むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

東町城(岐阜県)

2018年10月30日 | 百名城以外の城
東町城ひがしまちじょう
別名神岡城・沖津城・野尻城・江馬の出張場
構造平山城
築城者江馬氏
築城年代1564年(永禄7年)
指定史跡市指定史跡
場所飛騨市神岡町城ヶ丘1 地図

16世紀末、甲斐の武田信玄が越中攻めの際に重臣である山県三郎兵衛昌景が江馬氏に命じて
築城させたのが東町城です。
その後、豊臣秀吉によって天下統一を成されると金森長近が飛騨一帯を支配するようになり
東町城は山田小十郎が城代として居城するようになりました。



入口

この写真の場所を振り返ると、神岡中学校の東町城寄りに駐車場が完備されています。


案内看板

木製だけに、消えかかってちょっと読みずらい神岡市街案内図。


外堀

一国一城冷の後、東町城は破却となりあたりは農地と化しましたが
当時の遺構として堀が残っていました。


外堀

堀や石垣は現代まで残っていましたが、現在の石垣は東町城模擬天守を建てる際に
同時期に積み直したものです。
江馬氏の時期には石垣は使用されていないので、石垣造りは金森氏時代に
改修があったものと推定出来ます。


鉱山資料館

奈良正倉院の校倉造りをイメージして建設されたという資料館。
中には、日本最大の亜鉛・鉛の鉱山の資料の展示がされています。



江戸時代から続く神岡鉱山の歴史が学べます。


光電子増倍管

神岡町には、東京大学宇宙線研究所「スーパーカミオカンデ」があります。
神岡鉱山の地下空間を利用して、宇宙から飛来するニュートリノを観測する研究をしています。
道の駅スカイドームにもニュートリノコーナーが設置されています。



資料館からの眺めもよく城内が見渡せます。


内堀

内堀、石垣ともに現代になって整備されています。
位置的にはかつてと変わりなく残っていたそうです。


従高山八里の石碑

高山から8里と刻まれた道しるべの石碑がなぜか城内にあります。
本来街道沿いにあるべきもののように思うのですが、その経緯はよくわからないです。


模擬城門

三井金属鉱業株式会社が神岡鉱業所の創業100年を記念して1970年(昭和45年)に
模擬門と模擬天守が建てられ、神岡町のシンボルとなりました。


模擬天守

丸岡城や犬山城をモデルとして造られています。
そう言われてみれば…なんとな~くどこかで見たような雰囲気のする天守ではあるなあ。


1階

天守閣の内部は、甲冑や駕籠など展示されています。


東町城天主閣復元図

この絵図ままの出来だったら格好いいなあと思うのですが、
完成した模擬天守は屋根がいかにも模擬っぽさが強調されてしまっているような気がします。



展示されている陣羽織には「三井蔵」と書かれています。


最上階

最上階に設置された双眼鏡。
ここから何が見えるのでしょう…と覗いてみると傘松城のある
観音山の中腹に鎮座する日本一の立達磨です。


日本一の立達磨

この立ち達磨さんの視線の先ににはニューヨークにある自由の女神にあたるそうです。
「最優秀賞作品は、立ち達磨からのラブレターとして自由の女神に届けます」という
立ち達磨が自由の女神へラブレターを贈るという
とてもユニークな町おこしの企画をされていたようで^^;
達磨さんの想いが届くといいですね


廻縁

ぐるりと1周できる廻縁。
城内と城下が見渡せます。


遠景

高原川を中心に城下が広がっています。


旧松葉家(高原郷土館)

松葉家は、明治元年に神岡町割石地区に建てられた民家を移築したものです。
2階・3階は養蚕用に造られており、民具や農具が展示されています。


馬つなぎ石

わざわざ石に穴をあける加工をして造ったものなのでしょうか。




何の建物かと思い、トイレ?と言って近付いてみたら、
本当にトイレでした^^;





この時期毎年のように高山市に訪れるようになり、今年は神岡町まで足を延してみました。
城郭検定に出題されている江馬氏について調べてみたくて下館をはじめ
幾つか城址めぐりをしようと思いやって来ました。
やはり町のシンボルともあって東街道から町が見えて来ると、天守が出迎えています。
これを見たら行かないわけにはいきません!
というわけで模擬天守ではありますが天守めがけて登城した次第です。



平成30年10月14日登城



岐阜の山城ベスト50を歩く
三宅 唯美,中井 均
サンライズ出版

高原諏訪城(岐阜県)

2018年10月26日 | 百名城以外の城
高原諏訪城たかはらすわじょう
別名旭山城・旭日城・江馬城
構造山城
築城者江馬時経
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡国指定史跡
場所飛騨市神岡町殿 地図

高原諏訪城は江馬氏下館の背後にある山城で、街道の抑えとしての役割を果たすための
重要な拠点でした。
1582年(天正10年)飛騨南部を支配していた姉小路自綱と飛騨全域をめぐって争った八日町合戦で
江馬輝盛が敗れ討死すると姉小路方の小島時光により高原諏訪城も落城してしまいました。




付近に駐車場が無いので入口から50m程先の道路の待避所(1台分)を利用してして駐車。


登城口

道路のコーナーに登城口があります。



このような小道を進みます。



早速堀切の部分に出ました。


二重堀

左手に見えるお地蔵様?を挟んで二重の堀が切られています。



お地蔵様側から道路側に向って二重堀とその奥の小さな郭を見ています。



こちらにもお地蔵様が祀られています。



更に道を進みます。


出郭

小ぶりな平場に、またまた道しるべのように石仏があります。



尾根伝いに武者走りのように細長く続く郭。
東側には土塁が付けられています。


堀切

今度は下り始めたと思ったら大堀切です。
この堀切はかなり下の方まで延びています。


帯郭

堀を過ぎるとまた登りになります。
登りきると主郭下の帯郭に到着です。




帯郭を南側へ回り込んでみました。
主郭下南側の帯郭になります。
この奥はあまり人が行かないのか藪になっていたので今回南側の郭の散策は断念しました。




帯郭から主郭への道幅は狭く滑りやすいので足を滑らせない様に
気を付けながら登ります。



建物が見えて来ました。
いよいよ頂上です。


主郭

平場に出ました。
主郭に到着です!


城址碑

「高原諏訪城」という城址碑ではなく「江馬候城址」と書かれた城址碑。
城の名前より江馬氏の本城として強調したかった意図が見えます。


大洞山

眺めが良く、当時は周囲の城や街道の様子が見渡せました。
正面に見える山が大洞山で、大洞山を挟んだ越中街道や東街道の様子が見渡せます。


江馬氏下館

江馬氏下館の全体像が見られます。


神岡城

主郭から見える神岡城(東町城)も見えます。


パンフレット

江馬編と姉小路編の二冊あります。
江馬編:高原諏訪城・寺林城・政元城・洞城・石神城・傘松城・東町城
姉小路編:古川城・小島城・野口城・向小島城・小鷹利城・


このパンフレットは神岡城と江馬氏下館で頂いたもので、山城めぐりをする者としては
とてもありがたいアイテムです。
縄張り図もしかっり載っているし、入口がわかる地図も載っているので
調べる手間も省けて便利です。
資料としても出来が良くて下調べしておかなくてもこれを見て行ってみよう!と
思えるパンフレットです。


平成30年10月14日登城



食事の覚書

神岡ラーメン

地元ラーメンを見たら食べてみなくちゃ!


飛騨牛串焼き

ジューシーで噛みしめるほどに味が染み出てうま~でした。
美味しいものは沢山ではなく、ちょっとだけがいいんだな。

傘松城(岐阜県)

2018年10月24日 | 百名城以外の城
傘松城かさまつじょう
別名吉田城
構造山城
築城者金石文銘
築城年代1299年(永仁7年)
指定史跡県指定史跡
場所飛騨市神岡町釜崎 地図

傘松城は観音山に築かれた山城で、近年の研究調査によって江馬氏の山城であることが判って来ました。
江馬氏下館からも東に見える山に位置し、高原諏訪城からは死角ととなる洞城や石神城も
見通すことが出来るため、高原郷へ至る複数の峠道を監視したり統治するには
必要不可欠な軍事拠点であったと考えられています。


案内看板

ここは県道477号線上にある傘松城の入口で、八幡山城址向いにある案内看板が設置されている場所です。


道祖神

道祖神は旅人を見守る神様ですが、関東中部地方で多く見られる天婦二神の道祖神が
ここにもあり、縁むすびの神としても信仰されているようです。


不動院案内板

不動院は、明治の中頃まで密教行者の修行道場とされていたようです。
更に奥に進むと寺屋敷と呼ばれる地があるようです。


観音山巡拝道案内図

1804年(享和3年)西国三十三ヶ所漢音霊場を模して山頂までの登山道に観音石像が安置されました。
中腹には日本一の「立達磨」が立っています。
十二番の観音堂の前には、5本立ちのヒメコマツの大樹があります。
観音堂から少し細い尾根道となり285段の石段もあります。
(飛騨市公式観光サイトより)


観音山

高原諏訪城主郭から見た観音山。
この観音山にあるのが傘松城です。


この日は時間の都合で入口の確認と案内看板の確認のみとなりました。
またの機会に登城したいと思います。


平成30年10月14日入口まで

江馬氏下館(岐阜県)

2018年10月23日 | 陣屋・館
江馬氏館えましやかた
別名江馬氏城館・江馬氏下館
構造居館
築城者江馬氏
築城年代14世紀末頃
指定史跡国指定史跡
場所飛騨市神岡町殿573-1 地図
城郭検定 出題あり

ここは史跡江馬氏館跡公園です。
江馬氏は室町時代から戦国時代にかけて北飛騨を治めていました。
戦国期には飛騨の覇権をめぐり、南飛騨を治める姉小路氏、三木氏との争い敗れ
権力を失うこととなりました。


エントランス広場

こちらの駐車場を利用して散策開始です。
トイレがあり、壁に掲げられた西堀の案内看板を読んでいると
ガイドさんに声を掛けられました。そこで、後ほど会所にて案内してもらうことに。
まずは周囲を散策です。


周辺地形模型

エントランス広場にある周辺地形模型。
山間に築かれた江馬氏の山城が数多く存在したことがわかります。


門前区画

館の正面の西堀に面した区画です。
敷地は3つに分けられていて、主門前の建物は門前を警備する武士が寝泊まりする宿直屋と
馬をつなぐ馬屋であったと考えられています。


西堀(薬研堀)

主門の両側には館の正面を強調する薬研堀というここでは水の無い
深い空堀が設けられています。


薬研堀

現在の薬研堀は、逆三角形の15世紀後半から16世紀初期の頃の
当初より少し埋まった状態の時期の再現をしています。


主門

館を訪れる客人が出入りした正面玄関にあたる門です。


会所

こちらから会所の中の見学や庭園を眺めることが出来ます。
有料となりますがJAFの会員証を提示すると割引が受けられます。
そして、こちらの受付に先程出会ったガイドさんが待っていたので
早速案内をお願いしました。

受付を済ませ、パンフレットをもらい、まずは控えの間から案内していただくことに。


控えの間

こちらに展示されている「かわらけ」は実際に手にとって
感触も確かめられるものでいろいろな色、形のものが展示されています。
墨書のかわらけは地鎮のためにまじないの文字が書かれたもので、黒っぽい
かわわらけは油を入れて灯りとして使用したもの、白磁の皿や青磁の食器など
出土したものがあります。


月見台

ここに座ってガイドさんとしばし庭園を眺めながら庭園の説明を受けました。
とても落ち着く場所で良いのか悪いのか、平日はあまり人が来ないので本やお弁当を
持参してごろごろするのも良いものだよと教えて下さいました。
時間があったらそうしたい空間であり、そういう場所として造られているんだろうなあとも
想像しました。


蔀戸

半分跳ね上げてある蔀戸。
京都御所などで見たものとはちょっと豪華さが違いますが
やはり跳ね上げ式になっていると格式が高いように感じます。



こちらは蔀戸の下の部分も外された状態です。


接客の間(次の間)

江馬氏氏下館の壁はNHKの大河ドラマ「真田丸」のタイトルでおなじみの
左官の挾土秀平氏の手によるものだそうです。
藁を練り込むことで丈夫な壁になるというもので、土も地元の粘土質な土を使っていて
黒っぽく見えるのは鉄分が多く含まれているからだとか。
そして現地でいろいろな角度から見ると色が違って見えるのも特徴だそうです。
外壁が痛んで来たので近々挾土秀平氏が修理に訪れる予定だと伺いました。


欄間

この欄間、ちょっと普段は見掛けない格好しています。
なかなか粋なデザインです。
欄間が好きなのでつい、ここを見てしまい「珍しいですね!」と足が止まってしまいました。
普通は欄間で区切られているのですがここは区切られていないそうです。



そして、今度は下を見るとここにも珍しいものがあります。一本引きの障子戸です。
レールは1本、しかしそこを通る障子戸は二枚なのです。
このからくりもすばらしいです。


庭園

かつてここは所々に巨石の頭が出た田んぼになっていたそうですが
その巨石には江馬の殿様の庭の石であるという言い伝えがありました。
その言い伝えのもとに発掘すると庭園が出て来て言い伝えは本当であったことが判明し、
庭園の復元に至ったそうです。
復元された庭園の石の色の違いは巨石は動かされることなくそのまま田んぼにあったもの(黒い)と、
割れてしまったりした石は形が似ているものを同じ地質の場所から新たに運んで来た石の違いだそうです。



立石・中島・御岸石など配石している様子は巨石を6つ置き、どの位置から見ても
1つだけ石が隠れ常に5つの石(五ヶ石)が見える、とても考えられた配置がなされているそうです。
全体写真でないのでわからないと思うので、現地で見て確認してみて下さい。
排水路の無い池は、雨が降ると水池と変化し、雨の日も違った景観が楽しめます。
池の端に庭園ではあまり使わないタイプの砂利が使われているのですが、これは海の海岸を想像した
ものではなかろうかという説があります。
私も海の無い土地で生まれ育っているので海へのあこがれの気持ちがよくわかります。


接客の間(南主座敷)

二間続きの接客の間の障子戸をすべて開放してお客様をもてなします。
この日は障子戸がまだ開放されていませんでしたが、お昼からお客様が見えるとのことで
準備に追われていました。
きっと障子戸を開放して庭園を眺めながらお茶会でおもてなしをされたことでしょう。


主人の居間

押板・違棚・附書院の設けられた書院式の座敷になっています。
ここでの見所は何と言っても隠し部屋があること。
…しまった、この写真では隠し部屋の扉が開いてしまってる


武者隠

と、いうわけで閉まっていると柱と壁にしか見えない巧みな隠し部屋があります。



実はこのように壁と思われていた部分が開いちゃいます。
ここに護衛の者が潜んでいます。



こちらの障子戸もよく出来ていて、壁と障子戸の組み合わせで四季に寄り
壁と障子の引き方で暑さ寒さに合わせて使い分けが出来る優れものなのです。
この建物のからくりはとても考えられていて、なかなか素晴らしいです。


高原諏訪城

本城である高原諏訪城が見えます。
山城なので登るのは大変ですがここからの眺めがとても良く、下館の全体を見渡すことが出来ます。
また、周囲の城も見えたりします。


常御殿

外にあるこの板敷きの部分は発掘調査によって建物跡がみつかった場所です。
礎石などがみつかっているのですが復元には至らず、埋め戻され建物の規模が
想像しやすく、建物跡を保護する意味でもこのように表現されているそうです。
ちなみに平時はこちらの建物で生活をしていたそうです。


対屋

残念ながら礎石は出たものの、上に載っていた建物の資料が無いために
当分上に建物が復元されることは無いそうです。


台所

ここで食事の支度をして会所へ運んだりしていたそうです。



ガイドさんが話しかけてくれたおかげでとても充実したした時間が過ごせました。
建物の造りについては御殿や屋敷などいろいろ見て来ていますが
細かい部分のからくりや役割をあまり知らずに歩いていたのでおもしろい発見があり、
各地で同じ造りを見たら、また違った見方が出来ます。
また、随分お金をかけて復元したにもかかわらず、もったぶらずに触ったり動かしたり
気楽に見せてもらえるのも好感が持てます。

最後に、案内していただいたガイドの岡田さんに感謝です。
帰りに道の駅でおみやげもいただきました。
お世話になりました。ありがとうございました。



平成30年10月14日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編
宮坂武男
戎光祥出版

丹生城(群馬県)

2018年10月21日 | 百名城以外の城
丹生城にゅうじょう
別名
構造山城
築城者岩松満長
築城年代1425年(応永32年)
指定史跡
場所富岡市上丹生 地図

金乗寺裏山に新田岩松氏が丹生城を築城し、丹生郷を支配していました。
尾根を利用した小規模な郭が階段状に造られた広い城域で構成された山城です。


登城ルートは二本あり、先に紹介するのは搦め手側からの入口です。


金乗寺入口付近に掲げられている看板。
この道をどんどん登って行くと高速道路の橋に出る。



丹生城への入口の看板があり、その先はもう城内になるので軽自動車が一台やっと侵入できる
道幅になってしまうので乗用車以上はそこで車を置いて歩きましょう。




道の右上にある祠。
ここを過ぎて土橋を渡ると右手に軽自動車1台分の駐車スペース(四の郭?)があるので
ここで車を置いて歩きます。


土橋

道の両側は堀になっています。
この先に右側に軽自動車・バイクくらいなら1台停められます。
但し雨が降るととても滑りやすい土です。堀に落ちないように注意!
ちなみにこの土橋の両側は堀切になっています。






城郭中心部になります。
右上の高まりが主郭となっています。


井戸跡




井戸脇の小道を登り、主郭と二の郭の間の二重堀を抜けて
西側(上越自動車道側)の腰郭へ廻り込みます。


腰郭(南西側)

ちょっと木が多いかなあ。



この郭には石が転がっていますが、人の手がく加わっているのかなあと思わせる
割れた石や穴のあいた石があります。



更に段々になった腰郭が下に見えます。



この先に三日月石があるのですが、冬場にならなければこのように草木とクモの巣に
行くてを阻まれ鎌を片手に突入するも撃沈。
やはり冬場の登城をお勧めします。


三日月石

さて、こちらは冬場に訪れた時の画像です。
南西側の腰郭を通り南側に折れ、廻り込んだ辺りに三日月石があります。


三日月形の窪み

訪れたこの日もわずかですが枯葉とともにちゃんと水が入っていました。
この水が枯れないとしたらなんとも本当に不思議な話です。


由来と説話

三日月石についての由来と説話が記された案内看板です。


三日月石の手前で櫓台跡に登る小道から本郭に出られますが井戸のある広場に戻って
見取図の看板の左手にある大手から続く正規の道から本郭に登ってみることにしました。


見取図

ここで縄張りを確認。
でもちょっとおおざっぱな見取図です^^;
実際はもっと複雑な造りになっています。


本郭登り口

足元は滑りやすく、よ~く見ると階段として整備されていたようになっているのですが
木が腐って役割は果たしていないので足元注意です。


本郭

手入れがされていないので草木が生い茂り、倒木もありますが
不整五角形で、まず登って来た場所が桝形虎口になっているようですが…よくわかりません。
また、南の方に進むと櫓台に出てそこを下ると三日月石のある郭に出ます。


大手道

この先を下って行くと丹生公民館側に続く大手道となっています。


馬出



物見台

現在ここには薪が積んであり地元住人が出入りしている様子が伺えます。
後日談:たまたま私が訪れた時期が年末だったのでここで初日の出の準備をされていたことが
わかりました。
金乗寺の住職さんに話をうかがったのですが、毎年元旦に地元の檀家さんたちと城に上がり
初日の出を迎えているとのことです。


大手門跡

このあたりに大手門があったようです。


大手口尾根

大手尾根に沿った大手道は土塁で風除けにもなっています。



冬場はとても奇麗な道です。


大手口側登城口

丹生公民館の奥にある大手口の入口です。


丹生公民館

丹生公民館裏山が丹生城祉になっていてこちらが大手道になります。
公民館に駐車場があるのでこちらに駐車して登城します。(本丸に近いのは搦め手側からです)


復元図

金乗寺入口にある看板と同じものです。
草が邪魔していたので公民館の看板をもういちどご覧くださいませ。


ふるさとふれあいの道

丹生公民館にある観光案内の看板


上丹生木戸坂の道しるべ

平らな石の上面に方位と地名が記されためずらしい「磁石型道しるべ」というものです。
この地区の十字路に戦後間もなくまで置かれていたそうで、県内では6基確認されているそうです。


※再編集しました。


平成28年12月31日再登城
平成30年10月21日再登城


ぐんまの城30選 戦国への誘い
上毛新聞社
上毛新聞社 出版部

山形城(山形県)

2018年10月19日 |  百名城
山形城やまがたじょう
別名霞ヶ城
構造平城
築城者斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政
築城年代1357年(延文2年)、1592年(文禄元年)、1623年(元和9年)
指定史跡国指定史跡
場所山形市霞城町 地図
スタンプ設置場所最上義光歴史館・山形市郷土館受付窓口・二ノ丸東大手門櫓内部
城郭検定出題あり

山形城は室町時代の初めに斯波氏によって築城され、安土桃山時代には最上氏によって
改修され近世城郭へと変化し、江戸時代の始めには鳥居氏によって改修され、
ほぼ現在の姿になりました。
その後鳥居氏に世継ぎがなかったため領地を取り上げられ、次にやって来たのは
二代将軍・徳川秀忠と乳母の侍女だったお静の間に生まれ、信州の高遠で育った保科正之でした。
保科氏は7年の後、会津若松へと移り、その後は徳川家の大名が次々と入りましたが
衰退し、明治維新後に山形城は廃城となりました。


東大手門

復元された大手門。
向って正面の門は高麗門で右が北櫓。
左には櫓門と続櫓があります。


中堀

大手橋の上からの景色。
中堀に沿うように走るJR山形新幹線の線路が見えます。
城域に新幹線が通るとは、明石城は新幹線の中から見られると有名ですが
山形城の堀を新幹線が走っているとは堀を覗き込んで驚きました。
残念ながら新幹線の通るタイミングではなかったのでカメラに納めることは出来ませんでした。
おしい!


東大手門枡形

内側から見た枡形。
高麗門をくぐると、そこは内枡形となっていて
山形城の東大手門の規模は江戸城の枡形に匹敵するほどの大きさで構築されています。
もともと最上氏時代には外枡形だったものを、内枡形に改修されています。


東大手櫓門

明治初期に解体された櫓門ですが、絵図や古写真などの資料をもとに
復元され、内部は一般公開されています。


続櫓入口

櫓の中を無料公開しているのでぜひ見学してみよう。
中には説明をしてくださるボランティアガイドさんが待機しているので
詳しいお話しを聞くことも出来ます。



ちなみにここでは「超高速!参勤交代」のロケを行ったそうです。
しまった!気が付かなかったなあ。


櫓の内部

建物内の構造に関しての資料は発見されていないため、造りは一般的な構造で造られています。


模型

内部にはこうした模型やパネルでの説明、発掘された瓦などが展示されています。


最上義光之像

最上義光騎馬像は、上杉景勝・直江兼続らが攻めて来た際、自らが陣頭となって
決戦の場へ向かって行く勇姿を再現したものです。
勇ましさが伝わる格好良い騎馬像ですね。(ちなみに私は上杉・兼続派ですが^^;)


本丸一文字門跡

見学台から見た本丸一文字門です。
こちらも枡形になっています。


高麗門

高麗門は鏡柱を支える控柱にも屋根が架けられて、扉が閉じた状態でも
開いた状態でも扉が屋根の下に納まる状態になる構造になっています。
木材は奈良県吉野産と高知県産の桧や杉を使用しています。


枡形土塀

本丸の枡形土塀は、東大手門と違って矢狭間や鉄砲狭間が設けられています。
東大手門の土塀の古写真には狭間が無かったため、復元された土塀にも狭間はありません。
しかし、雁木もありながら狭間が無いのはとても不自然なので明治期には穴が塞がれていたのでは
ないかと考えられます。
本丸の枡形土塀は古写真が残っていなかったため、
一般的にあるべき狭間を再現することが出来ました。


一文字櫓跡

大手側にある本丸一文字門は枡形に構築された敵の侵入を防ぐ役目をしています。
この櫓台石垣の上に一文字櫓が存在していたはずなのですが、
復元に必要な資料(立体図面や古写真など)がみつかってないために
復元が叶わずまだ石垣だけの状態です。


櫓門跡

平面図にはこの石垣の上に櫓が載る「御櫓」が記されているんですけどねえ。
復元されると良いのですが…どこからか資料がみつかると良いですね。


イメージ図

ちなみにこれがイメージ図です。
平面図から想像すると、こんな感じに櫓が載っていたのではないかと思われます。


本丸

この奥には本丸御殿があったとされるエリアです。
現在も本丸区画の整備が進められていて、スポーツ施設の撤去工事などが行なわれています。
平成45年度完成を目指して工事が進められていますが、平成の時代も終わり
新しい年号に変わっての完成になりますね。



ここから櫓門に出入りしていたのでしょう。
櫓門の出入口は二ヶ所なのでここには写ってないのですが、もう一ヶ所階段が付いています。
※イメージ図に記載されている階段のことです。


井戸跡

これは発掘された本丸御殿の石組井戸です。
江戸時代以前は木組で素堀が主流でしたが石組ということは
比較的新しく江戸時代以降の井戸のようです。
以前訪れた時は本丸の中には入れなかったのでこれだけでも見学出来て今回の収穫です。


見学路

本丸御殿の発掘調査の結果報告など貼られた掲示板があります。
最上氏時代の建物礎石や瓦などが見つかっています。


石垣の崩落跡

本丸の堀調査で発見された、江戸後期にあった「御櫓崩」で崩れた石垣の石。
崩れた部分は回収されることなくそのまま埋め均されたままの状態でした。
現在は崩れた石の一部が堀の中に見える状態で保存展示されています。


石垣石の加工

二の丸ではいろいろな石垣の石が展示されています。
安政時代のものや矢穴があるもの、刻印・朱書き・墨書など
並んでいる石をひとつひとつ見て歩くのもおもしろいです。


修羅

石垣に使う大きな石は採石所で伐り出され、「修羅」というソリに載せて
運ばれていました。
人力で運んで来るんですよ。昔の人は凄いですね。
こんな苦労ばかりしていたら長生きも出来ませんよね^^;


北不明門跡

ここから車は城内に乗り入れ可能です。
駐車場や博物館などの見学施設や体育館などの出入りが出来ます。
堀を渡り門のあった出入口は、石垣が設けられています。


西大手門跡

この石垣は修理を施されていない石垣で、今もはらんだり崩れたりすることなく
しっかりとしています。


南大手門跡

南大手門も枡形の石垣が残されています。



表と裏で石や積み方が違っています。



前回訪れた時は博物館や郷土館に寄りました。
今回はとにかく城址を散策してみようと歩き回りました。
また、ボランティアガイドさんの話も聞けて、あまり品の無い話題で申し訳ないのですが
つい立派な梁を見てしまうと「どこ産のおいくら?」と聞いてしまいます。
今回も東大手櫓門の梁が目にとまり、お聞きしてしまいました(^^;
どこのお城もやっぱり太くて立派な梁というものは自慢の逸品で、
確保するのに大変な苦労とお金がかかっています。
しかし、この東大手櫓門の梁については市長さんの伝手でかなりリーズナブルに入手されたとのこと。
それでも柱1本で田舎なら家1軒買えちゃうほどになっちゃいます。
日本ではなかなか手に入らないし、とても高額になってしまいますよね。
しかし、この梁があるのとないのとでは大違い。
木造をみると柱の太さで価値をみてしまいます。
私の太さもそんな価値があるんです!(ウソです)


平成26年8月24日登城
平成30年9月29日再登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス

巌山城(福島県)

2018年10月16日 | 百名城以外の城
巌山城いわやまじょう
別名岩山城
構造湖城
築城者穴澤加賀守俊恒
築城年代1565年(永禄8年)
指定史跡
場所耶麻郡北塩原村桧原 地図

桧原湖中に半島として浮かぶ堂場山に築城された巌山城。
1585年(天正13年)11月、伊達政宗に攻め込まれ落城しました。


案内看板




桧原城とともに案内看板上に記されていたことで知りました。
こちらもそのうち桧原城とセットで訪れてみようと思います。


平成30年9月30日湖畔より


街道をゆく 33 白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文庫)
司馬 遼太郎
朝日新聞出版

天童城(山形県)

2018年10月15日 | 百名城以外の城
天童城てんどうじょう
別名舞鶴城・天童古城
構造山城
築城者天童頼直
築城年代1375年(天授元年・永和元年)
指定史跡
場所天童市天童4146 地図

山形城城主斯波兼頼の孫の頼直が築城し、天童古城に入り天童氏を名乗るようになりました。
1584年(天正12年)10月、南北朝以来この地を支配していた天童氏は
最上義光に攻められ落城しました。


愛宕池

愛宕池の横目で見ながら主郭のある愛宕山を目指します。


愛宕山登り口

中央郭にある駐車場に車を停めて、道の反対側にある愛宕山に登ります。



道路からは道上に何かあるぞ!と云う風に見えたので「ちょっとそこまで見て来るね」と
独りで軽い気持ちで登り始めました。


展望台からの眺め

雨が降っているとはいえ、なかなか良い眺めです。



水道事業に尽くした西澤定吉氏の石碑。


バーベキュー広場

雨の日の朝なので誰もいません。
でもこのような場所にバーベキュー広場があります。
晴れていたら、城址でバーベキューなんてのもいいなあ。



道は更に上に続きます。
急いで上まで行って来よう!!



結構登って来ました。
晴れていたら良い眺めだったことでしょう。



更に道をどんどん登って行きます。
…ちょっとそこまでのつもりが、すぐに神社が見えてくるだろうと思っていたら
道はどんどんつづき、てっぺんが見えて来ません。



あと少し、あと少し、と結局傘をさして頑張って登っちゃってます。^^;
やっと鉄塔のあるところまで登って来ました。
なにやら石碑があるのですが、まだ主郭ではなさそうです。


主郭

ようやく主郭に到着したようです。
ほんと、ちょっとそこまでのつもりで車を降りたので傘とカメラしか持っておらず、
スマホすら持ってませんでした。
なかなか帰って来ない私を心配してるかな?と思いつつ、主郭だけでも見て行かねば
後悔するし…と急ぎ足で見て廻りました。


案内看板

案内看板と社殿が見えて来た時はホッとしました。
なんだかんだと結構な道のりでした。
人の気配は無いし、何も装備してないし、おニューのレインブーツで山登りになるとは
油断してました。


主郭物見台跡

土を盛って高く盛り上げた所に柵などがめぐっていたものと思われています。


愛宕神社社殿

山形城主最上義光が天童城主天童頼澄を滅ぼした後、義光の守り本尊である
勝軍地蔵を本尊として祀り、建立したものです。
天童氏一統の鎮魂と敵味方の討死した者の供養をかねています。
現在の神殿は1678年(延宝6年)に再建されたものです。

まずは、参拝です。
が、いつものお賽銭袋も車の中に置いて来てしまったのでノ―マネーで気持ちだけ受け取ってねと
失礼ながらのお参りをしました。
(気持ちがこもっていればいいんです!と自分で自分にいいきかせて)



愛宕神社正面の階段を下る道です。

ここからの3枚の写真は心配になって私を探しに来た旦那の画像です。
ちなみに、私は愛宕神社からすぐに引き返しました。


石組古井戸跡

籠城のためにそれぞれの郭に備えられていたという井戸。


天童神社



私が駐車場へ戻ると、今度は旦那が居ません。
車の中で留守番をしていた娘に聞いてみると、私が迷子になったのではないかと
山に探し行ったと言うではありませんか。
慌てて電話してみると私とはすれ違わないルートで愛宕神社まで行っていました。
私は無事車まで戻って来たことを告げると、戻るのに時間かかるだろうから
中央郭の散策しててと言われ、中央郭の散策を始めました。


吉田大八公像

天童藩の財政は困難を極め、下級の藩士ほど生活は苦しく、貧窮にあえいでいました。
吉田大八はその救済策の一つとして、藩士が将棋駒を製作することを取り入れることにしました。
それが、天童が将棋駒の産地になった由来であり、藩士が将棋駒を製作することで
藩の財政は救済されました。


中央郭下段

中央郭の下段の広場は天童氏譜代の家臣小幡山城守の居館があったとされています。


案内看板

この看板にあるように、桜まつりの一環で「将棋野試合」というものが行なわれるようになり
現在ではその名も「人間将棋」と呼ばれるようになり、天童市の代名詞のように
知られるようになりました。


王将碑

中央郭にあるシンボルとも言える大きな王将の駒の石碑。
私の実家にも大きな木造の王将の駒置物があり、とても馴染み深いです。


将棋盤

春に人間将棋をする大きな将棋盤です。


中央郭上段

中央郭の上段には小松山城守の居館があったとされています。


多重多段の帯郭群

西郭側でも階段城になった帯郭群が見ることが来ます。
東郭や南郭でも多く見られて、とても特徴的な帯郭群です。


旦那もちょっとそこまでで、引き返して来るだろうなと思っていたそうで
帰りが遅いので電話をすると、車内で呼び出し音が…。
私が方向音痴ですぐ迷子になるので、心配して探しに来てくれたそうです。
私も自分がすぐ迷子になることは自覚している?ので無理をせず主郭までの
来た道を同じように引き返しました。(それでも迷子になることはよくある)
やはり、ちょっとそこまでのつもりでも連絡手段の取れるものだけは
身につけて行かなくちゃいけないなと反省。
途中大きな蜂に追い回され、傘で戦ってたのでそれも危なかったけど
何事も無くて良かったです^^;


平成30年9月30日登城


天童将棋駒将棋盤セット職人による手書き将棋駒と折盤のセットTendou-shougikoma, Shogi board set
ノーブランド品
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天童陣屋(山形県)

2018年10月11日 | 陣屋・館
天童陣屋てんどうじんや
別名天童織田館・天童御陣屋
構造陣屋
築城者織田信美
築城年代1830年(天保元年)
指定史跡
場所】場所天童市田鶴町4 地図

天童織田藩は織田信長の次男織田信雄の流れをくむ藩で、織田家は群馬県甘楽町の小幡藩や山形県高畠町の高畠藩を統治し、
信雄の孫である信美が天童に入り、1831年(天保二年)に天童織田藩が成立しました。



天童御陣屋絵図

喜太郎稲荷神社入口に天童陣屋の入口があります。
ここには天童御陣屋絵図があり、現在は宅地化して住宅地となっている場所の中に
陣屋の跡を探す手掛かりが描かれています。


手水と案内看板

調武館・稽古所跡の案内看板があります。
絵図で見ると位置的にはこの位置ではなさそうです。
そしてこの手水の形が型に見えます。
ちょっとかわいらしいですね


内堀跡

この道は絵図から見るとかつて水堀だったようです。


喜太郎稲荷神社

喜太郎稲荷神社は、天童氏の家臣喜太郎が京都伏見稲荷からこの地に奉安したので
喜太郎稲荷神社と呼ばれるようになったといわれています。


拝殿

織田家がこの地に天童御陣屋を築いた際に、氏神として奉祀しました。
当時は、現在の場所より公園側にあったのですが移動しています。


天童織田藩記念碑

記念碑と、その横には説明文があるのですが
読んでみると記念碑の詳細訳文は「私たちの街田鶴町下巻」に書いてあるとのこと。
いや、いや、この場に書いておいて欲しかった
漢字ばかりで読めません…


公園

公園の右手と住宅の間には陣屋を分断するかのように線路が横断しています。
しかも、これは山形新幹線だそうです!
まさかこのような住宅地を新幹線が通るとは思っておらず、ああ、また線路かあ。
と、スル―して来てしまいました。
ここを通過する大名行列ならぬ、山形新幹線を見てみたかったような気もします。


大手門跡

正面の山が天童城のある天童公園です。
その麓で、この道が突き当たる道が羽州街道です。


天童織田藩御陣屋跡

線路によって分断された陣屋跡です。
先程の喜太郎稲荷神社の公園とは別で線路を挟んで反対側に位置する公園にも標柱があります。



私が方向音痴だったことで訪れることになった天童市。
山形城からほど近い場所にホテルを確保した気でいたのに、カーナビに入れたホテルの名前から
誘導されたのは山形市ではなく天童市でした。
????????
そんな馬鹿な!!
私が予約したホテルは山形城からすぐ近くで、次の日は米沢城へ行くんだって決めてたんですけど????
・・・・・・
だって、「舞鶴公園」のすぐ近くだよ!
「舞鶴公園」…「霞城公園」…ぜんぜん違うじゃん…よく聞くよね、「舞鶴公園」…


ホテルから見た天童城と天童温泉街

ホテルで隠れちゃってますが奥に見える山が天童城です。
朝食

夜は温泉で疲れを癒し、朝食をおなかいっぱい食べていざ、出陣!
というわけで予定変更で米沢城ではなく天童城へ行く事になりました。



舞鶴山へ行ってみると、織田氏の家紋がいっぱい目につきました。
調べてみると上野の織田氏とゆかりがあるようではないか!
それも甘楽の小幡陣屋と繋がっているとあらば、寄らないわけにいかない。
というわけで天童古城に続き、こちらにやってきたというわけです。



平成30年9月30日訪問


【ノーブランド品】天童将棋駒の置物王将4寸飾り駒山形県の伝統工芸品店舗・オフィス・新築祝いにTendou-shougikoma Oushou 4sun-kazarikoma
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桧原城(福島県)

2018年10月10日 | 百名城以外の城
桧原城ひばらじょう
別名小谷山砦・小谷山城
構造山城
築城者伊達政宗
築城年代1585年(天正13年)
指定史跡
場所】場所耶麻郡北塩原村桧原舘山 地図

桧原城は伊達政宗が築城した桧原湖沿いの砦です。
天文の始め、1532年に松本宮内が18間地取りしましたが完成させることはなかった城です。
そこに1585年(天正13年)伊達政宗が築城し、
城番として後藤孫兵衛が伊達氏の拠点として住んでいました。




米沢から米沢街道を抜けて来たところで桧原湖でひとやすみ。
そこで見た案内看板には二つの城跡が記されていました。
桧原城と桧原湖の中の島の先端に岩山城もあることがわかり
寄り道の時間もなかったので、今回はここから眺めるのみとなりました。


平成30年9月30日通りすがる


陶器香皿&ウサギ香立(ピンク)
日本香堂
日本香堂


仙台城(宮城県)

2018年10月09日 |  百名城
仙台城せんだいじょう
別名青葉城
構造山城
築城者伊達政宗
築城年代1600年(慶長5年)
指定史跡国指定史跡
場所仙台市青葉区川内 地図
スタンプ設置場所 仙台城見聞館展示コーナー(本丸跡・ガイダンス設置)
城郭検定出題あり

仙台城跡は初代仙台藩主伊達政宗が、1610(慶長15)年に築城しました。
伊達政宗公は徳川家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったといわれる。


伊達政宗騎馬像

本丸にあるシンボルで、伊達政宗300年祭を記念して制作された騎馬像で
戦時中の金属回収で提供してしまい、代わりにコンクリート製の平服立像が設置されました。
こちらは現在岩出山城に移されています。
そのため現在の騎馬像は製造元に型が残っていたために同じものが造られた二代目です。


本丸御殿跡

今回はガイドさんにお願いして案内してもらうことに決めてました。
歴代藩主の座する「上段の間」をはじめ、「孔雀の間」や「檜の間」など多くの部屋が配置され、
ガイドさんの説明を受けながら見て廻りました。
前回訪れた時はここはまだ整備されていなかったような…。
ただの広場のような印象でしたが説明を聞き、御殿を想像出来る場所へと変化したことを実感。



ここで使われている礎石は色で当時の石と現代の石と見分けることが出来るとのこと。
色の濃い(黒い)石が本当に使われていた当時の礎石だそうです。
微妙な色の違いがわかるでしょうか。。。


忠魂碑

東日本大震災で金鵄像が落下。
その後元の場所へ載せるのは困難と判断され、現在はとても見やすい位置に留めています。
日本書紀の神武天皇の軍を勝利に導いたとされる金色のトビをモチーフにしているそうで、
現在は震災被害伝承モニュメントとして撮影スポットとしても騎馬像と共に人気?です。


懸造跡

崖に迫り出した優雅な懸造があった場所です。
政宗公はここで賓客の接待を行ったという。

造りは京都の清水寺本堂の舞台のような造りであったようです。
しかし、その裏では戦いのための物見や横矢の要素も取り入れられた
望楼型の要塞だったという説も…。


土井晩翠像

ここでは30分ごとに「荒城の月」が流れます♫
土井晩翠は「荒城の月」を作詞した人物で、「荒城の月」に関しては各地の城に石碑や云われがあり
城めぐりをしているとモデルになった城などと見掛けます。
候補地がたくさんありすぎてどこがホントのモデルの城なのか、銅像に聞いてみた。
…当然返事は無い^^;


伊達武将隊

この日の出演は伊達成実・片倉小十郎景綱・支倉常長・松尾芭蕉の皆さんです。
タイミング良く見ることができました。
しかもガイドさんのお勧めで、騎馬像の前で伊達成実さんと一緒に写真も撮っていただきました。


仙台城見聞館

館内は、仙台藩の儀式や政務を執り行った本丸大広間に関連した展示が行なわれています。
日本100名城のスタンプ設置場所でもあります。


スタンプ設置場所

日本100名城のスタンプはこちらです。
以前訪れた時にお世話になりました。
入手済みなので今回はスル―です。


大広間模型

これは50分の1の大広間を復元した模型です。
桐や菊紋が大きく形取られているのが目に飛び込んで来ます。
これだけで格式高く感じられます。


上段の間の「床」

そして、藩主が座った上段の間の床の一部を原寸大で再現したものです。
絢爛豪華な鳳凰の図です。
せっかくなので床だけでなく大広間も再現してほしいなあと思ってしまいます(^-^;


詰門跡

本丸の正門で、現在は二階建ての桃山建築だった門ではなく
護国神社の鳥居が出迎えてくれます。
入母屋造り、本瓦葺きで大棟には鯱瓦が載っていました。


本丸北壁石垣

三期に分けて積み上げられた石垣です。
地震によって崩れては積み直し、グレードアップして行ったようです。
最初に政宗が築いた時は野面積みでした。
ここには3回訪れ居ますが、まじまじと見たのは今回が初めてです。
この高さ、スゴイ!!


中門跡

中門は別名「虎門」と称され、大手門から詰門の途中に設けられた二階門でした。
大正9年に老朽化のため取り壊されました。

ここからは多数の金箔瓦が発見されているそうで、仙台城の門はどれをとっても
豪華で大掛かりな造りであったことが想像出来ます。


大手門脇櫓

復元された大手門脇櫓。
戦災で焼失してしまいましたが、民間の寄付により復元されました。


大手門跡

大手門は桃山様式で二階建ての楼門で大きな二階門でした。
大手門と脇櫓は昭和6年に国宝として指定されていましたが、
昭和20年の仙台空襲によって脇櫓とともに焼失してしまいました。


五色沼

五色沼、長沼とL字になった堀跡があります。
五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」だそうです。
冬になるとこの池が凍りスケートが出来たようです。
そう言えば羽生結弦選手や荒川静香選手も仙台出身でしたよね。
でもここで練習したわけではないですが、発祥の地だけあって
力の入れ方が違うのでしょうね。


仙台市博物館

三の丸にある仙台市博物館にやってきました。
三の丸は築城当初政宗の屋敷があった場所で、池やあずまや、茶屋だどがありました。
ここでは土塁も見られ、二代藩主以降は蔵屋敷や御米蔵に利用されていたようです。


残月亭

明治中期の書院風茶室で、扁額は伊達政宗の筆跡を五代藩主が模刻したものを
伊達家当主に名称の使用とともに作成の許可を得て模刻したものが掛けられていました。
その扁額は現在博物館の方に展示されています。


伊達政宗像

初代伊達政宗騎馬像の一部。
昭和10年に伊達政宗没後300年を記念して建立された騎馬像ですが、
戦時中の物資不足により金属類回収令によって本丸から姿を消したものの
戦後、溶かされずに残されていた頭部から胸部までの部分が発見されここに展示されています。
よくぞ、これだけ残されました。政宗愛を感じますね。


巽門跡

アメリカ軍による仙台空襲の焼夷弾によって焼失した巽門があった場所です。
こちらも焼失前までは戊辰戦争の戦火を免れた貴重な建物が残されていました。


造酒屋敷跡

ここには慶長13年に奈良県から政宗が招いた又右衛門が酒蔵と屋敷を与えられ
酒造りを行なった場所と伝わります。
すぐ近くに「清水門」があるように清水が湧き出ているため、その清水を使って
酒造りがされていました。
政宗が若林城に移る際にも又右衛門もそれに従い若林でも酒造りを続けていました。
現在この曲輪は発掘調査中で立ち入ることは出来ません。


仙台御用酒発祥の地

葡萄酒・みかん酒・びわ酒・かりん酒・桑酒など20種類余もの酒造、
又右衛門(初代)から孝蔵(12代)まで仙台城御酒御用屋を務めました。
さすが政宗さま、他品種に挑戦していたんですね。
しかも美味そうだし、体にも良さそうなお酒ですね。


清水門跡

入母屋造りで二階建ての二重門があったことが絵図に残っていましたが
いつごろの創建かはわかっていません。
近くに清水が湧くことから「清水門」と名付けられました。



下から見た懸け造りの跡。
下から見上げて妄想



3回目の登城にしてやっと本丸以外の場所を散策しました。
最初に訪れた時は、有名だからと言って来たら天守が無いことにがっかりしたのを覚えています。
お城と言ったら天守があるものと思っていた私はおろかでした。
その後日本100名城のスタンプを集めにやってきたのですが、スタンプを押すだけが
目的のようになってしまい見て回ったとは言え、まだまだ観光気分でした。
そして今回今更ながらの本丸北壁石垣に脱帽!
こんな凄い石垣だったのか…と初めて見るかのように感動。
天守はないけど、遠慮したとは思えない豪華な建物は天守に見劣りしなかったのではないかと
考えを改めさせられた登城となりました。



食の覚書

ずんだシェイク
ここに来ると買ってしまいます。
この日は曇っていたのですが歩き疲れていたので一段と美味しく感じられました。

ずんだシェイクとずんだ餅



平成22年8月14日登城
平成30年9月29日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

多賀城(宮城県)

2018年10月06日 |  百名城
多賀城たがじょう
別名
構造平山城、城柵
築城者大野東人
築城年代724年(神亀元年)
指定史跡国指定特別史跡
場所多賀城市市川 地図
スタンプ設置場所多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室(多賀城市中央2-27-1)
城郭検定出題あり

多賀城は724年(神亀元年)に大野東人によって創建され、
陸奥国府と鎮守府が置かれました。
城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。



駐車場

県道35号線からの入口。
ここでは多賀城の南側の散策の為駐車。
そして出発前に朝食用に作って来たおにぎりで腹ごしらえ。
現在工事中のため工事車両の出入りがあります。


多賀城南門跡

前回訪れた時には散策しなかった南側の様子を見てこよう!


多賀城碑

多賀城南門跡から見える覆屋に多賀城碑が入っています。



724年の多賀城創建と762年の改修を伝える記念碑です。


外郭南門跡

多賀城の正門があった場所です。
礎石式の総瓦葺で重層の八脚門があったと推定されいています。
今後復元される計画があるそうなので楽しみですね。



さて、このあとは正殿めざして登り上げます。
車は先回りして多賀城跡管理事務所前にある駐車場へ。


政庁南大路跡

政庁南門と外郭南門を真直ぐに繋ぐメインとなる大路です。
現在は奈良時代の姿に復元整備されています。



道幅は奈良時代は13m、平安時代は23mであったことがわかっています。
斜面は自然の石を並べた階段が設けられていました。
ここから暗渠も設置されていて、ここから木簡もみつかっています。


復元模型

この模型は奈良時代の姿を推定復元したものです。
ここは以前と変わってないですね。


政庁南門跡

政庁の南正面の門で、礎石式で翼廊が付いた装飾性のある門構えでした。


石敷広場跡

正殿前は石敷きの広場になっていました。
しかし、足元をみると石がゴツゴツしていてちょっと歩きずらいのが気になります。
キョロキョロしながら歩いていたらつまずきました


正殿跡

政庁の中心となる重要な建物があった場所です。


東脇殿跡

東西にある脇殿。
この他に東楼と西楼、東殿と西殿といったように東西対称に
建物が造られていました。
ここでは、青森からお嫁に来たという多賀城の手入れに来ていた
女性の方とお話ししました。
GWに青森に行った時には聞けなかった津軽弁?を宮城で聞くことになるとは^^;


西楼跡

建物があったら…と妄想してみる。
秋田城みたいな感じかなあ。


後殿跡

後殿跡から見た正殿跡。


北殿跡

北殿のほかに東殿、西殿もあります。


駐車場

多賀城跡管理事務所前にある駐車場です。
先回りした車はこちらの駐車場で私を待っていました。
前回もここを利用しているので時短連携プレーです。


多賀城古祉の図

多賀城跡管理事務所前の案内看板に記されてある多賀城古祉の図。
まだスタンプが押せる時間ではなかったので今回スタンプはパスしました。
そして近くの多賀城神社へ。


多賀城神社

この神社は多賀城神社と称し、後村上天皇をはじめとし、
北畠親房、顕家父子、伊達行朝、結城宗廣等の南朝の諸将を奉祀する神社です。
前回はまったく視界に入っていなかった神社ですが、近頃神社仏閣があると
何かあるのではないかと目につくようになってきました。


六月坂地区と多賀神社

外郭東門から西門間道路の屈曲点に位置します。
奥に見えるのが多賀神社です。
この地区には役所建物や倉庫などがありました。


多賀神社

滋賀県にある多賀神社の分霊を勧諝したと伝わります。
ここから北東に約50mの場所にあったのですが多賀城の発掘調査や
整備により現在はこの位置に移されています。
ちなみに延命長寿の神様だそうです。
ここでも通りすがりにみつけたので立ち寄ってみました。
多賀城神社と多賀神社…なんだかややこしいです。


外郭北東隅

ここから林の中に入って行くと東大垣跡があります。
この奥は、あまり散策に来る人はいないようで中心地に比べると放置された感があります。


東大垣跡

あまり日が当らずジメジメしているので苔などで足元がとても滑ります。
案内看板は昔のままです。
が北の外郭の隅になる場所で奈良時代の塀跡が残ります。
と言っても現在は塀は残っておらず、基部のみ遺存しています。


奈良時代の外郭東門跡

大きく分けて3期に渡り造り直されていますが、
ここに復元されているのは2期の頃の八脚門の跡です。


大畑地区

城内最大の役所があった場所です。
8世紀後半には長大な建物が建てらていました。


作貫地区

主屋を中心にコの字型の役所が建てられていました。


東日本大震災の半年前に訪れたこの時は、日本100名城のスタンプ目的で行ったので
見学したのは成政庁の主要部分だけでした。
今回は外郭を含め、見る場所を広げてみたかったのと、
昨年「上野三碑」がユネスコ「世界の記憶」に登録決定したことで
多胡碑を見に行って「日本三古碑」のひとつとして多賀城碑のレプリカが
展示されていたので本物を見なくっちゃ!と思い再度登城することにしました。

思った以上に広くて、歩いてすべて散策するにはそうとう時間がかかることでしょう。

※「日本三古碑」は、多胡碑(群馬県)・多賀城碑(宮城県)・那須国造碑(栃木県)のこと。


平成22年8月14日登城
平成30年9月29日再登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

岩村田城(長野県)

2018年10月04日 | 百名城以外の城
藤ケ城ふじがじょう
別名上の城・岩村田城
構造平山城
築城者内藤氏
築城年代1864年(元治元年)
指定史跡
場所佐久市岩村田 地図

1703年(元禄16年)、京都伏見奉行の功により城主格の大名に昇格した
内藤正縄が幕府領だった岩村田に転封されて、岩村田藩が成立しました。
正縄の孫である正誠が1864年(元治元年)に岩村田城を築城しました。
しかし、廃藩置県のため未完成のままわずか7年で取り壊され廃城となりました。




本丸である岩村田小学校入口の向いにあるこの道は堀跡であろうか…。


鳥居

高まりにある公園に藤城神社があります。
鳥居に向かって登ってみましょう。


藤城神社

石段を登り、鳥居をくぐると正面に藤城神社があります。


城址碑

藤城神社の隣には岩村田城の立派な城址碑があります。



更にその隣にも説明文の書かれた城址碑があるのですが
私には部分的にしか読めないのでよくわかりません。
現代語に訳した案内看板が無くても、こういった石碑の文字や古文書などが読めたら
後から調べなくても済むのになあ。…と、いつも思います。


土塁

曲輪内にも土塁なのか段差が出来ています。
これは神社のための段差なのか遺構なのかわかりません。



曲輪の外側は段丘になっています。


大堀切

曲輪と曲輪の間を分断する道路が堀切の名残です。



道路は堀切、右は曲輪、左は本丸なのですが岩村田小学校になっています。


岩村田公園

招魂社側の公園です。


鶴稲荷神社鳥居

この出入口にも鳥居があります。
公園の出入口には皆鳥居が設置されていて、この鳥居は位置的に鶴稲荷神社の鳥居のようです。


鶴稲荷神社

朱色の目立つ建物が「鶴稲荷神社」です。
大きな建物だったので最初は社務所かと思いました^^;
建物全部朱色に塗っちゃうとは!!



こちらの公園にも土塁なのか高まりがあります。


土塁

神社の周囲を囲む土塁が残っています。



招魂社側の鳥居から奥を見ています。
正面が招魂社で、左手に見える建物が社務所です。


招魂社

招魂社は明治維新前後から、国家のために殉難した死者を奉祀した神社です。


案内看板

招魂社入口にある案内看板。
ここには上の城と書かれていています。


神社駐車場

車はこちらの駐車場をお借りして散策。


内藤氏と言えば高遠藩。
高遠藩と言えば、龍岡城の石垣を造っています。
高遠藩の内藤家家系図を見ると血筋にあたるので高遠と佐久の間には
太いパイプがあったのではないでしょうか。
岩村田城に関して私の手元にあまり資料が無いのでとても調べが浅く、
高遠側からの手がかりしかわからないので掘り下げた話は出来ません。
しかし、このあたりの話はとても興味深いので継続して調べてみたいと思います。
また、大井城にも足を運んでみたのですが駐車出来る場所がみつからず
目前にしてこの日の訪問は断念しました。
こちらも後日合わせてリベンジしたいと思います。



平成30年9月23日登城
令和3年9月12日再登城


高遠藩 (シリーズ藩物語)
長谷川 正次
現代書館


角川日本地名大辞典 (20) 長野県
「角川日本地名大辞典」編纂委員会
角川書店


海尻城(長野県)

2018年10月02日 | 百名城以外の城
海尻城うみじりじょう
別名
構造山城
築城者井出長門守
築城年代15世紀中期
指定史跡村指定史跡
場所南佐久郡南牧村海尻 地図

海尻城は、前山城主伴野氏の幕下「井出長門守」の築いた城で、
村上氏の臣薬師寺右近らがこの城を守っていましたが、
天文9年に武田氏の将板垣信方の知略によってこの城を奪われてしまいます。
海尻の地侍らの意を通じ村上氏が立ち上がり奪還を試み、海尻城の合戦が開戦。
しかし、甲州より武田の将軍(信虎)が到着し村上勢は武田軍に敗北します。


案内看板

海尻基幹集落センターの看板が見えたところで道路脇に入ると
海尻城の案内看板があります。


駐車場

海尻簡易郵便局前に駐車場があるのでそこに駐車出来ます。
この辺りはヒヒドロッ田と呼ばれる湿地で天然の堀とされていたようです。
今は奇麗な駐車場になっています。
それにしても、地元の方らしき人の自動販売機の利用率の高いこと!
車を停めて散策の準備をしている間にちょこちょこ車(軽トラ)が止まり飲み物を買われていました。



駐車場から医王院へ向って約150mほど歩きます。
医王院の前の信号機名も「海尻城跡」になっているのですぐに判ると思います。


諏訪神社

医王院に行くまでの間に諏訪神社があり、諏訪神社も医王院も海尻城の城域になります。


海尻城入口

医王院入口にある「海尻城跡入口」の碑。


医王院

仁王像(金剛力士像)がお出迎え。
あ、うんの呼吸で守護しています。
この仁王像を通り越し、鐘楼の左手前に登城口があるので見落とさないように。


冠木門

海尻城の遊歩道入口の冠木門です。


愛宕大権現

この先の主郭に愛宕大権現が祀られています。
また、管理が行き届いているので整備されていて歩きやすくなっています。



主郭までずっと灯篭が案内してくれます。
ちょっと幻想的な小道で疲れを感じさせない良い道です。


三の郭

三の郭の虎口に海尻城跡の標柱が立っています。


案内看板

あずまや横にある案内看板。


あずまや

ここから真っすぐ奥から主郭、二の郭、三の郭と見渡せて、愛宕権現と城址碑を正面から
眺めることのできる位置で休憩が出来ます。


主郭・二の郭・三の郭

低い段状に区切られた郭は一番高い主郭に愛宕権現と城址碑が配されています。
眼下には海尻集落が樹木の間からちらほらと見えるので、さぞかし眺めの良い場所なのでしょうが
冬でないと奇麗に見えないのが残念。
(肉眼では下界の様子が隙間から見えます)


愛宕権現と城址碑

愛宕権現はこの地域は古くから火災が多く、
それらの厄災を払うために上人が建立したと伝えられています。


海尻城址之碑

海尻城についていろいろ書いてあるのですがちょっと読みずらいです。


堀切

主郭の背後は堀切で、さらにその奥にも小さく掘りきられ背後の守りを強化しています。
ここから先は次回のお楽しみにして、来た道を引き返して、せっかくなので
医王院も散策して行きたいと思います。



鐘楼

本堂へ行くには鐘楼をくぐって行くことになります。
この日は庭師の方が一生懸命庭の手入れをされていました。
一応挨拶はしてみたものの、カメラを持ったぼっちの私には見向きもせず
せっせと仕事をされていました。
仕事の邪魔になると思い鐘楼に登ることは断念して本堂へ。



登ることは遠慮したので鐘楼の真下から上を見上げてみました。
床板ではなく音を響かせるためだろうか、格子状になっていて上が見えます。


るりこう橋

川や池はないけれど、小ぶりの石橋があります。


観音堂

明治時代に廃寺になった際、信濃神光寺の歴代住職の追善菩提の為に篤志者の協力を得て再建されました。


本堂

本山は滋賀県大津市にあり、比叡山延暦寺になります。
信濃神光寺の末寺として、1689年(元禄2年)に性海阿闍梨によって開山されました。



屋根には武田の家紋が見えます。
お寺に来ると屋根に掲げられた家紋を見てしまいます。
これは一目でどこの家紋かわかりますね。



今回はこのくらいにして…帰りましょう。。。


余談ですが、海尻地区の住む人々は、正月には門松を家の中に飾り、
3日までは簡単に食事を済ますことのできるうどんを食たべる風習があるそうです。
これは信玄の奇襲から「いついかなる時においても油断すべきではない」という伝えがあるからだそうです。


主郭から背後の堀切など尾根道は確認できたのですが、まだ藪で行ったところで
見て分かる写真は撮れそうになかったので今回は断念。
でもまた背後の堀切や尾根筋の様子など見に再登城したいと思います。


平成30年9月23日登城



甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館