むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

長久手古戦場(愛知県)

2020年09月30日 | 古戦場
長久手古戦場ながくてこせんじょう
別名
構造合戦場
合戦者羽柴秀吉vs徳川家康
合戦年代1584年(天正12年)
指定史跡
場所愛知県長久手市武蔵塚204  地図

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、信長の後継者争いが起りました。
羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ると、
脅威に思った信長の次男信雄は、同盟者の徳川家康に助けを求めました。
1584年(天正12年)3月、ついに羽柴軍と徳川軍が小牧で睨み合いとなりました。
4月9日、ついに長久手で激しい戦闘が起こりました。



古戦場公園

古戦場公園へやって来ました。


石碑

無形民俗文化財としてしていされている農民が棒や鎌などの得物を使って
一定の型を演じていたという伝統芸能の石碑です。


史跡案内図

周辺史跡の案内図です。
徒歩で来られた方も、こちらで自転車も借りられるので周辺史跡を巡ることも出来ます。


公園案内図

長久手公園の案内図です。


古戦場碑

1584年(天正12年)長久手の合戦がこの地で行われました。
三好秀次を総大将に、池田隊・森隊・堀隊ら総勢2万人の大軍を岡崎へ攻め込ませました。
家康は自ら1万3千人の軍を率いてこの地で秀吉軍と対戦し、家康が勝利しました。



この先は、古戦場縮景です。
長久手古戦場を縮小して再現されています。


色金山 床几石

「長久手の戦い」で徳川家康軍が陣を張り、軍議を開いたといわれる色金山にある
山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれる巨石を模したものです。
現在現地は歴史公園として整備されています。


案内看板

長久手の戦いの縮景の案内看板です。


勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚

周辺には勝入塚・庄九郎塚と公園を出て住宅街に武蔵塚があります。
池田之助(元助)の戦死地・池田勝入恒興の戦死地・森武蔵守長可の戦死地ということで
各地に塚(石碑)が建ってられいます。


御旗山

徳川家康が布陣した本陣です。
羽柴秀吉方の池田・森両隊の様子を伺いながら、
色金山に進軍した徳川家康は、この御旗山の頂上に金扇の馬標を立てました。


桧ヶ根

羽柴秀吉方の堀秀政の陣があった場所です。
山頂に立つと北から進軍してくる家康軍の様子が見えたという。
ここでは家康軍を打ち破っています。
こちらも、現在は桧ヶ根公園になっています。


仏ヶ根

ここ仏ヶ根に造られた公園が長久手古戦場公園です。
4ヶ所で起きた長久手の合戦で最も激戦地となった場所です。





レンタサイクル

長久手市史跡めぐり用の貸し出し自転車があります。
周辺に見所があり、駐車場の無いところもあるので車の人もここで
自転車に乗り換えて健康的に史跡めぐりをするのも良いかも。


長久手古戦場が縮小された庭園?のような公園になっていて、
ざっくり全体を学ぶと、それぞれの現場にも行ってみたくなりました。
周辺城跡を巡る時に、調整してそれぞれの陣地にも行ってみたいです。


令和2年7月19日訪問





庁鼻和城(埼玉県)

2020年09月28日 | 百名城以外の城
庁鼻和城こばなわじょう
別名国済寺館
構造平城
築城者上杉憲英
築城年代1456年(康正2年)か
指定史跡市指定史跡
場所埼玉県深谷市国済寺 地図

関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏をおさえるため、
この地に6男の上杉蔵人憲英をつかわし、館を築かせました。
以後、憲光・憲長と3代に渡りこの地に居住しました。
館内に峻翁令山禅師を招いて国済寺を開創、現在は土塁と築庭跡などの遺構が残り、
上杉憲英公墓は県指定遺跡されています。



駐車場

参道脇にある無料の駐車場(約7台分)を利用して、いざ城さんぽです!
この他に、正面入り口のある国道17号線側にも駐車場があります。



まずは正面から入城しようと国道17号線側にやって来ました。


国済寺黒門

江戸時代中期に建てられたという建物、総門・三門・本堂が直線的に配置されています。



1416年に起こった「上杉禅秀の乱」の際は、越後・上野国の兵をまとめて鎌倉へ侵攻すべく、
関東管領上杉軍を集結の拠点として使用されたのがこの庁鼻和城です。
上杉管領家と古河公方足利成氏の対立により勃発した「亨徳の乱」のさなかに
深谷城が築城され、深谷上杉氏の主城移転がされました。
その後、庁鼻和城は城としての機能は失われています。


鎮守社

この奥、鎮守社背後には日吉神社があります。


三門

江戸初期に建てられた寄棟茅葺の楼門で、
階上は羽目板張に火灯窓をがありとても美しい門構えです。


石碑

国済寺の境内には、石碑がいくつかあります。
このように、歌碑もあります。


案内看板

「深谷新八景」は、平成3年に深谷市制35周年記念協賛事業として
出来たもののようです。


鐘楼

江戸期の火災で焼失した際は、本堂、鐘楼ともに再建されることが無く、荒廃していきました。
火災の被害が余りに大きく、23年経ってから再建されたようです。
明治維新後の神仏統廃令と戦後の農地解放令によって境内は大きく縮小され、
庁鼻和城の内郭部分だけが国済寺の境内として残りました。

「人はみな 佛なるぞと 告げわたる この鐘の声 釈迦牟尼の声」の石碑が添えられた鐘楼。
近くに住宅があるので撞いてみようとは思わなかったのですが今は立派な鐘楼があります。


園通客

何も考えずに、とにかくお参りしてきたのですが…菩薩様は何の神様だったのでしょう?
でも、お願い事は叶えて下さったのでOKです


本堂

城の機能が深谷城へ移った後は、庁鼻和城内にあった国済寺に受け継がれました。
かつて国済寺境内には塔頭五ヶ寺が存在する大きな寺院で、
北関東における臨済宗法灯派の道場としての地位も築いていたと思われます。
しかし、寺院と成った後も、軍事的要地であったことは変わらず、
時に深谷城の支城との認識は強く、攻撃を受けることもありました。



本堂の扉には上杉家の家紋が大きく飾られています。
近頃賽銭泥棒が多いせいか、賽銭箱はこの扉の隙間から手を伸ばして入れるようになっています。


三門(内側)

裏から見ても格好いい。
やはり、木造の建物は風情があっていいなあ。


菩提樹

菩提樹とありますが、だいぶ若いようですが何代目かな?



この本堂と社務所を繋ぐ渡り廊下の下をくぐると、その先は墓地になります。
上杉家の墓と土塁が残る場所があるので行ってみたいと思います。


足付鬼瓦

上杉家の家紋入りです。
立派なのでこうして飾ってある寺院をよく見かけます。


上杉憲英墓

正面にあるのが上杉憲英の墓です。
手前には2代憲光、6代憲清の墓があり、
下の段の両脇には深谷上杉氏一族の墓が並んでいます。


土塁

北辺の土塁跡です。
掘もあったはずですが…多少窪んでいるような気がしますが、わからなくなっています。
埼玉、群馬では馴染のあるヤオコー(スーパーマーケット)の建設に伴い
平成9年に庁鼻和城の発掘調査を行っています。



五角形に近い外曲輪と正方形の内曲輪から成り、
外曲輪には物見櫓跡などの伝承地もあるという。


攻城団で登録になったので、やってきました。
三門がカッコいいですね
鎌倉街道の抑えとなるポイント地点でもあったため、重要な城であったと思われますが
庁鼻和城、国済寺に関して、あまり紹介された本などがなく
縄張りなど足跡を調べるのに苦労しました。
と言うのも、江戸時代に二度も火災に遭って古文書などが失われていたのですね。
そのため、資料が少なく、一般的に知り得る内容も少ないのですね。


令和2年9月13日登城





秋元氏墓地(群馬県)

2020年09月22日 | その他
秋元氏墓地あきもとしぼち
別名
構造墓地
年代1590年(天正18年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県前橋市総社町植野150  地図

総社城初代城主秋元長朝の墓所が元景寺にあります。
長朝の父景朝は、関東管領上杉憲政に仕え、1587年(天正15年)に
ここ勝山の地を与えられました。
しかし、景朝は間もなく病で没してしまいました。
そのため長朝は父景朝を供養するために元景寺を創建しました。



元景寺

元景寺は総社城主、秋元長朝公が父君景朝の菩提供養のために開かれた寺です。
実はこの写真、屋根ばかり移っていますが、門の地べたに地元の方が数人
座って楽しくおしゃべりをされていたので、写さないようにと思ったら
中途半端な画格になってしまいました^^;



参道脇の細い道を奥へと入って行くと駐車場に到着します。
奥には墓地への道と、入口には標柱が見えます。


宝篋印塔

墓地へ。
真直ぐ正面突き当たりにあるのは秋元景朝の墓所です。
正面には宝篋印塔、向って左手が景朝の墓があり、
右手には正室の墓もあります。


秋元景朝

1587年11月12日景朝没。
この時景朝は63歳でした。


正室(春)の墓

景朝の正室、春(妙耕院)のお墓です。
春は、関東管領上杉憲政の養女で春を迎えたことにより地位を確立しました。


側室(戌)の墓

隣には長朝の側室の戌の墓があります。
なぜ側室?とまず疑問に思う。
総社城二代目城主泰朝の母ということらしいのですが…。
家紋に注目してほしい。
なぜか、織田家と浅井家の家紋が付いています。

疑問に思って調べてみると、敷島公園にある「お艶が岩」と関係がありました。
なんと、大坂夏の陣で豊臣秀吉の側室であった淀君が秋元長朝の陣に
助けを求めて来て、かくまったという内容の伝説が書かれた碑があるのです。
それによると長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社へと戻ったという。
「大橋の局」と名を変えて長朝の側室として暮らしていたようですが、
結局、この岩の上から利根の激流に身を投げてしまったという言伝えがあるようです。



境内にある看板の由来の部分にも淀君のことに触れられた文があります。



また、山門両側の古い梅の木は大阪夏の陣で淀君が長朝に助けを求めて
総社に向かう途中の信濃路で折り取った1本の紅梅が増えたと伝わります。


こっそり逃げて来たから公にもならずにいたのか、
まったくの作り話と思っているのか、こんなビッグ二ユースが話題にならないのは
なんとも不思議ですよね。
もし、本当ならばもっと有名になっていてもおかしくない話なのですが。
では大坂城で自害したのは秀頼だけだったの?
と疑問も沢山残りますが、群馬県には甘楽町に織田信長の次男織田信雄の小幡陣屋もあるので
まったく縁もゆかりも無い場所というわけでもない。
こんな興味深い話があるのに、何か証拠は出てこないのかなあ。
古文書とか出てきたら面白そうなのですが。


令和2年6月21日訪問



松坂城(三重県)

2020年09月19日 |  百名城
松阪城 まつさかじょう
別名
構造 平山城
築城者 蒲生氏郷
築城年代 1588年(天正16年)
指定史跡 県指定史跡
場所 松阪市殿町 地図
スタンプ設置場所 松阪市立歴史民俗資料館 本居宣長記念館
(休館日は松阪市観光情報センターに設置)
城郭検定出題あり

1584年(天正12年)羽柴秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、
飯高郡矢川庄「四五百森」の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで
1588年(天正16年)に入城できた平山城がかつての松坂城です。
蒲生氏郷は後に会津若松へと移るため、松坂城に居たのはわずか2年でしたが
松阪開府の祖として今でも松阪市民に愛されています。



駐車場

以前訪れた時は、本居宣長記念館に駐車して散策した記憶がありますが、
今回はこちらの松阪市駐車場を利用しました。


大手

大手を真直ぐ城に向かって登城口へやってきました。


高石垣

石垣は穴太衆の野面積を中心に、算木積や打込接など時代の違う組み方が混在し、
幾度となく修復を重ねられていることがわかります。



反りのある高石垣、これは前回訪れた時の貴重な写真です。
この時は晴れていたのになあ。


表門跡

二階建ての本瓦葺の屋根の櫓門がありました。





井戸

城内では井戸が6基あったとされています。
築城当時からある井戸で、現在も水が湧いているという。


松阪市立歴史民俗博物館

1910年(明治43年)、皇太子の飯南郡への行幸を記念して、
飯南郡図書館として建設され、明治45年4月に開館しました。
100名城のスタンプもこちらに設置されています。
他にも、本居宣長記念館にスタンプが設置されており、
私は以前訪れた時に記念館の方でスタンプを押しています。


助左衛門御門跡

表二の門には、城主を務めた古田重勝の弟である古田助左衛門の
名が付いています。
表門と同じ櫓門があったとのことです。





本丸下段

本丸は上段と下段に分かれています。


月見櫓跡

松阪を舞台にした小説「城のある町にて」の一文が刻まれている梶井基次郎文学碑があります。





太鼓櫓跡

時を告げる太鼓櫓のあった場所です。



本丸下段から直接金の間櫓へと登れる階段です。
なぜか目にとまる石垣の階段で、前回訪れた時にも子供たちが
この階段を一生懸命登っていた思い出が残ります。


本丸金の間櫓跡

二層の櫓で、金箔の貼った黄金の間があったことから金の間櫓と呼ばれていました。


井戸跡

井戸跡と付近には排水溝とこれに続く暗渠排水溝が塀中門付近まで続いていました。
高い場所での水の対策(貯水と排水)が重要視されて造られていたのがとても特徴的です。


本丸上段

本丸上段の周囲の石垣は北廻多聞跡と北続多聞跡で、
中の広い部分は兵部屋敷跡(御殿跡)です。
この兵部屋敷跡は昭和25年から昭和58年まで上水道の配水池として使用され、
大きく掘り込まれてしまったことにより遺構は破壊され、消滅してしまいました。
しかし、兵部屋敷跡の周囲の部分には排水溝跡、礎石列、石畳等の遺構が確認されたのは不幸中の幸いです。


北廻多聞跡

北廻多聞跡は、敵見櫓北続多聞跡の北端から直角に西方向に延び、
金ノ間櫓跡と接続しています。
それにしても、この石垣の幅が気になるとこで、敵見櫓と金の間を結ぶ多門櫓だったとしたら
ただの塀しか築けないような幅しかないのに疑問を感じました。
ちょっと細過ぎやしませんか?


鐘の櫓跡

北廻多聞跡の上から下を覗き込むと、下の段に鐘の櫓跡が見えます。


藤見櫓跡

藤見櫓は、藤見の宴が催される櫓という説と富士山が見られる櫓という説があります。


敵見櫓北続多聞跡

先ほどの北廻多聞跡とは違って多聞があったことを想像出来るだけの幅が
あることが確認できます。
では、北廻多聞跡の石垣は細過ぎないかという疑問は…
石垣の内側(兵部屋敷跡)で一直線に並ぶ礎石がみつかっていることから
内側に張り出す形で2間(4m)の多門(渡り廊下)であったことが数字的には合っているとのこと。
敵見櫓北続多聞側でも一直線に並ぶ礎石がみつかっていることから、
更に広い3間(6m)の多門が築かれていたと推定されていることを知り、
北廻多聞跡の石垣の疑問がスッキリしました。


敵見櫓跡

天守跡より一段低い付櫓跡と続きにある敵見櫓跡は、
付櫓跡との間に石垣の区切りがあります。


天守跡

天正7年に織田信雄が築いた松ヶ島城から移築されたと思われる
金箔瓦などが出土しています。
また、中央を中心として、栗石がびっしりと敷き詰められていたことが
調査によって判明しています。


転用石

松坂城でも、松阪近郊の石という石が集められ
これだけの多くの石垣の中には転用石が使われている箇所があるので
探してみて下さい。
天守台には古墳時代の石棺の蓋が使われていますが
これが一番発見しやすいと思います。


天守への階段

天守台の階段は崩れかけているので
階段としてはとても歩きずらい形になっています。
それでも上から見た時は、何やらここを通過することが出来そう…と思い、
降りて来て振り返ってみると、やはり階段状になっていたことがわかりました。


天守台

最も古い石垣がこの辺りの石垣で、他の石垣に比べ古い積み方になっています。
しかし、出隅の石は割石が用いられ算木積みへの移行の様子がうかがえます。
付櫓跡の看板のある階段は、実は築城当時にはなかったもので付櫓は兵部屋敷に繋がっていました。


きたい丸

松坂城を完成させた3人目の城主、古田重勝の子どもの幼名が「稀代丸」だったので
その名が由来となっている曲輪です。
四角には隅櫓がありました。


眺望

天気があまり良くなかったので、遠くの山々などは残念ながら見えません。



駐車場が見えます。自分が乗って来た車もバッチリ見えています。


角櫓跡

ここにも櫓。
角にはなにかしらの櫓があったようで、
ここには特別な名は無い角櫓があったのですね。


梅林

約30本ほどの梅林園で、2月中旬から3月上旬には紅梅や白梅が花を咲かせます。


中御門跡(裏二の門)

こちらも枡形で二段に折れています。


隠居丸

かつて隠居丸には2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵がありました。
後に米蔵は御城番屋敷の敷地に移築したとされています。
現在の隠居丸には松阪出身の江戸時代の国学者本居宣長の旧宅「鈴屋」の保存を願い、
城下町にあった建物を移築保存しています。


二の丸

大坂夏の陣の後、城主であった古田重治は石見浜田へ移ると
松坂藩は廃され、紀州藩の直轄地とされました。
この二の丸には紀州藩の出先機関が置かれ、徳川陣屋(御殿)が築かれました。


藤棚

説明をよると、この藤はかなり古いもののようです。
そもそも、ここに寄贈される前が樹齢100年以上であり、
現在は通算300年以上という老樹です。


徳川陣屋跡

この二の丸には紀州藩の出先機関が置かれ、徳川陣屋(御殿)が築かれました。
松坂城は廃藩置県を迎えるまで続いたのですが、紀州藩の管轄になってからは
建物の整備がされずに荒廃し、天守も台風で倒壊したままとなり、
二の丸御殿は明治10年に失火で焼失してしまいました。


裏門跡

搦手側にあった城門で、表門同様に二階建ての櫓門がありました。



1646年(正保3年)の台風で櫓門の二階部分が破損し、
その後の改修は茅葺屋根となり、そのまま放置されることになりました。



御城番屋敷側から見た二の丸の石垣です。



写真のデータを失くして以来、ずっと再登城したくていたので
やっと願い叶ってすっきりした気分です。
前回は早朝に訪れ、腹痛に悩まされ急ぎ足で巡って来たこともあり
高石垣の印象しか残って無くて、こんな景色だったっけ?というところがあまりに多く驚きました。
その頃は100名城のスタンプ集めのことしか頭になかったんだなあと思い起こし、
なんてもったいない時間を過ごしていたのかと今となって残念な自分に猛省しました。
でも、こうやっていろいろな城を巡っているうちにいろいろと興味が移り変わり
見る目も変化してしていくものであるとも思います。
その時その時の楽しみ方も変化を遂げていくものなのですね。


平成25年5月4日登城
令和2年7月24日再登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

用土城(埼玉県)

2020年09月17日 | 百名城以外の城
用土城ようどじょう
別名高城
構造平城
築城者藤田康邦
築城年代 1546年(天文15年)
指定史跡
場所埼玉県大里郡寄居町用土 地図

藤田康邦用土新佐衛門の隠居所として築城された城と伝えられています。
鎌倉街道を押さえる要所に築かれました。
これまでの居城であった花園城天神山城を養子の北条城氏邦に譲り、
用土城へと退きました。
その後天正18年鉢形城が落城すると用土城も豊臣方に攻められ落城し、廃城となりました。
現況では後世に建てた石碑や地名が残っているのみです。


駐車場

寄居町農業ふれあいセンターの駐車場に車を停めて散策することにしました。


寄居町農業ふれあいセンター

地域の農業を振興させるための施設でのようですが、
屋根を見ると、鯱が載ってます!
ここが城址であることを意識して造られているようです。


馬場曲輪

ただ、残念なことに農地改良したので今は遺構が残っていません。



城跡碑のあるこの場所は、城跡碑によると馬場曲輪に当たる場所のようです。
本丸はここから少し北東へ進んだ畑の中のようです。


城跡碑

城跡碑のある場所は、コンパクトな公園になっており、
周囲には遊具が設置されています。



城跡碑の裏側にまわってみると、
城跡の説明が刻み込まれていました。


天満天神宮

天神山城の麓にある白鳥神社も氏邦が天神宮を厚く崇敬していたこともあり、
菅原道真を祀る天神宮を、康邦も隠居先のこちらで信仰していたのでしょうか。



ところで、藤田康邦が没後、長男の弥八郎が家督を継いだのですが、
沼田城で康邦の養子となった北条氏邦に毒殺されています。
やはり養子縁組をすると家督争いになりやすいものですね。
上杉家でも館の乱のようなこともあるし、
たとえ、実子であっても伊達家のようなこともあるので一言で一概には言えないのですが
身内で殺し合う世の中に生まれなくて良かったとつくづく思ってしまいます。


用土城懐古碑

赤城妙榛三山雄
瓊枝垂桜城址融
戦国生残強食理
藤家三代美民衷



手書きの懐古碑の読み下しがあります。
赤城妙榛三山雄は赤城山・妙義山・榛名山の上毛三山のことで
藤家三代美民衷は藤田康邦・氏邦・弥八郎の藤田氏三代ということのようですね。



大正5年に開墾され農耕地となり、遺構は消滅しています。
しかし、藤田氏の足跡は多く残されているので隠居城となった用土城を
無くして藤田氏を語る訳にはいかないので遺構は無くとも紹介せざるを得ない城跡です。


正龍寺

そして次にやって来たのは、用土城から約3Kmほど離れた
藤田康邦と北条氏邦の墓所があるという正龍寺です。
とても立派な山門が出迎えてくれます。


藤田氏墓

県の指定史跡ともなっている藤田康邦の墓です。
隣には康邦の娘である大福御前を妻とする養子の北条氏邦の墓もあります。
どちらも、夫人と共に墓が建てられています。


攻城団で登録になったということで、県内沼田方面行くより近いので早速訪れてみました。
周囲を見渡すと長閑で要害もなく、城を置くような雰囲気には見えないような場所です。
今の時代なら隠居するなら良いと思うのですが、戦国期で想像すると
簡単に攻め込まれてしまいそうな立地なのにどうしてここだったのかなあ?という気がします^^;
(個人的感想です)


令和2年9月13日登城



東方城(埼玉県)

2020年09月14日 | 百名城以外の城
東方城ひがしかたじょう
別名
構造平城
築城者 不明
築城年代 1456年(康正2年)
指定史跡市指定史跡
場所埼玉県深谷市東方 地図

築城者は定かではないですが、1590年(天正18年)徳川家康の関東入国の際、
松平丹波守康長は一万石を与えられ、この地に居所を構えました。
その後、関ヶ原の戦いでの武功により一万石を加増されて
上野白井城へと移ることとなり、東方城は廃城となりました。




目の前の田んぼは、城があった頃は沼地であったようです。



この林の中に城跡があるのですが、覗いただけで通過してしまいました。
やはり冬場でないと中に入って行く勇気は湧かない…。
できれば、虫とは戦いたくない
というわけで、今回は退散です。


城下公園

林の中に突入!は断念して、代わりに
近くにあった城下公園へ手掛かりを探しに来てみました。
…が、案内看板も無く、空振りに終わりました。
久々の入口シリーズになってしまいました
冬になったらリベンジに行こう!


令和2年9月13日登城


猿ヶ京城(群馬県)

2020年09月10日 | 百名城以外の城
猿ヶ京城さるがきょうじょう
別名宮野城
構造崖端城
築城者上杉顕定か
築城年代1504年~1521年(永正年間)
指定史跡ー 
場所群馬県みなかみ町猿ヶ京温泉121  地図
御城印猿ヶ京関所資料館

猿ヶ京城本丸跡には現在「湖城閣」というホテルがあります。
永禄3年、上杉謙信が宮野城に一泊した時に八本の歯が抜けて掌に落ちた夢を見て
不吉に思ったところ、直江山城守兼続が「関八州を手に入れる吉兆」と励ました。
すると申年生まれの謙信は、この年も申年だったこともあり
宮野と呼ばれていたこの地を「猿ヶ京」と名付けたと伝わります。




猿ヶ京関所跡からホテルに向って真直ぐ入って来ると、
「湖城閣」のアーチが見えて来ました。
ちなみに、猿ヶ京関所跡では今がブームの御城印が販売されています。
ぜひ、こちらと合わせてお立ち寄り下さい。


駐車場

ホテル「湖城閣」の駐車場があり、ここから素晴らしい空堀が見えます。
この先は本丸です。



こちらのホテル駐車場(日帰り温泉用)を拝借し、堀を覗き込みます。
正直、こんな立派な堀切が残っているとは思っていなかったのでびっくりでした。


内堀

駐車場から空堀を覗いています。
見事な堀があり、テンション上がります



民家脇のギリギリのところまで行ってみたのですが、ここまでかな。


湖城閣

堀の向こうはホテル湖城閣です。
各部屋が赤谷湖向きになってるのが見えるので眺望も良さそうですね。
こちらは、宿泊はもちろんのこと日帰り温泉も楽しむことが出来ます。
公式HPを見ると行きたくなります!
温泉の効能にストレス・胃腸、そしてダイエットしても痩せられないお年頃に突入してしまったので
肥満とあるのがとても気になります^^;



わりと深くて幅もあるのでしっかり本丸を防御していたと思われます。


本丸虎口

ホテルの奥の方に本丸が続きますがホテルの先は確認は出来ませんでした。
ホテル湖城閣の入口(玄関)には提灯と家紋が飾られ古城跡を意識した
工夫がされています。



本丸虎口脇にある階段。
ここから土塁に登ることが出来ます。


武者走

かつてはこの土塁が本丸を囲んでいました。
現在は一部が残るのみです。
そして土塁の上には「お願所めぐり」の天狗さまが祀られています。
猿ヶ京温泉では神仏へのお願いごとを「おがんしょかけ」といい、街道沿いの地蔵様にお参りをし、
願いが 成就すると地蔵様や神々にお供えをしてお参りをして「おがんしょばたし」をするという風習があります。
関所資料館で「猿ヶ京お願しょめぐりマップ」をもらい、スタンプラリーを楽しむことができます。



土塁からの眺めは良く、足元には堀と赤谷湖。
これはホテルの温泉に浸かりながらの眺めが一番良いのだろうなあと想像出来ます。
ところで、この湖は昭和33年にダムを造り、人工的に出来た湖です。
そのため、大手道もこの湖に沈んでいます。



道路を挟んで反対側の内堀です。


案内看板

ホテルの敷地を入ったところにあるこの案内看板には、
猿ヶ京城の由来と上杉謙信が猿ヶ京と名付けた由来が書かれています。


土塁

土塁が残り、その奥は先ほどの内堀が巡っています。



西の土塁が見えて来ました。
あそこまで行ってみよう!


外堀

西側に残る土塁めがけて接近して行くと外堀も見えて来ました。
外堀もかなり浅くなってはいるものの、ちゃんと判別できるだけの
遺構は残っています。


二重堀

外堀の土塁の上から二重の堀が見えます。


外堀看板

この外堀の先が大手道となり、湖の方に虎口があったようですが私有地のため確認出来ませんでした。


御城印

御城印は、まんてん星の湯、猿ヶ京関所資料館にて販売しています。


築城当時は湖はなく、まさかこのような風景になろうとは
まったく想像していなかったでしょうね。
そして赤谷湖の下にも名湯があったのかと思うとなんだかもったいない気もします。


令和2年6月20日登城



密岩神社(群馬県)

2020年09月07日 | その他
密岩神社みついわじんじゃ
別名密岩神社里宮・奥宮
構造神社
年代不明(600年前)
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字郷原1126 地図

奥宮といわれる古くからの神社は、登山道の中腹にあり
崖の岩の中に造られた社で、誰がどうやって造ったのかわかりません。
現在はそこへ行くことも出来ない危険な場所にあります。
秘境の社・密岩神社奥宮を離れた場所からお参りするしかなく、
この地に里宮が設けられ、遷宮が行なわれたました。



密岩神社駐車場

車はこちらの駐車場へ置いて、徒歩で神社まで行きます。


岩櫃山周辺ガイドマップ

駐車場にはガイドマップの看板があります。
というのも、ここから密岩神社はもちろんのこと、潜龍院跡も徒歩で行けるのです。
またハイキングを目的としてなら、さまざまな見所も確認出来ます。



真直ぐ進むと潜龍院跡へ。
左折すると密岩神社へ。
左の建物にはパンフレットも設置されています。



岩櫃山を眺めながら密岩神社まで徒歩でもう少し。


密岩神社

これは岩肌がよく見える冬場の光景です。
ここから見る岩櫃山が迫力満点!
大河ドラマ「真田丸」放映中は観光地としてとても賑わっていました。


案内看板

密岩神社のいわれと御利益は…
とてもせつない物語が書かれているのですが、これが岩穴に祀られた由縁で
御利益は、五穀豊穣・家内安全・安産子育です。
特に安産子育は、真綿を赤い布でくるみ乳首に似せたほおずきを奉納すると
お乳の出が良くなるそうです。



以前訪れた時には気が付かなかったのですが
遊具があったんですね。


御城印・御朱印

岩櫃山平沢登山口観光案内所で購入した、近頃ブームの御城印と御朱印です。
岩櫃城・密岩神社・金剛院の3枚セット500円で販売しています。
東吾妻町観光協会でも販売しています。


今回は、一眼レフカメラで岩櫃山が撮りたくて訪れたのですが
これが功を成して、9月3日発売の「全国 御城印 大図鑑」(攻城団著書)の岩櫃城のページに
写真が載りました!

それがこちらの本になります。
中はお見せ出来ないので、書店で見かけたらぜひ、手に取って見てみて下さい。
掲載数も多く、御城印の知りたかった情報が網羅されています。
ぜひ、ぜひこの本を持って御城印収集を充実させてください!


平成28年2月28日訪問
令和2年5月30日訪問

田丸城(三重県)

2020年09月05日 | 続百名城
田丸城たまるじょう
別名玉丸城
構造平山城
築城者不明
築城年代1336年(延元元年)
指定史跡県指定史跡
場所度会郡玉城町田丸 地図
スタンプ設置場所玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)
御城印玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)

伊勢参宮本街道と熊野街道の分岐点で、伊勢交通の要衝として栄えていました。
織田信長の伊勢侵攻により、伊勢北畠氏の田丸城は織田家の嫡男が送り込まれました。
その後信長の二男信雄が田丸城の大改修を行い、三重の天守を築きました。
しかし、天守が放火で焼失すると信雄は松ヶ島城を築いて移り
田丸城は次々と城主が変わり、1619年(元和5年)徳川紀州藩が成立すると
久野氏の居城として幕末まで続きました。



二の丸南東部の外堀

四周を水堀が巡り、北側は二重堀になっていた堀は
多くが埋め立てられ、外堀は南と東に残されているものが見られます。


大手口

ここには元は、外堀を渡る木橋が架かっていました。


駐車場

玉城町役場の駐車場へやって来ました。


中堀

内堀は石垣とともに良好に残っています。
蓮がいっぱいで、見頃を迎えて多くの人が見に来ています。


大賀蓮

蓮の花が堀と石垣に映えて、皆さんカメラやスマホで撮影しています。



蓮の見頃は7月~8月で、開花する午前中がおすすめです。


二の門

蓮の堀を堪能して、二の門へ。
大手から三の丸への入口になります。



城門は設置されず、ここで道をL字に曲げて
横矢を掛ける仕組みになっています。


蓮池跡

蓮池跡ということは、ここはもともと蓮池だったということでしょうか。


富士見門

田丸城が廃城になった明治維新の当時、城内には8つの門が残されていました。
三の丸にあった富士見門は江戸中期のもので、
かつては門の両側に長屋が付いていたことから、長屋門ともよばれていました。
乙部家に移築されたものがこの地に再移築されました。


案内看板

北の丸下の本丸への登城口にある看板です。
ここには5台ほどが駐車出来る駐車場があるので
本丸に最も近い駐車場と思われるので手軽に本丸を目指したい方はここまで
車で来られます。


本丸虎口

車止めのあるここから徒歩で約5分ほどで
本丸に行くことが出来ます。



この入り組んだ石垣、路面がアスファルトなのが残念ですが
美しいですよね。


城門跡

あっちも石垣、こっちも石垣、石垣だけでめっちゃ興奮します!



下には三の丸の駐車場が見えています。



北の丸東側の石垣です。


北の丸

北の丸には城山稲荷社があります。
やはり北側とあって、薄暗い曲輪です。



本丸東側の石垣です。
横矢を掛けるために直角に曲げているのは織田信雄の策略で
攻撃と防御を兼ね備えているとのことです。


本丸虎口

他の石垣と異なりこの場所には整えられた石垣が見られます。



角の石には加工の跡が見えます。
正面には鏡石も使われていて、さすが本丸の入口です。



いよいよ本丸です!


本丸

本丸は広く眺めが良い。
正面の低い石垣の上にはかつて櫓が築かれていましたが、
天正8年に金奉行玄智が金を盗み、焰硝蔵に火を放ち、
その火が城内へ燃え広がり、焼失してしまいました。
この時天守も燃えてしまうのですが、天守は改修されることなく
新しく別の場所に松ヶ島城を築き、信雄は田丸城から移ってしまっています。


西の眺望

本丸からの西の眺望は、眼下に田園が広がっています。
平に広がる田んぼを見ると、石高かなりありそうですよね。


記念碑

西側に出っ張った部分があります。
そこは櫓跡で、現在は記念碑があります。
ここからの眺めも非常に良く、物見的な櫓でもあったのではないかと想像出来ます。


天守台

三層の天守の穴蔵式の土台が残っています。
裾が広く登るに従い狭くなる階段は、他では見たことがありません。



穴蔵式になっているため、石垣に囲まれた部分が地下室のような
造りになっています。
天守の建物はこの石垣の上に建てられていました。


付櫓台

左の一段低い出っ張りの石垣が付櫓台です。


虎口

本丸と二の丸を繋ぐ虎口です。


土橋

本丸の二の丸の間の堀を渡る土橋です。
両脇には大きな堀(帯曲輪)があり、圧倒する石垣も見られます。


堀切(帯曲輪)

大きな空堀ですが、この堀切は二の丸、本丸、北の丸を繋いでいます。
二の丸から北の丸まで本丸へ登らずに、本丸北側を迂回ように回り込むことが出来ます。


二の丸

二の丸は、堀切の部分と虎口付近が石垣造りになっています。
北面、西面には石垣は使用されず、切岸のままの状態となっています。



足元は高石垣、目下三の丸が広がるが、現在は中学校になっています。
三の丸には御台所と呼ばれた居館があり、書院や対面所など政治を司る場所としていました。
田丸領の舵取りを行っていた場所になります。
訪れたこの日は、野球の試合が行われており賑やかでした。
また、すれ違った生徒さんたちは元気に挨拶をしてくれました


忠魂碑

お約束?の公園によくある忠魂碑です。


眺望

冬の早朝には富士山が望めることもあるそうです。
ところで、ここで紹介されてる画像には富士山が写っていないようですが…。
この日も天候が条件が揃わず富士山は見られなかったのですが、
次回パネルを交換することがあったなら、是非富士山が見えた時の写真をお願いしたい


富士見櫓跡

富士山の見える方角にある櫓です。
櫓台は大きくないので富士山を眺めて寛ぐような
優雅なものであったわけではなさそうですね。


二の丸虎口

枡形の構造で、二ヶ所の門を構えていました。
緩い坂ですが、両側の櫓門から攻撃される怖~い虎口です。
左側の石垣は櫓門の袖石垣で右が二の丸の石垣です。


金明水・銀明水

織田信雄が田丸城へ入ると、田丸城築城のため外堀を造るよう農民たちに命じました。
お城の外では、秋のとり入れが始まって忙しいというのに、たくさんの農民がかり出されました。
すると、外濠を掘ったために水質がかわって、民家の井戸水が濁り、
赤黒い水だけしか出なくなり人々は困ってしまいました。
ある日、お城のぬけ穴を掘っていた人夫が、城内二の丸の南石垣下で不思議な水が湧き出てくるのを発見しました。
汲んでも汲んでも透明な水が溢れてきます。
金明水・銀明水というこの水は神の水とされ、困っている人々には救いの水となりました。
この金明水・銀明水は、どんな旱魃の時でもかれることなく湧き出てきたという話が残っています。


二の門

二の門へ帰って来ました。
中から見ても、外から見ても、この折れと石垣は堅固さを感じますね。


奥書院

廃城の際、払い下げとなり農家に移築されました。
その後この地に復元されることとなり、城主久野氏の居間や寝室が
見学出来るようになっています。(要予約)



三の丸奥書院は御殿の一部で、
ここに残るのは城主の居間と寝所だけです。


村山龍平記念館

村山龍平記念館は、朝日新聞社を創始した
紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族「村山龍平翁」の記念館です。
そして、続日本100名城のスタンプ設置場所です。


スタンプ設置場所

続日本100名城のスタンプを押して、アンケートに記入して、ステッカーと御城印を頂きました。


模型

天守の付櫓はどんなふうに付いていたのだろう?と思っていたら、
模型がありました。


田丸城郭縮尺模型

これで全体像が確認出来ます。


夫婦杉

大手二の門入口付近にあった樹齢350年の杉の大木。
昭和34年の伊勢湾台風により倒れたもので残った一部が保存、展示されています。


磁石橋

帰りがけに看板のある橋を通りかかり、車を停めてみました。
この橋は大手町から板屋町入口の善兵衛川に架かる石橋で、
南北に架かる橋だったことから磁石橋と呼ばれていたようです。


とにかく石垣が美しい。
続ではなく100名城でも良かったのではないかと思わせる規模の石垣に
ゾクっとしました。
やはり、藤堂高虎も入っていましたかという造りでした。
石垣好きにはたまらない城跡ではないでしょうか。

※本丸でカメラのレンズキャップ(キャノン)を拾ったので村山龍平記念館の窓口へ届けておきました。
高いものじゃないし、落しがちなものですが、心当たりがあってまた行くことがあるようでしたら聞いてみてください。


令和2年7月24日登城





続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス