むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

須賀尾宿(群馬県)

2019年12月31日 | 関所・宿場
須賀尾宿すがおじゅく
街道名信州街道・草津街道
設置1624年(元和10年)
廃止明治維新
指定史跡
場所吾妻郡東吾妻町 地図

須賀尾宿は、信州街道と草津道の分岐点に位置し、峠下にある宿場です。
この街道は上州と信州を結ぶ最短距離の重要な街道で、大戸と大笹に関所が設けられていました。
現在、街道沿いには民家が軒を連ね、屋号の看板が建てられていて、
宿場町だった雰囲気が残されています。




待避出来るスペースがある場所に、須賀尾宿の案内看板が立っています。
この辺りを通過する際に、屋号が掲げられていたので宿場町なんだなと
通るたびに気になっていました。



俳人の小林一茶が草津への旅の途中『須賀尾宿』に泊まり、
「麦わらのマンダラもおれ筥根山」という句を詠んだことが伝わります。


屋号

私の生まれ育った信州高遠の家も、宿場に家があったこともあり屋号がありました。
ここを通るたびに同じ屋号を見かけて、気になっていました。


宿場の様子

宿場には茶屋・居酒屋・旅籠屋などが立ち並び、
旅客で大賑わいを見せていました。


幾度となく通っている道で、ようやく案内看板のある場所で足を止めてみました。
この日は旧草津街道の接する萩生城へも寄り道して須賀尾から大戸までの重要地点を散策しました。
宿場町の雰囲気がよく残り、通過するだけで宿場町であったことがわかります。
掘り下げて調べてはいないのですが、長年気になっていた通りなのでちょっと気が済みました。
次回は吉岡神社へ行って高遠の石工が造ったという灯篭を見て来たいと思います。


令和元年11月17日訪問



ウッディジョー ミニ建築 No.3 里の茶屋 木製模型
ウッディジョー(Woody JOE)
ウッディジョー(Woody JOE)

上原城(長野県)

2019年12月30日 | 百名城以外の城
上原城うえはらじょう
別名
構造山城
築城者諏訪信満
築城年代1456年(康正2年)
指定史跡県指定史跡
場所茅野市ちの上原 地図
城郭検定出題あり

上原城は、諏訪氏五代70年余り諏訪地方を統治していましたが、1542年(天文11年)に
武田信玄によって滅ぼされ、以後武田氏によって統治されるようになりました。
この辺りは街道や峠道の集中する交通の要所であり、中腹にあった居館は「板垣平」呼ばれ、
麓の諏訪盆地には城下町を構えていました。



駐車場

駐車場には看板も設置されています。
大河ドラマ「風林火山」など放映されていた頃にはさぞかし賑わったのでしょうね。
看板を見るとここには公衆トイレも設置されていたようですが
現在は駐車スペースと看板だけです。


下馬・下乗

ここで馬を下りて入城します。
先客がいなければ、この付近で馬ならぬ、車を降りて入城することが出来ます。


堀切

下馬してすぐに見える大きな堀切。



かなり整備されているようで、とても綺麗な道です。



石仏と堀切が見えて来ました。


畝状竪掘

南東斜面を覗き込むと、畝状の堀が見えます。


堀切

右は山の出郭、左が主郭になっていて
その間を大堀切で主郭の防御をしています。


三十三番観音

紅葉した木々と、道に沿って並ぶ石仏が風情あって良い感じです。



大きな石があちこちに見えて来ました。
この先が三の郭です。


かまど石

下に回って正面から見ると竈のように口が開いているようです。


三の郭

さほど時間がかからずに三の郭に到着。
ここには金毘羅神社があり、眺めも良いので郭自体が物見のようです。




かつては、東方にある永明寺山より木管で水路を引いて飲料水が湧き出る仕組みになっていました。
現在はヒューム管に改修されているようです。


眺望

諏訪盆地や城下町が見下ろせて、正面には高遠からの出入りが見える
杖突峠や、有賀峠も見渡すことが出来ます。
そして、夜になると杖突峠側から山の中腹にポツンと見える灯りが
目の前にある街灯の明かりであったことに、ここでようやく気が付きました。


金毘羅神社

眺めの良い立地です。
諏訪盆地の民を見守るかのようで、鳥居からの見晴らしはとてもすばらしいです。
鳥居に隠れきれなかった



金毘羅神社は、1805年(文化2年)頼岳寺の鎮守神として
四国の讃岐より金毘羅大権現を誘請してこの地に祀っています。


腰郭

この腰郭を経て西の方へ向うと、更に郭群が設けられており
理昌院平と呼ばれる郭も配されています。
ちなみに、「理昌院」とは高島藩初代藩主の母の名前です。


二の郭

正面が主郭です。
この辺りの平場が二の郭になります。


物見石

二の郭には巨大な岩があります。
見上げていたら、なにやら足場板があるではないか!
物見岩とは言うが、登れるのか?



裏に周り込んでみたら…ありました!
ちゃんと登れるようになっています
とは言え、とても私は登れる気がしないので足軽に様子を見に行ってもらいました
でもね、このカメラ持って行って欲しかったなあ。
せっかく物見石に登ったのにそこからの眺めはどうなの?…



スマホから写真が送られて来ました!
こちらが物見石からの眺めです!
今は樹で視界は遮られています。
こんな足場が付いているので、勇気のある方はトライしてみて下さい。



それではいよいよ、二の郭から最頂部にある主郭へと登って行きましょう!


主郭

縄張図によると西以外の三方には土塁があるはずですが、
名残程度の高さであるのか無いのかよくわからにほどの高さになってしまっています。





大堀切

先ほど見た山の出郭との間の大堀切です。
上から見ると、こんなに切立っています。



北側を覗き込むと、下に郭群が見えます。
行ってませんが、この更に先の方に理昌院平があります。



これは何の跡でしょう?
あまり大きくないので社でもあったのでしょうか。
気になるのですが今のところわかりません。


虎口

主郭の虎口は一ヶ所で、ここからの出入りのみになります。



では、戻って中腹にある板垣平へ行ってみたいと思います。



駐車場に戻りました。
駐車場より北に延びた道のあずまやの見える辺りが、
「竜の池」という水の手であるようです。



~ 板垣平 ~


虎口

遠くからも見える上原城址の看板はここにあったんですね。
そしてここが板垣平と呼ばれる場所で、居館が置かれていた場所です。


館跡碑

この石碑がある場所が板垣平の虎口となります。
また、石碑の下はもともと土塁があった場所です。



館跡の石碑から、私有地になっていますがその平らな部分に館が建てられていました。
奥には家老屋敷がありました。
現在はわずかな石垣が残っているようです。


案内看板

上原城へ向う前に、ここを通過したのですが
こちらの方が先に出て来るので、ここを先に見てから行くということも出来るし、
大手道から登るとなるとここに車を置いて、ここから徒歩で登城することも出来ます。
この看板付近から大手道があるようですが、今回は確認して来ていないので
入口の画像がありません。



もともとここには諏訪氏の居館があった場所なのですが、
武田信玄により諏訪氏が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代を勤める
板垣信方の館となり、改築されました。
それ以来、板垣平と呼ばれています。



武田信玄が甲府との中継地点として使用したとても重要な支城であったという上原城。
杖突峠や大門はよく使う道なので我が道のようでしたが、初めて上原城、桑原城側へ来て見て
いつもと逆の景色に、新鮮な諏訪地方を見た思いです。
また、村上義清の「戸石崩れ」の際にも武田軍はここを拠点に出陣、帰陣としています。
大軍が滞在出来る機能が確保できることで多くの戦で利用されていたこを知り、
もっと早くにここを訪れていてもよかったのに、いつでも来られるなんて後回しにしていたのが
ちょっと悔やまれました。
そんなもんだね。


令和元年11月16日登城



今回の参考本
宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)
宮坂武男
戎光祥出版




長野原城(群馬県)

2019年12月28日 | 百名城以外の城
長野原城ながのはらじょう
別名箱岩城
構造山城
築城者羽尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所吾妻郡長野原町長野原古城 地図

羽尾道雲入道の城であったと伝わる長野原城は、武田方であった頃の真田氏の一門である鎌原氏と
境界争いをしていました。
もともと、羽尾三兄弟の本拠地は羽根尾城で羽尾道雲入道は三兄弟の長男です。
城は南北へ鳥が羽根を広げたように縄張りされていて、吾妻地方でも代表する
要害の城です。


長野原町の旧庁舎

国道145号線沿いのJRバス長野原支店の向い側に長野原町公民館があり、
そこを入ると雲林寺があり、長野原町公民館の駐車場を利用して城址を目指しました。
長野原町の旧庁舎は取り壊されていました。


大手道

長野原町の旧庁舎近くの民家と民家の間に道があります。
こちらは何も表示はありません。
お墓の裏に道があります。



この先を登って行くと城跡にたどりつくとのこと。
この道に入る手前の家の方が声を掛けて来たので、城跡に行きたいことを告げると
行き方を教えてくださいました。



ギリギリ軽自動車の幅があります。
最近ではなさそうですが、車も通っていた名残があります。
しかし、道は台風で荒れて大きな石が出て来ているので歩くほかありません。



真田の赤い旗が見えて来ました。
手書きの看板もあるのでそれに従い、山を登る方へと進みます。
ここからは少し道がわかりずらくなるので帰りに迷子にならないように
しっかり景色を覚えながら進みましょう!



道は尾根伝いに進んで行きます。



所々にポイントとなる旗と看板が設置されています。
これが無かったら道中とてもわかりずらいです。



ピンクリボンを頼りに辿って行きます。



倒木もあり~の、獣道のような誰かの歩いた跡を辿ります。
帰りはこの辺りで道を間違えたりしたので山を歩き慣れていない方は注意です。



ボロボロになった旗が見えて来ました。
ここが長野原城の西端になります。


堀切

西からの最初の堀切です。
まずはここが西の防衛線となる場所です。
そして、本丸の方向を示す看板が落ちてますが、ロープ沿いに上を目指します。



途中、郭群が見えたり尾根を歩いたりといった道が続きます。


大堀切
大堀切を中心に、堀切の両側には郭が段々に構築されています。


主郭

大堀切から間もなく、頂点に主郭があります。
ここに城址碑と案内看板があります。



主郭の東側は…落ちています。
こちら側からとても登れる状態ではありません!



主郭から一度下って秋葉山へ。
斜面が急で落ち葉で滑りやすいうえに、片側は崖なのでお気をつけあれ。



ロープのあるところは危険な箇所です。
道の下がえぐれているようなところも…


秋葉山

秋葉社が見えて来ました。
足元には虎口のような形状と石段か石垣か?崩れた形跡があります。


秋葉山の出丸

秋葉社のある場所は出丸になっていて、武者溜として使用。
枝尾根・ノミ痕の石段という看板もあるのでやはり石段があったと思われます。
しばしノミ痕のある石を探してみたのですが私の目は節穴で、みつけられませんでした。



下の看板あたりを下ると、麓の薬師堂へ出られるはずですが
現在は台風で荒れて通るのが困難であるとも聞いているので今回は
こちらへは行っていません。
そしてまた危険注意の看板のある坂を登ります。


箱岩城

一城別郭の縄張りになっていて、先ほど城址碑があった主郭と、ここ三角点のある
箱岩城と二つの城が並立しています。


三角点

三角点は、地球上の位置(緯度、経度、標高)が正確に求められており、
あらゆる測量の基準として、地図作成、地籍調査、道路建設といった各種公共事業等で使用されている場所です。
山城に行くとよく見かける光景ですね。



尾根を更に進み箱岩城の東端を目指します。


東端

ここはロープではなく、しっかり柵が造られています。
それだけ危険な場所ということなんですね。



船の甲板の先端みたいです。



ここから先は三方断崖で、しかも鎖場になっています。
この先には天狗岩物見があるのですが、鎖場を下ってまた帰って来るには
ちょっと覚悟がいりそうだったので今回はここまででギブアップ。
きっとサクサクと行ってしまう人もいるのでしょうが、無理は禁物。
ちゃんと自分の力量を考えて、ここで引き返します。


眺望

ちょっと樹が多いですが良く見えます。
長野原の町を見下ろす良い場所です。
食べるならここかな(^^)



来た道をひたすら帰りま~す。


岩壁

下山して改めて観てみると、岩の壁です。
やっぱり落ちたら死んじゃう要害です



~こちらは前回入口の確認で訪れた薬師堂側の登城路です。~


民家と民家の間に入口があります。
なお、写真はぐんまみらい信用組合前から撮っています。



入口には看板があるので、それに従い進みます。



民家脇にある長野原城跡の標柱。



民家と畑の間に道があるので看板の示す山の方へと進みます。



吾妻線の上の橋を渡って山の方へと道は続きます。



道は薬師堂へと続きます。


一城別郭並列式の二つの城なので尾根伝いに歩いていると、次は?次は?
という感じで好奇心いっぱいで進んでしまいました。
当初城址碑のある主郭までのつもりが、その先の様子を見て来る!と言って歩きだしたら
秋葉山まであっという間に着いてしまい、
思ったより近かったなあ、じゃあ、箱岩城もすぐかなあ?とまた歩き出してみたら、
やっぱりそれほど距離はなく、そこまで行くと「端まで行ってみよう!」なんてことに
なってしまいました。
東端の鎖場を覗き込んで、ようやく今度こそは帰ろうかと決断。
鎖場でなかったら、きっとまだまだ先へと進んでいたことでしょう。^^;
帰りは尾根の道は迷うことはないですが、西の城域を出たあたりで道を間違えたので、
お気をつけあれ。(私は方向音痴です)


令和元年6月23日登城
令和元年11月17日再登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

朝倉山城(長野県)

2019年12月26日 | 百名城以外の城
朝倉山城あさくらやまじょう
別名塩沢城
構造山城
築城者塩沢氏
築城年代天文年間
指定史跡市指定史跡
場所茅野市米沢塩沢 地図

朝倉山城は、武田氏の砦・狼煙台として使われたという伝承があります。
小県・佐久・川中島方面に繋がる要路大門峠を見張るのに適した場所で、
天文年間に、城主の塩沢安兵衛が武田信玄に従い信州大門合戦に参陣しています。
信玄没後塩沢寺を開基し、寺裏に自然石で塩沢氏の墓石が残されています。



搦手道入口

登城道は塩沢方面からの大手道と、ここ搦手道(勘助道)の二つの道があります。
この左手の山に朝倉山城があります。


勘助道

これより先に「勘助道」と呼ばれるつづら折れの道があるという。
山本勘助に関してはいろいろな謎が多い人物ですが、そのわりに各地に勘助〇〇という
場所を目にします。


この日はたまたまマラソンコースから外れるために迂回路として入り込んだ道沿いに
朝倉山城の看板を見つけたために、慌ててUターンをして入口の確認だけして来ました。
予定になかったのと、ゲートがあったことでこの日は登城口だけの確認で済ませました。


令和元年11月16日登城


1人で100人分の成果を出す 軍師の戦略
皆木和義
クロスメディア・パブリッシング(インプレス)



模造刀-美術刀剣-関 山本勘助拵え太刀 戦国武将
V.ROAD
V.ROAD

お城EXPO2019

2019年12月24日 | イベント・行事

今年もお城EXPO2019へ行って来ました。
毎回思うのですが、カメラ持参のわりに撮影している暇もなく歩き回っているので
写真はあまり撮っていなくて、帰ってきてからブログにするほど画像が無いことに気が付く…^^;


お城EXPO検定2019

今年はお城EXPO検定に挑戦してみました。


しろっぷ

しろっぷくん登場!
日本城郭検定の特別編とあって、やはり普段の城郭検定と少し問題が違います。
お城EXPO2019観光情報ゾーンに出展している城に関しての写真問題が多く使われています。
ということは…次回の対策としては試験前に入場して、どこの城が出展しているのかや、
パネルなどの写真をチェックしておくことでしょうか^^;


駅弁

お昼は、今年台風19号により長野で水没してしまったこの新幹線の駅弁。
鉄道に乗るのは苦手ながら(移動手段はほぼ車)、金沢城にゆかりのあるこの新幹線だけは
親しみを感じているので、容器欲しさに北陸新幹線E7系の形のお弁当を購入してみました。


城めぐり観光ゾーン

こちらは「麒麟が来る!」や御城印がブーム。
限定御城印の行列や、各地の御城印完売というのが多く見られました。
全部買い歩いたらとんでもないことになりそうだったので、どこの御城印を買おうかと
絞り込むのに悩みましたが、私は諏訪原城の御城印を買いました。
城下町物販ブースといい、
あっちもこっちも観たらほしくなってしまうものがいっぱいで目の毒です。


~22日~


最中

二日目は厳選プログラムお目当てでやってきました。
朝食が間に合わず、1階で最中を購入して小腹を満たすことに。


特選プログラム

毎年楽しみにしているのが春風亭昇太・萩原さちこさんのトークです。
とにかくこのお二方のトークの魅力は、本当に紹介の仕方が上手で
行ってみたくなるんですよね。
今年は「レポート!惜しくも消滅した南山城」というお題目でのトークで、
今回も楽しませて頂きました。
毎年ここで紹介された城を次の年に訪れるというのが私の中での恒例だったのですが
今年は消えてしまったお城がお題だったので来年行っても見られないという
なんとも残念なことに…。
南山城が見られないのが本当に悔しいです。
時間が押してしまっていたのですが、最後のドローンの映像もおもしろかった。
発掘されていた方々の演技もでしたよ(^^)


大阪冬の陣図屏風

東京国立博物館が所蔵する「大坂冬の陣図屛風」をもとに千田嘉博教授監修で
印刷会社がデジタルで復元制作した屏風絵です。
それにしても、インクジェットプリントとは思えない


デジタル想定復元

デジタル版のミニサイズ。



丸岡高校の生徒さんたちによる丸岡城の劇をやっていたので寄ってみました。
同じ年頃の子を持つ親としてはこのような活動をされているのがとても
ほほえましくて、楽しく観させていただきました。
沼田城、七尾城、丸岡城と高校生たちの活躍が、若い人たちにも郷土の歴史に興味を持ってもらえる
とても良い活動でいいなあと思います。
がんばれ!高校生諸君!


今年も攻城団団員さまとの交流も出来たし、上田の山城サミットプレ大会で
お城EXPO行きますね!ってお会いした萩原さちこさんと城めぐり観光情報ゾーンで再会出来ました。
しかも、私のことを覚えていいただいていたことに感激!
こんなうれしいクリスマスプレゼントは他にはない。
そして攻城団プロデュースの丸岡城Tシャツのデザインがかわいいと言って下さり
さちこさんのこーゆー心遣いもとても好きです。


また、来年も絶対行きますとも\(^o^)/


令和元年12月21日訪問
令和元年12月22日訪問

[カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」
萩原 さちこ
マイナビ出版



続日本100名城めぐりの旅
萩原 さちこ
学研プラス

三崎城(神奈川県)

2019年12月19日 | 百名城以外の城
三崎城みさきじょう
別名三浦城・北条山城・宝蔵寺城
構造海城
築城者三浦氏
築城年代不明
指定史跡
場所三浦市城山町 地図
御城印Cool Clan URAGA

三崎城は、三浦氏が新井城を守る支城として築いた水軍拠点の城と伝わります。
豊臣秀吉による小田原平定後、北条氏滅亡と共に廃城となりました。
学校や公共施設の建設により改変がされ、現在は一部や堀の名残が残るのみとなっています。



城址碑と案内看板

三崎中学校の道路沿いにある城址碑と案内看板。
この辺りを中心に四方に広がる三崎城跡。
そして、この道ははかつての堀です。


三崎城説明図

こちらの縄張図と現在の地図を重ね合わせると土塁や堀の位置は一致する箇所が
あるのでそちらを散策に行ってみたいと思います。


主郭土塁

中学校の向いにある青年会館の第二駐車場です。
現在は駐車場になっている主郭の西側には土塁が残っています。


主郭

この右手に突き出すように小さな郭があり、そこには福祉会館の建物があるのですが
立ち入り禁止になっているので樹の間から覗き込み堀跡だけ確認。


二の郭

主郭より広い二の郭です。
奥には青年会館の建物が見えます。
その更に奥に港へと繋がる大手口があります。



主郭から外側に張り出した北条特有の角馬出を眺める。


旧三崎中学校

中学校の入口です。
右手に土塁がしっかりと残っています。


土塁

角馬出の土塁です。
公共施設により改変されたとはいえ、よくぞ残してくれました。


角馬出

中学校グラウンド側から見た角馬出。
本来は土塁を囲うようにコの字に堀があったようですが、完全に埋め立てられていて
真っ平になってます。


三の郭

中学校のグラウンドが三の郭になります。


虎口

中学校の東側にある体育館前の虎口。
両サイドに土塁と、外側の道路が堀跡になります。



校舎裏にも土塁と堀跡が残っています。



光念寺、本瑞寺にも土塁がの残っているのではないかと思い、三崎小学校側へやって来ました。
案の定、土塁らしきものが見えて来ました!


本瑞寺

本瑞寺の門の奥に土塁が見えます。
本瑞寺は和田義盛が造営で、桜の御所跡でもあります。


光念寺

光念寺の駐車場を入ると、本瑞寺との境界にしっかりと土塁が残っています。
光念寺も和田義盛の造営で、和田義盛は鎌倉政権初期の絶大な勢力を持つ豪族でした。


土塁

このように縄張図をもとに散策してみると、ちゃんとその場所に土塁が残っています。
そして堀跡はほぼ道路に変わっています。



主郭下、福祉会館の下から見上げています。
このように海側(南東)は断崖になっています。


改変が進み城址碑や看板しか残っていないのかと思って、期待せずに訪れてみたのですが
散策してみると意外に遺構は残っています。
周囲をぐるっと一周してみて、地形からも傾斜の様子や水軍などの
利用状況の妄想がしやすい構造でもあります。

近くの城ヶ島も水軍に利用されたとされ、北条勢が攻めて来た際も
三浦勢が最後に籠った島のようなので、島にも渡ってみたのですが
有料の橋を通って島に渡るも、日が沈むところで時間切れとなり島に渡っただけで
引き返して来ました。
お金を出して橋の上から富士山と夕陽を見ただけになってしまいましたが
とても綺麗でしたよ(^-^)


令和元年12月14日登城


今回の参考本
関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館



新井城(神奈川県)

2019年12月16日 | 百名城以外の城
新井城あらいじょう
別名小網代城
構造平山城
築城者佐原氏
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡
場所三浦市三崎町小網代 地図
城郭検定出題あり

新井城は、相模三浦氏の居城で北条氏により滅ぼされた城です。
三浦半島を支配していた三浦氏は、北条早雲の大軍を相手に3年間籠城して
奮戦しましたが全滅し、三浦一族は自害し、将兵は討ち死にする者や
油壺湾に投身する者があり、海は一面血で染まり油を流したかのような光景に
なったことから「油壺」という呼ばれるようになりました。



内の引橋

ここまで来る前に、油壺線を走っていると「引橋」という信号機名に気が付きました。
気にはなったものの、停まって確認するところまで至らなかったのですが
そちらが「外引橋」で、案内看板も設置されています。
そしてこちらが、城の入口にある「内引橋」のあった場所です。


遊歩道入口

城址の周辺にはハイキングコースがあり、土塁や堀切を見ながら
散策できるコースになっています。


東大地震研究所入口

ここからも見えるように土塁が残っています。
東大地震研究所内から見学したいところではありますが、私有地なので
立ち入ることが出来ません。



右手は城ノ内の土塁、左は油壺湾です。
真下の海水は透き通り、天気にも恵まれとても綺麗な景色が楽しめます。


案内看板

土塁を見ながら歩いていると、堀切と案内看板が見えて来ました。
その前を一匹の猫が案内するかのように目の前を歩いていました。
看板の裏手が堀切になっています。


堀切

にゃんこは「ここを見てね!」と言わんばかりに堀切へ。
新井城の見所でもある堀切で、ここが主郭の防衛ラインとなります。
この堀切の奥の方に主郭への虎口があるのですが立ち入ることが出来ないのが残念です。


案内看板

堀切からすぐの反対側(海側)にも案内看板があります。
「油壺」と呼ばれる由来がここに書かれています。


石碑

ここからは油壺湾が見渡せます。
ということは…この辺りから身を投げたのでしょうか…。
ちなみに、ここは主郭の伝御殿跡の外側です。
白秋の歌碑もあることで、こちらの遊歩道には「白秋文学コース」と呼ばれています。



右の土塁は主郭の土塁になります。



この先は南郭で、出丸状になっていて物見台として使用された郭です。
東大の臨海実験所の敷地ですが建物の老朽化が進み、
現在は取り壊し工事中になっています。


荒井浜

荒井浜に降りてみました。
主郭の真下になります。


油壺マリンパーク

油壺マリンパーク側へやってきました。
こちらの方に城址碑があるということで城址碑を探しにやってきました。


玄関前

受付で聞いてみたのですが、城址碑のある場所がわからず攻城団で調べると
玄関を正面に見て右手にあるというのでそちらの方向にいってみることに。



奥の使用出来ない駐車場の林の中に城址碑がありました!
また、ここから左手に降りる小道が付いているのですが、
ここを下ると三浦道寸の供養塔があります。


城址碑と供養塔

城址碑と三浦道寸の嫡男義意の供養塔も一緒にあります。
新井城は三浦道寸親子の自害の地ということで怨念が残るという理由から
北条早雲はこの城を落した後、使用をしなかったそうです。



磯料理 あじろ亭

帰りに東大地震研究所入口向いにあるお店に寄ってみました。
外には貝紐が干してありました。


あじのたたき

鯵の目が澄んでいて、目が白くかすみが無いことに感動!
生姜が添えられていますが新鮮なので生臭さなんてみじんも感じません。
私の住んでる場所ではこんな新鮮な鯵は食べられません。
きっとさっきまで泳いでいたのでしょうね…(T_T)おいしくいただきました。

焼はまぐり

こちらも香ばしくて美味しかった。



お店からこんな景色が望めます。
ソレイユの丘の左側にある長井城跡もここから眺めることが出来ます。(目を凝らせば)

お会計の時に店主の方に新井城を見に来たことを告げると
店主さんもお城が好きだということで、東京大学の理学系研究科附属臨海実験所へ連絡を取り
交渉すれば主郭を見せてもらえるかもしれないということをおっしゃっていました。
運が良ければ説明もしてくれるかもしれないので交渉の余地ありと教えて下さいました。
せっかく良い遺構が残っているので、新しい理学系研究科附属臨海実験所が出来たら
主郭の方は公開していただけると嬉しいのですが。


令和元年12月14日登城



日本城郭検定公式問題集 日本100名城編
日本城郭協会
学研パブリッシング


桑原城(長野県)

2019年12月13日 | 百名城以外の城
桑原城くわばらじょう
別名高鳥屋城・水晶城・矢竹城
構造山城
築城者桑原氏
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所諏訪市四賀桑原 地図

桑原城は、諏訪頼重が最後に籠城した場所で、上原城と直線距離で2Kmほどの距離にあります。
桑原兄弟が桑原郷に諏訪武士として居館を構えた城で、
桑原城麓一帯は上社にとってとても重要な場所であると伝わります。
武田信玄が高遠勢を伴ない攻め込み、開城に追い込まれ諏訪氏滅亡へと追い込まれました。



登り口(普門寺口)

桑原城への登り口は、ここ普門寺口と反対側の桑原口の二ヶ所です。
車で近くまで行きたい私は普門寺口からの登城を選びました。


案内看板

登り口には駐車場と案内看板があります。
この日は先客がいるらしく、自転車が停まっていました。
一般的な車ならば、ここに停めて歩く方が無難です。



ここまでの道のりは、台風の影響でかなり路面は荒れていて、
道の真中はパックリと溝が出来ています。



ここにも駐車場があるのでここに車を置いて徒歩となります。
ここからすぐが城域になります。



道は歩きやすくなっていますが、この時期落ち葉がいっぱいで
滑りやすくなっています。



登りきったところで、尾根沿いに進みます。
右に進むと主郭方面へ。



左下に続く道は桑原口へと続きます。
ここが桑原口からの道との合流地点になります。


堀切

まずは堀切を渡り、東郭へと登ります。



東郭までの間にもわりと武者が溜れそうな郭があります。


東郭

東郭に出ました!
ここは広い帯郭のような形をしています。


首塚

東郭にはこんもりとした小山があります。
物見かなあと思いきや、看板の薄くなった文字は「首塚」とあります。
登らなくて良かったわぁ^^;



ベンチもあるのですが、篠で周囲の景色は望むことは叶わず。



主郭の南下を通り、堀切を経て主要部へ。
このまま二の郭を囲むように西郭と続き、道沿いに小郭群を設け
麓の足長神社裏へと続いています。
こちら側の往来は現在は少ないようで、あまり整備されていなかったので
今回は藪漕ぎもせず行っていません。


堀切

主郭と二の郭の間の堀切です。


二の郭

二の郭は間に堀切って二つに分かれています。
一つの郭を分断しているちょっと面白い造りです。


諏訪湖

とても眺めが良く、眼下には諏訪湖を望むことが出来ます。
敵の動きを読むというよりは、ずっと景色を楽しみたくなるような立地です。
戦国時代はそんな悠長なことは言っていられる状況ではなかったのでしょうが^^;



二の郭側から主郭方面を見ています。


主郭

二の郭から大堀切を見下ろしています。
完全に分断されています。


城址碑

主郭の虎口から左手を見ると、城址碑があります。
場所としては広さも十分あるので標柱サイズでなく、もっとドーンと大きいのがあっても
良かったのかなあなって思ったりもして…。


土塁

主郭には土塁があり、その上に立つと下の東郭から攻めて来る敵があれば
上から攻撃出来るなあ。。。なんて妄想中


石祠

主郭東の土塁の上には石祠が祀られています。


案内看板

東の土塁を背に、ちょっと古そうな案内看板があります。
そして、倒木なのか伐採してまとめてあるのか、井戸の上にあったようで
井戸跡に気が付かずに見過ごして来てしまいました



主郭から大堀切の向こうに広がる二の郭、
そしてその先にある諏訪湖と紅葉でお腹いっぱい、満足しました



~もうひとつの登城口へ~


桑原口

もうひとつの登り口、桑原口を見に行ってみたいと思います。
途中には案内看板もあります。



案内看板通りにどんどん先へ進むと、右コーナー外側に下る道が見えました。
左の矢印に指す先に桑原城があることが書かれた看板もあります。



車幅は車1台分ですれ違いが出来ないうえに、道は荒れていて枯れ葉でとても滑ります。
運転に自信の無い方にはあまりお勧めしたくない路面状況です。
それでも下って行くと分かりやすく沢山看板が立てられています。



下りきると砂防ダムです。すれ違いの出来ない1本道なので、引き返すには砂防ダムで
Uターンすることになるのですが、これが滑る、滑る
四輪駆動でなかったら、脱出出来なかったかも
ちなみに桑原城への登り口はここを右に入って行きます。


杖突峠側からこちらを眺めることはよくあるのですが、実際この辺りに来たことは無かったなあ。
いつでも行ける!と思っているところほど、なかなか行かないもので^^;
やっと来たかという感じです。
杖突側から見る諏訪湖と違った景色が見られて御満悦


令和元年11月16日登城


今回の参考本
宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)
宮坂武男
戎光祥出版




甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館



天神山城(埼玉県)

2019年12月10日 | 百名城以外の城
天神山城てんじんやまじょう
別名白鳥城・根古屋城
構造山城
築城者藤田氏
築城年代不明
指定史跡
場所秩父郡長瀞町岩田 地図

藤田康邦の城であったとされる天神山城は、北条氏の秩父侵攻によって
北条氏が後に入城した記録が残る城跡です。
堀切や郭などの遺構が見られる一方、観光開発による造成により
二の郭、三の郭など改変されてしまっていますが、それでも多くの見所が残っています。



白鳥神社

かつては観光開発で模擬天守へと車で行けたようですが、現在は白鳥神社から
登るルートが一番の近道となっています。


駐車場

神社に駐車出来るスペースがありますが道路から入る道は勾配がきつく、狭いです。


登り口

登り口はわかりやすくすぐにみつかります。



登り始めてしばらくは道幅もあり、普通に安心して歩ける山道です。



すると、石社が見えて来ました。
そうか!ここまでは定期的にお参りに来る人がいるので道が整備されているのですね。



思った通り石社からはご覧の通りの獣道に変わりました。
とは言え、小枝も伐り払われていて手入れをした様子が見られます。



傾斜もあり、人一人歩くだけの道の細さなので足を滑らせたら…と思うと怖い道のりです。
冬場なので道はわかりますが、夏場だと草が生えたら分からなくなってしまうでしょう。



薄暗くなって来たのでそろそろ引き返さないと足元が見えなくなっちゃうな…。
しかし、上を見上げると…右上に建物がみえています。
この距離だし、「行ける!」と思ったのが、後で後悔を招くことに…。


横堀

見事な横堀に出ました。
観光開発された場所なので遺構はあまり期待してなかったのですが
以外にしっかり残っています。


腰郭

主郭下の腰郭です。
主郭はもう目の前!さほど時間はかからず登って来られることがわかりました。



下から見上げると、朽ちた模擬天守が見えます。



この階段を登れば主郭です。
廃墟と化した模擬天守が出迎えてくれます。


模擬天守

お化け屋敷のような、近付くのも恐ろしい風格の模擬天守です。


内部

内部は床も抜け落ち、とても入れる状況ではありません。
カメラが優秀なので、暗い所も明るく補正してくれていますが周囲は薄暗く
怖さ倍増で、中を覗くのも躊躇われるような建物でした。



主郭から下には腰郭が見えます。



二の郭方面には橋が架かっているのが見えます。




大堀切を渡るための橋がかけられていますが、こちらも恐る恐る
一歩づつ足元を確かめながら渡ったため、堀を覗き込む余裕はありませんでした。


堀切

しかし、橋の上から見たらとても良さそうな堀切です。
橋の上で立ち止まるのが怖いので橋の袂から見学しました。


二の郭

左に少し写っている建物は、観光用に建てられたトイレのようです。
もちろん、使えません!(男子便丸見え状態…)



二の郭は長く広いスペースです。
土塁や腰郭もあり、放置してあるのがもったいないほどです。
奥には物見のようなものも見えますが、建物はいらないとして、
城址としての遺構を公開していただけるといいのになあ。。。



そして、二の郭までは車道が付いています。
ここが現役だった頃家族で車に乗って遊びに来たという友達の話を聞いていたので
車が通れる幅の道があるはず!と思い車道を頼りに下る決意をしました。



車道を下り始め、良い道あるじゃん!と歩いていたら…あれ?
道が藪に!!
しかも日が暮れて周囲は暗くなっています。
めちゃめちゃ、不安になって来ました。
ここで懐中電灯登場!
この先は道が寸断され、正面は藪、北には大きな建物が見えるのですが廃墟で
藪漕ぎしてもフェンスに阻まれ、出られそうにありません。
とにかく、冷静になって出口を探そう。
・・・
と、目を少し遠くに泳がすと北側にピンクのリボンと小道を発見!
ピンクリボンを頼りに進むと再び舗装路に出ることが出来ました。



途中、台風19号の影響で崩れた場所もありましたがなんとか車道を頼りに
無事下山出来ました。



ここがかつての車で往来していた観光施設用のゲートです。
どのみち車で城域に乗り入れるということは出来ません。
但し、道さえ分かれば白鳥神社よりは歩きやすいことも分かりました。
斜面を直登するよりは安全だし、体力も消耗しません。



白鳥通りから長瀞フィッシィングセンターの所から
山側に入った所に塞がれたゲートがあります。
さて、白鳥通りを歩いて白鳥神社まで戻りましょう。



ちなみに、こちらがカメラの補正無し(17:20)の本当の明るさです。
昼間撮ったかのような写真ばかりで、暗いのが嘘臭いブログですが
12月の夕方5時前後外に出ていただけると本当の外の暗さが分かると思います。
デジタルカメラって凄いですね。


それにしても、今回は城址めぐりというよりも廃墟めぐりに行った感たっぷりで
何をしに行ったのか途中から分からなくなっていました^^;
薄暗いところでの廃墟は、めちゃ怖かった


令和元年12月8日登城


今回の参考本
関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館



NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる: 明智光秀とその時代 (NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック)
NHK出版
NHK出版

羽根尾城(群馬県)

2019年12月04日 | 百名城以外の城
羽根尾城はねおじょう
別名
構造山城
築城者羽尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所吾妻郡長野原町羽根尾 地図

羽根尾城は信濃海野氏の一族で滋野氏の末裔である羽尾幸全入道によって築城されたと伝わります。
戦国時代に羽尾氏は、草津、嬬恋、鎌原と吾妻を主に支配していました。
また、羽尾治部少輔景幸には三人の子があり、真田方について戦功のあった海野兄弟を
三原郷全域の支配に任じ岩櫃城代を務めていました。



海野長門守墓

海野長門守は、羽根尾城主羽根尾入道の弟で岩櫃城の城代でしたが、
謀反を疑われたため真田昌幸に殺されていました。
羽根尾城の麓にはその海野長門守の墓が、この道を登った先にあります。



案内看板に従って林道へ。
しかし、この道は狭く、軽自動車でもめいっぱいです。



どうにか三叉路までやって来ましたが、この先は更に狭く普通車では
大変厳しいと思われます。
ここで切り返して戻ることにします。



この先、地図では西吾妻福祉病院へ抜けているようですが
これ以上の無理はせず、病院側へまわってみることにします。


西吾妻福祉病院

こちら側からの方がアクセスしやすく、近いです。
前回下見をしているので、今回はこちらに直行しました。



ここを下り、看板通りに左折して進みます。



軽自動車であれば通行可ですが、この日はこの道に
トラックが停まっていて通行出来ませんでした。
きっと、車なんて通らないと思ったのでしょうね^^;



この手前左下に水の手(小さい池)があったようですが下調べが甘く、見逃して来てしまいました。
いよいこの先が城域になります。
道路を外れて真直ぐ進むと堀切に阻まれます。


搦手口

道なりに道路を下りかけると看板があるので、そこから行くと
堀底からの登城となります。


堀切
主郭との間を遮断する堀切です。
結構な幅があって観た目には良い堀切ですが、防御としてはちょっと物足りない…。



堀底から主郭への道です。
この先が虎口となります。


主郭

堀底からの道を登りきると、そこは主郭の土塁の虎口に立つ形となります。
最初は堀なのかと思ったのですが、この窪地が主郭で、周囲を土塁で囲っていたようです。
正面に見える鉄塔の部分が土塁になっています。


主郭虎口

中に入って振り向いて見た虎口です。


鉄塔

東側の土塁の上に立つ残念な鉄塔。
なぜここじゃ~


土塁

土塁上に道は続く。


案内看板と城跡碑

主郭東側の土塁を歩いていると、案内看板と城跡碑があります。


城址碑



二の郭
案内看板、城跡碑のある場所から東側を見下ろすと
腰郭のような二の郭が見えます。


堀切

主郭の南端から南西を見下ろすと、大きな堀切とその先に細~い三の郭が見えます。


三の郭

三の郭は細長い尾根になっています。
その先は細く四の郭へと続きます。


竪堀

西側には竪堀が二本切られています。
そのうちの一本(三の郭側)で、道路に向って堀が落ちているのですが
うまく表現出来ていませんね^^;



帰りは、行きで通らなかった最初の堀切を超えて真直ぐ突き進んで道路へ出てみました。
振り返りながら、南側の防御は斜面がきついので良いのですが、
北からの防御が甘い気がして、どうしようかといろいろ考えさせられた面白い城跡でした。。。


前回入口シリーズで紹介して、涼しくなったので雪が降る前にと再びやって来ました。
今回は西吾妻福祉病院から直接行くことにしていたのですんなりと言うか
あっさりと言うか楽に行って来ることが出来ました。
西吾妻福祉病院はドクターヘリが降りられる場所でもあるので、この日も城を散策中に
ヘリがすぐ近くまで来て患者を運んでいました。
そう言えば、この病院、以前ラリーで負傷者を搬送した病院でした。
こんなところに城址があったとはその時にはまったく気付いていませんでした。^^;


令和元年6月23日登城
令和元年11月17日再登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

宇田西城(群馬県)

2019年12月02日 | 百名城以外の城
宇田西城うだにしじょう
別名
構造居館
築城者小幡景純
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市宇田 地図

宇田城の麓、神守寺がある場所が宇田城の居館跡と推定される宇田西城です。
国峰城主である小幡氏の一族の城と思われ、宇田城の登城口にあることから
宇田城の居館であったと考えられ、小幡氏の拠点のひとつとして推定されています。




神守寺の入口を示すかのような石碑がいくつか立ち並んでいます。
宇田城、宇田西城へと続く入口です。



目印となる池があります。
この池が見えたらお寺に向かって進入します。



車であれば真直ぐ進むと境内に車を停めることが出来ます。
徒歩であれば、山門側に進むのが良いと思います。
そしてこの位置から右を向くと…


宇田城登城口

宇田城の登城口があります。
この先に郭群があり、櫓台、堀切などがみられますが今回は入口まで…^^;



山門から見下ろすと段々になっているのがわかります。


山門

立派な山門があります。


本堂

本堂は無住になっています。


井戸

昔からある井戸だとすれば居館で使われていたことが考えられます。
下には池もあるので水の心配がいらない土地なのかもしれません。


境内

主郭の背後は土塁で囲まれています。



この虎口は後から車の乗り入れ用に付けられたものでしょうか…。


ついでに…


法華堂
宇田城東側からの登城路の目印となる法華堂です。
軽自動車であれば道幅が狭いですが、ギリここまで入って来ることが出来るので、
ここに駐車して法華堂の裏に続く小道を抜けて主郭と二の郭の間の堀切に出るというルートもあるようです。



良い天気に恵まれた土日が、仕事かあ いよいよ師走ですね。
ストレスMAXだったので、仕事帰りにの日没寸前に「せめて入口だけでもいいから!」と宇田城へ。
しかし、麓には宇田西城があるではないか
と言う訳で寄り込んだ神守寺。
宇田西城と宇田城入口の散策でこの日は気を静めましたとさ



令和元年12月1日登城


今回の参考本
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版



ポケットモンスター ソード・シールド 公式ガイドブック 完全ストーリー攻略+ガラル図鑑
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