むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

足利城(栃木県)

2021年05月31日 | 百名城以外の城
足利城あしかがじょう
別名両崖山城・飯塚山城・小屋城・栗崎城・足利宿城
構造山城
築城者足利成行
築城年代平安時代末期
指定史跡市指定史跡
場所足利市本城両崖山 地図

足利城は、両崖山の山頂を主とした山城で足利成行が築城したと伝わります。
その後、平地に足利氏館(鑁阿寺)に居館を移しました。
天正18年、豊臣秀吉による小田原攻めにより、この時城主であった上杉景長は敗れた北条方であったため
転封となり足利城は廃城となりました。



駐車場

本城1丁目側には御厚意により3台ほど駐車が出来る場所があります。
駐車場だけでなく、お水も頂けるありがたい場所があります。



多くの方は織姫神社側からハイキングコースを2kmほどアップダウンを繰り返しながら
城址を目指していると思いますが、城址を見学するだけならば東側の本城地区から登る方が
距離も短く、歩きやすいです。



道幅もあって歩きやすいです。



少し歩くと焦げ臭いにおいと、焼け焦げた木々が見えて来ました。



いくつかの段になって平坦な場所があります。
かつて武家屋敷があったといわれる場所のようです。



木の根元付近と地面が焼け焦げています。
落ち葉に沿って燃えたのでしょう。


本城1丁目

尾根に出ました。
ここは本城1丁目と記されています。
?番地付きの場所なのか?



ここから景色は一変して、足元は石が砕けて滑りやすい路面になります。
岩場も歩くことになるので幻想的~と喜んでいる場合ではなく、転んだり落ちたりしないよう
しっかり歩くことに専念しよう…。



こんな岩場をよじ登る…う~ん、手強いぞ。
でも、みんなこの周辺の登れそうな場所を見つけて登って行きます。
(登る場所は一か所ではないので各自登れそうな場所をみつけています)



これ、甲冑着てたら登るの辛~。
上から石投げられたら簡単に落ちます


展望台跡

私は、今回初めて来たのでここにどのような建物があったのか分かりませんが、
このように燃えて無くなっています。



このように景色が良い所なので戦国時代には物見として使われていたことでしょう。
さて、ここでは地元有志の方が復興の呼びかけをされていました。
募金したかったのですが、ここで募金活動されているとは思っていなかったので
いつも持ち歩いている大量の五円玉を神社へ参拝する分だけ残して全て寄付させていただきました。
と、言っても20枚ほどでは100円にしかならない。
知っていたら、ちゃんとお財布持って登ったのですが、残念だし、申し訳ない。


堀切

ここからは城域になるので遺構も見られます。
まずは堀切が出迎えてくれます。



神社の参道でもあるので石の門構えがあります。



周囲は焼け焦げた木がありますが、免れた桜の木がきれいに咲き誇っていました。



三つ目の堀切のようです。



階段を登りきると、主郭の下段に到着です。


案内看板

ここでじっくり縄張図を見る。






この階段を登ると主郭です。


主郭



御嶽神社

石祠は残っていますが、木造の社は焼失してしまっています。
ともかく、まずは参拝です。






この台座の上にも社があったのですが、完全に消失しています。



主郭の北側には大きな堀切があり、更に北に延びる尾根に細長い郭あるということ
なので堀を覗きにやって来ました。



堀に降りることが出来、その先の郭へと道が整備されています。



ほぼ道にしか見えない尾根の細長い郭です。
落ち葉があったであろう場所は黒くなっています。



ここまでで引き返そう…と思いつつ、この先に堀切かあ。
そこまで行ってみようと結局先へ先へと進んでしまいます。



ここが城域としては北端なので、先へと続く道を見渡して、引き返すことにします。



主郭下の大堀切まで戻ってくると、行きには気が付かなかった石積が見えました。


石垣

自然に岩が砕けて偶然石垣のように見える状態なのか、
人工的に積まれたものなか微妙ですが、石積として紹介されているものも多いです。



主郭下の西側へ廻ってみました。












さて、帰りはそのまま来た道を戻るのは面白くないので
織姫公園の方へ下って行きたいと思います。



ハイキングコースだけあって景色は良いです。



人気があるのも分かります。
退屈しない遊歩道が続きますが、少々足場が悪いので油断は禁物。



アップダウンがあるのでここまで来るとかなりへとへとになっています(^^;


関東ふれあいの道

「関東ふれあいのみち」は関東地方1都6県を1周する長距離自然歩道(総延長1,799km)の歩道です。
城址を巡っていると、よく出会う道なのですが、ここにもあったのかあ。


案内看板

展望広場で一休みして、ようやく舗装路まで降りて来ました。
ここまでの道のりが長かった。
こちら側から登る際にも城址があることわかる看板がありました。
もと来た道で帰ってしまっていたら、見逃してしまったであろう看板です。
疲れたけど収穫があって良かった。



迎えの車(旦那)を織姫神社へ回しておいたのでここから帰路へ。


めちゃめちゃ疲れました。
本当は天狗山の方までいってみたかったのですが、そのような体力が残っていませんでした。
そして、この日はびっくりするほど人がいっぱいいて
いかに人気のあるハイキングコースであるか実感しました。
御年配の方や足の悪い方、小さなお子さんまでもが居たのが驚きです。
山火事があったこともあって、私同様皆さんも気になっていたのでしょう。

少し長めの記事になってしまいましたがここまでお付き合い頂き有難うございました。



今回の参考本






令和3年3月27日登城

松井田西城(群馬県)

2021年05月28日 | 百名城以外の城
松井田西城まついだにしじょう
別名諏訪城・西城小屋
構造山城
築城者安中忠親
築城年代1487年(長享元年)
指定史跡
場所群馬県安中市松井田町新堀 地図

松井田西城は、金剛寺のある場所にあったと伝わります。
安中出羽守忠親が越後国新発田からこの地へ移り居城としました。
忠親の子、忠清が1525年(大永5年)に
榎下城へ移るまでの38年間をこの地で過ごしました。
鬼門の方角には信濃国諏訪湖より勧請した諏訪神社が祀られています。



駐車場

金剛寺の駐車場を拝借して松井田西城の散策へ。


金剛寺略縁起

仁王門の横には金剛寺の略縁起の碑があります。
残念ながら、ここには城についての記述はありませんでした。



とりあえず、本堂目指して上の段へ登ってみよう。


山門

「碓氷山」の扁額が掲げられている山門です。


本堂

まずは参拝をしてからの散策です。
金剛寺は碓氷定光が長元年間(1028~1037年)に建立したことが
仁王門横の略縁起の碑に書かれています。
…ということは松井田西城よりも古くから金剛寺があったことになります。
松井田西城は別名「諏訪城」と呼ばれていたことから、
金剛寺とは別の諏訪神社のある場所にあったのでしょうか。


鐘楼堂

鐘の真下に石像(観音様)があるのがものすご~く気になったのですが、
なぜこのような場所にいらっしゃるのか云われを知りたい。


鳥居

諏訪神社は金剛寺の西側に別の参道がありました。



しかし…諏訪神社には参拝する人がいないのでしょうか。
寺院のすぐ隣にあるというのにこの荒れようです。
途中まで登ってはみたものの、その先も草が生い茂り草をかき分けて進む気になれず断念。
また冬にでも来るとしよう。



土塁のように見える場所もありますが、城があった当時のものかはわかりません。
しかし、段状であったり地形的になんとなく名残を感じ取ることが出来ます。



この日はお寺の周囲を整備されている方がおり、挨拶がてら諏訪神社のある場所を尋ねてみると
親切にお寺の西側にある諏訪神社の行き方を教えてくれました。
松井田城人見城は行ったことあるかい?と聞かれ、この方も周辺城址を
少々御存知の方と見受けられました。
あるいは、この日と同じように寺院や城跡の整備なんかもされている方だったのでしょうか…。
ともあれどこの城へ行ってもこれからの時期草刈りをされている方を見ると、
ほんと、感謝です。
今度は草の無い時期を狙って諏訪神社へ参拝に行って来ようと思います。


令和3年5月23日登城


今回の参考本

高梨子代官所(群馬県)

2021年05月24日 | その他
高梨子代官所たかなしだいかんしょ
別名
構造代官所
築城者井伊直政
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡
場所】群馬県安中市松井田町高梨子 地図

松井田城の大手道にあったとされる安中藩の代官所は、
井伊直政が12万石をもって箕輪に入り代官所をこの地に置かれました。
代官所としての遺構は井戸跡だけで、現在は宅地となり代官所であった範囲も
はっきりとしたことはわかっていません。



井戸跡

唯一の遺構である代官井戸と称される井戸が集落の中にあります。
代官井戸を中心に、小板橋守氏宅を正門と推定し、
代官所があったものと考えられていますが、はっきりとした範囲はわかっていません。



井戸は現在は使用されていませんが、今も水が湛えられています。



かつては、「百人町」や「与力町」「横町」といった
呼びで城下町が形成され、松井田城の大手道が通る総郭となっていました。
小田原の役の後、徳川家康が関東へ転封となると井伊直政が箕輪へ12万石で入り、
安中藩を立藩、代官所が置かれることとなりました。


城下町があった高梨子側が松井田城の表玄関、大手となります。
今はちょっと寂しい感じがしますが、城下町があった当時は賑わっていたことでしょう。
辺りを見てもどこが代官所だったのかはわからないし、資料も残っていないので
その縄張は明らかではないのですが、井戸が残っているということで
見に来てみました。


令和3年5月23日訪問


今回の参考本




亀居城(広島県)

2021年05月13日 | 百名城以外の城
亀居城かめいじょう
別名小方城
構造平山城
築城者福島正則
築城年代1603年(慶長8年)
指定史跡市指定史跡
場所広島県大竹市小方 地図
城郭検定 出題あり




未登城の城






猫城(群馬県)

2021年05月13日 | 百名城以外の城
猫城ねこじょう
別名猫山城・猫寄居
構造山城
築城者都丸氏
築城年代不明
指定史跡
場所渋川市赤城町敷島 地図

南は諏訪沢、北は持久保の深い谷に挟まれた丘陵で、東西約100m、南北10数mの小さい城である。
加沢記によれば、城主の牧和守は北条方で、上杉方の真田軍と大いに奮戦している(標柱より)
この城は、東郭と西郭から成る一城別郭として構築されています。
そして、白井の属城で天正時代には津久田城と共に牧和泉守の守る城でした。



大手道

ここから西郭へ登ることが出来るようです。
ちょっと覗いてみましたが…。



真上に尾根道があるようですが、あまり急斜面を登りたくないので、
戻って、舗装路を進むことにします。



この場所から尾根に出て、尾根伝いに行くことが出来るので体力はいりません。



先ほど見えたカーブミラーが目印です。
この辺りに車を置いて歩いて行くと主郭までは最短で楽勝です。



さも入口というような感じ。
道も悪くないです。(夏場はわかりませんが)



ここで道が上下に分かれていますが、左手の登り方面が東郭へと続く道です。
右の下りは1枚目の写真の場所へと続きます。


搦手道

下から直登される方も多いようですが、こちらならゆる~く進むことが出来ます。



郭に近くなったところで少々角度がきつくなります。
これもまた防御のひとつでもあるのでしょう。


主郭虎口

苦労なく主郭に到着です。


東郭

あまり広いとは言えないです。
猫の額ほどでしょうか…(な~んてね、そこまで狭いという訳ではありません)
南側には土塁も残っています。


腰郭

北側の下を見下ろすと段状に腰郭が見えます。



こちらが本来の大手道です。
この先に西郭があるので下ってみたいと思います。


堀切

東郭と西郭の間の堀切です。
堀を超えた先を登ると西郭に到着です。


西郭

いよいよ標柱が見えて来ました!
それにしても、なぜあそこだ??


標柱

めっちゃ斜面に刺さってるような標柱。
なぜ郭内の平らな所ではないのか不思議でならない。



平成8年に建てられた標柱なので、昔々というほど古いわけでもない。
確かにこちらの斜面は傾斜がキツイので崩れたのかなあ?とも思えなくはないけど…。
先人たちのブログを拝見しても、やはり斜めに立っていたようで、どうにも謎すぎる。



東郭に比べると、西郭の方が広く感じます。
そのためなのか、東郭の方か高所にあるのですが、こちら(西郭)の方を主郭と
解釈されているようです。
東郭の方が高い場所にあるのに、なぜ低い方の西郭に標柱があるのかと疑問でもありました。


眺望

木がなければ眺めが良さそうな感じですよね。



城域はここから見えているところまでとなりますが、
上から見てもやはり大手道が見えて来ない…。
という訳でここで引き返すことに。


ちなみに、ここに来る前に「猫の寄居」という場所にも行ってみました。
民家の裏庭(畑)のような場所で、宅地化や線路などで正直縄張がよくわからず、
写真を撮ることもせずに引き上げました。
城郭を学ぶようになってから「猫」の付く地名などは動物の「猫」ではなく
根小屋を指しているのだなあと考えるようになりました。


令和3年1月16日登城




気分だけでも♪

矢田城(群馬県)

2021年05月10日 | 百名城以外の城
矢田城やたじょう
別名矢田陣屋
構造平城
築城者小林氏
築城年代不明
指定史跡
場所高崎市吉井町矢田530 地図

かつて小林氏が築いた矢田城のありました。
松平氏は三代将軍徳川家光の正室鷹司氏の従弟にあたり、その縁で旗本となりました。
1709年(宝永6年)松平信清は上野国で三千石の加増がされ、大名となると矢田に居所を置き矢田陣屋としました。
その後、信友の代になると吉井に居所を移し当時は矢田陣屋をそのまま名称としていました。
1864年(元治元年)信発の時に吉井陣屋と名称を改めました。




矢田城、矢田陣屋のあった場所には民家があるため、
残念ながら中に入って見学することは出来ません。
道路から垣根越しに堀を確認することが出来ます。


矢田城虎口




右の垣根の東側は矢田城になります。
左の畑を挟んで北側が矢田代官所があった場所になります。



畑の奥の方には土塁が残っているのも確認できます。


堀や土塁、虎口など残っている状態です。
普通に住民が生活しているのでちらっとしか見ることは出来ないのですが
道沿いから堀がしっかり残ってる様子が見られるので残して頂いているだけ
ありがたいというものです。


平成30年12月16日訪問





矢田陣屋(群馬県)

2021年05月10日 | 陣屋・館
矢田陣屋やたじんや
別名矢田城
構造陣屋
築城者松平氏
築城年代不明
指定史跡
場所高崎市吉井町矢田530 地図

かつて小林氏が築いた矢田城のあった場所に矢田陣屋があります。
松平氏は三代将軍徳川家光の正室鷹司氏の従弟にあたり、その縁で旗本となりました。
1709年(宝永6年)松平信清は上野国で三千石の加増がされ、大名となると矢田に居所を置き矢田陣屋としました。
その後、信友の代になると吉井に居所を移し当時は矢田陣屋をそのまま名称としていました。
1864年(元治元年)信発の時に吉井陣屋と名称を改めました。




矢田城、矢田陣屋のあった場所には民家があるため、
残念ながら中に入って見学することは出来ません。
道路から垣根越しに堀を確認することが出来ます。


矢田城虎口




右の垣根の東側は矢田城になります。
左の畑を挟んで北側が矢田代官所があった場所になります。



畑の奥の方には土塁が残っているのも確認できます。


代官所虎口

この奥北側に代官所がありました。
現在は民家があるので侵入することが出来ないため、道路から入口のみの撮影です。
さすがに、中は窺い知れない構造の入り口になっています。


代官所

近寄るのはここまでが限界でした。
ちなみに奥の民家がある場所が代官所の置かれていた場所になります。


堀や土塁、虎口など残っている状態です。
普通に住民が生活しているのでちらっとしか見ることは出来ないのですが
道沿いから堀がしっかり残ってる様子が見られるので残して頂いているだけ
ありがたいというものです。


平成30年12月16日訪問