むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

桝形城(長野県)

2020年11月30日 | 百名城以外の城
桝形城ますがたじょう
別名砥石城・本城
構造山城
築城者村上義清
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所長野県上田市上野 地図

桝形城は、砥石城祉一群のひとつで砥石城・本城・桝形城・米山城で構成され、
全体を砥石城と呼んでいます。
15550年(天文19年)の武田信玄と村上善清の戦いで、信玄の「砥石崩れ」が有名です。
また、時代によって「桝形城」と「本城」の場所の呼び方が入れ替わるのも特徴です。




本城からのつづきです。
本城主郭北の虎口から堀切を横目に桝形城へと向かう道です。


矢竹

矢竹は節が低く節間もまっすぐなところから矢(矢柄)に用いられ、
自然に生えるだけでなく栽培もされる。
この辺一帯に繁っている矢竹も、砥石城内に植えられていたものの名残ではないか、とみられている。
ここに限らず、中世の城跡や城館に矢竹が生えている例は多い。
現地案内板より



黒砂の山で整備されているので歩きやすくはなっていますが、滑りやすいです。
今は紅葉の季節とあってそれだけで目に飛び込んでくる季節感が心地良いです。
この日は山城サミット開催日でもあったため、途中で一行とすれ違いました。


虎口

桝形城の主郭虎口が見えて来ました。
ここは急斜面になっていて、しかも滑りやすいのでロープが設置されています。


主郭

西側には、かなり低くなってしまっていますが土塁が残っています。



砥石城北端の要害(砦)入口から折れ曲がっており、
桝形状になっているところから、この名がおこったものとみられる。
なお、ここが砥石城の最高地点であるところから
ここが「本城」とされていた時期もあった。
真田氏の本拠、真田町の本原・長方面が一望に見渡せる。
現地案内板より


堀切

主郭から更に北端は堀切られて先端は物見状になっています。


土橋

堀切には土橋が架けられています。


馬出

馬出状の小郭があります。
ここでの眺望の良さは馬出というよりは物見のようです。


眺望

眼下には真田町が良く見え、正面には真田の本城が見えます。


金剛寺峠へ

この先には、更に菊畑城があったという説があっるようですが、よくわからないので
道が下へ向って続いていることを確認して、ここで引き返すことにしました。



小郭から見た桝形城の主郭です。
堀切と堀切を渡る土橋が良く見えます。



道中すれ違った方に、「お花ですか?」と聞かれたので、
「いいえ、お城です!」という会話を交わしたのですが、やはり独り歩きのおばちゃんからは
城跡に居ても城を巡っているようには見えないのだろう…。
それでも花というキーワードにふと足元を見ると…花が咲いていました。
しかし、花の名前はまったくわかりません^^;


金黄花

ネットで調べたら、有毒植物!!
きれいでかわいい、山を歩いているとよく見掛ける花のように思えたのですが意外でした。


太郎山系

隣には更に高い山が見えます。
今日はあっちの山にも多くの人が歩いているんだろうなあと尾根に人影が無いかと
目を凝らしてみましたが、見えるはずもなかったのですが
あちらから見たら、こちらを見下ろせる状況だったんだろうなと想像します。


虎口

桝形城主郭の内側から見た虎口です。


大堀切

虎口から大堀切を見下ろしたところです。
かなりの急勾配です。



途中浅くなってしまった堀切を経て、本城へ至る。


久しぶりの山城で、かなり疲れた(この程度で)のですが砥石城だけで
三つの城が一度に見られるお得感のある城跡です。
整備されていて歩きやすいながらも、難所もありで達成感もあって楽しかったです。
でもここでヒーヒー言ってるうちは太郎山系縦走はまだまだ先な気がします(^-^;
いつかは行きますよ…

令和2年10月31日登城


今回の参考本



砥石城(長野県)

2020年11月25日 | 百名城以外の城
戸石城といしじょう
別名砥石城・本城・枡形城・米山城
構造山城
築城者村上義清
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所長野県上田市上野 地図

砥石城は、東太郎山の一支脈が神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、
本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、
総称して砥石城と呼ばれています。
村上氏・真田氏が戦略上重要視し、規模が大きく四要害を二体として構築し、
居館としても用いられた珍しい特色を持つ重要な役割を果たした城です。



案内看板

砥石城跡櫓門口駐車場へやって来ました。
ここには案内看板の他にトイレも設置されているので訪れやすい場所でもあります。



山の方を見上げると、東屋や旗が見えるので迷うことなくこの道を進むことになります。


櫓門口登山道碑

「なめんなよ!」の言葉が目に飛び込んで来ます。
すごい石碑があるなあと横目に、気を引き締めて行ってみよう!



東屋が見えてきました。


櫓門

東屋を過ぎると目の前には櫓門があります。


登山道

櫓門を抜けると、整備された道が続きます。



こんな歩きやすい道になっているとは、整備された方々に感謝です。


分岐点

歩きやすく、紅葉した木々を見ながら尾根に出ました。
左に行くと米山城です。
ここからは米山城からの続きをお伝えします。



分岐点から、米山城とは逆に向かう砥石城方面と進んでみましょう!



少し歩くと、道は階段状に変化します。
これをひたすら登るのですが、とても整備されていて歩きやすくなっているものの、
やはり階段は疲れます



ひたすら階段を登っていると、途中自然の岩肌を削って造られた石段がありました。
※ここには西側に迂回路があります。


200段目

ふと、足元を見ると200と書かれた場所がありました。
ここまでで200段ということでしょうか。



ようやく頂上?が見えてきました。
ここで左側に主郭を回り込むように小道があるのですが、ここはまず主郭を目指すため真直ぐ登ります。


標柱と案内看板

砥石城の主郭へ到着しました!
標柱と看板が見えます。



今年は特に山城サミットがあっただけに、よく整備され、熊も近寄らないほど
登城者が多く、安心して登ることが出来るチャンスの時期と言えます。
砥石城はた、太郎山山系の東端に位置し、周辺には支城が築かれています。
この辺りはどの方向を見ても城だらけで、その数の多さに圧倒されます。



天文19年8月に武田信玄が村上義清攻略のために砥石城を攻めるのですが、
城を落とすことが出来ませんでした。(砥石崩れ)
そして退陣したところ、村上勢の追い討ちに遭い、信玄はついに砥石城を落とすことができませんでした。
ところが、この半年後信玄が落とせなかった砥石城を真田幸隆が落しています。(真田乗取)


眺望

上田の町が見渡せる物見のような立地となっています。



主郭の東側は切岸になっていて、登り降りは困難です。
急で足元が悪い虎口が付いてますが、ロープを頼りにここを降りて本城へと進みます。


切岸

主郭を下ってみると、切岸側に案内看板があります。
読んでみると、ここは梯子を掛けて登ったと推定しています。


堀切

切岸の下には堀を切ってダブルで防御をしています。
伊勢山方面からの道の抑えとしています。


大手口

旧松代街道から大手道を登って来ると、本城または枡形城と呼ばれる大手口に出て
ここで合流します。


馬場

大手口の案内看板のある平場が馬場と呼ばれている場所になります。


本城虎口

本城下の郭にやって来ました。
石垣が見えて来ただけで、ワクワクします(^^)


石積み

土留めの石積みがあります。
主郭の虎口を固める石積みですが、おそらく両側にあったであろう石積みは片側だけしか残ってません。


虎口

木の根がまるで階段のように…。


本城主郭

さて、先ほどからここを本城と呼んでいますが、いろいろな資料を見ると、
実はこの先の枡形城と呼び方が入れ違ったりもしています。
古地図を調べると、本城と枡形城の位置が入れ替わって表現されています。
地元伊勢山の年寄りはここを枡形城と呼びますが、教育委員会はここを本城と定めたため
案内看板や公式表示は本城として表記されています。



天正11年に真田昌幸が上田城を築くまでの間の拠点となった可能性があります。
また、第二次上田合戦では、徳川軍として真田幸村の兄信之が砥石城に入っていたことが確認されています。



主郭北側を覗き込むと、堀切られているのが見えます。


堀跡

主郭から下に降りてみると、こんな感じです!
ちょっと埋まってしまっているようですが、その姿はしっかり堀です。



道はさらに北へとつづく。
この先には枡形城が待っています。


大手口から水の手を経て登り上げると、この本城へと辿りつきます。
三郭部で構成されたこの城はそれぞれの方向から登城可能になっています。
どのルートから攻めようかと、行った後からでも迷います。
大手道から登城してないので水の手を見逃しているので、次に登城する時は大手からにします。


令和2年10月31日登城


今回の参考本



前山古城(長野県)

2020年11月23日 | 百名城以外の城
前山古城まえやまふるじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所長野県佐久市前山 地図

前山古城は、伴野氏に関わる城のひとつで、荒城に対する古城と呼ばれ
前山城の支城のひとつでもあります。
しかし、築城年代や築城主など詳しいことは分かっていません。


蓼科スカイライン

蓼科スカイラインから林道に入る道があります。



ここから侵入を試みたのですが、倒木が行く手を阻みます。



車で郭下まで行けると思ったのですが、更に徒歩で様子を見に行くと…。
倒木は入口だけでなく、更に先にもあって車では行けそうにありません。



林道内の倒木も、林道入口付近の工事も、昨年の台風の影響のようです。
今回は時間の都合でお預けに。。。



前山城の攻城後に、帰りがけに様子を見に来てみました。
この日、午後から用事があったため入口の確認だけとなりました。
目星は付いたので、後日改めてリベンジしたいと思います。


令和2年11月21日登城


今回の参考本





丸岩城(群馬県)

2020年11月19日 | 百名城以外の城
丸岩城まるいわじょう
別名丸屋の要害
構造山城
築城者海野幸全
築城年代元亀年間
指定史跡
場所長野原町横壁  地図

丸岩城は、柳沢城の要害城で大戸方面から侵入する敵に備えて
築かれた砦です。
吾妻峡は険しく通行できなかったため、高崎と信州を結ぶ道は須賀尾峠を使われており、
その街道を見張るために丸岩城と横壁城で抑えていました。



遠望

離れた位置からも目を惹く形をしています。
まさかあんなところに?と思ってしまう形です。
とても特徴的な形です。



須賀尾峠の途中にある登山口です。
駐車場は無いので、なるべく道路にはみ出ないよう、安全な場所を確保して駐車します。


登城口

丸岩の周囲は大岩壁に囲まれているので、この方面だけが進入路となります。
入口には看板が立っているのですぐわかると思います。


案内看板

昨年訪れた時には無かった、案内看板が新たに設置!


大手道

道はなんとなくわかる程度の獣道が延びています。



傾斜もきつく、ガレているので滑りやすくちょっと危険な道なので、
滑らない装備が必要です。
石もグラついているので、石の上も危険で足を置く場所も一歩一歩注意しながら進みます。



路上にある倒木をいくつか超えて進みます。



歩いていると頂上などでよく見掛ける石積みがありました。
ここで休憩をされたのか、はたまたここまで来て先を見て引き返したのか(昨年の私


倒木

私にとって一番の難所?がここでした。^^;
完全に道を塞ぐ倒木があります。
跨いで行ける状態ではないので、一度根っこの上部の土手に登り、
そこでカメラを鞄にしまってすべての荷物を一旦地面に置いて身軽にしてから
倒木を超えるということを行いました。
単身だったので、万が一転がり落ちても助けが無いので、とにかく安全第一の体制で挑みました。



ここで一度平坦面に出て、城域となります。
丸岩山を登ることになり、ここからは勾配がきつくなります。



急な坂道を登りきると、尾根に到着。
ここからは傾斜ははゆるくなります。
この尾根は土塁として人の手が加わっており、通路に使われています。



また、西側の一段下には腰郭のような細い平坦部が見られます。



細長く続く土塁の東側は緩い斜面があります。
紅葉した木と落ち葉のコラボがきれいで、ちょっと立ち止まって眺めたくなる斜面です。



この細長い尾根の土塁は、内側の守りとも、風除けとも言われています。


主郭虎口

ここを登れば、いよいよ主郭です。


主郭

城址の表示はありませんが、主郭に到着です。
標高1123.8mの山頂です。
北西側眼下には二段ほどの郭らしきものが見えますが、人工的なものか、自然に出来たものかはわかりません。



東側を向いて主郭全体を見渡すと、お皿のように低い土塁に囲まれていることがわかります。
規模は小さく、多くの人を収容することは出来そうになく、物見のような広さになってます。



虎口と言っていいのかわからないのですが、土塁の切れ目から
更に東へと尾根に通路があるので行ってみようと思います。



丸岩山の表示があります。



石がゴツゴツと転がっていて歩きにくい部分があります。
岩場らしい道のりです。



尾根はここで終わっています。
先端で下を覗き込むも、崖地となるだけなのでここで引き返すことにしました。
こちらからは絶対攻め込まれないと思います。


眺望

樹木が無ければずごく眺めは良いのです。
木々の間からは八ッ場ダムから出来た八ッ場湖が見えます。
ここを守備していた頃は、全然違う景色が広がっていたのでしょうね。



東先端の郭から、西を見ると北側の腰郭へと延びる道があります。


腰郭

北側に回り込むように腰郭があり、さらに下に二段の腰郭が存在します。
ただ、こちら側の守りは不要だと思われます。
どうやっても北や東側の絶壁からは登って来られないでしょう^^;



では、行きと同じ道を帰ります。



帰りこそ、気をつけて。
ホント、道にこんな倒木があるので歩きずらいです


八ッ場湖の駅丸岩

先週(11/6)オープンしたばかりの「八ッ場湖(みず)の駅丸岩」です。
外観は、旧町役場庁舎の外観をモデルにした木造2階建てで、外観や内装の一部に旧庁舎の部材を使用しています。
ここでは水陸両用バスの発着地点となっています。
一度乗ってみたいですね。


御城印

八ッ場湖の駅丸岩で発売となった丸岩城の御城印です。
このことにより、今まで以上に丸岩城が認識され、丸岩山に登る人が増えつつあります。


昨年夕暮れ時に途中まで行って、何の準備も無く訪れたため危険を感じて引き返して来ました。
今回、御城印発売とのことでリベンジにやってくると、1年前には無かった案内看板も設置され
進展がありました。
道も昨年に比べると、だいぶ踏み固められた感もあり登る人が増えたんだなと感じました。
この日も道中、他の方とすれ違いました。
あとは道上にある倒木を排除してもらえるといいなと思うので今後の整備を期待します。
観光で、ちょっと寄ってみようかなという場所ではないことだけは申し上げておきます。


令和元年6月23日登城
令和2年11月14日再登城


今回の参考本
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版



吉岡神社の石灯篭(群馬県)

2020年11月16日 | その他
吉岡神社の石灯篭よしおかじんじゃのいしとうろう
別名
構造石灯篭
年代1833年(天保4年)
指定史跡町指定重要文化財
場所群馬県東吾妻町本宿656 地図

昭和47年3月1日に町の重要文化財に指定された、吉岡神社の石灯籠と太鼓橋。
その石灯籠は、信州高遠の石工によって1833年(天保4年)に造られたものと伝わります。
鳥居の前の石で造られた太鼓橋は江戸時代に造られたものと伝わります。




国道406号線を走っていると、重要文化財の看板が目にとまります。
ここからは見えませんが、奥には朱色の鳥居があります。


看板

この看板は道路からも見えるので、通過する際に気になっていました。
最近、車を走らせていると看板が気になってしまいます^^;


石灯篭

さて、こちらがお目当ての信州高遠の石工によって造られたという石灯籠です。



あまり古さは感じられないデザインの石灯籠です。
誰の作かまではわかりません。
そこまで調べるには時間がかかりそうなので、今はそこまでは掘り下げません。



こうして高遠の石工作を検索していると、意外に群馬県に多くあることがわかりました。
どうやら高遠の石工は出稼ぎにあちこち行っていたようです。


太鼓橋

こちらの方が古さを感じます。
また破損や風化がみられます。
石灯籠とは使われている石が違うのでしょうか。



太鼓橋の両脇にある、石の彫刻です。
神社に向かって左側は虎が彫り込まれています。



右は…?
竜の手?足?らしきものが見て取れるのですが風化しているのか、よくわかりません。



太鼓橋の袂に彫り込まれた装飾です。
右側は牡丹の花でしょうか。



左は…?
獅子かなあ。


ちょうど1年前に須賀尾宿に寄った際、記事を書くときに吉岡神社の石灯籠が
信州高遠の石工作ということを知り、見に行きたいと思っていました。
本日、通りすがりに見ることが出来ました。
小学生の頃に高遠の石工について調べることがありました。
現在もそのような学習がされているかは、高遠の地を離れてしまっているのでわかりませんが
高遠の石工と聞いて群馬でも見られるとは思ってなかったことなのでちょっとうれしいです。
また、吉岡神社だけでなく群馬県にはまだ他にもあるようなので
また故郷に思いを馳せて探しに来たいと思います。
 

令和2年11月14日 訪問






塩川城(群馬県)

2020年11月09日 | 百名城以外の城
塩川城しおかわじょう
別名
構造平城
築城者菅沼之常
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県高崎市吉井町塩川46  地図

塩川城は、菅沼之常の城で永禄6年に武田信玄によって攻略されたと伝わりますが
現在は平館の名が残るのみで、遺構はみられません。


大沢川

天然の要害とした大沢川です。
これより東側の住宅地が平館と呼ばれる一帯です。



この周辺の地名を見ると「鍛冶町」などの地名もみえるので、この辺りを通ると
ずっと気になっていましたが、遺構らしいものが見えないだけにモヤモヤしていたのですが
目に見えない城跡があったのですね。



塩川は大沢川の上流に塩分を含む鉱泉が湧き出るところから塩川の名が付いています。
吉井藩の祖菅沼定利が誘致した八幡宮があり、その南に隣接して享保11年に
光源寺が建立されています。
しかし、光源寺は明治4年に焼失、廃寺となっています。


陽気軒のジャンボ餃子

大沢川の橋の袂にある「陽気軒」。
吉井陣屋、塩川城へ訪れたら寄ってほしい私のお薦めのお店です。
こちらのお店のジャンボ餃子が大好きで、よくテイクアウトするのですが
まさかの城址に隣接していたとは驚きでした。
こちらのお店、餃子がジャンボなだけでなく他のメニューも結構大盛りです。
たくさん食べられる方には満足のボリュームですよ


令和2年10月18日登城




米山城(長野県)

2020年11月03日 | 百名城以外の城
米山城こめやまじょう
別名戸石城・砥石城・小宮山城
構造山城
築城者村上氏
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所長野県上田市上野 地図

米山城は、戦国時代に坂城の村上氏が小県方面へ進出する拠点として築かれました。
砥石城の西南方の峰続きにあり、本郭の南下に二の郭・三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれています。
白米を馬の背に流して水が余るほどあることを敵にみせかけたという白米城伝説も残されています。



案内看板

砥石城跡櫓門口駐車場へやって来ました。
ここには案内看板の他にトイレも設置されているので訪れやすい場所でもあります。



山の方を見上げると、東屋や旗が見えるので迷うことなくこの道を進むことになります。


櫓門口登山道碑

「なめんなよ!」の言葉が目に飛び込んで来ます。
すごい石碑があるなあと横目に、気を引き締めて行ってみよう!


櫓門

櫓門が見えてきました。
真横(右)には東屋があります。(移ってませんが


登山道

櫓門を抜けると、整備された道が続きます。
こんな歩きやすい道になっているとは、整備された方々に感謝です。


分岐点

歩きやすく、紅葉した木々を見ながら尾根に出ました。
ここまでは、まだ「なめんなよ!」の言葉はすっかり忘れた状態です。
右に行くと砥石城・本城・枡形城です。
まずは左の米山城から攻めてみたいと思います。



ここでは独り言を言いながら、秋っていいねなんて余裕で歩いていました。
ちなみに、この日は賑やか(大勢の人に会う)だろうと思い安心して単身登城しております。



すると、急坂とゆるやかな登り道の選択に迫られました。
どっちにしようか両方の道を覗き込んでみました。
ゆるく行くと遠回りだよなあ…。ちょっとがんばればすぐ着くかなあ。
下りは転がり落ちるかもしれないから、登りは頑張って急勾配にチャレンジするか…。



「なめんなよ!」の言葉がここでよみがえる。
たぶん、ロープが無かったらとても大変だったことでしょう。
なかなか写真では伝わらないと思いますが、靴も滑らないものでないと危険です。



途中には横に張ったロープもありました。
これは、万が一滑り落ちた時のストッパーなんだろうなあと考えると
この心遣いがありがたいと思うのと同時に足に力が入りました。



振り返ると、こんな感じです。


石積み

見上げると、主郭下に石積みが見えます。
実は必死に急斜面を登るあまり現地ではこの石積みに気付いておらず、
山城サミットのオンライン講演会を見て、見逃して来たことに気付きました。
幸い、写真に写り込んでいたのですが、
これから訪れる方は足元が滑りやすく傾斜もキツイ場所ですが、お見逃しなく!


本郭

キツーい坂を登りきると、東屋の屋根と案内看板が見えてホッ。
一気に体力消耗したので、今日はもう山を下って上田城でも攻めようかと思い始めました。



しかし、しばらく休憩すると紅葉と眺望に癒され
自分の運動不足のせいなんだと思い、立ち直りました!


村上義清公之碑

1550年(天文19年)村上義清は、武田信玄の兵糧攻めに遭い給水を断たれ、
落城寸前に、米山城の米蔵の米で馬の背を洗いました。
中腹でその光景を見ていた信玄の部下達は、馬を洗うほどの水があると思い込み、
後退を始めたところへ義清は一気に攻め下したという。
これが「砥石崩れ」と伝わり、米山城の白米伝説でもあります。


眺望

富士山が見えるはずですが…見えないです。残念。



西側に一段下がると二の郭です。


二の郭

主郭の次に広い郭です。
広いと言っても規模は小さいのでそれほど広いというものではありません。


三の郭

帯郭・腰郭サイズの三の郭があります。
本来はもう少し平場になっていたのではないかと思うのですが、道幅ぐらいになってます。



三の郭から西へ進むと、金剛寺集落へと下る道があります。
覗き込むと、わりと急な細道なのでちょっと行って来るとはならず、砥石城方面へ戻ることに。



砥石城方面への道は、先ほどの勾配がキツイ坂道の前で見た
ゆるやかな迂回路に繋がっています。
帰路はこちらからゆる~く戻って行くことにしました。


切岸

二の郭の東側にある切岸です。
堀切になっています。



実はこの道、ゆるい迂回路ってあったのに1ヶ所ロープのある場所があるのでお気をつけあれ。
やっぱりなめちゃいけないです(>_<)



さて、分岐点まで戻って来ました。
ここからは砥石城へ。
ここまで来たなら、もちろん砥石城を目指すのですが久しぶりの山城に
この時点でかなりヘトヘトになってます。
あ~情けなや。
でも、行きますよ!砥石城。


令和2年10月31日登城

今回の参考本