むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

王城(千葉県)

2023年05月30日 | 百名城以外の城
王城おうじょう
別名平将門王城
構造居館
築城者平将門
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県柏崎市大井 地図

将門記の王城の地とは此の地なり

将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと
この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき
北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。
この地こそ王城建設にふさわしい所であります
かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました
手賀沼南岸には大井郷と古溝郷が配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻郷、意部郷、余部郷が置かれました
また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国 石岡まで整備されました。
このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。



平将門の事件を描いた「将門記」に、平将門が「下総国の亭南」に「王城」を建設したことや、
大井津のことが記載されていますが、大井津がこの地にある大井と推定されています。


令和3年12月30日登城





金澤城(秋田県)

2023年05月25日 | 百名城以外の城
金澤城かねざわじょう
別名金沢柵
構造城柵・山城
築城者清原氏
築城年代平安時代後期
指定史跡国指定史跡
場所秋田県横手市金沢安本館 地図

金澤城は、清原氏の居城で、後三年の役では清原家衡、清原武衡が籠城し兵糧攻めにより落城した古代城柵です。
1458年(長禄2年)に、南部守行の子である金澤右京亮が入城し、
1470年(文明2年)までの間、居城していました。
江戸時代には、久保田藩主佐竹氏が秋田へ入部した際に居城の候補の一つとして
金澤に城を再整備する案が梶原政景から出されましたが、
結局久保田城が居城となり、金沢城は一国一城令によって廃城となりました。



史蹟案内図

金澤八幡宮を目指すように公園への道を登って行くと道路脇に案内図があります。



城址はまだ先にあるのですが、何があるのか気になるので様子を見に行ってみました。


景正功名塚

後三年の役にわずか16歳で初陣し、すばらしい手柄を立てた鎌倉権五郎景正が、
将軍源義家の命により敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えました。
900年の歴史を語る巨木となりましたが、昭和23年火災にあい、幹だけを残し今なおその昔を物語っています。
金沢公園はこの功名塚を中心につくられたものです。(現地看板より)


駐車場

再び道路へ戻り、金澤城址のある駐車場へやってきました。
1087年(寛治元年)金沢柵に立て籠もる源義家軍が、清原家衡・清原武衡軍を兵糧攻めにした際
源義家側も長期に渡る転戦から物資の供給の際、豆を煮て俵に詰めたものを農民に供出させたところ、
古くなった俵から香りが漂い、納豆ができていたという。
これが納豆発祥と言われ、納豆発祥の石碑があります。


案内看板

駐車場に設置された案内看板の金沢柵推定値の図を見ると、結構広い!
麓の陣館まで含むとかなり大きいようです。






さて、それでは本丸目指して行って見よう!


本丸址入口

ここで本丸へ向かうのか、二の丸へ向かうのかの選択をします。
真っ直ぐは二の丸、右折は本丸です。
先ずは本丸へ。



本丸へ向かう通路にしては、見通しの良い通路です。



目の前には、本丸の一段下の平地が見えます。
ここが兵糧倉跡になります。


兵糧倉跡

金沢柵の米倉址と思われ後三年の合戦の兵火により炭化した焼き米が土中から出て来ており
明治天皇をはじめ高貴の方々も御覧になっております。
現在は土中から採取された焼き米が後三年の合戦金沢資料館に保管しております。
(現地看板より)





本丸虎口

ここから本丸に入ると広い平地になっているのがわかります。


本丸

前九年の役の頃までは清原武則の居城で、後三年の役において清原家衡・武衡が沼柵から移り、
源義家がこれを包囲し食糧攻めによって落城したと云われています。
中心は四面断崖絶壁の岩山からなり、天然の要害とし、
砦として幾度か利用されていたものと思われます。



伊藤耕儀翁の銅像があります。
これは金沢柵の推定地について研究をし、その功績を称えられ本丸に立てられたものです。


参道

金澤八幡神社の参道です。


兜杉

樹齢900年とも云われていた大杉で、「兜杉」と呼ばれていました。
八幡太郎義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めてその上に石(奥に見える石)を置き、
記念のため、そのそばに植えた杉だとも云われていましたが
残念ながら、昭和58年に失火のため焼失してしまいました。


御神馬

誰の騎馬像?と思って近寄ってみると、武者が乗っていません。
この馬は競走馬で、優勝した記念に奉納されたものです。


金澤八幡宮

源義家の命を受けて、藤原清衡が石清水八幡宮の神霊を勧請して
出羽国の鎮護神として祀ったのがはじまりです。


北ノ丸

北ノ丸の堀切を見て、本日のおさんぽ終了とします。





令和4年7月16日登城





栃尾城(新潟県)

2023年05月11日 | 百名城以外の城
栃尾城とちおじょう
別名舞鶴城・大野城
構造山城
築城者芳賀禅可
築城年代室町時代初期
指定史跡県指定史跡
場所長岡市栃尾大野町 地図
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  

上杉謙信の旗揚げの城と云われる栃尾城は、
越後守護となった宇都宮氏綱の家臣芳賀禅可が築きました。
上杉謙信が青年期を過ごした城であることでも知られていますが、
謙信の死後家督争いとなった「御館の乱」では、越後の主導権争いになり栃尾城は
景虎側に味方していたため、景勝軍に攻められ中城まで火を放たれ間もなく落城しました。
その後慶長3年に入城した堀秀治は、慶長15年に堀家取りつぶしとなり
栃尾城は廃城となりました。



駐車場

麓の諏訪神社から登るルートがあるのですが
辛いより楽な方が良いのと、この日はもう夕暮れで城の中で
日が暮れてしまいそうだったので迷うことなく中腹の駐車場からの登城です。


登城口
何年越しだろう…、念願の栃尾城登城です。
この日、予定はしてなかったのですが新発田城へ行った後思いつきで
あちこちと登城しながら最後は勢いで栃尾城を目指して来てしまいました^^;



時期的にもう草や虫と格闘するのかと覚悟していましたが
まだそこまでの状況ではなく助かりました。
右は狼煙台、左は本丸への分岐点にやって来ました。



とりあえず狼煙台は後回しにして、日が沈む前に本丸を目指さねば!
ということで本丸方面へ進むと、建物が見えて来ました。


トイレ

この建物はトイレでした。
駐車場から登って来ると、そろそろ休憩したくなる地点です。


クマさんバイバイ

本丸と二の丸の分岐点に着きました。
ここの標柱には「クマさんバイバイ」と名付けられた
熊除けが設置されていました。
せっかくなので、これを使って「人間がいるぞー!」とアピールしてみました



さて、この分岐でも本丸優先で進むことに。
あともう少しで本丸です


鶴城山

山頂に到着です\(^o^)/
そしてここは本丸です。


本丸

案内看板と鐘があります。
太鼓でもなく吊鐘でもなく、ベル?
結婚式場や教会にありそうな鐘ですが、何するものなのかな?



細長い本丸です。
目の前には石祠があるのでいつものようにまずは、お参りです。



本丸からの眺めは最高です
1000m級の山々が見えます。



眺めが良い!
足元は…目が回るほど危険な高さがお分かりいただけるでしょうか。
この角度、石垣でなくても登れそうにありません



東西は切岸になっていて、北には堀切があるので南からの一箇所だけに
虎口が付けられています。



ちょっと村上城を思い出すような眺めで、
新潟の山城はとても素敵だなあと感心してしまいます。



本丸から降りて来ました。
次は二の丸へ行ってみたいと思います。


二の丸

あずまやのある郭が二の丸です。



二の丸には石祠があります。
この郭も木を切り倒すと眺めが良さそうな郭です。



二の丸石祠の背後の土塁を超えて進むと中の丸があります。
この先は堀切で切られているのでここで引き返し、下の分岐から狼煙台の方へ
行ってみることにします。


中の丸跡

中の丸の下まで来ました。
明るく見えますが、時間はすでに午後6時になろうとしています。
この先どこまで行けるかな…。



中の丸と琵琶丸の間の大堀切。
ここは箱堀状になって郭と郭を区分けしています。
ちなみにこの上の琵琶丸の名称は楽器の琵琶の形に似ている
ことからその名前が付けられたと言われています。


土橋

堀の間を渡る見事な土橋です。


堀切

鋭角なV字カットです。
綺麗な堀切ですね。


狼煙台詰郭

この郭は馬繋ぎ場とも呼ばれ、かつては馬を繋いだ場所とも伝わるのですが
ここまで馬が土橋を渡って来れたのだろうか?と疑問に思ってしまいます。
ここに馬が居ても役に立つとは思えないので名称だけで実際にはここに
馬は繋いでいないと思われます。
※他の城でもこのような事例があります。


眺望

チラリと見える景色ですが、周囲の木々が無ければ
ここからの眺めも良く狼煙を上げるのに良好な場所だったことが想像出来ます。



馬繋ぎ場から更に奥へ。
馬繋ぎ場の土塁の高低差を横目に上に登ると上から見下ろせる形になっています。


大空壕跡と土橋

狼煙台へ向かう道の最後の大堀切です。
ここも見事な堀切で、土橋を渡しています。



この先に狼煙台があるはずですが、ちょっと先まで走って見に行ってみたのですが
狼煙台が見えなかったので、ここで断念。
諦めが肝心!と自分に言い聞かせ?(単に諦めが早いだけ)
引き返すことにしました。


駐車場

駐車場に戻って来ました。
この後、林道を進み狼煙台の真下を通過してみましたが
とても登れそうなところはありませんでした。


栃尾にはお友達が居るのですが、思い付きで車を飛ばして来たので
挨拶もせず、失礼致しました。<(_ _)>
今度はぜひ麓から案内していただけるよう、宜しくお願いいたします。
いつも「あぶらげ」ありがとうございます。
また、お邪魔します。。。


令和元年5月12日登城
令和5年4月9日再登城



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岩崎城(愛知県)

2023年05月03日 | 百名城以外の城
岩崎城いわさきじょう
別名
構造平山城
築城者織田信秀
築城年代1528年ー1531年(享禄年間)
指定史跡
場所愛知県日進市米野木町市場 地図

岩崎城は、信長の父である織田信秀によって享禄年間(1528から1531)頃に築城されました。
1538年(天文7年)頃に丹羽氏清が本郷城からこの地に移り、
その後、丹羽氏が4代(約60年間)に渡り居城しました。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は徳川方に属し、
羽柴方の行軍を阻止しようとして落城した「岩崎城の戦い」が知られています。
この戦いで、一族を犠牲にしながらも戦功をたてたことで徳川氏に認められ、
1600年(慶長5年)三河伊保に一万石の大名として転封したことで岩崎城は廃城となりました。



岩崎城跡入口

県道217号線(岩藤名古屋線)に岩崎城跡入口があります。
岩崎城址公園駐車場は、この入口の真裏の方向にあるのでそちらの駐車場を利用します。


駐車場

こちらの駐車場も城域にあるためすぐに遺構が見られて立地良し。


案内図

駐車場にある岩崎城址公園の案内図です。
だいぶ公園としての整備の手が入っていますが、堀や土塁といった遺構は
まだ残っているようです。



駐車場脇にある鬱蒼とした小道の方が興味深々ですが、
この道もかつては堀であったようです。
まずは舗装路から本丸を目指して登って行くと、二の丸が見えて来ました。


二の丸庭園

二の丸には周囲を囲むように土塁が構築されています。
馬出的な二の丸は、現在庭園になっています。
この庭園のモデルは名古屋城三の丸を参考にして日進市を表現したようです。


勘助の井

二の丸庭園にある勘助の井です。
勘助というのは、岩崎城の城主の子に代々受け継がれていた名前で
山本勘助のことではないらしい。
わりと勘助井戸なるものを見かけるので、私は山本勘助監修なのかと勘違いしてました(^^;


土橋跡

現在はこのような橋が架かっていますが、本来は土橋になっていた場所です。


空堀

橋の上から見た空堀です。
Vの字に掘られた薬研堀だったものを、後に箱堀に改修されているところも
発掘調査で判明してとのことです。


櫓台

橋を渡りきると、右手に小山が見えます。
この小山は櫓台になっていたようで、登ってみることが出来ます。


山の神と表忠義碑

頂上には小牧・長久手の戦いにおいて、岩崎城の攻防戦を後世に伝えるため建立された石碑があります。
木々や建物で眺めは良くないので櫓台の実感はありません。


井戸

発掘調査により、素掘りの井戸があったことが確認されています。
名古屋市蓬左文庫にある岩崎城絵図にも同じ位置に井戸が描かれています。
更に奥の方には隅櫓跡があります。


隅櫓跡

建物遺構の中で唯一礎石を使った建物跡で、その礎石の配置から建物の大きさも推測されています。
現在見えている礎石は復元されたもので、実際のものは発掘調査後地中に埋め戻されています。


岩崎城歴史記念館

入場は無料なので、ぜひお立ち寄りください。


丹羽氏重銅像

岩崎城歴史記念館に入ると、ロビーに丹羽氏重の騎馬像があります。
三代目城主氏勝の子で小牧・長久手の戦いで加藤景常とともに岩崎城を守り、
討たれています。


攻城団チラシ

攻城団チラシがあるはずなので、探していたのですがみつからず、
受付で聞いたら残り僅かなところをみつけて頂き、なんとかゲットすることが出来ました。
御城印と、岩崎城検定なるものの過去問が気になり購入しました。


展望塔岩崎城

昭和62年に地元住民の寄付により展望塔岩崎城が完成しました。
地元住民のシンボルとして、市民に親しまれています。
中は展望台の付いた資料館になっています。


入口

展望塔岩崎城の入口です。
こちらも岩崎城に関しての資料などが展示されています。


地形模型

この模型は蓬左文庫にある岩崎城絵図を立体化したものです。



廻り縁付きで一周出来ます。
隅櫓がこのような役割をはたしていたのでしょうかね。



主郭の規模としてはこんな感じです。


トイレ

展望塔岩崎城トイレはこのように門の脇の石垣の中にさりげなくあります。
最初はトイレとは気付かず、気が付いたらなんだかおもしろい。



県道の入口から登って来ると、こちらに辿り着きます。
こちらから入城する方がなんだかお城に来た感ありますよね。
とはいえ、郭の破壊があったというのはこの辺りのことでしょうか。
では、ここで引き返して本丸の散策の続きを再開したいと思います。


古城之碑

この石碑の付近が、御座の間であったと推定され、この立石は古くからあったとされています。
そのため、妙仙寺の和尚がこの立石に「丹羽勘助 古城之跡」と刻み、
討死した城兵の慰霊祭が営まれています。


古墳

古墳の入口です。
岩崎城の発掘調査の際発見された古墳で、6世紀前半の円墳です。



元々は円墳だったようですが上の部分が無くなっています。
遺存状態があまりよくなかったらしく、周辺地域の遺構を参考に横穴式石室を復元してみたようです。



空堀の中を通って、西の丸方面へ行くと駐車場へ戻ることが出来ます。


今回は別の用事があって近くまで来たついでに登城しました。
私的にはどちらがついでの用事かわかりませんが。


令和4年10月30日登城


今回の参考本