むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

丸子城(神奈川県)

2023年03月30日 | 百名城以外の城
丸子城まるこじょう
別名丸子陣場
構造平城
築城者豊島氏
築城年代1478年(文明10年)
指定史跡
場所神奈川県川崎市中原区上丸子 地図

丸子城は、現在の日枝神社から上丸子小学校に付近にかけてあったと伝えられていますが
詳細はわかっておらず、1476年(文明8年)の「長尾景春の乱」の際に、
豊島氏が石神井城や平塚城に籠り、上杉方の太田道灌に攻められると小机城で籠城。
この時豊島氏の残党がこの地に陣場を置いたのが丸子城と伝わります。



日枝神社

社務所に車を停めたので、神社の裏から境内に入ろうとしてしまい
改めて朱色の鳥居のある表へ。


案内看板

川崎市の重要歴史記念物に指定されている古文書についての看板です。
北条氏が発給した二通と徳川奉公人連署奉書が日枝神社に残っているようです。



次は日枝神社の建造物についての看板です。



現在の地図ですが、これを見ても分かるように近くには多摩川が流れており
低い位置にあるので城を築くのには洪水や川の氾濫を懸念するので
ちょっと考えずらい場所だなあと思ったのですが、城というよりは
一時的な陣場であったと考える方が尤もらしい。



二の鳥居です。


日枝神社御由来



木遺塚

木遺は、重たい木や石などを運ぶ際に掛け声のように皆で声を合わせて謡うことを云います。
築城工事が盛んな頃に出来たのではないかという説もありますが、実際のところ
いつごろ誕生したのか定かではありません。
築城家屋普請の地固めの際に使用されたと思われ、
後世に伝わるよう、ここに木遺塚を建立したようです。


神猿

滋賀県大津市の日吉神社の使者としてお仕えしていた神猿です。



魔を去る・人に優る・勝るといった縁起が良いということで祀られている神猿様です。


敬神の碑



拝殿

棟札によると、本殿は1740年(元文5年)5月に建立され、正遷宮が行われています。
この時の大工は、影向寺薬師堂の大工棟梁木嶋長右衛門の次男で
木嶋家の名跡を継いだ木嶋佐右衛門が建てています。
関東大震災で被害を受け、昭和3年に再建していますが、この時位置を少し南へ移しています。


大鷲神社・稲荷神社



招魂の木

招魂の木(おがたまのき)は、霊木として神社の境内によく植えられています。


御神木

樹齢700年余り、かつては3本になっていたが、明治時代に1本、大正時代に1本倒れ、
最後の1本が昭和9年に伐採されました。
中原街道を行き交う人々を見守って来た大杉は、御神木として崇められています。





お城というよりは陣を置いた場所のようです。
それだけに、現地でも城っぽさが感じられませんでした。

令和5年2月26日登城


今回の参考本




藤沢城(長野県)

2023年03月16日 | 百名城以外の城
藤沢城ふじさわじょう
別名蛇山
構造山城
築城者藤沢氏・保科氏
築城年代
指定史跡市指定史跡
場所長野県伊那市高遠町藤沢4080 地図

藤沢城は蛇山とも呼ばれ、松倉峠と杖突峠の合流する古来から交通の要衝に築かれていました。
城主は、諏訪の社領に属していた藤沢盛景、後に保科正直が居住したと伝えられていますが、
詳しいことははっきりしていません。




国道152号線を走っていると、峠の茶屋の看板近くに藤沢城跡の矢印看板があります。
矢印看板に従って行くと城址に到着します。
ちなみに、周辺に駐車場はありません。


獣柵

石橋を渡ると獣柵があるので、自分で開閉して進んで行きます。
この辺りはとにかく鹿が多く、夜になると車を恐れることなく国道に出て来ているので
ご注意ください。


入山口

蛇山の麓では石垣が見られます。



はたして、城に使われていた石垣なのか、畑にした時の石垣なのか
屋敷跡地にあるので期待しちゃいます。



人がひとりしか通れない道ですが、道ははっきりしていてわかりやすい。
ひたすら尾根を目指して登ります。



下を見ると結構急斜面なので転がり落ちたら大変!


尾根

尾根に出ました。



尾根伝いに登って行くと主郭に出ます。
下って行くことも出来そうですが、とりあえず上を目指します。


三の郭

ちょっと浅くなっていてわかりにくいですが、
尾根を切るように堀があるのが分かります。


土橋

主郭下の堀切です。
堀を土橋で渡りいよいよ虎口へ。


主郭

頂点は平場になっていて、周囲には土塁が巡っていました。
現在でも一部土塁が残っています。


石祠

石祠があるので早速お参り。


案内看板

標柱と案内看板が設置されています。


藤沢城図

天正10年に描かれた絵図が残っています。
この図を見ると、麓に城があったようですね。
そして今いるこの場所は物見櫓があった場所のように見えます。(図の左下)


眺望

この眺望から見ても、やはりここは主郭ではなく物見のように思えてきます。


二の郭

ここから先はちょっと藪。



あの松のあたりが二の郭の端だと思うが、
足元も見えないので行くのをためらってしまいました。





尾根を挟んで、反対側からも登れるので、そちらの様子も見に行ってみました。



「宅老所ふじさわ」(かつての藤沢診療所)の方面へと向かいます。
道なりに北西へ向かって進んで行くと「蛇王鉱泉 咲乃湯」の看板のところで右の林道に入って行きます。



低い石垣が沢山見えて来て、城跡を思わせる風景になります。
もしや屋敷跡ではないかとワクワクする景色なのですが…。



たまたま近くに地元の方が居たので聞いてみると、
おそらく後世に造った畑の跡ではないかと仰っていました。



車を停められるスペースもあります。



ちょっとわかりずらいのですが、うっすらと獣道みたいな道があります。
よ~く見ると、以前は木で階段を造ってあったようですが、崩れています。
ここから登って行くと先ほど登った尾根の看板がある場所に出られます。
こちらの方が距離はとても短いです。



こんな風に、すぐ上に尾根が見えます。



ここまでが車で入って来られる道の終点です。
ここに尾根の端があるので、ここから尾根伝いに主郭まで行くという手段もあります。


主郭にある看板にも書いてあるように、時代や城主によって何度も城は作り直されているので
どの時代で見るのかによって本丸になる場所も変わって来るようです。
砦のような山頂に本丸があった時期もあれば、蛇山の麓に広い平地を使って本丸を置いた時期もあったのでしょう。
絵図がの残っている麓の城は、晩年の保科氏の時代の藤沢城のようですね。


令和3年10月10日登城


今回の参考本




馬込城(東京都)

2023年03月07日 | 百名城以外の城
馬込城まごめじょう
別名梶原城・馬篭城
構造平山城
築城者梶原助五郎
築城年代不明
指定史跡
場所東京都大田区南馬込5丁目 地図

馬込城は、「小田原衆所領役帳」によると旧馬込村は
後北条氏の家臣である梶原助五郎の所領となっていて、
城の範囲は、東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、
南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込二丁目)までと
縄張は広く、居館は台地の西の末端に築かれていたと推定されます。


湯殿神社

居館跡は湯殿神社と湯殿公園になっています。



城主の梶原助五郎は、
昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した中村獅童さん演じる
梶原景時の末裔ではないかとも云われています。


拝殿

まずは神社の神様にご挨拶です。



両脇から背後が着物の襟のように高くなっています。
なんとなく土塁に見えません?(欲目)


本殿




拝殿と本殿に段差を付けているのが分かります。
馬込は九十九谷と呼ばれる、谷や丘が複雑に入り組んだ起伏の激しい地形でしたが
近世になって耕作のために、なだらかに土地改良されています。





湯殿公園

この辺りが根古屋と呼ばれる場所で、城主の館があった場所と思われます。
「湯殿」と付くだけに、生活感を感じます。
石垣が見えますが、現代のものですがかつて石垣があったのかもしれないと
思わせる雰囲気です。



この日も親子で遊んでいる姿がほのぼのとしていて、
そこにカメラを持って現れるのが、なんとも申し訳なくて…お邪魔しました。



この先の方にある萬福寺は、源頼朝の命により梶原景時が創建したと伝わり、
梶原景時の墓や五輪塔などゆかりのものがあります。


南馬込のこの一帯が城跡だったとは驚きました。
確かに高低差のある土地柄ですが、ここまで宅地化していると城があったなんて
土地勘があっても、まったく気付くことはありませんでした。
なお、城址の広さに関しては大田区のHPを参考にさせていただきました。


令和5年2月26日再登城


今回の参考本