むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

黒羽城(栃木県)

2019年04月30日 | 百名城以外の城
黒羽城くろばねじょう
別名九鶴城
構造山城
築城者大関高増
築城年代1576年(天正4年)
指定史跡
場所大田原市前田 地図
城郭検定出題あり

黒羽城は、下野の名門那須氏の重臣である那須七騎に数えられる大関氏の居城でした。
大関氏は関ヶ原の戦いの時、東軍につき勝利を収めた結果徳川家康より所領を加増され
大名となり明治の廃城令が出るまで続きました。
また、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に滞在したとしても知られています。


黒門跡

ここにはかつて茅葺で入母屋屋根の櫓門がありました。
この付近から土塁が良く見られる城域になります。



本丸東側の駐車場からは見事な土塁が見られます。
その土塁の向こう側には空堀があります。


中の丸

本丸の北側に続く中の丸は現在本丸に最も近い駐車場になっています。


本丸土塁
本丸土塁の上を一周出来る遊歩道になっています。


帯曲輪

本丸西側には帯曲輪が巡っています。


本丸

広く整備された本丸です。


展望台

桜がいっぱい咲き誇る中に見えてきたのは櫓を模した展望台です。



展望台に登ってみましょう。



最上階は四方に窓が設置され見晴らしが良いです。



桜と雪の残る山脈のコントラストが美しいビューポイントです。


庭園

本丸の内側へ降りて来ました。
広い本丸の南側に造られた庭園です。


御本城御住居全図
本丸の虎口となる九鶴門があったとされる場所から本丸に入った脇にある案内看板。
本丸内にあった館の見取図が記されています。


文化伝承館

ブログを書きながらテレビを見てたら、仮面ライダージオウでテレビに映っているではないか
ここ、ロケ地だったんだ。
桜も咲いているところを見ると訪問時とロケ日が近かったのかな?



南側の本丸と三の丸方面(馬出曲輪)を分ける堀切は深く薬研堀になっています。




この橋が架かってなかったら登り降りが困難な空堀です。
当時は廊下橋になっていたことが残された絵図では示されています。



橋の上から空堀を覗き込むと、V字型の堀の様子や深さが良くわかります。


馬出曲輪
馬出状の曲輪で、この曲輪の本来の目的は不明とされています。



大きな土塁の上を歩いて本丸虎口方面へ行くことが出来ます。



埋門になっています。
ちゃんと門扉も付いています。


空堀(芭蕉の道)

堀底に芭蕉の道が抜けています。


黒羽芭蕉の館
黒羽芭蕉の館には松尾芭蕉に関する史料や黒羽藩の文献などが所蔵されています。
時間に余裕がある方はぜひ立ち寄ってみてください。


三の丸

芭蕉と弟子の曽良が「おくのほそ道」の旅の中で最も長く(14日間)滞在したといわれています。



休憩所のような建物があります。
外観も中も和風な造りで庭に合う風情のある建物です。



中を覗いてみると、囲炉裏があり窓を開放して御茶でも飲みたい気分になります。


芭蕉の広場

江戸において門人となっていた黒羽藩城代浄法寺桃雪邸があった場所で、
みちのくへの旅の準備をするために滞在したという。



枝垂れ桜が満開で丁度良い時期に来られました。
桜のあとは紫陽花が咲き、これからもまだまだ見所のある公園です。



黒門跡の道路を挟んで反対側にある稲荷神社には
土塁が残っています。


土塁
道路から見えるこの土塁はお墓の方へ鍵のように折れて
隠れられる構造になっています。


両社稲荷神社

この稲荷神社付近にも見事な土塁が残っています。



水堀もあるようなので付近を散策したのですが
水のある堀はみつけることはできませんでした。


案内看板

街道沿いにある案内看板。


大宿街道

「とちぎの道百選」に選定されている街道で、芭蕉が訪れた地として
多くの人が訪れます。


侍門(武家屋敷の門)
この門は、黒羽藩主大関家の重臣大沼家の移築された侍門です。


当初本丸の写真だけを目にした時は、「ただの公園かあ」と期待はしていませんでした。
しかし、黒門跡から遺構が見え始め、「あ、残ってるじゃん」なーんて思っていたら
結構高い土塁と、深い堀がありうれしくなりました。
これだけしっかかりメリハリが見られればなかなかいいんじゃない
しかも桜が満開でタイミングも良かったので満足です。
松尾芭蕉も4月3日からの滞在だったということで時期的には大差ないので
春の陽気に長居したのか、このところ天気も寒の戻りがあったりなので芭蕉さんも雪の心配をして
足踏みしたのでしょうか、ともあれ長期滞在であったということで多くの句が残っています。
俳句を辿りながら城下を散策するのも面白そうですね。


平成最後のブログ更新となりました。
令和でもまだまだむぎの城さんぽは続きますのでお付き合いいただけたら幸いです。

平成31年4月13日登城



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

佐倉城(千葉県)

2019年04月25日 |  百名城
佐倉城さくらじょう
別名鹿島城
構造平山城
築城者千葉氏?、土井利勝
築城年代1532年~1555年?、1611年(慶長16年)
指定史跡
場所佐倉市城内町 地図
スタンプ設置場所 佐倉城址公園管理センター(4~10月 午前9時~午後5時 11~3月 午前9時~午後4時30分)管理センター外にもポスト設置(年中無休24時間可)
御城印佐倉市観光協会・京成臼井駅前のレイクピアウスイ内のリブロ
城郭検定】出題あり

佐倉城が築かれたこの場所には、かつて北条氏政によって築かれた鹿島城がありました。
そこに老中土井勝利が新たに7年の歳月をかけて佐倉城を完成させました。
明治6年には廃城令が出され、佐倉城は存城が決まったものの陸軍の兵営地となり
第二次世界大戦が終わるまで、城内は駐屯地として使用されていました。


二の丸
以前訪れた時は、100名城スタンプを押すために公園管理センターの方から
散策したのですが、今回は国立歴史民族博物館側から二の丸に入ったところにある
駐車場を利用して入城しました。
ここも芝生部分をよく見ると駐車場と化するのか、してたのか線があります。


礎石

国立歴史民族博物館の研究棟を建設する際にみつかった佐倉城の礎石です。
これらの礎石は陸軍の営所があった明治期に兵舎の礎石に転用されていました。


空堀

本丸と二の丸の間にある空堀です。


一の門跡

二の丸から本丸に入る出入り口にある門です。


一の門

現地案内看板より
一の門はこのように立派な二階建ての櫓門がありました。
かつて佐倉城にはこのような大きな櫓門が沢山ありました。
これらの門や建造物が残っていたら…と思うと写真を見れば見るほど残念でなりません。


本丸

本丸には天守、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていました。
御殿の前庭には金粉を摺り込んだ栗石が敷かれていたと伝わります。


銅櫓跡

銅瓦を使用した二階造りの櫓がありました。
銅櫓は江戸城吹上庭内から移築されたもので太田道灌築と伝わります。


銅櫓

現地案内看板より
土井勝利が将軍より拝領した櫓です。


夫婦モッコク

本丸の西側土塁に接して3本植えられていましたが
このうちの2本がくっついて夫婦のように寄り添うような形となっています。
土井利勝が庭樹として植えたと
しかしこの木の幹には、残念なことに「 昭和十八年十月」「砲隊」と落書きが刻まれています。
いつの時代にもいるものなんですね。


天守台跡

二段構造になった天守台。
正面からは4階建て、裏側からは3階建てに見える構造になっていました。



以前訪れた時にはなかった天守台跡の碑。



奥の方に見える段状の天守台。
土井勝利が古河城へ移った際築かれた古河城御三階櫓は
佐倉城の天守を写した可能性が高いと言われています。


角櫓跡

ここにも三階櫓がありました。



お花見の準備が始まっている本丸の桜の様子です。


台所門跡
門から本丸へ入ると正面にあったのが台所だったことから
台所門と呼ばれるようになったとか。



台所門を出たところから南出丸へと下ります。


南出丸

前回訪れた時よりもすっきりとした感じです。


帯曲輪
本丸西側から堀を渡ってくる敵をここで迎い討つために設けられた。


西出丸

西出丸は陸軍の火薬庫が置かれていた場所です。


土塁

出丸の内部に土塁を築き、道が曲げられていて中が見通せない構造になっています。


薬医門
この門は佐倉城内にあったものですが、どこに使われていたのは不明です。
廃城後は、酒造をしていた土井家に移築され
その後旧佐倉藩主堀田家の菩提寺「甚大寺」に移築されていたものです。



西出丸から外に出て来ました。
西出丸に使われた橋は引橋で、橋の取り外しが出来る構造になっていました。



南出丸を外から見たところです。





三の丸
二の丸の駐車場は17時で閉まってしまったので、三の丸にある駐車場に移動してきました。
最初に訪れた時はこちらの駐車場を利用して、三の丸から本丸へと行くルートで
散策しました。



だいぶ暗くなって来ましたがどうしても復元された草の角馬出を
見てからでないと心残りなので、暗闇の中三の丸を横目に角馬出へと向かいます


椎木門跡

現地案内看板より
佐倉城の門はどれも立派な櫓門だったことがわかります。
このように各門の写真が残されているのを見ると、明治初期までこれまでの
多くの櫓門が残っていたのが今も残っていたら凄いだろうなあと残念でなりません。


角馬出 

最後に、真っ暗になってしまったのですが角馬出を見にやって来ました。
山鹿流の軍学書で言う「草の角馬出」です。
郭の外に出っ張っているのが「草の馬出」で内側に抱え込むような形の馬出が「真の馬出」で、
丸なのか、角なのかの違いでここでは四角いので「草の角馬出」と呼ばれています。
小雨の中必死でカメラを構えてみたものの、これが限界です。



角馬出の中からの画像です。
奥に見える建物が国立歴史民族博物館です。
カメラ、小雨の中頑張ってますがいっぱいいっぱいですぅ


以前訪れたのは、記念すべき?日本城郭検定の第1回の開催日でした。
この日城郭検定の東京会場へ受験に行く前に佐倉城に寄ってから3級を受験しました。
受験勉強なんて…この時はほとんどやってませんでした^^;
時間ギリギリまでここに居たんですからね。
それから続けること、もうすぐ第13回の城郭検定が6月に控えています。
今回はそんな問題に出された角馬出を見に来たはずが、真っ暗になってしまって
よく見えなかったという失態^^;
ま、見たければまた来るさ!



平成24年11月11日登城
平成31年3月23日再登城


日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス


御前原城(栃木県)

2019年04月19日 | 百名城以外の城
御前原城ごぜんはらじょう
別名塩谷城・塩谷故城・中村城
構造平城
築城者塩谷頼安
築城年代1315年(正和4年)
指定史跡県指定史跡
場所矢板市早川町174 地図

御前原城は、古くは中村城と呼ばれ塩谷氏の本拠地としていました。
昭和38年に国道4号線ルートに決まり消滅するところを地元の住民の反対により
城跡が守られた経緯がありますが、結局主郭以外がシャープの工場が立ち並ぶ形となり
本丸以外の遺構は消滅することになり現在は公園となっています。


北虎口

車で乗り入れられる出入口は北側のここだけになります。
この出入口は土塁を崩して堀を埋めて出入口を付けていることから
後になってから造られた虎口と考えられています。


堀と土塁

北から東を見た空堀と主郭土塁です。
主郭を囲む土塁と堀が巡っていて、とても良く残っています。



振り返って西側を見ています。
このような堀と土塁が四角く主郭を囲っています。


駐車場

公園になっているので北虎口を入ると駐車場があり、この日は「はしか地蔵の縁日」前日とあって
桜を見に来る人やお祭りの準備に来る関係者の方で出入りが頻繁に行われていました。
ちなみに「はしか地蔵の縁日」は桜が見頃の時期で毎年4月の第2日曜日開催だそうです。


案内看板
駐車場にある案内看板です。



左側が庭園跡です。


御前原全体見取図

庭園跡築山の脇に設置されている看板です。


はしか地蔵尊
この御堂の中には削った粉を飲めばはしかが軽くすむという
表面を削られた珍しい地蔵があります。


庭園跡

はしか地蔵尊がある築山を背に麓には池の跡らしき窪みがあり浮島状でした。
当時はこの池に橋も架けられて庭園らしいものがあったようです。


御前の内(主郭西)

土塁の途切れた場所に西虎口があります。
当時は堀に土橋があり、川崎城や木幡神社方面への出入り口に使用していたようです。


主郭東

主郭の中でも南側には区切りがあります。
南にメインの虎口があるからなのか御殿や庭園のある主要部分と
区切っているようです。


御門の内(主郭南)

当時の主郭への出入りは現在の北虎口ではなく主にこちらの南虎口が使われていました。
南虎口は折れを造ってクランク状に通路を曲げて堀には橋を架け、防御性も高めています。


御前原城を訪れる前に川崎城へ行き、主郭から眺めた時に
「時間があったら行ってみよう!」と思い、帰りがけに急ぎ足で見に来てみました。
堀と土塁が見事ですが、周囲はシャープの工場に囲まれて、
大きな工場の敷地内にある会社の福利厚生で造られた公園を想像させられる場所でした。
せっかく国道4号から救われたのにどうして工場になっちゃったんだろ?と残念に思ってしまいました。
でも、善悪の話ではなく本丸は残ったんだし税金を落しているのであれば地元にとっては
それも悪い話ではなかったのかもしれませんね。


平成31年4月13日登城


大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)
加藤理文
学研プラス

久留里城(千葉県)

2019年04月17日 | 百名城以外の城
久留里城くるりじょう
別名雨城・霧降城・浦田城
構造山城
築城者武田信長
築城年代1456年(康正2年)
指定史跡
場所君津市久留里 地図

久留里城は城の完成後3日に一度雨が降ったことから「雨城」とも呼ばれています。
上総守護代に任ぜられた武田信長が真里谷城と庁南城の支城として
築城したのが古久留里城です。
戦国時代には里見氏が支配し、北条氏の侵攻や豊臣秀吉の小田原平定を経て
徳川家康の関東入り後は、松平、土屋と移り変わり
上野沼田藩から黒田直純が迎えられ明治維新により廃城となりました。


駐車場
森林体験交流センターの駐車場はとても広く、ここからは徒歩で
本丸へは林道から行くか、舗装路から二の丸経由で行くかの選択になります。


林道入口
「ヤマビルに注意!」の表示がとても気になる入口です。
幸い山城を歩いていてまだ一度もヤマビルに遭遇したことがないので
怖いもの見たさにちょっと見てみたい気持ちもあって来てみたのですが
この日はものすごく寒い日で、結局見かけることはありませんでした。



この先は城山郭群となっており、小ぶりな郭や帯郭のような郭が続き、
虎口や土塁、堀切など続々と見ることが出来ます。


切り通し

山を切り込んだ構造が良い感じです。



整備された比較的歩きやすい山道が続きます。
しかし、確かに夏場はうっそうとしそうな雰囲気がします。



開けては登りを繰り返すのでそれほどキツイとは感じずに
登って行けます。



名の無い小ぶりな曲輪をいくつも通過します。


堀切
所々に郭と郭の間に造られた堀切です。



本丸に近付くにつれ堀切も大きく深く切り込んで来ます。



尾根上に築かれた小規模の郭群を繋ぐ道は切り立った場所や土橋を使って
虎口を出入りしながら主郭へと導いています。



本丸西側の真下を歩いています。



頭上には本丸にある丹生廟遺跡があることを、
ここを歩いている時点では知る由もありませんでした。



目の前に建物が見えて来ました。
あまり疲れることもなく、遺構を見ながら楽しい道のりでした。


天神曲輪

林道を抜けてまず出た曲輪が天神曲輪です。
ここにはトイレがあります。



観光用に広く整備された道を登ればいよいよ本丸です。
ここまで来ると親子連れの観光客や様々な年齢層の観光客が次々に
やって来ます。
先ほどの参道とは打って変わって人気が多いです。


男井戸・女井戸
伝説によると、奈良時代の僧「良弁」によってこの井戸は掘られ
「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれていました。
戦国期には籠城に使い、江戸時代には藩士の結婚式で新郎新婦がこの水を
飲んで夫婦の誓いを交わしたという井戸です。



天守が見えて来ました。
ここからはいっきにテンションが上がります!


波多野曲輪

本丸入口手前、天守が見える位置から右下を見ると
波多野曲輪が見えます。


久留里城天守閣

波多野曲輪入口前がカメラポイントになります。


天守台跡

この土壇は黒田直純が城を再建した際に築いたと思われる天守台です。
発掘された礎石から建物は二層二階の望楼風天守であったのではないかと思われています。


丹生廟遺跡

上野沼田藩から入城した黒田氏の守り神が祀られています。


案内看板
ありがたいことに、石碑に書かれている内容を読みやすくしたものが書かれています。



天守東側です。
ここには再建記念碑や土塁、塀の途切れた先には東南に伸びる道があり、
更に遺構が続いています。
弥陀曲輪へ降りるには、こちらから東側へ回り込むように進みます。


久留里城再建記念碑

久留里城の復元は旧上総町のころに明治百年事業として計画され、
昭和54年に、約100年ぶりに久留里の丘陵に天守閣が再建されました。
また、翌年には久留里城址資料館も完成しました。


天守閣入口

ここでサンダルに履き替えて入城です。
天守閣は、鉄筋コンクリートの2層3階建てで高さは15mあります。



無人の受付?カウンターに入城受付票があったので記入して上階へ。


最上階

最上階は外に出て一周出来ます。


天守台跡

天守閣最上階から見下ろした天守台跡。
発掘された礎石は二の丸から伐り出した砂岩が使用されていたそうです。


眺望
小雨で雪になるのではないかと思うような寒さでスッキリしない天気ですが
遠くまで見渡せる高さにあり、晴れていれば気持ちの良い眺望だったと思うと
ちょっぴり残念。


弥陀曲輪

東側を見下ろしたら…曲輪が見えました。
弥陀曲輪です。


二の丸

二の丸跡には久留里城址資料館があります。
無料なのでぜひ見学して行きましょう!


久留里城址資料館

久留里城の歴史をはじめ、井戸の掘削技術を伝える「上総掘り」や新井白石に関する資料が
展示されているので早速入館したいと思います


黒田直純公

黒田直純の肖像画です。
資料館内の撮影が出来るのはロビーのみになります。
ロビーには黒田直純の肖像画と模型が展示されています。


模型
これは三の丸の様子ですね。
ちなみにロビーから外を見ると井戸掘り櫓の実物模型が見えます。
外から回って撮影しようと思ったら、さすが雨城!この時雨が降っていたので
中から撮影しようとしたらガラスで反射して綺麗に撮影できなかったのでお見せ出来ません。


新井白石像

土屋利直が城主だった頃親子二代で仕えた新井白石の銅像があります。


長屋塀跡

寛保年間に記された絵図には長屋塀とされた多門櫓風の建物が築かれていた場所で
用途は、諸道具を収納する倉庫として使用されていたと思われています。


薬師曲輪

二の丸の西側一段下にある薬師曲輪はとても眺めが良く、
眼下には三の丸を見渡すことが出来ます。


三の丸跡

薬師曲輪から見下ろすと、三の丸が広がります。
三の丸には藩主の居館などが置かれていました。


雨城八幡神社

薬師曲輪にある雨城八幡神社。
ここでもお参りは忘れずに。



帰りは楽して資料館横の舗装路を下って行きます。


鶴の曲輪

道下にまたもや小曲輪がありました。


お玉が池

二の丸には水源が無く不便だったため、里見義孝が家臣である兵馬に
池を掘るように命じました。
ある時兵糧庫が焼失し、兵馬が火の不始末の容疑で捕われてしまいます。
城将である小川秀政の娘「お玉」が哀れんで兵馬の代わりに池を掘り始めたのですが
兵馬は打ち首になってしまうという、ここには悲しい伝説が残ります。


久留里曲輪

お玉が池の反対側には久留里曲輪があります。


堀切跡

道路に断面図のような堀切跡が見えます。
ここには当時、取り外しのできる橋が架けられていました。
コンクリートで固められてしまっているのがなんともむなしい…。



先ほどから舗装路を歩いて下って来ているのですが
道路より高い位置の尾根を歩いて来ると火薬庫跡などの遺構を見ながら下って来ることも出来ます。



屋敷の立ち並ぶ三の丸から天守のある本丸までの高低差がわかる看板があります。


駐車場
そして、ぐるっと一周して再び駐車場へ戻って来ました。


この日は週間天気予報に裏切られ、登城企画した晴れ予報から
極寒の一日となり凍りそうな寒さの中の訪問となりました。
久留里城と言うと話題になるのが林道入口にある「ヤマビル注意!」の看板。
山城に訪れる方々、みなさんヤマビルに噛まれる?経験があるというので
怖いもの見たさに訪れてみたのですが、この寒さでは遭遇するこはありませんでした。
ヤマビルに襲われるのはもちろん嫌ですが、いるところを見てみたかった^^;
でもそれは山城を歩いていればいずれ遭遇することかもしれないので
偶然を期待しよう。
※あくまでも見てみたいだけですよ。くれぐれも。


平成31年3月23日登城


枯山水 新装版
ニューゲームズオーダー
ニューゲームズオーダー



図説 房総の城郭
千葉城郭研究会
国書刊行会

川崎城(栃木県)

2019年04月15日 | 百名城以外の城
川崎城かわさきじょう
別名塩谷城・塩谷故城・蝸牛城
構造山城
築城者塩谷朝業
築城年代1199~1204年(建仁年間)
指定史跡市指定史跡
場所矢板市川崎反町中島 地図

川崎城は、平安時代末から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した塩谷氏の本拠地です。
城域内を東北自動車道が通る川崎城跡公園は、喜連川丘陵の北西端に
位置しています。
塩谷朝業は宇都宮朝綱の孫にあたり、宇都宮姓から塩谷地方を治める塩谷氏の養子となり
宇都宮系塩谷氏が誕生し川崎城を築きました。


内根小屋

高速道路の側道を入ると川崎城跡公園の駐車場があります。
ここにはトイレももあります。
桜の時期とあって人が結構行き来しています。


川崎城跡案内図

南曲輪の前にある案内図です。


南曲輪跡

梅の木がいっぱいで、きっとひと月前には見頃だったんでしょうね。


歌碑

この歌碑は朝業が出家し、信生法師となるべく京都へ発つ際に
父と子の断ち難い絆に悩む姿が歌われています。


一の堀

本丸を囲むように大きな堀が巡っています。



これだけメリハリがあると爽快です!


本丸虎口

公園整備のために造られた階段と石垣でしょうが、使われている石が
古そうに見えるのが気になります。


本丸

頂点にある横に長い本丸。
丁度桜が見頃の時期を迎えていて、雑草も少なく一番良い時期に
訪れたなあという感じ


主殿

本丸から続く主殿を見ています。


案内看板
見晴らしが良く、遠くに見えるまだ雪が残る高い山脈が綺麗です。
ここで御前原城の位置確認、時間があったら寄って行こうと思います。


東出丸

本丸から見下ろした東出丸。



内側の曲輪を取り巻くように帯曲輪のような段が至る所で見られます。


主郭標柱

木で造られた標柱と、奥に見えるのが石の城址碑です。


矢板市笠間市姉妹都市提携記念碑

朝業の二男である時朝が笠間城主になっていることから
昭和55年に矢板市と笠間市は姉妹都市になりました。





土橋

細尾根の土橋のようです。
これは行かないわけにはいかないので先端まで行ってみましょう!


先端
下は崖、眼下に川が見えます。
細い木の枝が茂っているのでそれほど見晴らしが良いわけではないのですが
逆に目の前が開けていたら怖いだろうなあ。


一の堀
本丸と二の丸の間に造られた大きな堀は本丸との高低差が大きく
とても見事です。


二の丸跡
二の丸から本丸を見上げると、その高さを実感します。
広さもそこそこあって高速道路の騒音を直に受けます。
当時は静かだったんでしょうがかなりの騒音です^^;


二の丸北曲輪
二の丸から一段下って北に延びる二の丸北曲輪。


二の堀

二の丸北曲輪の更に一段下に見える二の堀です。
こちらも堀と曲輪の高低差があり、角度も付いています。


階段

二の堀側から見た階段です。
木製の階段はもう腐りかけているので真中を歩くのはちょっと怖いです。
板を踏み抜きそうな個所もあるので注意が必要です。



北東の三の曲輪群へ。


三の丸東曲輪

三の丸東曲輪、北曲輪などメインの三の丸曲輪の補助的に造られた曲輪が
北東に5つ配されています。


三の丸北曲輪

三の丸北曲輪を下り、三の丸東曲輪から三の丸北東曲輪に抜けるルートが
最初の大手道であったと想定されています。
旧大手門もこちら側にあったのではないかと考えられていてます。


三の丸
二の曲輪を守るために造られた三の曲輪です。
通路(遊歩道)部分だけ笹は刈り取られている状態なので
実際は高速道路側まで平地になっていると思われるのでもう少し広いと思います。


三の堀

手入れをされているのはこの辺りまでです。
三の堀も勾配があって、急な木製の階段が取り付けられています。
かたつむり城というだけあって、堀と曲輪が半月を描くように中心を守る形に
造られているのがよくわかる城郭でした。これにて戻ります。


星宮大明神

南曲輪より手前で西側の帯郭を下り星宮大明神へ降りて来ました。
もちろん、お参りも忘れずに。。。


信生庵

「ともなりそば処信生庵」があります。
蕎麦を挽く水車もあり、車やバイクも結構停まっていて繁盛しているようです。
ここでいつもなら食べて行こうか!となるところでしたが、
この日はめちゃくちゃ気分がラーメンで、とうとう寄らず帰ってしまったのが
今となっては心残りです。
ちなみに、ここの建物の裏に案内看板と城跡への散策路があります。



見上げると結構きつそうな山道が見えます。
根性無しなので高速道路側の楽ちんな道から登城してしまいました^^;



信生庵の奥には水辺に沿って綺麗な公園があります。
夏にはペットボトルで手作りした約5000個のあんどんを灯す「あんどんまつり」が行なわれ、
とても幻想的だそうです。



眼鏡橋のような橋が趣があって良いですね。
今はこのようなデザインの橋が架かっていますが、案内図を見ても
昔からここには橋が架かっていたようですね。


以前から城跡っぽいところだなあと高速道路上から気になっていたのですが、
気になりだしてから3度目くらいに道路上から城跡の看板が見えた時は「あったー!」と喜び、
それからずっと訪れてみたいと思っていた城跡です。
高速道路なのであっという間に通り過ぎてしまうし、そこで高速を降りる訳にもいかないので
やっと訪問出来てスッキリしました(^^)v



平成31年4月13日登城



【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
日本城郭協会
学研プラス

姫路城(兵庫県)

2019年04月09日 |  百名城
姫路城ひめじじょう
別名白鷺城
構造平山城
築城者羽柴秀吉、池田輝政
築城年代1580年(天正8年)、1601年(慶長6年)
指定史跡国指定特別史跡
場所姫路市本町68 地図
スタンプ設置場所管理事務所入口(入城口横)
御城印姫路城売店
攻城団チラシ姫路城管理事務所・姫路城見学資料室・JR姫路駅にある観光案内所

関ヶ原の戦いの武功により池田輝政が8年がかりで築城した姫路城。
それより以前は赤松則村が姫山に砦を築いたのが最初で、黒田孝高や豊臣秀吉が入城しています。
天守群の白壁が白鷺を連想させることから白鷺城とも呼ばれています。
太平洋戦争の空襲被害を受けつつも、市民に守られ今日までに昭和の大修理、平成の大修理を経て
白く美しい外観が甦った国宝であり、世界文化遺産でもある姫路城は日本を代表する名城です。


大手門



特別展示期間中は混雑するだろうと朝の開城前に並んでみました。
前回訪れた時よりも、むしろ列が短い


菱の門

安土桃山様式の格調高い櫓門です。


花菱

正面の冠木にある「花菱」がこの「菱の門」の名前の由来です。


三国堀
この堀はほぼ正方形で、姫山と鷺山の谷を堰き止める役割をしていて
用水池として使用されていました。



羽柴秀吉時代には姫山(天守側)と鷺山(西の丸側)との谷間があり
その間に堀があったところを、池田時代に堀を埋めて四角くして三国堀を造りました。
現在の三国堀の形にした時の名残がこの石垣です。



では、西の丸へ行ってみましょう!
この方向から見る姫路城もなかなか美しいです。


西の丸
かつてここには西の丸御殿がありました。
本多忠刻と再婚した千姫が暮らすために御殿を大改修し、多くの建物が築かれました。


土塀
姫路城では長い土塀が多くあるのが特徴的です。
しかも多門櫓になっていて、特に西の丸にある百閒廊下は内部を御殿女中の住まいとする
長局になっていました。




ワの櫓の脇にある黒い格子窓の左上にL字の釘があります。
これは戦時中に空襲から逃れるために黒い網を掛けて城を隠したという
話を聞いたことがあるのですが、その網を引っ掛けるために打ち付けられたもの
なんだそうです。(ガイドさん説)


百閒廊下

ワの櫓から靴を脱いで入ります。
ひたすら長い廊下を進んで行きます。
この長い廊下には長局と言って侍女たちが暮らす部屋も並んでいます。



ここの右側に見える土塀には戸が付いているのが確認できるのですが、
ここから外に出ても石垣と原生林、その下は内堀です。???



ヲの櫓に外へ通じる出入口が設置されています。


ヲの櫓

二重櫓になっていて、この先はタの渡櫓になっています。



女性ばかりが暮らす場所でも狭間や石落しなど防御、攻撃の仕掛けが
しっかり施されています。



働く女中の住んだ部屋です。
このような部屋が並んでいます。


男山

千姫はここ長局の窓から見える男山に天満宮を祀り、
夫忠刻や嫡男幸千代を失い、その冥福を朝夕に祈っていたという。


松の羽目板

昭和の改修でヨの渡櫓から発見された松の羽目板を別の板に復元したものです。


化粧櫓

化粧櫓は、千姫が輿入れした際に父である徳川秀忠から持参金として
化粧料10万石が贈られ、化粧櫓と渡櫓、付櫓を増築しました。
以前訪れた時には、ここに千姫が娘の勝姫と「貝合わせ」をして遊んでいる
様子の人形が飾られていたのですが、見学者が驚くということがあり
とりやめて千姫だけが奥の部屋に置かれるようになったとのことです。(ガイドさん説)



化粧櫓の外観です。


いの門

菱の門を入って真直ぐに見えるのがいの門です。
ここからは、天守へ行くための正規のルートで進んでみたいと思います。


ろの門
筋鉄饅頭金物や八双金物などの装飾が施された、脇戸付きの高麗門です。
昭和12年3月19日に松竹キネマの映画「大坂夏の陣」での戦闘シーンを撮影中、
撮影隊が「ろの門」付近の土塀周辺に火薬を仕込み、土塀や石垣を爆破させたという
今では考えられない過去があります。
国宝を吹っ飛ばすとはびっくりなエピソードです。



ここでもよく映画や時代劇のロケが行われ、映画「007は二度死ぬ」の撮影がここで行われた際には
土塀に向かって手裏剣を投げ、土塀にキズを付けるという事件が起きました。
ガイドさんからは映画の撮影に使われた場所ですよという案内はありまいたが
事件のことは聞いてませんでしたので、今ではプラス要素の部分だけ売りにしているのですね。


はの門
ここでは向かって右下の礎石に注目です!


石灯篭の基礎

姫路城では転用石も多用されています。
はの門の礎石には石灯篭の礎石として使われていたものが使用されています。
よ~く見ると柄入りの石が使われているので、ちょっとアンバランスな気が…^^;


十字紋瓦

はの門を過ぎて、二の門を下から見上げると十字紋瓦が見えます。
下を向いて進んで行くと見落としてしまうので注意です!
これはキリシタンだった黒田官兵衛にゆかりがあるものと思われています。





にの門
ここでは攻め寄って来る敵を狭い門に追い込んで行きます。
天井が低く、門の中で右に折れています。



櫓の床板を外して、門内を通過しようとする敵兵の頭上を槍で突き
仕留めることが出来る構造になっています。





ほの門

埋門になっているほの門は、くぐったすぐ右手に油塀があります。
門は狭く、目の前は階段になっていて門の方が低い構造になっています。


油塀

羽柴秀吉時代のものと伝わる油塀で、山土に豆砂利を加え
もち米のとぎ汁やおかゆで固めたと伝わる珍しい塀です。


石臼(姥が石)

石垣の材料集めに苦労していた秀吉に、貧しい老婆が使っていた石臼を寄進すると
それを喜んだ秀吉は、この石臼を乾小天守の北側の石垣に使うことにしました。
その老婆の石臼がここに使用されています。


北腰曲輪の多門櫓

こちらは、倉庫に使われていた櫓で、塩蔵であったことが判っています。


井戸

櫓の中に井戸があり、ここでも籠城を想定された設備が完備されています。


軒丸瓦と滴水瓦

まるで赤ちゃんのよだれかけのような形をした瓦が付いていますが
これは「滴水瓦」又は「高麗瓦」と言うもので、
屋根の雨水をこの瓦で滴らせる役割をしています。
姫路城ではこのような瓦があちこちで見られます。



水一門をくぐると、水二門へ向かって下っているのがわかります。
(写真ではわかりずらい)


水二門

さらに水二門から水三門へ向かって更に下っています。


水三門
ここも埋門で目の前は直角に折れています。
この先はいよいよ天守入口です。


水五門

門の様子はよく見えない状態ですが、ここで靴を脱いで入城です!


天守(地階)


地階は日が差さないため暗く、流しや雪隠という生活に必要な個所と
戦うための武具庫などがあります。


流し

用途は不明で籠城時に食事を作るためのもとと推測されています。
中央部に水が集まるように傾斜が付けられていて北側の中庭に
排出するような構造になっているらしいですが、板が張られているため
内部構造は一般には目にすることは出来ません。


武具庫
地下にも武具庫。
城内武具庫をはじめ、至る所に武具が置かれているようです。


天守(1階)


武者走

1階から3階までは身舎の周りに廊下状の武者走が巡っています。
各階の隅(写真正面)には斜めの筋交柱で補強されています。


耐震補強

木の箱で囲われた部分は耐震補強をした部分です。


天守(2階)


武具掛け
現在は何も掛っていませんが、こうした武器を掛ける場所があちこちで見られます。
ここに銃や槍が掛っていたら物々しい光景だったでしょうね。


千鳥破風内部
千鳥破風の内部に小部屋のような空間があります。
窓が付いて明るいので破風の部分の小部屋ってなんだか好きです


天守(3階)





西大柱

地下から6階までのびる四角い西大柱。
東側にも丸い東大柱が並行してのびています。


武者隠し(南西)

その名の通り、この狭い小部屋に武者が入って隠れて狙い撃ちします。
昔は小柄な人が多かったのでこんな狭いスペースでも籠ることができたのでしょう。
しかし、良く見るとなぜか武者隠しの下に狭間が付いています。
ここまで敵が侵入して来た時のことを想定して付けられたのでしょうか。


開かずの間

武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をした部屋と伝わる場所です。
他にも宮本武蔵は姫路城にまつわる妖怪退治をしたという伝説もあります。


天守(4階)


石打棚

千鳥破風にある窓が高い位置ににあるので窓の開閉や弓、鉄砲の攻撃足場として
利用されていたと考えられています。


天守(5階)

刻み番付
南北にある破風の間を見上げてみると、棟木に番付の文字が刻まれているのが確認できます。
ちなみにこちらは南側の破風です。


天守(6階)


幻の窓

現在この部分は板が張られ、狭間も付いていますが
ここは元々は窓として建築されていたようです。
角の部分なので強度を考えても窓の無い現在の状態の方が安心かなと思いますが、
なぜ、変更されたのかは不明です。


刑部明神

刑部神社は姫路城が築城される以前に姫山にあり、
由緒ある地主神として地元の人たちの信仰の対象でした。
それを秀吉が築城のために姫山から総社に移したため、たたりが起き
輝政はあっけなく亡くなり、その子供たちも次々に若死していきました。
他にも、誰もいないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、
大勢の人が泣きわめく声が聞こえるなどたたりの噂が広がりました。
そこで刑部神社は天守の最上階に移され姫路城の守護神として現在も
火災・災害などの災いの神として信仰されています。


埋木

昭和の大改修の際、長押の板にある節を削り取りそこにいろいろな形をした
埋木を施しています。
刑部明神の裏手には星型の埋木があるので探してみてください。


イの渡櫓(入口)

ここから先は特別展示になるので別途入場料を払うことになります。
世界遺産登録25周年記念、冬の特別公開ということで
小天守群内部公開を見るためにはるばる足を運びました。



観覧料300円を払った人はここから二階へ上ります。
一般の入城料だけの人は階段を登らずに真直ぐ進んで1階を見て退城となります。


イの渡櫓(2階)

普段は行列をなしての観覧のようですが、この日はこのように空いていました。



イの渡櫓から見た乾小天守です。


との門
イの渡櫓から見下ろした「との門」です。


東小天守(入口)
この先が東小天守です。


東小天守(2階)

2階は窓が無いので暗いです。
内部は小天守と言うだけにこじんまりした造りです。


東小天守(3階)

艮隅櫓とも呼ばれていた東小天守は地上3階、地下1階(塩の貯蔵庫)で、普段は公開されていません。
今回最上階の3階部分は初公開ということでじっくり見て回りました!
(…というほど広くないですが)
最上階は見張りに使用していただけに窓もあり、とても明るいです。


破風の間

北側の千鳥破風の部分です。
破風の間の両隅には狭間も付いています。



破風の間の上部は引き戸の明かり取り用の小さい高窓と
弾薬を吊り下げる棒があり、小天守の中はしっかり武装されていたようです。



窓のレール部分を見てみると、雨水が溜らないよう排水出来る穴が付いています。


部分修理のプレート

西側には高い位置に明かり取り用の小窓しかなく壁になっています。
部分修理のプレートがあり、平成14年に屋根目地漆喰塗替・平壁漆喰塗替・屋根瓦部分差し替えの
部分修理を行ったことが刻まれています。


天井

天井は吹き抜けではなく、棹縁天井が張られていて書院風の造りになっています。


ロの渡櫓(2階)
ロの渡櫓の2階内部です。
東小天守と乾小天守を結ぶ渡櫓で、「北の長や」と呼ばれていました。


鉄砲
歩いていて、振り返ったら火縄銃が!!




横を向いたら槍が!!



見上げると火薬がぶら下がっています!!
武器庫のような渡櫓になってます。


床板

武器が沢山用意されている櫓だと思っていると、
床はとても格式高い手斧仕上げの床板になっています。



これは節目に穴が空いてしまったところを削って修復した跡で
姫路城内には職人さんの遊び心でいろいろな形で修復されています。
ここは菱型をしていますね。


乾小天守入口

この先は乾小天守です。
三つある小天守の中で一番大きいのが乾小天守になります。


乾小天守(2階)

ここでも上を見上げると梁に番付けがされているのが見られます。



この棚は石打棚とは違うようで、階段も無ければ窓側でもありません。



ということは…甲冑などを置いていた棚でしょうか。
このような造りをほかの城址で見たことあるような気がします。どこだったかな?


乾小天守(4階)

最上階の窓は東西南北すべての面に取りつけられていてとても明るい造りになっています。
外に格子も無いのでとても解放感があります。


火灯窓

先ほどのシンプルな東小天守とは対照的で、装飾品で飾られた小天守です。
中からは飾られた部分が見えないのでシンプルに見えますが
外からは黒漆に飾金具の装飾が格好良く見えています。


部分修理のプレート

乾小天守は昭和に二回と平成に部分修理をしています。



城内の様子が見渡せます。


西小天守

今回は公開されていない、もうひとつの小天守である西小天守を
乾小天守からうらめしそうに?眺めています。
どうせなら三ヶ所全部見たかったなあ。



乾小天守の天井も書院造り風に棹縁天井で仕上げられています。
ここは眺めも良いのでかなりの時間居た気がします。
心地良い空間ですね。


東小天守

そして、東小天守から乾小天守を見たように東小天守を望む。


大天守

間近で見る大天守は迫力あります。
ここから見られる天守は貴重です。


ハの渡櫓(2階)

乾小天守と西小天守を繋ぐ渡櫓です。
西小天守は公開になっていないのでここで行き止まりです。


姫路城の総構模型

乾小天守の1階部分に展示されている姫路城の総構模型です。



軸組構造模型

東小天守1階部分に展示している軸組構造模型です。


ロの渡櫓(1階)






台所(入口)

この扉の向こうに台所があるのですが、ここも公開になっていないので
見学することは出来ません。


石落し

窓の外側で縦格子との間に設けられた石落しです。
蓋を上に開けて、石や熱湯、糞尿など敵めがけて何でも落しちゃえ!って感じですね。
原始的ですが想像すると嫌ですね^^;


ハの渡櫓(入口)

この先、ハの渡櫓が天守内部からの出口となります。


西小天守(入口)

西小天守は見られません。
特別公開を待つしかありません。
このように、数年に1度とか特別公開する個所があるのでぜひ見たい!と思っている
場所の公開を見逃さないよう今後もアンテナを立てていた方が良いでしょう。


水四門

水ノ四門から外に出ます。



振り返ってみると、これまた迫力のある大天守。
乾小天守の火灯窓が品格を増して美しい姿です。


本丸(備前丸)

かつて本丸御殿があった備前丸。
藩主と家族はここに居館を置いて生活していました。
但し、御殿を置くにはちょっと手狭だったようで後に本多時代には御殿は
三の丸に移っています。


備前門

備前門の上は折廻櫓が載っていて、折廻櫓は二階建てで書院造の部屋もあり
中を覗いてみたいところでしたがこちらも公開されていないので
見ること叶わず。残念~


石棺

一見、とても立派な巨石を切り出して来たなあと思える石ですが、
これは古墳から持って来ちゃった棺石です。
なんて罰当たりなことしてるんでしょうか。この時代は。


旧番所

正面が旧番所で左奥にちの門があります。
右の建物が井郭櫓で櫓内に井戸が設置されています。
抜け道のような小道で入って行ってみたかったのですが通行不可でした。


帯郭櫓(腹切丸)と太鼓櫓(への櫓)

正面に見えるのが太鼓櫓で、左手に見えるのが帯郭櫓(腹切丸)です。


帯の櫓

この場所、外から見るとかなりの高石垣の上に載っている櫓です。
雁木が付いているので搦め手からの敵をここからも狙い撃ちですね。


穴門
この穴門をくぐって下って行くと腹切丸です。
完全な袋曲輪で、出入り口はここだけ。
ちょっと物騒な名前の付いた曲輪ですが、本来の用途は
城内に進入した敵を背後から奇襲するために兵を隠しておくための
隠し曲輪なんだそうです。



ここにも棺石がはまっています!
所々に使われている転用石ですが、これを見るとどれだけの
古墳が荒らされたのか、そしてこれでは崇りがあるのも仕方ないのかなって思う^^;


お菊井戸

上山里曲輪にあるこの井戸は
怪談話では有名な「播州皿屋敷」のお菊井戸です。
最近の子供たちはこの話を知っているのかわかりませんが、私の子供の頃は
夏になると良く耳にした怪談話です。
「いちま~い、にま~い…」とお皿を数える様を、よく真似したものですが
今でも怖くてこの井戸ばかりは中を覗き込む気になれませんでした^^;


大天守の鯱鉾

リの一渡櫓では明治・昭和・平成時代の鯱瓦を展示しています。
そして、次は令和の鯱鉾が並ぶのかなあ。
令和の時代に改修があるかどうかわからないけどね。


ぬの門

姫路城では最大の二階建ての櫓門です。
門扉は総鉄板張で、さすがに天守への近道上にあるだけあって
重厚で厳重な造りの門扉が付けられています。


人面石

ぬの門を出てすぐの石垣には「人面石」と呼ばれる人の顔のような並びの
石垣があります。


ハートの石

「人面石」の左側にはハート型をした石もあります。
しかし、この人面石とハートの石は当時意図して積んだのかと言うとちょっと疑問ですね。
たぶん偶然このように見えるような並びになったのではないかと思いますが
縁起が良いと言われるのであれば素直にそう思って探す方が楽しいですよね


るの門

埋門になっていて、石垣の中を通る狭き門です。
大手口から天守への最短距離での抜け道になっています。



かつてはここに門扉があったことが判る礎石が見られます。



石垣の中に吸い込まれそうな道です。


継ぎ目のある石垣
この継ぎ目の右手が羽柴秀吉の築いた石垣で、左手が池田輝政が築いた石垣です。
縄張りは秀吉時代のものを引き継ぎ、池田輝政が増築しているのが判ります。



一周して三国堀、菱の門まで帰って来ました。


三の丸(御居城)

広大な三の丸御殿があった場所で、藩政の中枢でもありました。
この日は姫路城マラソンが開催されていました。


帯郭櫓

扇の勾配を持つ高石垣で、備前丸西側の石垣と競う高さを持っています。


中堀

かつては上山里曲輪めで堀が入り込み、船溜として利用されていました。



この日は姫路城マラソンの日で、道路や城内は一部規制が入り、好古園の方へは行けませんでした。
しかし、このマラソンの規制があるということで城内は日頃より空いていて
訪れた目的の特別展である小天守群をじっくり見ることが出来たのでむしろラッキーでした。
攻城団で団員さんたちからのアドバイスや、「城がたり」でこうの団長さんやコースケ副団長さんにも
アドバイス頂いていたおかげで目星を付けて攻城出来たので教えて頂いた方々に深く感謝です。
それにしても、今回で4回目の登城となったのですがこれまでこんなにしっかり
じっくり見たことがなかったので、こんなにもいっぱい見どころがあったのに
私は今まで何を見て来たんだろうと、そしてまさか4回も訪れるなんて思ってもみませんでした。
子供のころに憧れた姫路城は、何度訪れても飽きることのない魅力的なお城であることは
ずっと変わらないなあと思いました(^^)v
やっぱり、姫路城は凄い!


昭和57年3月登城
平成19年1月再登城
平成26年5月3日再登城
平成31年2月24日再登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

矢沢陣屋(長野県)

2019年04月03日 | 陣屋・館
矢沢陣屋やざわじんや
別名仙石氏陣屋・仙石氏館・お屋敷
構造陣屋
築城者仙石政勝
築城年代1669年(寛文9年)
指定史跡
場所上田市殿城矢沢 地図

矢沢領は仙石忠政の子で政俊が隠居する際、弟の政勝に2千石分知し矢沢領としました。
領主の館としての陣屋が置かれ、旗本である仙石氏は江戸に常住し
知行所へ来ることはほとんどなく、代官をおいて支配していました。
大名であった本家の仙石氏は、1706年(宝永3年)出石に移封されてしまいますが、
その分家の旗本である仙石氏が矢沢領を支配し、明治維新に至ります。


案内図

駐車場入口にある案内図。
矢沢陣屋と矢沢城があるために周囲には3ヶ所の駐車場が完備されています。
これもNHKの大河ドラマ「真田丸」のおかげでしょうか。


駐車場

綺麗な石垣と鯱鉾付きの立派な土蔵が目に飛び込んで来ました!
左側が矢沢陣屋にある駐車場です。
この駐車場も門前の大事な曲輪であったと思われています。



現在陣屋の敷地内は民家があるので、中に入ることは出来ません。
弘化2~3年に代官田中半次郎よりの上納金があり、
矢沢陣屋の大規模な増築工事が行なわれたという記録が残っています。


桝形

入口は桝形になっている様子がしっかり残されています。
石垣が入り組んでいるのがよく見えます。


石垣

切り込み剥ぎの石垣がとにかく見事です。
しっかり角が出ています。
石垣はやっぱり角から見てしまいます^^;




シンボル的なこの蔵、何と言っても鯱鉾が載っているのが特徴的です。
災いから守る鯱鉾を載せているこの蔵にはどんなお宝?が入っていたのでしょうか


瓦紋

家紋と思われるこの瓦紋。
検索してみたものの、同じものがヒットしません。
単純に矢沢氏の家紋かあと思って撮影したのですが、いざ調べてみたらこのような家紋がみつからず???
戦国時代は矢沢氏も真田氏の六文銭を使っていた説なども出て来るのですがこの写真のような
家紋がみつかりませんでした。(現在のデザイン?)



更に東へ進むと見えて来る現存の陣屋門。


陣屋門
現存している唯一の建造物はこの門のようです。
石垣も現存のようですが、かつては玄関や御殿、土蔵、産所、御堂が敷地内には建っていたようですが
ほとんどが失われています。



道路と川を挟み、向う側(南側)にも石垣が見えます。
そして下に見える道路の部分はかつて堀だったのかもしれません。
御屋敷の北側には石垣と堀跡が残っています。


道しるべ
見落としそうになった、矢沢集落の矢沢城の大手口近くにある道しるべ。
矢沢集落へと続く道と鳥居峠へと向かう道との案内です。
古道があったということですね。


何と言っても石垣が見事でした。
こんなにしっかりとしたきれいな石垣が見られるとは思っていませんでした。
上物こそ残ってはいませんでしたが、これだけの石垣が残っていると
ちょっと嬉しくなってしまいます。
東には眺めの良い矢沢城跡もあり、そこから矢沢陣屋も見下ろせる立地で
セットで訪れると見応えのある地跡です。


平成31年3月31日訪問


万葉の秀歌 (ちくま学芸文庫)
中西 進
筑摩書房



信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

古河公方館(茨城県)

2019年04月01日 | 陣屋・館
古河公方館こがくぼうやかた
別名鴻ノ巣御所・鴻巣館、古河御所
構造平山
築城者足利成氏
築城年代1455年(享徳4年)
指定史跡県指定史跡
場所古河市鴻巣 地図

鎌倉公方足利成氏は1455年(享徳4年)古河に移り
この地に館を築きました。
以降、5代(130年間)にわたり北関東一円を治めて来ました。
現在は御所沼や堀、土塁などの遺構が残る古河総合公園として市民の憩いの場となっています。


管理棟

こちらが公園の正面入口となります。
ここでパンフレットを入手していざ、園内散策へ!



管理棟裏の船着き場付近からの眺めです。


芋ころがし坂

茶畑と古民家の風景に、この坂のネーミングがとてもマッチしています。
長閑な田舎の風景を堪能できます。


旧飛田家

飛田徳有氏の所有で、18世紀前半の建立と推測されています。
茨城県常陸太田市にあったものを移築、茨城県下で知られる曲がり屋形式の農家の中で
最も古いものとされています。



大河ドラマ『西郷どん』のロケ地になったそうで、
第1回から第8回までのシーンを収録しているそうです。


旧中山家

この民家は中山太郎氏から寄贈されこの地に移築されたものです。
解体修理中に発見された床板裏面に、1674年(延宝2年)に建てられた可能性が高い記述が
書かれていたことから幾度かの改造や補修を経てきていますが保存状態も良好に残されています。



公方様の森のとともにここで『西郷どん』のロケが行われていたのかと思い、
ちょっと思い出してみました。


古河公方館跡石碑

民家園内にある古河公方館跡石碑です。


堀切と土塁

民家園と公方様の森の間にある堀切と土塁です。


公方様の森

三方を御所沼に囲まれ、林になっているので夏場はとても涼し気な里山風の森です。


胞衣の松

天神橋の橋の両脇にある松で、氏姫が足利義親を出産した祭に天神の祠を建て、
胎盤を埋めたことに由来するそうです。


天神松

天神の祠を建てた場所に植えられた松です。


御所沼

相ノ谷橋側から見た御所沼です。


筑波見の丘

この丘の頂に立つと 天神橋の東に 筑波山を望むことができるとのことで
登ってみたのですが、この日は今にも雨が降って来そうな天気だったので
筑波山を望むことは叶いませんでした。


鳥小屋

孔雀の居る鳥小屋では、求愛シーズンを迎え
メスにこれでもか!と羽を広げ、アピールしていました


富士見塚

遊具があり、芝すべりも出来る人気スポットです。
富士見塚周辺は子供たちが沢山遊んでいてとても賑やかでした。


大賀蓮池

6月~7月には大賀ハス(古代ハス)の花が蓮池一面に咲くそうですが
残念ながら時期を外しているので、まだ葉も見えない状態です。
この日は、桃まつりが開催直前で桃の花が咲き始めたところでした。


花桃

江戸時代初期に古河藩主土井利勝が江戸で家臣の子供達に桃の種を拾わせて
古河の領民に送って育てさせたのが始まりです。
現在は観賞用ですが、当時は燃料の薪にしたり、果実を食糧としたりするために
育てらていました。


徳源院跡

この墓所は明治初期まで鎌倉円覚寺末の徳源院という義氏の娘氏女の法号に
因んだお寺がありました。そして、
古河公方足利義氏の墓碑、氏姫と小弓公方・足利頼氏の子・足利義親の墓碑があります。


駐車場

正面入口付近には駐車場が充実しているのでゆっくり散策出来ます。


とても綺麗に整備された公園で、四季折々の自然の変化を楽しめて
かつ、歴史に触れられるというすばらしい公園です。
桃の花もまだ咲き始めたところで、蓮も咲いていない中途半端な時期に来てしまったなあと
ちょっぴり後悔したものの、民家園や公方様の森は古風な雰囲気を楽しめたので
時期を選んで家族でまた訪れてみたいなと思う公園でした。

平成31年3月16日登城



万葉の秀歌 (ちくま学芸文庫)
中西 進
筑摩書房




【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
日本城郭協会
学研プラス