むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

明知城(岐阜県)

2019年10月30日 | 百名城以外の城
明知城あけちじょう
別名白鷹城・明智城
構造山城
築城者遠山景重
築城年代1247年(宝治元年)
指定史跡県指定史跡
場所恵那市明智町城山 地図
御城印大正村観光案内所

明知城は、岩村城に次ぐ規模の城郭で明知遠山氏代々の居城です。
「畝状堀群」が特徴的で斜面に複数の横堀と竪堀が郭の周囲に構築されています。
戦国期には織田信長の配下にあり、武田信玄の将で高遠城主の秋山氏が東濃地方へ侵攻。
これに遠山方は惨敗し、武田方に落ちます。
しかし、この後も一国一城令で廃城になるまで明知城の奪還を繰り返す戦が続いていました。



入口

入口は何本かあるのですが、駐車場が設けられた主要地方道瑞浪上矢作線から
登ることにしました。
「白鷹城」の旗や看板が見えて来るので、従って入って行きます。


駐車場
通り抜けの出来ない脇道を入ると、駐車場と案内看板があります。
ここから登城します。


登城口

ちょっと見ただけでも畝うねしているのがそそられます。
ワクワクします。


二の丸東砦

右手が二の丸東砦です。
竪堀、横堀で内側の様子が見えません。


搦手砦

二の丸砦の前で道が曲げられています。
曲がってみると、堀と郭が複雑に絡み合っています。
どこから攻めようか悩みます。



正面へ進むと「光秀学問所」として天神神社へ
京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、
ここで学問に精進したと言われています。



しかし、先を急ぐため天神神社へは行かず、目指すは本丸!
と言う訳で上に登って行きます。


貯水池

大きな窪みがありました。
「貯水池」とあります。
城外から水を引き込んで、ここに溜めていたという言伝えが残されています。


障子堀
進行方向から逆に周って見てみると、窪みの中に二つに区切るように
畝があるのが見えます。



土塁と堀と、このメリハリがなんとも魅力的ですよね。



ここを登ると、左は出丸、右へ進むと二の丸、本丸方面へ。



左へ折れて出丸へ行ってみることにしました。


城門の石垣跡
出丸の入口にある城門の石垣跡です。


出丸

主郭の南に位置する出丸は本丸以上に重視され、三方は切岸で虎口には城門付きの
特別な曲輪であったとされています。


切岸
カメラ越しでも認識できるほどの切岸です。


柱石

陣屋の礎石として残されたものです。
しかし、陣屋は麓にあったはずですがなぜここに???
もうちょっと説明が欲しいところですね。



北側の下を覗き込むと、こちらも畝、畝とはっきり確認出来ます。



では、再び本丸をめざしましょう。
出丸から本丸下の別れ道に戻りました。


腰曲輪
本丸下、南西を取り巻く腰曲輪の入口です。
この腰曲輪は三の丸でもあり、この腰曲輪から丸太や石を落して
武田軍からの攻撃を防いだという言伝えも残っています。


二の丸

こちらは最初にあった二の丸東砦の上になります。


虎口

いよいよ本丸の虎口です。
ここを登り上げると本丸です。


本丸

明知城の標柱が見えました!
頂上、本丸へやってきました。



案内看板と縄張り図があります。


明知城縄張り図
この縄張り図を見ても分かるように、これだけの防御施設を造る必要性があり
このような複雑な地形に改変されて行ったのでしょうね。
分かる気がする…。



西の方に大手道があり、麓には陣屋がありました。
ここから先はの陣屋跡は別で紹介したいと思います。



来た道を戻って東の丸砦まで戻って来ました。
ところで、武田勝頼が明知城に攻め込んだ際、織田からの援軍として城内に居た坂井越中守一族を
遠山一族が殺害してしまい、明知城を武田方に渡してしまうという謀反が起きました。
岐阜城から援軍に出ていた信長は空しく引き返したという話が残されています。



そのまま、駐車場へ戻って西側の陣屋跡へと周り込みます。



来年の大河ドラマ「麒麟がくる」のブームに乗って
明智光秀のゆかりの地として盛り上がって来ている雰囲気が出ていました。
他にも明智光秀公産湯の井戸のある千畳敷公園にある土岐明智城の方へも行ってみたいですね。
そして、何よりこの複雑な畝だらけの地形はとても見応えがあって楽しめました


令和元年9月29日登城
令和2年1月11日再登城


今回の参考本
岐阜の山城ベスト50を歩く
三宅 唯美,中井 均
サンライズ出版



信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編
宮坂武男
戎光祥出版

武節城(愛知県)

2019年10月25日 | 百名城以外の城
武節城ぶせつじょう
別名地伏城
構造平山城
築城者菅沼定信
築城年代永正年間
指定史跡-
場所豊田市武節町城山 地図

武節城は、田峯城主菅沼定信によって田峯城の支城として築かれました。
信州と美濃の国境にあり、武田、徳川の戦乱に巻き込まれ
三河の最前線基地として物見や狼煙を上げる情報伝達の重要拠点でもありました。
長篠の合戦では、敗れた武田勝頼が敗走し、武節城に辿り着き一泊したとして知られています。



道の駅どんぐりの里いなぶ

道の駅で、トイレを済ませ、五平餅と子持ち鮎の塩焼きを食べて準備完了!
さあ、攻めましょうか


登り口入口

アクセスは2ヶ所、まずはトンネルの脇の道から看板に従って行ってみることにしました。


登り口

道の駅があるので、車を置いて歩くのもありです。
でも、車が足の人なのでどこまでも車で行こうと思ってしまう^^;



ここからは車では行けないので徒歩になります。
しかし、駐車スペースには少し難があります。
段差を乗り越え、なんとか1台駐車出来る程度のスペースしかないのであまりお勧めしません。
一般的に考えたら、これなら道の駅から歩いた方がいいのかな。



道は比較的歩きやすいのかな。ここは。


空堀

この堀切は山麓まで達するほどで城を本丸と外曲輪を二分する役割をしています。



当時はもっと深い堀切であったと思われますが、五〇〇年近く経過しているため
自然に埋まっているようで、現在はこのように堀底に道が付けられています。



空堀を過ぎたら、なんだか道が周りの景色(草)に溶け込んで来ましたよ。



ここからは急に藪になります。
一般の方は空堀を見て引き返してしまうのかしら?
しかし…それでも行くしかあるまい、本丸まだ先だし。


蔵屋敷跡

草を掻き分け、蜘蛛の巣と格闘しながら歩いていたら
ちゃんと看板もありました。
ここまで来ると、また道は普通に歩けるようになっています。



明るくなって来ました。
出口は近いか…いよいよ本丸か!


本丸

本丸に到着しました。
天正二年に武田勝頼が長篠の戦いで敗れ、武節城へ落ち延びたとされる場所で、
この城で「梅酢湯」を飲んで疲れを癒したと伝わります。



八幡神社とは別に、物見台の下にも社があります。


城址碑
武節城址碑をはじめ、ズラリと石碑が立ち並んでいます。


鳥居

八幡神社の鳥居です。


櫓台
この階段を登ると、八幡神社があります。
当時は物見台になっていて、ここから狼煙を上げて情報伝達をしていました。


武節町開祖功労記念碑
武節町愛の詰まった記念碑ですね。
この町を創ったということで、城のてっぺんに建られたのでしょうか。
そしてここにはかつて石垣も積まれ、天守に相当するような大きな櫓があったのではないかと考えられています。


虎口

あれ?ここまで車で来られるじゃん!
というわけで、反対側からは車で本丸まで来られることがわかりました。
う~ん、あの藪漕ぎは何だったんだ\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?


二の丸
本丸の下には二の丸、三の丸と段々に下って行きます。


三の丸

三の丸は右の奥にあり、畑になっていました。
目の前の畑は堀切跡です。
当時はもっと深い堀だったのですが、道路を通す際に埋められました。


大手口

本丸まで舗装路になっています。


道の駅
大手道を下った先が道の駅で、結局一周して同じ場所に帰って来ました。
というわけで、車はやっぱり道の駅に置かせてもらうのがベストだと思います。
トイレの前の水車のところにも武節城の案内看板がありました。



あやうく見逃すところでしたが、皆さんのトイレに寄った際はこちらも
お忘れなく。


本日のグルメ

「五平餅」と「子持ち鮎の塩焼き」です。
どちらもとてもおいしゅうございました。
鮎の塩焼きは、大と小があったのですが大の方は売り切れだったので小を食べたのですが
それでも、このスタイルで子持ちというのは初めて食べました。



道の駅に寄りながら、ぜひ行ってみて下さい。


令和元年9月29日登城


今回の参考本
愛知の山城ベスト50を歩く
愛知中世城郭研究会,中井 均
サンライズ出版

金窪城(埼玉県)

2019年10月23日 | 百名城以外の城
金窪城かなくぼじょう
別名太瑯城
構造平城
築城者加治家季
築城年代治承年間
指定史跡県指定史跡
場所児玉郡上里町金久保 地図

金窪城は、別名は太瑯城(たやじょう)よも言い、武蔵国の最北端にあって
上野国との国境の城として重要とされていました。
戦国期には摂津守定利が居城していましたが、1582年(天正10年)神流川合戦で
織田信長の家臣滝川一益に攻められ、落城しました。
後に、徳川家康の関東入国により武田信玄の甥である川窪信俊の所領となり、
陣屋がおかれたのですが、1698年(元禄111年)に川窪氏が丹波へ転封となったため廃城となりました。



県道392号を走っていると金窪城址の看板が見えて来ます。
ここで看板に従って曲がります。


萠美保育園

保育園が見えたところで車を一旦停止。
ここから館の敷地に入ります。


館址入口

保育園のある交差点の角に「館址入口」を示す石碑が建っています。
そして、この先の金窪城址公園を目指します。


金窪城址公園

公園が見えて来ました。
看板もあるのでここが金窪城址のようです。


駐車場
駐車場も完備されているので車で気軽に来られます。


城跡碑

公園の反対側、カーブの内側に金窪城跡碑と案内看板があります。


案内看板

わりと新しい説明看板です。
これによると、どうやらこの高台も土塁の上のようです。


案内看板

こちらは古くからあったであろう看板です。


公園入口

公園の右側にある畑のわずかな段差が土塁の名残と言われています。


堀と土塁

周囲にはわずかに残る低い土塁と堀の名残。
天然の堀とも思われる忍保川です。


黛神社
初めは「黛大明神」として烏川に接した場所にあったのですが、たびたび起こる水害に
現在の地に移ったようです。



獅子が逆立ちしています。
最近、瓦屋根を見るとこういうものが載っていないかとみてしまいます^^;
いろいろな形があるのでおもしろいです。



神社の入口には由緒の看板が掲げられています。
また、川沿いの農道が三国街道とも言われています。
県道沿いには街道の入口石柱や鎌倉街道の案内看板など見かけました。
武蔵国と上野国の国境に位置する場所で、利根川の支流である神流川と烏川の合流地点も近い。
中山道から分岐した三国街道が通っていた場所でもあり重要な場所であったとも言えます。



肝心な神流川の合戦場へまだ行っていないので行かなくちゃなあと思いつつ、夏が終わってしまいました^^;


令和元年9月22日登城


本日の参考本
日本城郭大系〈第5巻〉埼玉・東京 (1979年)
平井 聖
新人物往来社



【オリジナル集印帳つき】はじめての御城印ガイド (学研ムック)
学研プラス
学研プラス

飯野陣屋(千葉県)

2019年10月21日 | 陣屋・館
飯野陣屋いいのじんや
別名
構造陣屋
築城者保科正貞
築城年代1648年(慶安元年)
指定史跡県指定史跡
場所富津市下飯野 地図

飯野陣屋は飯野藩初代藩主保科正貞(高遠藩主保科正之の弟)が築いた陣屋です。
以後明治維新を迎え版籍奉還に至るまで保科氏が藩主を勤めました。
正貞は、信州高遠城主保科家に生まれ、早くから徳川家に仕えて大阪夏の陣では大活躍をしました。
前封に飯野村を加増され、飯野藩は譜代大名となり、大阪城番や江戸城の門番を命じられていました。



飯野陣屋濠跡碑

濠跡へやって来ました。
水濠になっていて、水が濁っているので底の様子は見えないのですが、ここにある説明を読むと
泥に埋まっていると思われますが、薬研濠になってるようです。
この先は本丸でもある飯野神社の参道になります。


大手道

城を持つことが許されなかった江戸時代に、飯野陣屋は城にも劣らない大きさの
陣屋を築くことが出来たのは、やはり保科家と徳川家の縁の深さを感じます。
ちなみに、日本三大陣屋のひとつだそうです。


復興記念碑
この石碑は、大正12年9月1日に発生した関東大震災の復興記念碑です。


飯野神社

飯野神社と呼ばれていますが、本来は稲荷神社だったようです。


拝殿

周囲の樹は台風15号の影響で倒れていたり、枝が折れたりしています。
今にも倒れそうな樹もあるので、できるだけ真中を通ってお参りしました。



こんな状態になってます。


三条塚古墳(物見台)
この奥が三条塚古墳です。
あまり人が入らないのか、少し藪になっています。


案内看板
案内看板がありました。
濠を渡って中に入ると、そこは二の丸です。


飯野中学校跡
ここには戦後の1947年から20年間だけ飯野中学校がありました。
飯野中学校記念誌発刊記念として建てられた碑のようです。


稲荷塚
「稲荷塚古墳」と書かれた石碑があるのですが…背負っているのは土塁ですよね?
古墳???と思って案内看板をよく見たら、石碑は本来の位置とは違うということが書かれています。
古墳はここじゃないんですね。^^;


稲荷塚古墳
石碑から少し離れたところにこんもりとした土盛があります。
平地になっているので、見渡すとこの土盛がすぐにみつかります。
この古墳の東側には硝煙庫が陣屋絵図には記されいます。



この辺りは枡形になっているため、濠もそれに沿って曲がっているのが分かります。
しかしながら、一枚の写真に納めることが出来ずその形は私の撮った写真ではわかりずらいです。



この先が枡形でコの字に曲がっています。
濠と土塁で中が見えないようになっています。



北東の角にやってきました。
北側の濠が真直ぐで一番長い辺になります。


搦手口

白い車が見える濠側に、濠を渡る土橋があります。
そこがかつて搦手門が置かれていた場所です。
実はこの日、その土橋の奥に軽トラが停まっていて中には入りませんでした。
左の住宅地は外郭になります。


折邪
案内看板があるこの場所、看板を見ていて振り向くことが無かったのですが、
背後は牢屋だったんですね。(宅地)


飯野陣屋の図

「下飯野陣屋の図」や「飯野陣屋古図」などの古絵図が残されているため、
現在でも、飯野陣屋の旧状をほぼ復元することが可能なんだそうです。



台風15号の後に訪れました。
この後台風19号にも襲われているので、現状がどうなっているのか、
被害が拡大しているのかわかりません。
さて、この飯野陣屋は高遠の保科正之氏の弟が築いたということで
以前から、千葉県に高遠とゆかりの場所があるというのを聞いていたのですが
飯野藩であったことを認識していませんでした。
案内看板を見て、「ああ、ここだったかあ」とやっと結びつきました。
さすが、徳川家とも縁が深いとあって広い陣屋でした。
もっと深く掘り下げて知りたいと思う場所なので、資料探しからですかね。



令和元年9月15日登城


今回の参考本
日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川
平井聖
新人物往来社



猫用首輪 ちりめん手毬 四葉のチャーム(鈴付き) (紫色)
猫壱
猫壱

須田城(長野県)

2019年10月18日 | 百名城以外の城
須田城すだじょう
別名臥竜山城
構造山城
築城者須田氏
築城年代室町時代
指定史跡市指定史跡
場所須坂市臥竜3 地図

須田氏は井上城主の分家であり、臥竜山に出城を構えたのが須田城です。
本城は本郷にある大岩城で、当初村上氏に属していましたが、武田氏と上杉氏の争いでは
武田氏につき、武田氏が滅亡すると上杉景勝が北信四郡を占領したため上杉へと下り越後へ。
越後須田氏は海津城の城将として信濃に帰国し、武蔵国八王子城の城将も勤めています。
その後、慶長三年に上杉氏の会津への国替えの命が下ると、これに抵抗し、
須田氏は海津城で自害して果てました。
残された者は上杉氏と伴に会津へ移り、須田城は廃城となりました。



臥竜公園

とりあえず臥竜公園目指して行ってみました。
案内看板を見ると公園内に須田城があります。



テニスコート駐車場に車を停めて、テニスコートにある管理事務所で声を掛け、
周囲が薄暗くなってきたこともあり、須田城への行き方を伺い、行って来ることを報告。


観音堂参道

しばらく進むと看板があり、従って階段を登ります。
しかし、先ほどトンネルのような橋があるとも伺ったのですが…ま、いいか。(後に分かる)


観音堂

階段を登りきったところに建物があります。
これが観音堂です。



観音堂を過ぎて、更に山頂を目指します。


標柱

標柱には「須坂藩主堀直虎霊廟」と書かれています。




ここには江戸城内で自害したという須坂藩主堀直虎が祀られています。
堀直虎は1836年(天保7年)須坂藩11代藩主堀直格の五男として、江戸藩邸で生まれました。
直虎は、西洋の技術を取入れることに積極的でした。
土佐藩の山内豊福ととても親しい仲でしたが大政奉還の混乱の中鳥羽伏見の戦い後
豊福は、土佐藩の意向と自らの勤王佐幕の願いとの板ばさみとなり夫人と共に自害しました。
このことで若年寄である直虎は酷く心を痛め、その3日後に江戸城内で手洗いに行くと言って
自害してしまいました。
なんとも切ない話です。



遊歩道のように道が付けられています。


帯郭

主郭下の帯郭です。
この帯郭は主郭をコの字に囲み1週することが出来ます。


主郭

山頂が見えて来ました。主郭です。
ここが主郭への東の入口になります。
案内看板やベンチが設置されています。


建物跡?

なんぞや??この建物跡は。
あまり古そうに見えないのだが…後世のものなのか?



出城というだけにあまり広くないので、物見に近い使われ方だったのでしょう。
麓には城らしい地名が多く残されているので平時は麓のに屋敷を構えていたようです。


堀中道

主郭から下を覗き込むと枡形になった虎口と二ノ郭、帯郭の堀中道と
複雑な構造をしている様子がチラリと見えます。
この堀切で主郭と二分する重要な場所であることがわかります。



主郭から西側の帯郭へ降りる道です。
東西に帯郭と主郭を二ヶ所の虎口があります。


城の鼻

西の帯郭に「城の鼻」と呼ばれる郭があります。
補足ですが、この帯郭を西に向い二の郭、二の郭を囲むように三の郭があり、
細長い四の郭と大手筋が続いています。


眺望

主郭は木が邪魔をして眺望はあまり望めなかったのですが
帯郭に降りてきたら、こちらの方が眺めが良いではありませんか。
しかし、眺めている目の前でポツポツと街は灯りが燈り始めました。
もう少しすると綺麗な夜景が見られそうですが、真っ暗になっちゃうと帰れなくなっちゃう


搦手筋

道が見えなくなる前に山を下らねば!と急ぎ足で再び搦手道を下って来ました。
ありました(^^)v 先ほど教えてもらった橋とはここのことか



三叉路にやって来ました。
トンネルになった橋もこの写真の右手にあります。
案内看板が沢山あるのでわかりやすいです。


観音橋
そしてこちらがトンネルになっっている観音橋です。
ここを境に山側が須田城の縄張りとなります。



無事に帰って来ました。
辺りは薄暗く、球技場にもライトが点灯しています。
もう少し遅かったら入口で引き返すことになっていたかも^^;
この後、出発時にお世話になった管理事務所に無事登城したことを伝え帰りました。



日も暮れ始めていたため、大手筋へは行っていません。
辺りが暗いために画像も手振れのように焦点が合っていません。
ちょっと見ずらい写真ばかりになってしまっていますが御勘弁下さい。



令和元年8月11日登城


今回の参考本
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
宮坂 武男
戎光祥出版



日本城郭大系〈第8巻〉長野・山梨 (1980年)
平井 聖
新人物往来社



城 歴史を語り継ぐ日本の名城 2020年 カレンダー 壁掛け SC-2 (使用サイズ594x420mm) 風景
写真工房カレンダー
写真工房

栗田城(長野県)

2019年10月16日 | 百名城以外の城
栗田城くりたじょう
別名堀之内城
構造平城
築城者栗田仲国
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所長野市大字栗田482 地図

栗田城は村上一族の栗田氏居城で、栗田寛覚の子「仲国」が築城以来
戦国時代末期まで代々居城としました。
「川中島の戦い」では武田方につき、旭山城に入って戦いました。
その後、甲斐に移り栗田城は廃城となりました。



鳥居

日吉神社(栗田神社)の鳥居です。
公園になっているので、この日も親子が遊んでいていました。
カメラを持ったあやしいおばちゃんの来る場所ではないです^^;
でも、おじゃましま~す


案内看板

わりと新しい感じの看板です。
栗田城址を整備する会が立てた案内看板です。


栗田城址想定図
栗田城は現在この公園に神社とともに残る土塁が遺構として残っていますが
本来は宅地になっている部分も含めると、結構広い回字形の縄張りでした。


パンフレット入

ありがたいことに、こちらにパンフレットが入っていました。


高札場

移築された高札場。
江戸時代には法度や錠書が掲げられた場所を再現しています。
栗田村は幕府直轄領だったため、このような立派な高札場であったと思われます。
釘やボルトを一切使用しない宮大工の作で、中には支えとなる1トンもの重石で支えられています。


高札

掲示された高札の読み下し文と現代文に訳したものが紹介されています。
掲げられた内容は、町民や農民の生活の規範となるものや、さまざまな条例が掲げられました。
また、字の読めない人のために、読み聞かせる名主や村役人も置かれていたようです。


御神木
樹齢はどのくらいでしょうか。
これだけの大きさあると、ずっとここでいろいろな歴史を見て来た樹でしょうね。
かなりの老木で倒れる危険もあるため注意書きがされています。


土塁

車椅子やベビーカーでもお参りに行けちゃう親切設計な参道です。
いや、土塁です


拝殿

栗田城があった頃から、ここにはこの土地の守り神である「栗田大元神社」が祀られいました。
現在は栗田大元神社の他に、水内総社日吉大明神と日之御子神の三社を合祀されて
水内総社日吉大神社と呼ばれています。


堀跡

遊具の見える下の段は、かつて堀であった場所です。
神社の境内を囲む道路も堀であったという名残が見られます。



鳥居がある方が大手かと思いきや、東側に大手道があります。

今川氏の仲介で甲越が和睦した後に、栗田氏は善光寺仏を奉じて甲斐に移住しました。
そして、武田氏は長沼城を築き、栗田の住民を城下に移して栗田城は廃城となりました。
武田氏が滅亡すると、栗田氏は善光寺本尊と共に帰還しましたが、
住民に受け入れてもらえずに一族の流浪の旅が始まりました。
戸隠神社の別当を務めた栗田氏は水戸藩に奉職したことが記録に残っています。


個人的には「栗田」という地名に特別な思いがあります。
私の生まれ育った高遠にも栗田の地名があります。
高遠と言えば保科氏でもあるあるし、保科氏は長野にルーツがあります。
そんなことを考えてみても高遠との縁もあるのではないかと栗田城には親しみを感じます。
今後も注目して調べて行こうと思う城址です。


令和元年8月11日登城


今回の参考本
信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版




長沼城(長野県)

2019年10月14日 | 百名城以外の城
長沼城ながぬまじょう
別名
構造平城
築城者信濃島津氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所長野市穂保 地図

長沼城は、地頭の島津氏が築いたとされる平城ですが
武田信玄の信濃侵攻により撤退、その後川中島の戦いの舞台となったこの城は
武田氏と上杉氏によって幾度となく改造されました。
武田氏滅亡後は織田信長の支配下となり、本能寺の変の後には上杉領となり、
上杉景勝自ら長沼城へ入城しました。



村山豊野停車場線

この辺りかとキョロキョロしていたら最初にみつけたこの看板。
長沼城はこっちか…。
ちょっと狭いがこっちと言うなら看板に従って突き進むのみ!


案内看板

ここを入って行けば本丸まで直行ですね。
それにしても普通車はいっぱいいっぱいですよ。


侍屋敷跡
随分細い道なんですけど…。
すれ違いなんて絶対できないぞ。
しかし、この道の両脇の果樹園はかつて侍屋敷があった場所です。


内堀跡

突き辺りに看板発見!
目の前はまるで土塁のような堤防です。
本丸を囲んでいたであろう内堀があった場所のようでが…それっぽく見えません。
というのも、この堤防でまったくわからなくなっています。
そして目の前の階段を登って堤防の上へ。


本丸跡

ここが本丸跡です。
と言ってもなかなか想像しずらいのですが^^;
結局本丸も堤防によってその形は残っておらず、案内看板で知るしかない。
さて、先ほどの狭い果樹園の道とは別に、ちゃんと道路があるではないか!
というわけで、車でお越しの方は果樹園の中に乗り入れない方がいいです


長沼城復元図
この図を見ると本丸はこの看板より少し東寄りのようですね。


天王宮

あずまやの裏から、また堤防の下へ降りて来ました。
三日月堀の土塁の西端にある祠が天王宮です。
この部分は祠があったこともあって堤防からも外れて残った土塁としての貴重な遺構です。



実はこの看板に注目しすぎて左に城跡碑があったことに気付いていませんでした。
ので、城跡碑がこの写真の左端にちょびっとだけしか写り込んでなかったことにがっかりしました。
なんてこったい


南三日月堀跡

ここに「南三日月堀跡」の看板があるのですが、どこ?どこ?と探してみたのですが
三日月堀が無いなあと思ったら、堤防の真下だったんですね。
そしてはみ出して天王宮がある土塁がそれであるとは、現地では理解していませんでした。
ともかく、三日月には見えないので探してもみつかりません。


長沼城址記念歌碑

「信濃なる 千曲の川の さざれ石 鶉鳴くなる 長沼の里」と詠われています。
これは本朝藻塩草風土記に記されているものです。


北三日月堀跡

大手道にまわって、北三日月堀のある守田神社へやってきました。
神社の裏に周ってみると、あやしげな凸凹があるのがわかります。
あ、これは三日月堀!



写真ではわかりずらいとは思いますが、現地ではちゃんとそれらしく見えます。
時間が許せば周辺にはもっともっと看板と共に見所がいっぱいあります。
玅笑寺の長屋門には元禄元年に取り壊された長沼城の表門の扉が保存されています。
これも、後から調べてわかったことなので、見てみたかったですね。


馬場跡

千曲川と本丸までの間に馬場がありました。
とても広い河川敷で川には船着場もありました。


台風19号で消えてしまったという悲しい知らせを聞いて、長沼城の紹介を後手にしていたことが
悔やまれならない。
慌てて書いても後のまつり…。
この台風でまさかここから決壊(10/13 AM)するとは想像していませんでした。
また、この堤防の内側にあった住人の方々、とても恐ろしい体験をされたことでしょう。
私の住んでいるところも、台風19号では真っ先に災害のニュースで流れた地区ですが
河川の大きさの違いもあるので被害の規模が違うように思います。
改めて水の恐ろしさを感じた台風でした。
城の上にこんな堤防造ってなんて思ったりもしたけど、ここに住む方々にとっては
命を守るための重要な堤防だったんですね。
そう思うと、土地開発も意味があってのことなのだと考えて理解することも必要だなと実感しました。


令和元年8月11日登城


今回の参考本
信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版


足助城(愛知県)

2019年10月09日 | 百名城以外の城
足助城あすけじょう
別名真弓山城・松山城
構造山城
築城者鈴木氏
築城年代不明
指定史跡
場所豊田市足助町須沢39-2 地図

足助城は、真弓山の山頂に築かれた足助氏が居城した戦国時代の山城です。
現在復元されているのは鈴木氏が築城した15世紀以降のもので
発掘調査に基づき復元されています。




城下から真弓山山頂を目指して来ると、迷うことなく入口までやって来ました。
ここを左折してまもなく到着します。


管理棟
管理棟の前に駐車場もあるので、公園になっているだけあって車で来ると楽に来られます。
ここで入館料を支払って入城です。
こちらで、御城印が購入できます。
日付はお願いすると帰りまでに書いて用意しておいてくれるので、お願いして見学へ。


入口

さて、入城です!
門を過ぎて、奥に見えるコーナーを曲がると…



どうですか!この光景
思わず「おお~
と、舞い上がってしまいました。



見学順路としては、本来こちらの南腰曲輪から西の丸方面へ行き
本丸へと進むはずでしたが、現在は落石の恐れがあるため通行止めになっています。



と、いう訳で堀切を見ながら順路を逆に登って行きます。
でも本丸には最短ルートとなります。



本丸はすぐそこです!
近い、近い(^^♪


長屋
本丸まで登りきるとまず、長屋~。


本丸

本丸には髙櫓と長屋が復元されています。
発掘調査によって掘立式の建物があったとされ、再現されています。


長屋内部

本丸にあるこの長屋は、武者溜として警備をしている武士が居住したか、
武器を入れる物置であったのか、正確なところは分かっていません。
ここに掲げられている縄張図は受付でもらうことが出来ます。


高櫓

天守ともいうべき役割をしていたようで、シンボル的な建物でもあります。
最初の頃はこのような現在の天守的な恰好をしていたかというと
ちょっと違う気がしますが、時代はもっと新しいものを想定して復元しているようなので
これも雰囲気としては、我々を喜ばせてくれる建造物です。


一階

奥から入って来たひとは土足でしたが、靴を脱いで上がってくださいね!
二階に上がるとその理由もよくわかります。


上棟札

柱に打ち付けずに、展示されています。
このスペースは「上段の間」的な場所なのか、天井部分は
二階の床にかかっていないので城主の上を歩くということが無い構造のようです。


厠(かわや)

覗いてみたら…トイレでした^^;


階段

高櫓は二階建てになっています。
早速上の階に登ってみましょう!


二階

二階は櫓や天守では珍しい、畳敷きになっています。


眺望

高櫓からは城下町と主要の街道が見渡すことが出来ます。


南物見台

この櫓は南方にある鶏足城との連絡を取る役割をしていたと考えられています。


南の丸
はねあげ戸をくぐり、南の丸へ。
こちらは足助城の台所となります。


南の丸

この曲輪は台所として使われていた曲輪でカマドと厨の建物が復元されています。


カマド小屋
この辺りからは焼けた石が並び、木炭や灰が散乱していたことから
炊事などに使われていた竈があったものと推定され、復元されています。


厨(くりや)
中を覗いてみました。
ちょっと生活感のある造りです。
平時は草鞋作りもおこなっていたようで、実際このあと足助の街中で若い子が家の庭先で
草鞋を作っているのを信号待ちの際に目撃しました。
現代の今でも、おそらくみやげものとして売るためか、お祭り用なのか作っている姿を
普通に見かけるとは思ってもみなかったです。





囲炉裏
囲炉裏のある長屋で、いわゆる台所になります。
ここで食事の用意がされていたのでしょう。


はねあげ戸

普通の板の扉とは違って、仕掛けのような面白い造りの戸です。
この頃の時代には多用されていたようです。


本丸腰曲輪
南の丸から西の丸へ。
ここから下を覗き込むと立ち入り禁止区域が見渡せます。


礎石

足助城で礎石を使った建物跡がみつかったのはここだけのようです。


西物見台

岩盤に建てられたこの櫓は、この曲輪に他の建物があったため、
二階建てにして物見のために高さを増しています。


矢倉内部

矢倉との中には倉庫になっており、弓や矢などの武器が納められていました。


西曲輪

この曲輪には敷地いっぱいに建物があり、2棟以上が柵ギリギリまで
建ち並んでいたと考えられています。



右側の西の丸と南の腰曲輪を結ぶルートは立ち入り禁止になっています。
この先に山の斜面からの湧水を溜めるための井戸も見られたのですが見学叶わず。


北腰曲輪

最後に北腰曲輪を見て戻ることに。


北腰曲輪群

段々に下方に延びる曲輪群です。


高速道路で豊田付近を通過するといつも気になっていた足助城に
よやく登城することが出来ました。
期待した通り見応えがありました。
まるで撮影用のセットにも見えなくはないですが楽しかったで、
娘たちも連れて来たかったなあ。


令和元年9月29日登城


Bravebird コスプレ アイテム 足袋 わらじ セット草鞋 草履 シリーズ BLEACH ブリーチ 風 黒崎一護 死神 靴 (38インチ(約24cm))bb171
にゃんこ店長
にゃんこ店長



今回の参考本
愛知の山城ベスト50を歩く
愛知中世城郭研究会,中井 均
サンライズ出版


加瀬城(神奈川県)

2019年10月07日 | 百名城以外の城
加瀬城かせじょう
別名
構造平山城
築城者加瀬資親
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所川崎市幸区南加瀬1 地図

加瀬城は夢見ヶ崎公園の敷地内にあり、一帯は加瀬山古墳群になっています。
太田道灌にまつわる山吹の花の言い伝えがあります。
夢で東北の空に縁起の良い舞鶴を見たことで、江戸城を築くきっかけとなったという
言い伝えも残っています。



登城口

ナビで案内された入口まで来てみましたが…
先日の台風15号の影響でしょうか、倒木のためこの最短の道が使えないようです。


南加瀬貝塚
先ほどの山道が使えないので回り込んでルートを変えてみました。
すると貝塚がありました。
関東地方では珍しい弥生時代の貝塚で、縄文、弥生時代の区分をする
最初の標識土器が出土された場所のようです。


図書館前

この道をどんどん登って行きます。


夢見ヶ崎鳥獣保護区図

了源寺の手前に右手に駐車場が見えます。
こちらに行けば太田道灌の碑や案内看板があったようですが、
この日は警備員の方が出て動物園への車や人の誘導をしていたため
そっちは動物園だなと思い込み奥へ入って行きませんでした。
これが間違いでした。


加瀬山第三号墳

更に周辺を捜索していたのですが城址らしき情報は得られず…。
古墳の方が知られているようですね。


了源寺

了源寺の前を横切り、JR側に車を待たせていたために諦めて
北側へ下りました。
下った先の「夢見ヶ崎児童公園」でも何か手掛かりがないかと見てみたのですが
空振りに終わりました。


通りすがりに思いつきで寄ってみたので、まずどこからアプローチするのかも
考えず、見えたところで車をおりて歩き始めました。
ところが、通行止めで周辺を歩いたわりには何も得るものがなく、
目的地に到着しないまま退散となってしまいました。
やはり思いつきはダメですね^^;
反省。。。



令和元年10月6日登城



江戸と江戸城 (講談社学術文庫)
内藤 昌
講談社


井上城(長野県)

2019年10月04日 | 百名城以外の城
井上城いのうえじょう
別名大城・小城・井上氏館・井上氏居館
構造山城
築城者井上氏
築城年代平安時代
指定史跡県指定史跡
場所須坂市井上 地図

長野市と須坂市の境界となる尾根上に、大城と小城から成る井上城と
麓に井上氏の居館が構えられていました。
井上氏は清和源氏頼信の子頼季がこの地に住み、後に井上氏を称したとされています。



浄運寺

浄運寺は、およそ800年の歴史を誇る、長野県で一番古い浄土宗寺院です。


案内看板

このお寺周辺も井上城本城の郭の一部であったことが推測されています。


仁王門

松平氏が寺領を寄せたことから、寺紋も徳川葵となり、家康公、秀忠公の位牌が安置されています。


登城口
登城口はこの先にあります。
他にも小城側にも登城口あるよです。



この日は、もう日が暮れてしまったので登城口の確認だけして次回へ持ち越し。
ちょっと足を延ばすと入口の確認だけでも…と思い欲張って行ってみるのですが
既に辺りは真っ暗けなのでまともな写真も望めず退散しました。


令和元年8月11日登城


井上繋がりで、作家の井上靖もこの地を訪れたという…
女城主 戦国時代小説傑作選 (PHP文芸文庫)
池波 正太郎,井上 靖,岩井 三四二
PHP研究所



戦国無頼 (角川文庫)
井上 靖
角川書店(角川グループパブリッシング)

稲村城(千葉県)

2019年10月03日 | 百名城以外の城
稲村城いなむらじょう
別名
構造丘城
築城者里見義豊
築城年代室町時代
指定史跡国指定史跡
場所館山市稲 地図
御城印館山市立博物館

初代里見氏は本城を、白浜城(南房総市)~稲村城(館山市)~滝田城・宮本城(南房総市)~久留里城(君津市)~佐貫城(富津市)~岡本城(南房総市)~館山城(館山市)と変遷しています。
最初の白浜城から千田城へ移り、さらにそこから稲村城の築城をしました。
義豊が義堯に攻め滅ぼされた「天文の内訌」の舞台となった城です。
この内乱によって大きく二分されることとなった稲村城は、この後廃城となりました。




まずはナビに従いここまで来たのですが…駐車場に困って周辺をうろうろ。
この奥の貴船神社まで行ってみるも駐車スペースはみつからず。
この後、線路沿いに走っていたら、行き止まり、困っているところに地元の方が
不審そうに思ったらしく、声を掛けて来たので稲村城へ行きたいのだと話すと、
行き方を教えてくれて、自分もこれから整備にいくところだと教えてくれました。


城山踏切
教えられたように踏切を渡ると、この踏切の名前が「城山踏切」とありました。


遠望

目指すは、横に長いあの山です!


案内看板

案内看板もありました。
車はここに置けそうです。
しかし、さらに先に進んでみようと思います。



台風の影響で建物が倒れています。
この奥にも稲村城の道しるべとなる看板が隠れていました。



地主さんに許可されていないので撮影していませんが、
この付近の民家脇に大きめな駐車スペースがあり、地元の方々が
稲村城の整備のために集まり始めました。
そこで一緒に車を行かせてもらうことになりました。
この時、駐車するのに使ってもいいよとおっしゃって下さったのですが
土地の所有者さまではなかったので、ここでは断りを入れれば
快く置かせて頂けることだけお伝えしておきます。



稲村というだけあって、東側は水田や城井といった水を表す土地柄であったようです。
「水往来」という看板を見ても水の通り道のような水路状の道が山に向って切られています。



この先には切通しがあります。
幻想来な見所です。



じゃ~ん
トンネルのような切通しです。



そして狭い切通しを抜けると、ぽっかり空いた空間。



段々になった中郭です。



そして、段々畑と言えば…そうです!みかんです。


中郭部

稲村城の郭は大きく主郭と中郭、段々になった細身の外郭で構成されています。



ここは何?
と登ってみると…

正木様

土塁を登ったところに社がありました。
里見氏重臣の正木通綱を祀った社と思われます。



倒木が道をふさいでいますが、こちらも整備されて
主郭から戻って来るころには撤去されていました。


堀切

通路としても使われている堀切。



尾根伝いに延びる登城路。


堀切

主郭を守備する南側の堀切です。
主郭南側は高い土塁と堀切で補強しています。



ここを登るといよいよ主郭です。
南西から登る登城路と合流します。


鳥居

浅間信仰の石祠の参道として、鳥居が構えられています。


虎口

主郭の虎口です。
枡形などの複雑な造りでないことからも、時代は遡り
古い形式であることが分かります。


主郭

案内看板がポツリと立ち、平らで広い郭です。



このあと、地元の方々が草刈りをしてくれました。
主郭では以前、発掘調査がされたのですがここからの生活痕は発見されず
日常生活は営むことはなく、別の場所で生活していたものと思われます。
しかし、居館に関してはいくつかの候補地はあるものの、確定までには至っていないとのこと。


土塁

高さ3mの土塁が東と南の二面にあります。



地域の生活の中で生み出された浅間信仰の石祠が、主郭の土塁上にあります。


眺望

ここからも海が見えます
整備されている方の中に、お城好きの方がいらして少し話をさせていただきました。
白浜城へも行ってみたらいいよと伺ったのでこの後行ってみました。
結果は残念ながら荒れていたのでこの日は登城ならずでした。


台風直後の混乱している最中での城址整備とは、驚きました。
運良くそれほど被害がなかったという方々が集まったようですが
ちなみに、この日は本来近くの神社のお祭りの日だったようですが
境内の倒木によりお祭りは中止になったとも話していました。
こうして整備してくださる地元の方々に対して、我々は感謝しながら見学に来ることが
恩返しになるのではと考えます。
せっかく綺麗にしてくれても、誰も見に来てくれないのでは残念に思うのではないでしょうか。
もちろん、これだけの遺構が見られるので見に来る価値も十分にあります。
まだまだ見逃して来た部分も多いのでまたの機会にもう少し見所を紹介したいなと思います。
作業されている中、受け入れて下さった地元の方々に心より感謝申し上げます。


令和元年9月15日登城


今回の参考本
図説 房総の城郭
千葉城郭研究会
国書刊行会

飯羽間城(岐阜県)

2019年10月01日 | 百名城以外の城
飯羽間城いいばまじょう
別名飯狭城
構造平山城
築城者遠山氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所恵那市岩村町飯羽間 地図

飯羽間遠山氏は鎌倉時代に岩村遠山氏から分家し、発祥しました。
飯羽間城は、18ある支城のうち本家岩村城から最も近い支城で、とても重要な城でした。
戦国期は織田信長に属し、村上合戦に出陣すなど遠山一族の中でも七遠山のひとりとしても
活躍していましたが、1574年(天正2年)武田勝頼の攻撃により飯羽間城は廃城となりました。




草木に阻まれているものの、山肌に「飯羽間城」の大きな看板が見えて来ます。
中山道方面から岩村への入口の要となる場所に位置します。


案内看板

案内看板も立っているので何気に車を走らせていても
城跡であることに気が付きます。


飯羽間城 落城の歌

朽ちる寸前の看板がありました。
以前はここに立っていたのでしょうが…もう字もかすれて
読むのが困難です。



完全に消えてなくなる前に文字起こししておきたいところです。
しかし、落城の歌とは…勝利を歌にするのはわかるけど
10番まであって、「合掌」とあるのでやはりこれはちゃんと読んでみると
流れがわかるのかな。



このあと、北側半周を眺めながら通り過ぎたのですが、
ここが入口かというところに、牛くらいの大きさの四足の動物が見えたので
?????
これは行かずにおいて良かったのかと。
あきらかに鹿ではない形だったので何をみたんだろう…



目指すは明知城だったので、通りすがりに「あの山は!?」と
看板が目にとまり、ちょっと車を停めてみました。
ここも面白そうな形状をしているので日を改めて登城してみたいなと。唾を付けておきます。


令和元年9月29日登城



今回の参考本
岐阜の山城ベスト50を歩く
三宅 唯美,中井 均
サンライズ出版