むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

三河寺部城(愛知県)

2023年06月28日 | 百名城以外の城
三河寺部城みかわてらべじょう
別名寺部陣屋
構造平城
築城者鈴木重時
築城年代文明年間(1469-1487年)
指定史跡
場所愛知県豊田市寺部町1丁目 地図

寺部城は文明年間、文明年中鈴木重時によって築城された城です。
のちに尾州徳川家の家老職渡辺守綱の居城となりました。
また、松平元康(徳川家康)の初陣となる「寺部城の戦い」の舞台となった場所です。
寺部城の戦いでは、今川氏が初めて鉄砲を用いた戦いであるとも伝わります。



城址の森公園

寺部城の跡地は現在城址の森公園になっています。


案内看板

公園入口脇にある案内看板です。


城址碑

櫓台でもあったかのような土盛に城址碑があります。
寺部城に陣屋が置かれていることもあり、陣屋を囲むように土塁が築かれていたと思われます。



中に入ると、平らな中に、いくつかの区切りがあります。
建物は残っていないので、建物跡に沿って土蔵や母屋、仏間など各部屋に区切られていた
様子が分かるようになっています。



渡辺氏はもともと尾張名古屋藩の家老を務める家柄で、
初代守綱は家康の家臣の中でも、数々の戦功をあげたため、
徳川十六将に数えられた武将でした。
江戸時代になると、家康より一万四千石を与えられ御付家老 として
尾張徳川義直に仕えることになり、陣屋が置かれることになりました。



寺部城主の鈴木氏と武田信玄の軍師として知られている山本勘助との関係も
注目してみると面白い。
山本勘助は三河(豊川)の出身で、鈴木日向守を師としていたという説もあります。
楠木正成の兵法が鈴木氏に伝わり、山本勘助から武田信玄に伝わった可能性があるという
伝説が豊田には残っているという。(伝承)


土蔵




ここでは建物はありませんが、
書院(七州城の又日亭)と城門(安城市の誓願寺)が移築され、現存しています。


井戸

全部で三つあるという井戸です。
西側には外堀の役目もしていたであろう矢作川もあるので籠城するにしても
水の備えは心配なさそうですね。


母屋



仏間



土塁

城の西側の手入れのされていない場所を覗き込むと土塁が見られます。
永禄9年(1566年)に寺部城は、織田氏の重臣佐久間信盛によって攻められ落城し、
寺部城であった頃の遺構は、ここ西側に残る土塁だけのようです。



当時の城域は複数の郭で形成されていたと考えられているようですが、
郭や堀といったものは確認することは出来ませんでした。


ここが徳川家康初陣となった場所のようですが、現地のアピール度はだいぶ控えめな感じがします。
攻められた側の城なので家康を持ち上げることはしないのでしょう。
しかし、知名度を上げるには利用しない手はないのですが、
周囲は住宅地、観光地でもないので思いのほか静かな公園でした。


令和4年10月29日登城


今回の参考本



小田井城(長野県)

2023年06月19日 | 百名城以外の城
小田井城おたいじょう
別名
構造平山城
築城者小田井吉六郎副親
築城年代大永年間(1521~1528年)
指定史跡町指定史跡
場所長野県北佐久郡御代田町御代田 地図

小田井城址は、宿の東側の谷を挟んだ場所に位置する。
1543年(天文12年)正月の休戦に入ったところを武田軍に急襲され落城となった。
城主は討ち死に おんなと子どもはくぐり岩という抜け穴を通って氏神の十二の杜に逃げたという。
築城からわずか23年でした。
城主の子市村(小田井)弾正は戦国の動乱期 北条につき、小田井城は北条方の拠点となる。
徳川方の依田信蕃によって攻め滅ぼされ、小田井城は廃城になります。
高原野菜の畑となった城跡には、今も 空堀、土塁が残ります。




県道132号線から「アサヒ紙工株式会社」入口に向かって南下します。


虎口

道なりに農耕地へ向かって進んで行くと、虎口と堀が見えて来ます。
堀跡の標柱も立っているので遺構がわかりやすいです。


W字型の堀

そして城域への入口となるこの堀切は、「W字型の堀」と呼ばれる溝の中でダブルになった堀があります。


堀跡

道を挟んで反対側にも堀があり、こちらは木々が無い分、明るく見やすくなっています。



真っすぐ道を進むと、大きな城域を三つに区切るかのように、堀が見えて来ます。
その堀の袂に案内看板が設置されています。


案内看板

カラーで縄張りの様子も分かりやすい立派な看板です。



堀は西に向かってT字に掘られています。


井戸跡

そして、更に奥へと進み、主郭までやってきました。
スリバチ畑と呼ばれる、すり鉢状の場所にマイマイ井戸があったようです。
緩く浅い窪地の中央に井戸があったことが分かっています。


主郭

舌状台地の先端となる場所です。
先端と言えど、かなりの広さです。


馬頭観音

農耕車の通る道沿いの片隅に、馬頭観音がありました。
いつの時代のものかわかりませんが、
人間のために働いてくれた馬たちへ供養の為に立てられたのかもしれないですね。



こんな感じで急峻な崖と、底に流れる川を攻めてくるのは容易ではないことが
お分かりいただけると思います。



南端から北へ向かって見た光景は、とにかく主郭が広い!
この城は戦後期より幾度かの争いで城主が変わり、改修され実戦の場となっています。
しかし、この広大な城に見合った兵力は整わず、大きな城であるゆえの守りの難しさもあったようです。



幾度かの改修により、その時代にあった戦略に対抗するためにこれだけの巾のある
堀を築いたので



西側へやって来ました。
この方向に「くぐり岩」という気になる岩があるようなので見に行ってみました。


くぐり岩

何枚か撮影してみたのですがうまく撮れませんでした。
肉眼で見ると、確かに岩に穴が開いて、そこから川の方へ抜け出ることが出来そうです。
三方を崖と川の要害となっており、攻めるのも大変ですが、逃げるにもここを通るしかなかったのかもしれません。





小田井城の西側に旧中山道が通り、小田井宿の宿場の様子も見ることが出来ます。
古い町並みが今でも残り、道沿いの建物も宿場の雰囲気をしっかり残してくれています。



令和3年1月3日登城


今回の参考本