【明知城】あけちじょう
【別名】白鷹城・明智城
【構造】山城
【築城者】遠山景重
【築城年代】1247年(宝治元年)
【指定史跡】県指定史跡
【場所】恵那市明智町城山 地図
【御城印】大正村観光案内所
明知城は、岩村城に次ぐ規模の城郭で明知遠山氏代々の居城です。
「畝状堀群」が特徴的で斜面に複数の横堀と竪堀が郭の周囲に構築されています。
戦国期には織田信長の配下にあり、武田信玄の将で高遠城主の秋山氏が東濃地方へ侵攻。
これに遠山方は惨敗し、武田方に落ちます。
しかし、この後も一国一城令で廃城になるまで明知城の奪還を繰り返す戦が続いていました。
入口
入口は何本かあるのですが、駐車場が設けられた主要地方道瑞浪上矢作線から
登ることにしました。
「白鷹城」の旗や看板が見えて来るので、従って入って行きます。
駐車場
通り抜けの出来ない脇道を入ると、駐車場と案内看板があります。
ここから登城します。
登城口
ちょっと見ただけでも畝うねしているのがそそられます。
ワクワクします。
二の丸東砦
右手が二の丸東砦です。
竪堀、横堀で内側の様子が見えません。
搦手砦
二の丸砦の前で道が曲げられています。
曲がってみると、堀と郭が複雑に絡み合っています。
どこから攻めようか悩みます。
正面へ進むと「光秀学問所」として天神神社へ
京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、
ここで学問に精進したと言われています。
しかし、先を急ぐため天神神社へは行かず、目指すは本丸!
と言う訳で上に登って行きます。
貯水池
大きな窪みがありました。
「貯水池」とあります。
城外から水を引き込んで、ここに溜めていたという言伝えが残されています。
障子堀
進行方向から逆に周って見てみると、窪みの中に二つに区切るように
畝があるのが見えます。
土塁と堀と、このメリハリがなんとも魅力的ですよね。
ここを登ると、左は出丸、右へ進むと二の丸、本丸方面へ。
左へ折れて出丸へ行ってみることにしました。
城門の石垣跡
出丸の入口にある城門の石垣跡です。
出丸
主郭の南に位置する出丸は本丸以上に重視され、三方は切岸で虎口には城門付きの
特別な曲輪であったとされています。
切岸
カメラ越しでも認識できるほどの切岸です。
柱石
陣屋の礎石として残されたものです。
しかし、陣屋は麓にあったはずですがなぜここに???
もうちょっと説明が欲しいところですね。
北側の下を覗き込むと、こちらも畝、畝とはっきり確認出来ます。
では、再び本丸をめざしましょう。
出丸から本丸下の別れ道に戻りました。
腰曲輪
本丸下、南西を取り巻く腰曲輪の入口です。
この腰曲輪は三の丸でもあり、この腰曲輪から丸太や石を落して
武田軍からの攻撃を防いだという言伝えも残っています。
二の丸
こちらは最初にあった二の丸東砦の上になります。
虎口
いよいよ本丸の虎口です。
ここを登り上げると本丸です。
本丸
明知城の標柱が見えました!
頂上、本丸へやってきました。
案内看板と縄張り図があります。
明知城縄張り図
この縄張り図を見ても分かるように、これだけの防御施設を造る必要性があり
このような複雑な地形に改変されて行ったのでしょうね。
分かる気がする…。
西の方に大手道があり、麓には陣屋がありました。
ここから先はの陣屋跡は別で紹介したいと思います。
来た道を戻って東の丸砦まで戻って来ました。
ところで、武田勝頼が明知城に攻め込んだ際、織田からの援軍として城内に居た坂井越中守一族を
遠山一族が殺害してしまい、明知城を武田方に渡してしまうという謀反が起きました。
岐阜城から援軍に出ていた信長は空しく引き返したという話が残されています。
そのまま、駐車場へ戻って西側の陣屋跡へと周り込みます。
来年の大河ドラマ「麒麟がくる」のブームに乗って
明智光秀のゆかりの地として盛り上がって来ている雰囲気が出ていました。
他にも明智光秀公産湯の井戸のある千畳敷公園にある土岐明智城の方へも行ってみたいですね。
そして、何よりこの複雑な畝だらけの地形はとても見応えがあって楽しめました
令和元年9月29日登城
令和2年1月11日再登城
今回の参考本
【別名】白鷹城・明智城
【構造】山城
【築城者】遠山景重
【築城年代】1247年(宝治元年)
【指定史跡】県指定史跡
【場所】恵那市明智町城山 地図
【御城印】大正村観光案内所
明知城は、岩村城に次ぐ規模の城郭で明知遠山氏代々の居城です。
「畝状堀群」が特徴的で斜面に複数の横堀と竪堀が郭の周囲に構築されています。
戦国期には織田信長の配下にあり、武田信玄の将で高遠城主の秋山氏が東濃地方へ侵攻。
これに遠山方は惨敗し、武田方に落ちます。
しかし、この後も一国一城令で廃城になるまで明知城の奪還を繰り返す戦が続いていました。
入口
入口は何本かあるのですが、駐車場が設けられた主要地方道瑞浪上矢作線から
登ることにしました。
「白鷹城」の旗や看板が見えて来るので、従って入って行きます。
駐車場
通り抜けの出来ない脇道を入ると、駐車場と案内看板があります。
ここから登城します。
登城口
ちょっと見ただけでも畝うねしているのがそそられます。
ワクワクします。
二の丸東砦
右手が二の丸東砦です。
竪堀、横堀で内側の様子が見えません。
搦手砦
二の丸砦の前で道が曲げられています。
曲がってみると、堀と郭が複雑に絡み合っています。
どこから攻めようか悩みます。
正面へ進むと「光秀学問所」として天神神社へ
京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、
ここで学問に精進したと言われています。
しかし、先を急ぐため天神神社へは行かず、目指すは本丸!
と言う訳で上に登って行きます。
貯水池
大きな窪みがありました。
「貯水池」とあります。
城外から水を引き込んで、ここに溜めていたという言伝えが残されています。
障子堀
進行方向から逆に周って見てみると、窪みの中に二つに区切るように
畝があるのが見えます。
土塁と堀と、このメリハリがなんとも魅力的ですよね。
ここを登ると、左は出丸、右へ進むと二の丸、本丸方面へ。
左へ折れて出丸へ行ってみることにしました。
城門の石垣跡
出丸の入口にある城門の石垣跡です。
出丸
主郭の南に位置する出丸は本丸以上に重視され、三方は切岸で虎口には城門付きの
特別な曲輪であったとされています。
切岸
カメラ越しでも認識できるほどの切岸です。
柱石
陣屋の礎石として残されたものです。
しかし、陣屋は麓にあったはずですがなぜここに???
もうちょっと説明が欲しいところですね。
北側の下を覗き込むと、こちらも畝、畝とはっきり確認出来ます。
では、再び本丸をめざしましょう。
出丸から本丸下の別れ道に戻りました。
腰曲輪
本丸下、南西を取り巻く腰曲輪の入口です。
この腰曲輪は三の丸でもあり、この腰曲輪から丸太や石を落して
武田軍からの攻撃を防いだという言伝えも残っています。
二の丸
こちらは最初にあった二の丸東砦の上になります。
虎口
いよいよ本丸の虎口です。
ここを登り上げると本丸です。
本丸
明知城の標柱が見えました!
頂上、本丸へやってきました。
案内看板と縄張り図があります。
明知城縄張り図
この縄張り図を見ても分かるように、これだけの防御施設を造る必要性があり
このような複雑な地形に改変されて行ったのでしょうね。
分かる気がする…。
西の方に大手道があり、麓には陣屋がありました。
ここから先はの陣屋跡は別で紹介したいと思います。
来た道を戻って東の丸砦まで戻って来ました。
ところで、武田勝頼が明知城に攻め込んだ際、織田からの援軍として城内に居た坂井越中守一族を
遠山一族が殺害してしまい、明知城を武田方に渡してしまうという謀反が起きました。
岐阜城から援軍に出ていた信長は空しく引き返したという話が残されています。
そのまま、駐車場へ戻って西側の陣屋跡へと周り込みます。
来年の大河ドラマ「麒麟がくる」のブームに乗って
明智光秀のゆかりの地として盛り上がって来ている雰囲気が出ていました。
他にも明智光秀公産湯の井戸のある千畳敷公園にある土岐明智城の方へも行ってみたいですね。
そして、何よりこの複雑な畝だらけの地形はとても見応えがあって楽しめました
令和元年9月29日登城
令和2年1月11日再登城
今回の参考本
岐阜の山城ベスト50を歩く | |
三宅 唯美,中井 均 | |
サンライズ出版 |
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 | |
宮坂武男 | |
戎光祥出版 |