政に命じて坂本城を築城した大津城の礎石となり、
更に藤堂高虎が膳所城築城の際にも礎石となった石地蔵です。
なにもそこまでお地蔵さまを礎石に使わなくても…^^;


三角点

膳所の三角点で~す。


お手洗い

屋根にど根性な草が生えてますが、公衆トイレに鯱鉾が載ってます^^;


浄水場

二の丸にある浄水場は城跡らしく景観良く考慮された建物です。



至る所にちらほらと見える石。
城に使われていた石とは確定できませんが崩されたり残されたりした部分が見え隠れしているので
こういった部分を探して歩くのも面白いと思います。





膳所市民センター

お城を想像させる建物は膳所市民センターです。


膳所城の位置図

膳所市民センターにある膳所城の位置図。
他にも大津絵なども展示されています。


膳所神社表門

この表門は、膳所城二の丸より本丸への入口にあった城門で
明治時代の取り壊しの際に、移築されたものです。



この門は薬医門で、屋根瓦には膳所城城主本多氏の
立葵紋が鬼瓦の他に魔除けの飾り瓦にもみられます。


北門

表門だけでなく、北門も膳所城の城門でした。
こちらの屋根の一番高い所の鬼瓦には本多氏の立葵紋もありますが
軒丸瓦は違うものが…寺紋に葺き替えられているのでしょうか。



表門とは左右反対の位置にくぐり戸が付いています。



「旧膳所城門一棟 東郷長右エ門」という標柱があります。


今回は城下に残る城門を探してみました。
近くを通りすがったので、予定外のちょい寄りでしたが
とりあえず1ヶ所膳所神社の国宝の門を見て参りました。
まだこの他にも篠津神社は北大手門、鞭崎神社は南大手門、若宮八幡神社表門は犬走門、
芭蕉会館には本丸にあった二重櫓が移築されています。
また次回のお楽しみということで…。

平成30年5月29日登城
令和2年1月3日再登城


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

土岐明智城(岐阜県)

2020年01月26日 | 百名城以外の城
土岐明智城ときあけちじょう
別名落合砦・多羅砦
構造山城
築城者串原経景
築城年代不明
指定史跡
場所恵那市明智町的場町958-1 地図
御城印大正村観光案内所

現在土岐明智城(落合砦)は千畳敷公園として整備され、
表面が改変がされているため詳細が不明ですが、全体的には城址(砦)としての
面影が残る遠山荘南部の要の地であり、織田軍、武田軍の攻防戦の舞台の地です。
出丸は見晴らしが良く、物見台と狼煙台の役割をしていたものと考えられます。
1528年3月10日に明知光秀が誕生した地と伝わる井戸が残されていて、
今年は大河ドラマ「麒麟がくる」で話題の地となり、注目を浴びています。



千畳敷公園案内図

白鷹城からバスにて移動して来ました。
駐車場でバスを降りると、公園入口にある案内図で位置を確認。


千畳敷公園

今回は萩原さちこさん、クリス・グレンさんと一緒に巡っています。
(白鷹城整備完成記念ウオーキング)
左手が三の郭、右の山を登ると主郭があります。


明智光秀公産湯の井戸

まずは、三の郭にある明智光秀公産湯の井戸と伝わる井戸にやって来ました。
井戸からは、弥生時代の石器や、焼け焦げた柱材、恵比寿の宝寿等が出土したそうです。
かつては井戸の水は満ちていたのですが、千畳敷グラウンドの建設のため
現在の水量になってしまったとか。^^;



深さは16mあり、覗いてみても底の方はまったく見えません。
そして、底の方には横穴が開いており、外部への抜け穴であったとの説があります。
三の郭は井戸があることから、生活の場であったと思われます。



それでは、次は主郭へ向います。



井戸で解説を聞き、団体行動で主郭へ。



東側へ段となって広がる空間は、
客人接待場所と呼ばれる場所でしょうか…。


主郭

主郭に到着しました。
こちらは二の郭より高い位置にあることから主郭であるとされています。


案内看板

三の郭にある看板やパンフレットの説明には、
「本丸には、桝形、虎口、武者走り、客人接待場所、大手通りなどが残っています。」
という説明は公表されていますが、具体的に場所が示された資料が無いので
場所を示した説明も欲しいところです。


小郭

北東に段状に延びる小郭。
見やすく整備されていますが…伐った木の処理が残念です。


恵比寿神社

井戸から得られた宝珠を祀っているという神社があります。



主郭から出郭への尾根道は残念ながら公園化や
アンテナ設置のために整地され、完全にアスファルト化しています。


二の郭(出郭)

こちらは、見晴らしが良く狼煙を上げる場所として
使われていたようです。
狼煙は、ここより南にある柿畑城の方面へと伝達されていたようです。



見渡すとものすごい数の山城や砦だらけです。
織田VS武田の戦いの地でもあり、
目に映る山々のほとんどに城や砦があると思うとゾッとします。



眼下には、明智町を見渡すことが出来ます。
三河、中馬街道、信州の動きが一望出来る眺望だけに
現在は展望台になっています。


案内看板

明知光秀公ゆかりの地マップと解説です。



真中の谷を挟んで、左の山が明知城(白鷹城)で右の山が仲深山砦です。
今回行っていないのですが、仲深山砦は明知城の別郭か陣城なのか
信州からの街道が通っていたことから、街道を押さえるための役割のほかにも
戦うための砦であったことも考えられます。


明知城

ここに来る前に登城した明知城(白鷹城)がよく見えます。
前回訪れた時よりも明るく感じたように、樹が伐採されている様子が
こちら側からもわかります。



この日はイベントのため特別に甘酒の配布とお土産ものの販売がされていました。
早速、明知味噌を味見しつつ、光秀醤油をおみやげをお買い上げ
現在我が家の食卓には光秀醤油が載っています。


甘酒

ほんのり甘い、やさしい甘さの甘酒が美味しかったあ。
つい、おかわりしてしまいました。
ご馳走様でした



そして帰路へ。
日本大正村まで徒歩で戻ると、アイコウフーズ直営店で
五平餅をふるまってくれるということで、そこで五平餅をいただいて
解散となります。



中腹にあるあずまやです。
北側なので休むにはちょっと寒い
夏場は眺めも良いし、涼めるかな。


県道11号(豊田明知線)

県道11号(豊田明知線)へ降りて来ました。
明知振興事務所の駐車場をお借りして徒歩で登ることも出来ます。



イベント解散後、この日オープンした大河ドラマ館のある大正ロマン館へ。
帰る頃には日が暮れて、土岐明智城の出郭にお城が浮かび上がってました^^;


昨年秋に明知城へ訪れた時に、この付近も通ったので
山の上に見えるあずまやが気になり、何かある!と言っていたのですが
前回見逃した明知光秀産湯の井戸がある土岐明智城がここだったんですね。
急遽滑り込みで参加させていただいたイベントでしたがとても楽しい体験を
させていただきました。
たまには団体行動も楽しいものですね。


令和2年1月11日登城

今回の参考本







出浦城(長野県)

2020年01月24日 | 百名城以外の城
出浦城いでうらじょう
別名上平城・自在山烽火台・岩井堂山
構造山城
築城者出浦為実
築城年代 鎌倉時代
指定史跡町指定史跡
場所埴科郡坂城町上平 地図

村上氏の支族である出浦氏の城で、村上氏の本拠地坂城の葛尾城の防衛の一環として
構築、改修され重視された場所であることがわかります。
村上氏没落後も手を加えられ、烽火台として使用されていたと考えられています。




三角の一際目立つ、この山が自在山で、
この山の山頂にあるのが出浦城です。


自在神社

自在神社は村上氏が合祀し、出浦氏の産土神であり
出陣にあたって社頭で神楽を舞ったと伝わります。
まずは、今回の城さんぽの無事を祈ります。



神社の裏手から登るルートを見に来ました。
獣除けの柵が設置されていますが、扉は「開けたら閉める」を
徹底すれば通行出来ます。
しかし、この急勾配を登るとなるとかなり辛い…ということで林道へ。


林道入口

ここから左手に登る道が、天坂の林道です。
しか~し、この林道はジムニークラスの車でも危険です。
三角の山だけに、道から外れたら命はありません。
2駆だと滑って登れず、4駆ですら滑ります。


570m地点

ここが宮坂氏の示す570m地点の大曲りの場所と思われます。
ここまでは、何とか来られるとは思いますが、かなりヒヤヒヤする道のりです。
ブルーリボンのある場所が目印です。



まだまだ林道は更に続いています。
とにかく歩きたくないので570m地点から、そのまま先に進んでみました。
が!!570m地点から先は、危険すぎるので車では絶対に行かないで下さい。
Uターン出来る場所はこの写真の位置しかなく、ここもとても滑って危険です。
※この先倒木が道にあるのでバイクも通れません。



さすがに、これ以上は車で登るのは諦めて歩くことに。
行きはよいよい、帰りは怖い。
下りの方が、車は止まらい。しかもABSが効いてむしろ危険。
しかし、時速10キロ以下であればABSが働かないことがわかったので
下りの危険個所は超~ゆっくり(歩いた方が早いだろ)かたつむり走行で
なんとか危機回避



この先、鉄塔があるので車幅の林道がまだ先へと続いています。
ここから振り返るように、出浦城方面へ向って尾根を進みます。



右も左も落ちていますが、ゆるやかに自在山へ向っているので
歩くのは楽です。



先の方に見える山が自在山?
自在山を登っているとばかり思っていたので間違えた?とちょっと不安に。
570m地点から山道を登らずに、林道を歩いていたので
少し回り道になったようです。


耕作地

尾根を歩いていると、左下に耕作地が見えて来ました。
570m地点からここに登って来るのが本来の登城路だったようです。
ちなみに、力石の人々はここまで牛を引いて登っていたらしい。



この辺りから倒木がいっぱい見えて来ます。


堀切

尾根筋を歩いていると、堀が見えて来ました。
途中小さい堀を切ったのかと思われるような場所もいくつか見受けられます。



堀と看板が見えて来ました。
ここの堀は堀切って縦に落すとういうなかなか良い堀ですよ(^^)
看板は…不法侵入の警告の看板でした。
ここからは、進入禁止区との区別をするロープが張られていますが
ロープの付いた樹もかなり倒れていて機能していません。


竪堀

竪堀が通路になっています。
自在山側はやはり登りになっています。



堀中にも容赦なく倒木が!
いくつかの倒木を乗り越えたり、くぐったりしながら先へ進みます。



二の郭の真下の横堀です。
先ほどの竪堀が90度右に曲げられ、二の郭を保守するように横堀が構築されています。


三の郭虎口

ここで堀の角から三の郭に登ります。


三の郭

あまり人が踏み入れないのか、少々薮化しています。
今この状態なので、夏場は入るの嫌かなあ。


横堀

三の郭をそのまま小枝を掻き分け登りあげると
主郭下の横堀が見えて来ました。



虎口ではない場所ですが、堀から人が登った跡があります。
ロープも付いていますが、これは登るためのものか立ち入り禁止を示すものか
わからないけど、主郭見たさにここから登ってしまいました。


土塁

じゃじゃーん!
主郭に出ました!
主郭を囲む土塁の上から眺めると、
単に烽火台とは思えない造りであるのがわかります。


主郭

想像していたより広かった。


石碑と案内看板

城址碑なのかと思いきや、これは城址碑ではありません。


井戸跡

雨水を貯めたと思われる井戸跡が二ヶ所あります。


眺望

樹がなければ素晴らしい眺めでしょうね。
烽火といより、これならがっつり見張りができますよね。



ここでのおやつにピッタリなのはこれでしょう!
個人所有の松茸山なので、きのこのシーズンには止め山になります。
というわけで今日はきのこの山を持参してみました



そしてこちらが城内にあった本物のきのこ
松茸ではないですが立派なきのこがありました。


南の虎口

主郭の内側から見た南の虎口です。
本来の出入りはこの一ヶ所です。



そしてこちらが主郭外から見た虎口です。
ここから本来の登城路を追ってみたいと思います。



このまま下へ下って行くと自在神社へと降りられます。
見たところ、私が登って来た大手道より整備されていて
現在はこちらをメインに登城路として使われているようです。
小道は落ち葉も掃かれていました。



よく見ると、西側へ回り込む小道が見えます。
これを進むと、先ほどの主郭下の横堀へと繋がっています。



もういちど、主郭下の横堀をみてみると
ロープのあった場所より南奥にの横堀から竪堀になる手前に
左手に登る小道が付いていました。
こちらが本来の登城路であったようです。
横堀に倒木があるせいか、今はあまり歩いた跡が無く見逃していました。



ではそろそろ帰りましょうか。
尾根の途中から見える千曲側の景色です。


烽火台というのが頭にあったので三角の山のてっぺんに
小さい平場がある程度に思っていたのですが、
竪堀、横堀、郭、土塁、井戸と城らしい遺構がしっかり残っていました。
とにかく倒木が多く、上を見上げると倒れかけている樹が
寄りかかり合ってる危険なものもあり、滑りやすい場所で樹を掴むのも
躊躇われました。
その点を気を付ければ、あまり体力を消耗することなく行って来られました。


令和2年1月19日登城


今回の参考本

西教寺(滋賀県)

2020年01月21日 | その他
西教寺さいきょうじ
別名天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺
構造寺院
創建者僧慧慈
創建年代不明
指定史跡国重要文化財
場所大津市坂本5-13-1 地図

聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。
その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。
鎌倉時代の1325年(正中2年)に入寺された恵鎮上人は、
伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、
その後百有余年を経た1486年(文明18年)に真盛上人が入寺されるに至り、
堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。
以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
1571年(元亀2年)織田信長の比叡山焼き討ちの際、西教寺も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となった明智光秀は、
西教寺の檀徒となり復興に大きく力を注ぎました。



駐車場

総門の隣にある駐車場に車を置いて散策しました。
坂本一帯の神社仏閣では、猿は神様の使いとされていて、
西教寺では「護猿」と呼ばれています。
この由来が駐車場の看板にあります。
屋根の瓦を良く見て歩くと多くの猿が載っているので探しながら散策してみて下さい。


総門

西教寺の総門は坂本城城門を移築したものと伝わります。
そして気分はやっぱり麒麟がくる!ですね。


参道

総門をくぐると、真直ぐに延びる参道があります。
その参道の両側には聞證坊・禅明坊・禅智坊・徳乗坊・蓮心坊・実成坊・禅林坊という塔頭寺院があります。


禅智坊

屋根の鬼瓦の横を見て下さい。
ほら、猿が載ってるでしょ(^^)
このようにあちこち猿が載っているので探して見て下さい。


水路

参道と塔頭寺院との間にある水路と石垣が風情があって良い感じ


徳乗坊



聞證坊

こちらは軒下に猿が!



勅使門が見えて来ました。
半分くらい登って来たかな。。。


実成坊



禅林坊

ここにも猿居ました!



真直ぐ進むと勅使門ですがまずは左に折れて、
宗祖大師殿へ行ってみようと思います。


眺望

眺めが良く、琵琶湖が見えます。
晴れていたら、もっと綺麗なんだろうなあ。



唐門が見えて来ました。


唐門

琵琶湖を見据えているような、とても立派な構えです。


麒麟

唐門を見上げると…麒麟が居ます!
麒麟が来たんですね。


三羽雀

西教寺の寺紋である「 三羽雀」が扉に彫り込まれています。


宗祖大師殿

本殿には、天台真盛宗宗祖の真盛上人のお木像をお祀りしています。


勅使門

天皇や勅使を受け入れるための門で、それらの人しか通ることの出来ない門です。
というわけで、一般の人が通る門ではないので閉門しています。
寺院の中でも勅使門があるのはやはり大きなお寺になります。



裏から見てもとても立派な造りです。
そして、背後の石垣が良い仕事してます。
この空間がとても気に入りました。


境内

勅使門を過ぎて、階段を登りきるといよいよ本堂のある境内に到着です。



階段を登りきった境内の正面に明智光秀一族の墓所があります。
向って右が一族の墓で左が光秀の母煕子の墓があります。


煕子の墓

左の隅にあるのが煕子の墓の墓になります。


明智光秀一族の墓

光秀は戦死した家臣らの供養も西教寺で行っており、
供養米を寄進したという寄進状も残されています。
このことは近頃テレビ等でも放映されて知られるところとなっていますよね。


明智光秀公世辞句

「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
と、刻まれています。
意味は隣にある看板に書かれていますが…





客殿(桃山御殿)

伏見城の旧殿を移築したものと云われ、桃山様式の建築で
狩野派によって描かれた襖絵や、小堀遠州による庭園なども見られます。
時間のある方はぜひ御覧あれ。
国の重要文化財に指定されています。


本堂

現在の本堂は、比叡山焼き討ちによる焼失の後に再建されたものです。
改築再建を重ね、虹梁を多用する構造で江戸時代中期の代表的な本堂になっています。



桟唐戸(これ好き!)もあったり、じっくり見たい建物ですが、本堂にしても客殿にしても
建物や庭園だけでも時間かけて見学したいです。
今回は時間が無いので今度訪れた時にはそちらを重点に見学してみたいと思います。


鐘楼

鐘楼堂の鐘は坂本城の陣鐘です。



ではそろそろ帰ります。

坂本城の城門が移築されているとのことでやって来ました。
明智光秀一族の墓もあるということで、駆け足でしたがとりあえずぐるりと散策。
本堂までの道のりがとても良く、途中で琵琶湖が見えたりと
ただ、ぶらりと立ち寄るだけでも楽しめるところでした。
桜や紅葉の頃にさんぽ出来るとさぞかし美しい景色に出会えるんだろうなあなんて
想像しながら歩きました。


令和2年1月3日訪問






観音寺城(滋賀県)

2020年01月17日 |  百名城
観音寺城 かんのんじじょう
別名佐々木城
構造山城
築城者佐々木氏
築城年代1335年(建武2年)?、1471年(文明3年)?
指定史跡国指定史跡
場所近江八幡市安土町石寺 地図
スタンプ設置場所石寺楽市会館(12月中旬~3月中旬は休業)・観音正寺・桑実寺・安土城郭資料館
城郭検定出題あり

観音寺城は、佐々木六角氏の本城で、現在の観音正寺である観音寺にありました。
城のほぼ中央には伽藍が設けられていて、西国三十三所の霊場として
繖山内に坊舎を構えていました。
石垣、石塁による城造りの拡張と改修が繰り返され、数多くの郭群が残されています。
織田信長が足利義昭を擁して上洛した際に、六角氏は観音寺城を追われました。


表参道有料ゲート

ここまで来たなら観音寺城リベンジ!と思ってやってきたのですが…。
ゲートは12月26日から冬期閉鎖になってました!


五箇荘料金ゲート

気を取り直して、別ルートで行きましょう!ということでぐるっと回って
もうひとつのルートにやってきたのですが…あらら。
こちらも1月5日まで封鎖されています。


駐車場

封鎖されているにもかかわらず、駐車場には次々と車がやって来ます。
皆さんここから歩いてお参りに行かれているのでしょうか。


一度目は、100名城のスタンプを押しに石寺楽市会館を訪れ、
地元の方に観音寺城まで行くのは大変だよと言われ、子供も小さかったので行くのを
断念しました。
いつかリベンジとずっと思っていたので寄ってみたのですが、この時期は車で楽を
させてもらえないのですね^^;
歩いて行って帰って来るには時間が無いので、無理はせず今回も見送りということになりました。


平成23年5月4日登城
令和2年1月4日再登城




日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス

坂本城(滋賀県)

2020年01月16日 | 百名城以外の城
坂本城さかもとじょう
別名
構造平城
築城者明智光秀
築城年代1571年(元亀2年)
指定史跡
場所大津市下阪本3-1 地図

坂本城は、織田信長が比叡山焼き討ちの後、琵琶湖湖西の抑えとして
当時まだ新参者であった明智光秀に、この重要拠点を任せるという
信長からの信頼を得て築城されたお城です。


城址碑

坂本城公園の駐車場入口にある城址碑です。


駐車場

夜明け前に到着し、明るくなるのをここで待つことに。
しかし、既に数台駐車していて中に人がいるようです。
何という人気なのだ!と張り切っていると明るくなるにつれ、
徐々に人々が車から降りて行きます。
私も慌ててそれについて行くかのように車を降りると…
手に持っているのはカメラではなく、釣り竿でした^^;


トイレ

公園になっているのでトイレも完備。


坂本城址公園

琵琶湖の湖面がすぐそこに。
そして、明知光秀の銅像も見えます!


銅像

銅像や石碑、案内看板があります。


石碑

鳥羽一郎さんが歌っているようですね。
石碑の脇にあるボタンを押すと、曲が聴けるようですが
早朝だし、釣り人居るし…押してみる勇気はなく、結局どんな曲なのかわかりませんでした。
これから訪れるという方は、どんな曲なのかぜひ聴いてみてください。


案内看板

湖中に残る石垣を見たい方は、ここでよ~く場所を確認してから行きましょう!
私はテレビで桟橋が写っていたよな~なんて思いこんでいたもので
位置も確認せずに、違う場所に行ってしまい、たまたまその桟橋付近に石垣が見えたので
思い込みで一生懸命坂本城のものではないであろう湖中の石を撮影するという
勘違いの失敗をしてしまいました



日が昇る寸前の琵琶湖です。
海無し県から見ると、琵琶湖も羨ましいかぎりです。
信長は琵琶湖を利用して、坂本城を含む長浜城・安土城・大溝城の水城4城を築城
して水運を支配していました。


石垣

縄張図から見ると、現在地は城の外になるので
この石垣が坂本城のものかと言われると…ちょっと自信がありません。


信教寺川

三の丸沿いの外堀と繋がる川です。



桔梗の紋がデザインされた歩道。
この方向の道路の両側が城域になります。
すき家の看板が見える辺りの右が本丸、左が二の丸になります。


日吉大社 七本柳鳥居

毎年4月14日に日吉大社の山王際が行われ、ここから神輿を船に乗せる
「神渡御」で唐崎神社の沖まで行き、神輿は「粟津の御供」を受けます。
船の漁夫が粟飯を献じたところ、神は毎年4月14日にこの浜に出向くことを
約束したという云い伝えが残ります。
ここに並ぶ七本の柳の木が神の降臨する木とされています。


本丸

本丸は城址公園ではなく、キーエンス社の研修所が建つ辺りになります。
建物入口付近に本丸跡碑があるそうですが、会社の碑のようで見落としてしまいます。
私もそのひとりで、見逃して来てしまいました。


二の丸

二の丸跡にある城址碑と案内看板。
坂本城築城の目的は、比叡山延暦寺の監視と美濃と京都のルートの確保や
水運の拠点とすることが狙いでした。


城址碑

坂本城は、山崎の合戦の後焼失してしまいましたが
丹羽長秀により再建され、浅野長吉が城主を勤める天正14年頃に
大津城へと移り、廃城となりました。


東南寺

東南寺は、比叡山の東南にある寺ということで東南寺と呼ばれています。
この寺の境内には、坂本城落城の際の死者を弔う多くの首塚があります。


大手門(移築)

西教寺に移築された坂本城の大手門です。
西教寺には、明知光秀とその一族の墓があります。
こちらも合わせて訪れてみましょう。
西教寺は紹介は後日アップする予定です。


NHK大河ドラマ「麒麟がくる」がいよいよはじまります!
今年は明知光秀ゆかりの地をなるべく多く巡っておきたいと思い、新年から近江へやって来ました。
相変わらず下調べがちゃんと出来てなかったので記憶違いな場所へ行ってみたり…
2020年も御愛嬌ということで…^^;


令和2年1月3日登城




於牧の方の墓所(岐阜県)

2020年01月14日 | その他
於牧の方の墓所おまきのかたのぼしょ
別名
構造墓所
建立者里人たち
建立年代1743年
指定史跡
場所恵那市明智町1175-1 地図

ここは、明知光秀のご母堂で、於牧の方の墓所と伝わる場所です。
光秀は、八上城の戦いの際八上城主波多野秀治・秀尚兄弟に降伏するよう勧告し、
自分の母を人質に八上城に入れることで信用させ調略に成功します。
ところが、織田信長は安土に護送された波多野兄弟を磔にして殺してしまいました。
それに怒った八上城の城兵は光秀の母である於牧の方を磔にして殺されてしまいました。
このことから「非業の最期を遂げた」と言われてます。




駐車場の無い場所で、道下にあります。
通行の妨げにならない場所で短時間の駐車か、白鷹城の搦め手口の駐車場を利用します。


石塔と御神木

徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年に建立された石塔には
謀反人の母という世評をはばかるために「麻無阿弥陀如来」とだけ刻まれています。
隣には樹齢400年を超える御神木があります。
この大木は墓標であったと伝わります。
そして、長きに渡り「甘酒祭」を行い於牧の槙の供養を行っています。



道下の登り口(入口)には「敵は本能寺にあり」と刻まれた石碑と案内看板が
設置されているのでそこを入って来ると墓地に辿りつきます。


「麒麟がくる」大河ドラマ館、白鷹城(明知城)が近いのでセットでぜひ訪れておきたい場所です。
しかし、伝承の域から脱しないということもあります。
地元の方々の手厚い供養をされているのも事実です。
明知光秀においては、各地にいろいろな伝承があり、
まだまだ解明されていないことが多いのが現状です。

令和2年1月11日訪問




麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館(岐阜県)

2020年01月13日 | 大河ドラマ館
麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館きりんがくるぎふえなたいがどらまかん
施設日本大正村 大正ロマン館
構造大河ドラマ館
主催恵那市大河ドラマ「麒麟がくる」実行委員会
開館時間午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
期間2020年1月11日~2021年1月11日
場所恵那市明智町1304−1 地図
御城印あり(期間限定)

主な展示内容は番組の紹介、等身大パネルなどのフォトスポット、
番組に登場する衣装・人物相関図・人物紹介、ドラマシアターなどです。
※展示内容はドラマの進行に合わせて追加や変更があります。
特別展は明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史―山城を巡る攻防―明智光秀が活躍した戦国時代の
東美濃や恵那市でおきた合戦などの戦国史を、山城や人物を中心に紹介展示しています。



大正村 大正ロマン館

恵那市の大河ドラマ館は大正村 大正ロマン館の1階に開設されています。


等身大パネル

カメラ撮影可の場所は決まっていて、それ以外の場所は写真撮影することは出来ません。
もちろん、SNSでの公開も不可です。
等身大パネルのコーナーでは、等身大パネルと一緒に記念撮影が出来ます。


甲冑

市所蔵の土岐家ゆかりの明知光秀の甲冑(複製)が展示されています。(撮影可)
他には撮影不可なものの展示は、出演者の紹介やサインのほか、衣装のレプリカや
予告映像や撮影風景や出演者のメイキング映像などを楽しめるシアターが設置されています。
いつもなら、どのシーンで使用した衣装、小道具などが展示されていると思うのですが
皆さんもご存知の事情により撮影や放映の遅れの影響なのかまだレプリカしか展示されていません。
本物の展示はちょっと先になりそうです。


特別展

特別展示は山城スペシャリスト、萩原さちこ氏と中井均氏が監修しています。
この日は白鷹城の整備完成記念式典も行われており、
「クリス・グレン、萩原さちことめぐる白鷹城跡・明智光秀公ゆかりの地整備完成記念ウォーキング」に
参加後、こちらに来ると、さちこさん、クリスさんが説明を受けていらっしゃいました。
邪魔しないように見学したのですが、山城好きにはたまらん~のコーナーです。


パネル

パネルを見てると、行きたい山城が盛り沢山!


立体模型

本日ウォーキングした白鷹城(明知城)の立体模型です。
昨年訪れた時はまだ整備中だったのですが、それでも素晴らしい!と思ったのに、
今回は木が伐採され城址の縄張りが浮き彫りになった状態で、更に堀や切岸の凄さに圧倒されました。


落合砦

こちらも白鷹城と合わせて登城して来たので後ほどブログにまとめる予定です。
そしてここから見える多くの城もいずれ行ってみたいと思うところです。


光秀ゆかりの城

パネルの最後は光秀ゆかりの城の紹介です。
今年はこの中のどれだけ巡ることができるでしょうか。
自分なりの優先順位をつけて、出来る限り挑んでみたいと思います。


フォトスポット

こちらでは、陣羽織を着用して(無料)撮影することが出来ます。
また、このスクリーンはフラッシュ撮影することで見えるもう一枚の絵がみられます。
ぜひやってみてくださいね
ちなみに特別展はすべて撮影可です。



あ、ネタばれです。^^;


オープン記念御城印

ドラマ館オープン記念に無料で配布された御城印?です。
1月11日の限定600枚の配布でした。
閉館ギリギリ滑り込みで入館しましたが、いただくことが出来ました
こちらはシール式になっています。


今年はどのドラマ館へ行こうか迷っていたのですが、まさかオープン初日に訪れることに
なろうとは思ってもみなかったのですが、さちこさんのツイートに乗っかって
急遽訪れることになり、楽しい一日を過ごしました。
昨年11月にも訪れているのですが、こんなに早く再訪問することにるとは。
これも縁ですね(^^)


令和2年1月11日訪問






セミナリヨ(滋賀県)

2020年01月10日 | その他
セミナリヨせみなりよ
別名
構造キリシタン神学校
創建者オルガンチノ
創建年代1581年(天正9年)
指定史跡
場所近江八幡市安土町下豊浦 地図

セミナリヨは日本初のキリスト教学校です。
織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって建てられました。
本能寺の変後、安土城とともに焼失し、現在は堆定地が史跡公園として整備されています。



駐車場

公園には公園利用者専用5台分の駐車場があります。


船着場

水路からの出入口となる船着場があります。
当時セミナリヨへは、船を利用しても行くことができたものと思われます。


セミナリヨ史跡公園

安土城から近く、外堀沿いに水路で往来出来る位置にあります。
あくまでも推定場所のようですが、有力地として公園化しています。


セミナリヨ由来

かつてセミナリヨ(カトリック小神学校)のあったこの土地が、
織田信長より教会建設用地として下附されたのは、1580年(天正8年)5月21日のことであった。
これによって、イエズス会のオルガンチーノ神父は直ちに高山右近をはじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、
ここに3階建の堂々たる住院を完成したが、その後間もなくこの建物を用いてセミナリヨが開校された。
1階には茶室の付いた座敷があり、2階は神父の居室、3階は教室と生徒の寮として使用された。
授業科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、
後に日本26聖人の1人となったパウロ三木をはじめ、
諸国から集まった20数名の少年たちが寄宿して勉学に励んでいた。
信長の特別の許可により、安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いたこの豪壮なセミナリヨには、
連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、
ときに少年の演奏するオルガンに聞きとれていたと伝えられる。
かくして、安土はこのセミナリヨにより、日本におけるキリスト教の一大中心地となるかにみえた。
しかし、1582年6月信長が本能寺の変に死するや事態は一変し、
セミナリヨの壮麗な建物も明智勢の侵略により廃墟と化した。
やむなくセミナリヨは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、1587年秀吉の禁教令に際しては
肥前国(長崎県)有馬のセミナリヨに合併されたが、それも遂には1614年徳川の大追放令のもとで廃校となり、
その苦難の歴史を閉じることになった。
ということがこの石碑に刻まれています。


元所有者

セミナリヨ由来の碑の裏に隠れるようにある元所有者の石柱。
吉村幸一さんの所有していた土地だったということですね。


安土セミナリヨと三木パウロ

1580年5月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ(神学校)は、
日本近代教育の幕あけにふさわしい充実した教育内容と、
3階建の豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。
このセミナリヨも、やがて本能寺の変に続く動乱のために焼失し、
安土にあったのは僅か2カ年余に過ぎなかったが、
その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された、
阿波の士族三木半太夫の子、三木パウロもその一人である。
彼は1564年頃生まれ、幼少時に授洗、セミナリヨを卒業後1586年イエズス会に入り、布教活動に献身した。
しかし1596年12月秀吉のキリシタン弾圧にともなって大坂で逮捕され、
翌年1月他の25名の信者とともに陸路九州へ護送されて、2月5日長崎西坂の丘で殉教した。
1862年法王ピオ九世は彼ら26人の遺徳を讃えて全員を聖人の位にあげ、
ここに三木パウロの名は日本26聖人の一人として、広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。 
今日三木パウロの遺骨をこの地に迎えるにあたってその記念としてこれを建立するものである。


セミナリヨでの生活

4:30 起床
5:00 ミサ聖際・室の掃除
6:00~7:30 勉強・ラテン語の学習
7:30~9:00 宿題を教師に見せ注意を受ける(上級生が下級生を指導)
9:00~11:00 食事・休憩
11:00~14:00 日本語の学習・作文・習字など
14:00~15:00 声楽・楽器の練習・休憩
15:00~16:30 教師の指導によるラテン語学習
16:30~17:00 自由時間
17:00~19:00 食事・休憩
19:00~20:00 ラテン語または日本字・ローマ字の学習
20:00 一日の反省・夕の祈り・就寝

食事
日本食:主食・白米・汁・魚・他
日曜日と祝日は一皿多く、他に果物もご馳走されたそうです。

その他服装についても屋内、屋外、外出時なども決められていました。


奥には、安土城考古博物館や信長の館などが見えます。


以前訪れた記憶があった場所と違う…???
どうやら、以前セミナリヨを訪れたと思っていた場所は、信長の館の隣にある
文芸セミナリヨの石柱を見て、行った気になっていたようです。
今回、あれ?前と違う??と思いながら調べてセミナリヨ跡へ行き直してみました。^^;
余談ですが~
セミナリヨと聞くと、つい、戦国鍋TVの「GO!天正遣欧少年使節」を口ずさんでしまいます♪


令和2年1月4日訪問

大津城(滋賀県)

2020年01月09日 | 百名城以外の城
大津城おおつじょう
別名
構造湖城(平城)
築城者浅野長政
築城年代1586年(天正14年)
指定史跡
場所大津市浜大津5 地図
城郭検定出題あり

大津城は、織田信長が明知光秀に築かせた坂本城を廃城とし、築かれました。
大津城と坂本城の城下町には共通の町名が存在しており、このことから
坂本城の城下が大津城下に移転していることがわかります。
徳川家康により廃城となると、大津城は解体され、膳所城の部材となり、
天守は彦根城へと移されたと伝わります。



地下駐車場

散策するようであれば、本丸にある地下駐車場が利用できます。
近くには、地下駐車場以外にもパーキング(有料)があるので駐車するには困りません。


城址碑

城址碑は歩道橋の下にあります。
この辺りが本丸になります。


大津城縄張推定復元図

これを見ると城域はすべて近代的な街並で埋め尽くされています。
遺構が残っているとは思えない…。


本丸

本丸から琵琶湖側を見ています。
本丸は琵琶湖に接していて、琵琶湖中に島のように浮かび
現在見えている通路から先の方は琵琶湖の中でした。


二の丸

駅がある方面が二の丸、三の丸と本丸を囲むように
巡っていました。



どちらを向いても、城址っぽい風景は望めないのでただただ
歩道橋の上から周囲を眺めるだけになってしまいました。


伊予丸

伊予丸があった方面を見ています。
伊予丸も堀が巡る独立した曲輪でした。
また、外堀の水を取り込んでいる場所があり、今でも外堀の名残を見ることが出来ます。


かまどベンチ

公園にあった「かまどベンチ」なるもの。
単にかまど型のデザインのベンチだと思いきや、調べてみると本物のかまどでした。
防災用として設置されているようで、災害時にちゃんと機能する仕組みになっているようです。
見た目も良いし、これは良いアイディアですね。


完全に市街地化して、表面には遺構が見えない。
この光景を見ると、城址碑しかないんだろうなあと思っていましたが
市街地を歩きまわると、その地名でここが堀中だったとか
要所には石碑や案内看板があったりもするので、時間があれば古地図を基に
散策してみると良いのかもしれないですね。



北国街道と脇往還―街道が生んだ風景と文化
市立長浜城歴史博物館
市立長浜城歴史博物館

衣川城(滋賀県)

2020年01月07日 | 百名城以外の城
衣川城きぬがわじょう
別名
構造丘城
築城者山内義重
築城年代1234年(文暦元年)
指定史跡
場所大津市衣川2丁目30 地図

衣川城は、山内義重が粟津の合戦で武功を上げて衣川領を賜り
この地に城を築きました。
浅井公政、京極高清らと共に近江・坂本・石山などの合戦に勝利していたが、
細川高国の奇襲に遭い、挟み撃ちにされ衣川城は陥ってしまいました。
山内氏は辛うじて逃れることが出来ましたが、再起することは叶わなかったという。




住宅地にある児童公園に、城址碑と案内看板があります。
坂の途中にあるので、城址は少し高まった土地を利用して築かれていたものと思われます。


公園入口

下の段の入口に城址碑があります。



少し土塁っぽく見えますが…まったく関係ない土盛なんでしょうね。
わりと新しそうな公園だもんね。


案内看板

でも、この看板はこの公園が整備される前からあったのか、
鉄は錆び、文字は消えかかっています。



山にある城址には朽ちた遊具が良くあります。
でもそういうところは遺構が残っていることが多いのですが
ここは綺麗に整備されていて遺構は無いと言っていいようです。


私が生まれるより前に調査されているようで、建物跡や出土物があったようです。
あとはいつまでここが衣川城であったということが言い伝えられていくのか…。
地図に城址とあったのでちょっと寄ってみました。


令和2年1月3日登城


ぶらり明智光秀の城&史跡めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)
小和田哲男
マコト出版


鯰江城(滋賀県)

2020年01月06日 | 百名城以外の城
鯰江城なまずえじょう
別名
構造平山城
築城者鯰江氏
築城年代不明
指定史跡
場所東近江市鯰江町 地図

鯰江城は、河岸段丘を利用して築城されています。
戦国時代には、織田信長の近江平定に対抗するために
空堀を増設し、土塁を高くするなど大規模な改修を行いました。
また、佐々木六角氏最後の籠城した城とも伝わります。




外八日市線(県道217号)沿いに城址碑や案内看板があります。
車を寄せてちょっとだけ見に行ってみました。


案内看板

とりあえず、どのような城址であるのか
案内看板を読んでみることに。
ちょっと草で見ずらいいのと、近くに寄れないので草をどけて見れないのが残念。


鯰江城要図

案内看板にある鯰江城要図。
これで位置を確認すると、どうやらこの真上が本丸であったようです。


大手道

この道が大手道で、右上が本丸で、左上が御殿屋敷、士屋敷となっていました。
大手道を真直ぐ進んでみたものの、宅地と化していてちょっと見ただけでは
遺構らしきものはありません。
この大手道を逆から見た時に御殿屋敷の土塁が見えたくらいでしょうか。



予定外に立ち寄ったのでさらっと見ただけになりました。
ちゃんと下調べをして行けば土塁や、地形から見る名残の遺構が
見られたのかもしれません。
ちなみに、鯰江町自治会館に行くと案内看板があるそうです。


令和2年1月4日登城



古地図で楽しむ近江 (爽BOOKS)
中井 均
風媒社