むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

長岡城(新潟県)

2018年08月31日 | 百名城以外の城
長岡城ながおかじょう
別名苧引形兜城
構造平城
築城者堀直寄
築城年代1605年(慶長10年)
指定史跡
場所長岡市城内町 地図
城郭検定出題あり

長岡城は、堀直寄の移封後長尾氏の蔵王堂城に代わり水害から避けるように
信濃川から離れた現在のJR長岡駅の位置に長岡城を築きました。
戊辰戦争(北越戦争)により長岡城はほぼ焼失し、その後は鉄道敷設には停車場設置の候補地となり
本丸跡の東部分に長岡駅が開業しました。
二の丸跡には1902年に宝田石油本社が建てられ、この頃まで二の丸内濠が残っていましたが、
宝田石油本社の移転後、この地を長岡市に寄付し長岡市公会堂が建設され内濠はなくなり
遺構はほぼなくなりました。


JR長岡駅

JR長岡駅周辺には遺構こそは残っていませんが城跡であったことを示す
石碑や案内看板が設置されています。


本丸跡碑

駅前の涼しげな水場の脇に本丸跡の石柱が立てられています。


花火の打揚筒

長岡と言えば花火。
駅正面にあるモニュメント風にある花火の尺玉打揚筒は大正15年に造られたもので
70年有余年間に渡りその役目を果たし平成12年に撤去されたものを保存のため
ここに展示されています。


城内稲荷神社

城内には稲荷神社と八幡神社が創建され、現在、八幡神社は千手町に移転して稲荷神社だけとなっています。
城内稲荷神社は、築城を導いた白狐を祀られていると伝わります。



城内稲荷白狐伝説
当時の長岡城の築城責任者・奥村が、ある新雪の積もった朝に、一匹の白狐を発見しました。
その白狐の口には長い芋(麻)の皮をくわえており、それを引きずりながら新雪の中を歩きまわっていました。
よく見るとその歩いた跡が、兜の形をしていた事から、奥村はそれをもとに長岡城の構えを兜のかたちにしました。
以後、長岡城は通称・芋引形兜城と呼ばれるようになり、この城内稲荷はそんな築城伝説から、
この白狐を祀ったものと言われています。
~大手通商店街HPより~


二の丸跡碑

二の丸跡に建てられたアオーレ長岡の一角にある二の丸跡碑。


長岡城碑

城跡碑と案内石碑があります。
このあたりは市民の憩いの場となっているようで
この日もこの城跡碑の足元に腰掛けて会話を楽しんでいる人々がいらっしゃったのですが
カメラを構えると「俺も撮ってくれ」というユニークなおっちゃんと会話し、
ちょっとだけ時間をいただいて城跡碑の撮影させていただきました。(ありがとう)


案内石板

長岡城は元和三年堀直寄により築城され、翌四年堀氏の後に入封した牧野氏歴代二百十年間
治政した居城で、おびき形兜城又浮島城と呼ばれた。
明治戊辰の役に落城、後一度は奪回して長岡武士の気を吐いたが焼失し、
明治に入り廃城、今は跡形もないが、現長岡駅を中心に本丸があり、
二の丸はこの碑の所にあった。



駅周辺には沢山の案内看板や標柱が設置されています。
時間があったら街中も散策して歩きたいところですが、今回も見える所だけサクッと散策です。


ガラスの案内看板

ちょっと読みずらいですがオシャレな案内看板。
ガラスで出来ています。


宝田石油本社跡

戊辰戦争で長岡城が失われたあと、二の丸には宝田石油本社が建てられました。
創業者の山田又七氏の生い立ちが書かれています。


長岡市郷土資料館

さて、そろそろ帰ろうかと車を走らせていたら山の上に城が見えるではないか!
ということでちょっと見に行ってみようということになり立ち寄りました。
山の上に見えていた城は長岡市郷土資料館でした。
ここは城跡でもなく長岡城とも関係ないというものだそうですが、
長岡駅の地下道掘削工事の最中に出土した長岡城塁の礎石が石垣に使われているとか。。。
あ、でもそれを見て来ていません^^;





長岡城を最後に今回の二日間の新潟城めぐりの旅は終了です。
まだまだ訪れたい城跡はいっぱいあり、登城口の確認だけの城跡もあったりで
少し涼しい時期を狙って再び訪れてみたいと思います。
また、城跡も一度訪れただけではほんの一部にしか触れられないので
何度も訪れたくなるものです。
日本の城を人生かけても全部回りきることはできないのではないかと思っているので
楽しみは尽きないです。


平成30年7月22日登城


食事の覚書

ラーメンあおきや 喜多町店:ラーメン


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

小山御殿(栃木県)

2018年08月29日 | 御殿
小山御殿おやまごてん
築城者本多正純
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡
場所】小山市中央町1丁目1−1 地図

小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の祭の休憩・宿泊所として設けられました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例に
ならったものといわれています。
小山御殿は厳重な配置になっており、周囲に堀が廻り土塁が二重に築かれ
敷地内には16ヶ所の番所が設けられていました。


小山評定跡

小山市役所に入ると正面玄関に向かう駐車場内に山評定跡の碑があります。


小山評定跡由来碑

慶長5年(1600)7月24日徳川家康は、会津上杉景勝を討つべく小山に到着しました。
このとき、石田三成が家康打倒の兵を挙げたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれました。
これが「小山評定」といわれるものです。

軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島政則、
山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。
福島政則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。

同年9月15日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利に結びついた歴史上重要な所です。
※小山評定跡由来碑より


小山御殿広場

小山御殿の整備や発掘調査、調査の成果が書かれた案内看板です。



御殿跡にはインターロッキング舗装や着色コンクリート舗装で平面表示されています。



周囲を囲む土塁も見えます。



日影も無い広場なのでめちゃめちゃ暑いです。
建物が欲しい~


御殿跡

ここは、将軍が休憩や宿泊をした部屋です。
畳90畳敷きの建物で、湯殿と雪隠も併設され、屋根は杮葺きとされています。


老中休息所跡

ここは老中が休憩や宿泊をした部屋です。
畳60畳敷きの建物で、30畳敷きの部屋が二間ありました。
屋根は萱葺きで北西にも老中休息所があったとされています。



芝生の養成をしていたので土塁を隅々まで見ることはできませんでした。



この土塁の奥は堀になっています。



市役所玄関に展示されている小山市の産業品の数々。



皆さんよくご存知のお菓子が並んでいます。
ちなみに、市役所内に何か資料やパンフレットが置いてないかと
立ち寄ったのですが残念ながらそのようなものはみつかりませんでした。
勝手ながら、せっかく多くの史跡があるのでパンフレットの設置をしていただけたらと思います。


発掘調査中

現在、市役所正面駐車場では市役所本庁舎建替整備に伴う発掘調査がされていました。



更なる発見が期待されます。



御殿跡を歩いているとコンクリートの照り返しがすごかった^^;
クラクラしてくるほどの暑さでした。
広場になっていますがこの暑さでは私以外広場に居る人はいません。
でもここで大きな決断が下され、歴史が動いたんですね。
感慨深いものがあります。


平成30年8月5日訪問


若駒酒造 純米吟醸酒 小山評定 若駒 720ml
若駒酒造
若駒酒造

小山城(栃木県)

2018年08月27日 | 百名城以外の城
小山城おやまじょう
別名祗園城・祇園城
構造平山城
築城者小山政光
築城年代1148年(久安4年)
指定史跡国指定史跡
場所小山市城山町 地図

地元では祇園城と呼ばれている小山城は、鷲城、中久喜城とともに「小山義政の乱」の関連遺跡として
国指定史跡となっています。
小山氏、北条氏照、本多正純と改修、整備が繰り返され拡大化された城祉です。
また、ここより県道31号線を挟んで南側の小山市役所周辺は徳川将軍家の日光社参拝の休憩や宿泊に
利用されていた小山御殿や、関ヶ原の戦い直前に行われた「小山評定」の軍議が開かれた場所も
あります。


城山公園入口

県道31号線からの登城口。
ここを登るとすぐに本丸です。


思川

思川沿いの河岸段丘に築かれた祇園城。
物見でもあったかのような眺めです。


案内看板

本丸入口にある安に看板。


本丸

国指定史跡となってから発掘調査が進み、祇園城を復元。
現在県道31号線側から見るとこんなに簡単に本丸に入れてしまうとちょっと心配な部分ではありますが、
北側からの遺構をみるとなかなかの構造です。


祇園橋

堀に架けられたシンボル的な朱色の橋。
この堀が見事で、本丸と二の曲輪を仕切る良い仕事をしています。


堀切

整備された堀ですが幅や深さを見ると北条を匂わせる規模を感じます。



祇園橋を挟んで東側はコンクリート造りで、西側は自然のままと見比べることが出来ます。
橋の上から両方を見比べるとおもしろいです。


馬出

橋を渡ると二の曲輪です。
一段高くなったあずまやがあるところが馬出曲輪です。


L字状の空堀

その馬出曲輪をL字に囲む空堀もしっかり残っていて
息を飲む光景が目に飛び込んで来ます。
堀に架かる橋から馬出曲輪へと入って行く構造になっています。


二の曲輪

二の曲輪は遊具が並ぶ、いかにもの公園です。
堀切の横にスロープで付けられた公園へのアプローチの道を上がってすぐに
子供たちが遊べる環境になっています。



二の曲輪はL字形に広いスペースです。



二の曲輪に塚田曲輪跡と看板がりますが、ここは違うと思うのですが…。
それよりも、この看板をよ~く見ると…蝉の抜け殻が3つ付いているのが
気になって…蝉にとってはとても重要な看板でした^^;


土塁

二の曲輪北側の土塁を内側から見たところです。




二の曲輪と塚田曲輪のある三の曲輪との間の堀に架かる橋です。


堀(西側)

西側の堀を橋の上から覗き込むと結構な高さがあります。
堀底には小川が流れているのが見えます。


堀(東側)

こちらも先程の祇園橋同様、橋を挟んで東西で随分と景色に違いがあります。


塚田曲輪跡

西側にある一段高い曲輪が塚田曲輪です。
小山氏一族の塚田氏が居た曲輪で北曲輪から入るような造りになっていました。
北曲輪からの入口は馬出で見たL字状の空堀と同じような造りの空堀があったようです。


北久保跡

塚田曲輪の東側にある北久保跡は宅地化され、遺構はほとんど消滅しています。
また、ここが駐車スペースとなっているので車はここに置いて散策しました。


城山公園入口側から覗いただけではたいしたことないなって感じでしたが、
旧結城道(堀)や馬出付近の堀や構造を見ると
おもしろい縄張りが見えてきます。
一見平凡な造りに見えるのですがさすがに段階を追って手を入れているだけあって
L字状の空堀などの工夫が見えてちょっとドキッとさせられました。

小山御殿の方も訪れたのですが、また後ほどということで。。。。


平成30年8月5日登城


食事の覚書

井岡屋 思川店 :佐野ラーメンと自家製ギョーザ




小山祇園城 純米 1800ml
小山祇園城
小山祇園城

木場城(新潟県)

2018年08月24日 | 百名城以外の城
木場城きばじょう
別名
構造平城
築城者山吉景長
築城年代1581年(天正9年)
指定史跡
場所新潟市西区木場字堤126-6 地図

戦国時代の1581年に上杉景勝の家臣である山吉景長に築城させたといわれる木場城。
三条城城主であった山吉景長が死去し、嫡男山吉豊守が家督を継ぐと上杉家の規約などの問題により
三条城から木場城に移ることとなりました。
その直後「新発田重家の乱」において最前線基地として重要な拠点となりました。
1598年(慶長3年)に景勝が会津若松へ移封になった際に廃城となりました。


駐車場
あまり大きくない駐車場ですが公園なので駐車場が完備されています。


模擬天守

骨組みだけの天守に見える天守型のアスレチック。
よく見ると、屋根はちゃんと瓦葺きになっていてさりげなく城をアピールしています。



水がはいっていませんが堀はジャブジャブ池となっています。
堀や石垣も表現されています。


わんぱく広場

きれいな公園で普段から利用されている様子がわかります。



わんぱく広場と木場八幡宮との間の道です。
ここを入って行くと木場八幡宮の入口に出ます。


木場八幡宮

車の乗り入れ不可のこちら側が正式な入口のようです。


拝殿

1599年(慶長4年)の村々志色書帳(米沢図書館蔵)に、
木場八幡宮を木場集落の氏神様として祀ったことが記されています。
八幡宮本殿は、新潟市の指定文化財として登録されています。


堀と土塁

堀跡なのか?土塁か?木場八幡宮を囲むかのような造りになっています。


砦の森

砦の森とされている場所は小高くなっていて
物見台であろうとされています。


待合

木陰になっていて休憩ができる待合所があります。



まるで腰曲輪を意識させられるような段々になった地形。
もちろん当時の遺構ではなく公園として造られる時に形付けられたものです。


物見台

物見台が見えて来ました。



この辺りでは一番こんもりとした場所にあります。


多目的広場

ここにはステージも設置されていてちょっとした集会も出来そうです。
ちなみにここには地元の少年がマウンテンバイクで曲乗り?のような練習をしてました。
邪魔にならないよう、少し離れたこの場所から広場を撮影しました。


せせらぎ水路

水堀跡を想像させる水路があります。
位置としては内郭と外郭の間に設けられた堀の位置に近いような気も
するのですが現代の構築物なので遺構とはとても言えるものではありません。


とんぼ池

秋には沢山のトンボがいそうですね。
日本らしい風景が目に浮かびます。



公園になってしまいながらも城跡であることを意識しながら造られた良い公園です。
城跡としての案内看板が消えてしまっていたので残念でなりません。
せっかくこのような建物を造って後世に知ってもらおうと思っているのであれば
ぜひ、また案内看板を設置してほしいものです。
小さなおこさまもここでぜひ、「お城ごっこ」をして城主気分を味わってほしいです!


平成30年7月22日登城


学研ステイフル ポーチ ご朱印集め にゃすけ F18047
学研ステイフル
学研ステイフル

城の内館(茨城県)

2018年08月22日 | 陣屋・館
城の内館 しろのうちやかた
別名結城朝光館
構造平城
築城者結城朝光
築城年代鎌倉初期
指定史跡
場所結城市結城8718 地図

鎌倉時代の初めに、結城氏初代の結城朝光によってつくられ、
室町時代に新たに結城城が築かれるまでこの館は機能していました。
館跡は長方形に区画され、周囲を堀で巡らせて土塁で囲っていたことから
「堀の内」、「城の内」と呼ばれるようになりました。


館跡

道路からも見える広場は結城氏の居館跡です。


結城百選

居館入口には案内看板とともに結城百選という石柱があります。


散策路

城内は半周出来る散策路が付いています。



土塁と並行して内側を散策出来る軽自動車1台分ほどの道があります。


土塁

城内から見た土塁です。
このような高さの土塁が巡っています。



なにやら建物が見えて来ました。


栗橋圓翁土碑

栗橋家と言えば、ここから利根川に向って進むと江戸時代に整備された五街道の一つ、
日光道中に利根川を渡る房川渡が設けられそこには栗橋宿があり、栗橋関所が設置されました。
関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。
距離から考えるとこの栗橋家に関係のある人なのかと想像します。


立木地蔵尊

先程見えていた建物はこの立木地蔵尊でした。
栗橋家所有の地蔵尊でちゃんとした入口は別にありました。

この立木地蔵尊には昔からの民話が伝わります。
その民話とは…
この地を支配していた栗橋氏が、
城内のひときわ目立った御神木のような大木を、必要があって切ることを命じました。
斧を振り下ろすと木の切り口から血が流れ、その大木は生き怨みを言っているようであったという。
神のたたりがあるのではないかと恐れて、その木を切ることを中止しました。
この不思議な話は近隣の人々の耳にも伝わりました。
その後、栗橋氏は大木の霊をなぐさめるため、立木の地蔵をつくりました。

その地蔵は今もお堂の中に静かに祀られているという。。。。


手水






法華一字一石書写供養塔

一字一石というと、経典を小石に一字ずつ書写したものです。
その石を埋めて供養塔を立てたものらしいです。
この供養塔の下には法華経が書かれた小石が埋まっているのでしょうか。



そして立木地蔵尊からもとの道に戻り、先へ進んでみようと思います。



この道は半周したところで居館の広場に出ます。
草がない時期であればそのまま最初の入口まで横断して戻ることが出来ます。
草むらの中を横断するのはちょっとためらわれたので、引き返して戻りました。


外側の道

土塁に沿って付けられている城館外側の道はかつて堀だったのでしょうか。。。
この先に立木地蔵尊の本来の入口があります。


立木地蔵尊入口の門

こちらから直接立木地蔵尊へ行くことが出来ますがここへ行くための駐車場はありません。


土塁

城館外側からの方が土塁はわかりやすく、見やすいです。
ちなみに堀は発掘調査によって断面がV字型になる薬研堀だったことが判明しました。


城内の散策路はちょっと幻想的な感じがして、暑い中でも避暑地を散策している気分でした。
しかし、立木地蔵尊の民話を調べているうちに夏に語るに相応しいちょっと怖い話だなあと…。
知ってから行っていたら散策路も幻想的なんて言っていられなかったことでしょう。
それどころか、怖くて先に進めないとか、立木地蔵尊に近付くのも躊躇われたんじゃないかと思う。
しかも、独りで散策に行ったので思い出したら怖いです^^;
ちなみに私の書いた民話は短く、やさしく書いてます。
ただ、それを言っていたら戦国時代のどこ行ったって血が流れてますからね


平成30年8月5日登城


栃木の民話 第1集 (日本の民話 新版 32)
日向野 徳久
未来社

水原城(新潟県)

2018年08月20日 | 百名城以外の城
水原城すいばらじょう
別名水原代官所・水原館
構造平城
築城者大見行定
築城年代1229年(寬喜元年)
指定史跡市指定史跡
場所阿賀野市外城町10-5 地図

水原隠岐守憲家は上杉謙信に仕えていましたが、その子水原左近将監平本信は上杉景勝に従い、
新発田因幡守重家軍と交戦中に戦死してしまいました。
その後、笹岡城主酒井信佐ェ門、下条城主下条采女、雷城城主丸田周防守、安田城兵に
攻められたため落城してしまいました。
天正14年には、浦佐城主大關常陸介が姓を水原と改め水原城主となりました。
上杉景勝が会津に移封すると水原氏もそれに従い会津へと移りました。
溝口氏が新発田に移封され新発田藩が成立、1746年(延享3年)水原代官所が設置されました。


観光案内所

水原代官所の受付入口はこちらにあります。
観光案内所も併設されていて特産品売り場などもあります。


案内看板

水原代官所の案内看板です。
代官所について書かれていますが城跡についてはまったく触れていません。


表門

立派な構えです。
お役所ですねえ。


城館跡碑

代官所と城跡であったことが確認できる石碑があります。


水原常陸介碑

江戸時代に建立された原常陸介碑です。
水原氏はもともと弓の名手でしたが上杉謙信にその腕を買われ
上杉軍初の鉄砲隊を命じられ、その功績が認められています。
上杉鉄砲隊としてなくてはならない存在となりました。


代官所入口

正面の大玄関からは入れてもらえません。
台所からの入館です。
観光客では身分が低いです^^;


館内の御案内

入口から入ってすぐに館内の案内図があります。
水原代官所は下越地方の新田開発の促進や年貢米の確保、藩の監視・情報収集などの目的で設けられました。


湯呑所

奉公人などの休む場です。
囲炉裏を囲んでのどかな光景を想像したいところですがそうではないんだろうなあ。


白洲

犯罪者の取り調べを行う場所です。
痛そうな道具が並んでいます。拷問ですね。
拷問座の上に正座して膝の上に抱石を載せられるんですね。
想像しただけでも痛いです(>_<)


訴所と御用場

訴所で村役人が農地や税に関する問題を伝え、
御用場で耕地や税の取立てなど地方行政を行う。
何の罪で裁かれているのかと思っていたら警察署ではなく税務署のようなお話しだったんですね。
吹き出しを付けたくなる絵(画像)です^^;


使者の間

幕府の巡見使などの控室です。


上ノ間

会議などに使用していました。


奥庭

中庭に比べると広いですが、こじんまりとした庭です。


御用人部屋

下級武士などの控室として使用していました。


上御湯殿

お代官さまが使用していたお風呂です。
どうやらお湯を沸かす式ではなくお湯を運んで来て体を流すといった様子だったようです。


御学問所

温故堂とも呼ばれた学問所です。


奥勝手

賄い等の雑用に使用された出入口です。


奥御台所

江戸からの使者が代官所に来て泊る時などに使用されましたが、
代官所は基本仕事場なので寝泊まりや煮炊きはしませんでした。
ここではせいぜいお湯を沸かすくらいなものだったそうです。
いわゆる会社の給湯室みたいなものだったのでしょうね。


大玄関と中ノ口

正面中央が大玄関で、正面に向かって左側の入口が中ノ口と呼ばれる玄関です。
中ノ口は代官が脇玄関として使用していたものです。


表門(内側)

内側から見た表門です。


冠木門

観光案内所との間にさりげなくある冠木門。
ここを出入りすることは出来ません。


城跡に来たつもりだったのですが、城跡と思われるところはまったくなく、
代官所を見に来たという結果になりました。
これはこれで面白かったけど、城めぐり感はまったくありませんでした。


平成30年7月21日登城


甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館



久保田 千寿 人気の 日本酒 飲み比べ セット ミツワオールスターズ 1800ml 6本セット
名城酒造
名城酒造

旧新発田藩足軽長屋(新潟県)

2018年08月19日 | その他
旧新発田藩足軽長屋きゅうしばたはんあしがるやしき
別名清水長屋
構造足軽屋敷
創建者溝口氏(新発田藩主)
創建年代1842年(天保13年)
指定史跡国重要文化財
場所新発田市諏訪町3丁目3 地図
城郭検定出題あり

旧新発田藩の下級武士の住んでいた長屋で八軒で一棟になっています。
かつてはこのような長屋が幕末まで4棟ありましたが今はこの一棟だけになりました。



この一棟に八戸居住出来て、各戸には炊事場と土間付き二部屋の間取りになっています。
ここに住んでいた人の役職は、御門番組や御旗指組などの小者と御綱方と、
足軽以外のきわめて身分の低い家臣が住んでいたという記録が残されています。



また、残された記録の中には住んでいた人の姓があるのはひとりだけで、
他の7人は名のみだったそうです。
幕末の下級武士の生活ぶりを伝える住居として全国的にみてもとても貴重なため、
建造物が昭和44年12月18日、国重要文化財に指定されました。
ちなみに昭和44年の春まで居住していたそうです。






旧清水谷

清水が湧きだすことから清水谷と呼ばれています。
新発田の井戸水は鉄分が多すぎて飲み水には向かず、新発田川の水を飲用水として利用していました。
清水谷の井戸は、飲用水として使えるきれいな水がこんこんと湧き出る名水として知られていました。


清水園駐車場

清水園駐車場をお借りして、清水園の入口と隣接する旧新発田藩足軽長屋の外観も見て来ました。


清水園大門(総門)

旧新発田藩足軽長屋に隣接して、旧新発田藩藩主溝口侯下屋敷大名庭園があります。
きれいな清水が湧き出るということで、清水谷御殿では清水で入れたお茶で
お茶会が行なわれていたと思われます。


家老門

駐車場にある家老門です。
家老門前に架けられた橋「旧武庸橋」は堀部安兵衛武庸に因んで命名された橋です。
赤穂義士討ち入りの日に併せ、保存してあった「旧武庸橋の欄干柱」を使用した橋が
平成25年に移築されています。




旧新発田藩足軽長屋を訪れた理由は、日本城郭検定1級の問題で解答を間違えたからです^^;
やはり自分の目で見ていないものは勘で答えるしかなく、またその正解を自分の目で確かめたいという
思いがあって主人に頼んでちょっと寄り道してもらいました。
時間が無かったので長屋の中までは見学できなかったのですが、確かに八軒の長屋が現存していることを
確かめることが出来ました。
近頃はこうやって日本城郭検定の問題の答えを確かめるというのも楽しみのひとつになって来ました。



平成30年7月21日訪問

長福城(栃木県)

2018年08月17日 | 百名城以外の城
長福城ちょうふくじょう
別名長福寺城・新城・龍岡城・龍ケ岡城
構造平城
築城者小山義政
築城年代1380年(康歴2年)
指定史跡
場所小山市八幡町1 地図

臨済宗長福寺付近に小山氏が鎌倉公方の足利氏満と対峙するために室町時代に築いた城のひとつです。
場所は祗園城と鷲城の中間で、思川沿いにあり、小山義政の乱の時には二つのつなぎの城として
重要な役割を果たしたと考えられています。


長福城跡碑

やはた公園にある長福城跡の石柱。
案内板などはありません。


やはた公園

小ぶりな公園です。



公園との段差は何かの名残なのか?と苦し紛れに下を覗いてみたのですが
遺構や名残という感じでもないのかな。。。


グランド西側の林

この中に土塁があるらしいのですが…藪の中に入る気がしない。
尚、長福ハイツ・小山第二中学校の第2グランド付近に土塁が残っています。


とちぎふれあい歩道「歴史の道」

何か遺構は残っていないものかと周囲をさがしていると、思川沿いに
何やら看板が見えたので行ってみました。
しかし、それは城跡のことが書かれたものではなく、
とちぎふれあい歩道「歴史の道」の案内看板でした。


標柱

更に川の方へ行ってみると草の中に標柱が。
道路からはまったく見えない位置にあります。(意味があるのか?)


思川

とちぎふれあい歩道「歴史の道」の道筋もよくわからない。
辿って行くと思川に出てしまいました。
自然の要害として堀の代わりに使っていたのでしょうね。



周囲を散策するも、遺構らしきものは藪以外みつかりませんでした。
遺構のほとんどはグランドや宅地になっていて確認は出来ません。
※見ようと思えば土塁を見ることは出来ます。
小山義政の乱の舞台になった場所として知っておくことにしましょう。


平成30年8月5日登城


小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史 (中世武士選書 第27巻)
松本一夫
戎光祥出版

三ツ木城(埼玉県)

2018年08月16日 | 百名城以外の城
三ツ木城みつぎじょう
別名遠元館
構造平山城
築城者足立遠元
築城年代平安時代
指定史跡県指定史跡
場所桶川市川田谷三ツ木 地図

城跡の東、西、北は湿地に囲まれ、南方を底辺として北端を頂点とする三角形とする平山城です。
城の居住者としては鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻の太田氏に
仕えた石井丹後守とする説もあるがいずれも定ではありません。
他にも14世紀代に築城されたという説もあります。



第一駐車場

ここに到着するまでに公園の駐車場を他でも見ました。
とりあえず第一と名が付く駐車場から入ってみることにしました。


案内看板

公園の案内看板です。
ここで三ツ木城跡の位置を確認します。


催物広場

ここを西に向かってどんどん進みます。


公園と城跡の境

公園と城跡の境目に土塁と堀らしきものが見えて来ました。
城跡の匂いがプンプンします。



案内看板の左手の雑木林が三ツ木城跡ですが、土塁や堀が見えるのですが
中に入ることが出来ないようです。


案内看板

城跡の東、西、北は湿地に囲まれ、南方を底辺として北端を頂点とする三角形

水堀

かつては水堀が巡らされていたという。
その名残らしく側溝には水が流れていて水堀を想像させられます。


城山公園完成記念碑

ただの完成記念碑かと思いきや、裏にまわってみると「城山の由来について」と書いてありました。
内容は下記のとおり、三ツ木城について書いてありました。


城山の由来について

この公園名の「城山」は、西側に隣接する三ツ木城跡に由来します。
三ツ木城は中世の城跡で、土塁や空堀が三角状にまわって残っており、県の重要遺跡に選定されています。
居住者については、諸説あり、鎌倉時代に活躍した足立右馬充や安達盛長、
室町時代の石井丹後守などの武士が考えられています。



城跡に入る道を探しながら進んでいますが、入れそうにありません。



西側から東側を見ています。
やはり城跡内に入れる道はありそうにないです。


第二駐車場

とうとう第二駐車場まで来てしまいましたが、城跡に入れるところ無し!


大沼

正面に展望台が見えますが、物見台ではありません。
公園の展望広場でした。^^;


公園管理事務所

中に入ってみたものの、三ツ木城についての資料やパンフレットはみつかりませんでした。


駐車場案内図

公園の周辺には5ヶ所もの駐車場があります。


出張帰りにちょっと寄り道したのが三ツ木城。
公園になっているということなので寄り道しやすいと思って選んだのですが
遺構は公園の外で、しかも私有地で入れないという場所でした。
公園から見える範囲を見ることしかできないので
目の前ある土塁と堀を見てしまうとちょっとだけ中を覗いてみたいな~なんて。
それでも私有地につき…という張り紙を見てしまったら入れない、もどかしさ。
ん~、残念だなあ。二重の土塁見たかった。



平成30年7月25日登城


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三条城(新潟県)

2018年08月13日 | 百名城以外の城
三条城さんじょうじょう
別名三条島ノ城
構造平城
築城者三条左衛門
築城年代平安時代
指定史跡
場所三条市上須頃 地図

中世の越後を二分する応永の大乱をはじめ越後の戦乱のたびにこの城が攻防の中心となりました。
その後河道の変化で川欠けとなり江戸時代の初め1616年(元和2年)現三条小学校一帯に
移城を余儀なくされました。




城跡碑の近くにある小さい社。
河川を見守る神様でしょうか?詳細はわかりません。


城跡碑

良く見ると「三条島ノ城跡」と書いてあります。
ということはこれだけ大きな河原になっているので当時は島状になっていて
川を堀として見立てた要害として構築された城郭だったのでしょうか…。
しかし、現在ここには信濃川の氾濫によって城跡に遺構はまったく残っていません。
草を掻き分けて城跡碑の下の方を見ると、案内文が書いてあります。


ということで、三条城の遺構を探しに付近を捜索してみたいと思います。


本成寺の山門

まず、訪れたのは移築門が残ると言われる「本成寺」へやって来てみました。
さてさて、どれが三条城の移築門でしょうか…
どうやらこれではないようです。


本堂

立派な本堂が見えて来ました。
本成寺は1297年(永仁5年)日印聖人によって開かれた法華総本山です。


本成寺鐘楼

木造二層の鐘楼で最初は上層で鐘を撞いていましたが、下層で鐘を撞く形式に変更され
袴腰から外に音を伝えるための華頭窓が設けられています。
梵鐘は第二次世界大戦のために提供されてしまい、現在は現代に造られたものが付いていますが
鐘楼は1758年(宝暦8年)の火災後に建築されたと考えられています。


本成寺多宝塔

室町時代に造立されたという仏像と多宝如来と釈迦如来が安置された一塔両尊で、
こちらも建立時代は隣接する鐘楼とほぼ同時期ですが鐘楼と比べると鐘楼より少しばかり新しいようです。


千仏堂(六角堂)

上杉氏家臣の山吉長久が創建したと伝わる六角形の平面を持つ六角円堂です。
緻密な細工と軒まわりの彫刻や装飾を見るとその豪華さがわかります。
なかなか手が込んでいます。


本成寺の赤門

この大きな山門は、朱塗りが特徴で赤門と呼ばれています。
組みものが柱に差しこむ挿肘木となっていたり、上部の荷重を桁まで延びた柱で支えているなど
建築工法に特徴があることから貴重な建物として新潟県指定有形文化財に指定されています。


本成寺の黒門

これが探していた三城城の城門を移築したという伝承のある薬医門です。


本成寺の由緒

木製の案内看板に書かれた本成寺の由緒は、文字がかすれて読むことが出来ません。



三条城の城門

彫刻の絵様から江戸時代中期頃に建てられたものと考えられています。



城門を避けて脇を車が往来します。
真ん中は車で通っちゃダメよ^^;


他にも三条城の遺構は残ってないかなあ。。。



案内看板

城跡碑に江戸時代に今の三条小学校付近に城を移したことが書いてあったので
北三条駅付近にやって来ました。
ここで偶然三条城跡の案内看板を発見しました!


土盛

なんとなく土塁と想像したい感じの土盛です。
古城田畑絵図を見ると…この辺りは堀があったようです。


古城田畑絵図

この付近一帯は初代三条藩主市橋長勝が江戸時代初期に築いた三条城がありました。
幕府からは「三条城は会津街道抑えの城ゆえ、随分堅固にするように」との
仰せを受けていたそうです。
宅地化が進んでしまい、ここでも遺構はほとんど見られないので
古地図を見て想像しながら歩くしかないです。


三条小路マップ

現代の地図と古地図を照らし合わせ、地名からいろいろ想像できそうです。



最初は川原にある城跡碑だけかあ…とガッカリしたのですがそこ(城跡碑)に
城が移ったことが書いてあったので、散策続行!
信濃川に流され、宅地化で消えてしまった遺構ですが移転先を捜索すると
ちらほら手がかりが見えて来ました。
時間があったらもっといろいろ探してみたいところです。
ちなみに後から判ったことですが、三条信用金庫古城町支店に行くと駐車場入口には
「三条城本丸跡」と記した標柱と店舗入口には「古城田畑絵図」の複製が展示されているそうです。
気が付きませんでした残念。


平成30年7月22日登城


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KADOKAWA/角川学芸出版

本与板城(新潟県)

2018年08月10日 | 百名城以外の城
本与板城もとよいたじょう
別名与板城
構造山城
築城者籠沢入道
築城年代1334年(建武元年)
指定史跡県指定史跡
場所長岡市与板町本与板 地図

本与板城の始まりは籠沢入道が築城したことが伝わりますが確証はありません。
室町時代には上杉氏の重臣飯沼氏が居城しましたが、天文年間に直江景綱が飯沼頼清を滅ぼし
飯沼氏に代わって直江氏が本与板城に入城しました。


本与板城跡登り口

案内の表示もしかっりされています。
看板に従って進んで行きます。


駐車場

4台ほど駐車出来る駐車場が備えられています。
ここから少し歩くと登り口が見えて来ます。
うれしい事にパンフレットの入ったボックスも立てられていました。


至 直江屋敷

道下に細道が見えます。
ここを下ると集落のある場所に出ます。
そこには直江屋敷やお船の方の生れた屋敷もあります。



本与板城跡登り口

整備された道があります。



道はこの奥に続きます。
本丸へは更にこの奥を進むことになりますが、今回は入口までのレポートとなります。



登城口から林道を更に進むと、また道上に登る階段を発見!
早速様子を見に車を降りて道上を覗きに行って来ました。


護国殿跡

登り始めて先ず到着した場所は護国殿跡でした。
ここには日露戦争の戦死者供養のために建てられた天平様式の万歳閣と護国殿がありました。
本与板の浄土真宗光西寺住職の藤井界雄が本与板城跡に仏像を造って安置しましたが
昭和6年に万歳閣は浮浪者の失火により焼失。護国殿もその後豪雪のために倒壊してしまいました。
現在はこのように跡だけ残っています。



円形の土台のように見えます。



この部分は城跡とはまったく関係の無い建物が建っていた場所でした。
この奥で先程の本与板城跡登り口から登って来た道と繋がるようです。


与板歴史民俗資料館

万歳閣をモデルに作られたという与板歴史民俗資料館。
このような建物がかつて万歳閣跡に建っていたようです。
清国戦死者追悼のための釈迦牟尼仏だけが現在もここに安置されています。
与板歴史民俗資料館を入って左奥の方にどんどん進んで行くと釈迦牟尼仏が安置されていたので
とりあえず手を合わせて来ました。



またまた登城口までのレポートとなりました。
やはり夏場は根性が無いと本丸まで到達できません。
藪と虫と獣に遭遇するのは御免なので入口の下見だけして
あとは今後のお楽しみということに。。。。
でも、タイミングを逃すとすぐ雪に覆われてしまうんですよね^^;
次回はいつになるのかな…。




平成30年7月22日登城


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甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

村上城(新潟県)

2018年08月06日 | 続百名城
村上城むらかみじょう
別名本庄城・舞鶴城
構造平山城
築城者本庄氏
築城年代16世紀初頭
指定史跡国指定史跡
場所村上市二之町 地図
スタンプ設置場所村上市郷土資料館1階ロビー
城郭検定出題あり

最初に築城したのが本庄氏で、築城当時は「本庄城」と呼ばれていました。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると上杉氏の家臣だった本庄氏は上杉景勝に従い米沢へ。
上杉氏が米沢へ国変えになると、堀秀治の家臣村上頼勝が城主となり大改修を行い、
本庄城から「村上城」へと城の名が変わりました。
そして、1667年(寛文7年)落雷により天守や櫓を焼失。
以来天守が再建されることはありませんでした。
その後、松平輝貞が上野国高崎より入り、城のさらなる改築を行われました。
1720年(享保5年)以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えました。


駐車場

七曲り道入口前にも3台ほど駐車できますが、近くにこのような駐車場も用意されているので
こちらに駐車してゆっくり観て周るのがお勧めです。


スタンプ設置場所

村上城跡保存育英会の建物に続100名城のスタンプがあるようですが、ここが開いているのは
月曜から金曜の午前中のようなので他へ行くことにしました。
ここの張り紙に東北電力(株)村上営業所エントランスと村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)にも
スタンプが設置されているとの表示があるので後で行ってみたいと思います。


登城口

大手道の入口で九十九折りの山道である七曲り道の入口です。


城主居館跡

現在城山児童公園になっているこの場所には城主居館があったのですが、
幕末の戊辰戦争の最中に焼失してしまいました。


一文字門跡

城主の居館の入口にある重要な門だったため、石垣を高く積み、その上に塀を回し
冠木門を付属させた二重構造の門構えでした。
高い石垣と堀、櫓門と多門櫓でコの字で囲んだ内枡形の強固な造りとなっていました。



守り堅固であった一文字門でしたが、今は堀も埋め立てられ面影といったらこの石垣くらいしか
残っていません。
それでもこの石垣を見ただけで、上にある石垣に期待が膨らみます。


七曲道

七曲りというので実際に数えながら登ってみると…七以上あります。^^;



幾重にも折れ曲がる道はそれほど急でなく、歩きやすい道になっています。


四ツ門跡

七曲り道を登りきったところに四ツ門跡があります。
四方を門に囲まれたちょっと珍しい枡形になっていました。


御鐘門跡

ここにはかつて城下に時を知らせる御鐘櫓があった場所です。
左に折れる枡形虎口になっています。


出櫓跡

本丸入口を守るための最前線となる石垣が見えて来ました。
石垣沿いには登りと下りを区別した道がつけられ、それぞれに門扉のある並門がありました。
出櫓というだけに出張った石垣の上から通る者を見張り、時には攻撃を掛けて
死守していたのでしょう。



この出櫓の石垣は特に奇麗な積み方で角もしかっり出ていて
石垣の絶好の撮影スポットとなっています。
美しい石垣です!



発掘調査中の箇所もあり、これからの発見も期待されます。



とにかく圧巻の見事な石垣。
石垣の上に石垣と言った二段になっている本丸の石垣です。


平櫓跡

ここはあまり手入れがされていません。
もしや、この真上にある本丸にあったとされる平櫓のことをさしているのでしょうか…。


埋門跡

ここを下ると四ツ門跡に出て周回出来ます。
中世散策コースは搦め手側の本庄氏家臣団の屋敷跡と思われる腰曲輪や
竪堀、土塁、虎口や、井戸、「馬冷やし場」といった水場も見ることが出来ます。


腰曲輪

本丸を囲む腰曲輪で、一の門である冠木門の前が一番広く、
武者が溜れるような空間が見られます。


冠木門跡

本丸入口の一の門となるのが冠木門です。


枡形虎口

櫓門があったとされる最後の砦となる枡形の虎口です。
ここを突破するといよいよ本丸です。


眺望

この眺めは最高です。
ゆりが沢山咲き誇り、そよ風に香りがのってやってきてずっと眺めていたい気分になりました。


本丸跡

本丸広場越しに見える景色を見ると、登って来た疲れも吹っ飛ぶ感動です。
心地よいそよ風も吹き、体感温度も下がるのでとにかく晴れ晴れする気分でいっぱいです


天守台

ここにはかつて三重の天守がありました。
落雷により焼失してから天守が再建されることはありませんでした。
ここに天守があったなら…さぞかし良い眺めだったでしょうね。
しかも海が見えるなんて最高!!!(妄想の世界へ突入)


眺望

村上市街の向こうには日本海が見えます。
この眺めはやっぱり最高です。
暑さに負けず頑張って登った甲斐があります!


舞鶴城跡碑

舞鶴城とも呼ばれていた城祉碑。
ここから本丸虎口の御門櫓、多門櫓へと続く長い続櫓で本丸を囲んでいました。


鳥居

本丸北側を見ると、二重の鳥居があります。
しかし、本丸にありがちな神社の社はここにはありません。


秋葉神社碑

二つの鳥居の先にあったものは拝殿や本殿などの建物ではなく、この石碑でした。



下に見えるのは出櫓多門跡です。
更に下には四ツ門から続く本丸への道が見えて、登って来る人が
ここからまる見えです。


四ツ門跡

本丸から下って再び四ツ門跡までやって来ました。
今度は三の丸を散策してみたいと思います。


調練場跡

三の丸は主に戦の訓練をする場となっていて武器蔵や北側には二つの櫓を配していました。


玉櫓跡

ここには玉櫓とありますが、月見櫓のことです。



靱櫓跡

そして、この櫓は武器保管庫として使われていました。
ここにも石垣が見え隠れしています。
木が無ければ眺めも良さそうです。


東北電力(株)村上営業所

村上城跡保存育英会の建物に張り紙があったのでやって来ました。
駐車場をお借りしていざ、スタンプを押しに!!


スタンプ設置場所

この日は張り紙の時間より早く開いていたので助かりました。
※24時間開いている説もあります(自分の目で確かめていないので不確かです)



中にはスタンプだけでなく有り難い事にパンフレットもあります。


村上市郷土資料館

こちらが公式にスタンプ設置場所とされている村上市郷土資料館です。


スタンプ設置場所

公式に知らされているスタンプ設置場所にやって来ました。
ここで東北電力では品切れになっていたパンフレットを入手することが出来ました。


朝、涼しい時間帯は麓から本丸まで何回も登り上げるランナーや健康のために何度も昇り降りする地元の方々が
多くいます。
城めぐりをされている人はほぼすれ違うことなく、下山する頃にやっと1組とすれ違いました。
スタンプを押す時間のタイミングで登城されているのでしょうか、この暑い時期は早めの登城をして
スタンプも東北電力であれば朝でもスタンプを押すことが可能なので涼しい時間帯を選んで
登城することをお勧めします。
村上城周辺にはいろいろ見所が(城下町の様子など)いっぱいあるので
散策するには時間が足りません。
それでも紹介できるものは後ほどブログにしたいと思います。


それにしても良い城跡でした。
ゆりの花が調度見頃で、城中至る所に咲き乱れていました。
本丸の石垣やいろいろな石垣の間からも咲いていて、ユリの城と言った感じでした。

ずっと本丸に居たいと思うほど、気分が良くなる景色でした。
「来て良かったあ」と連呼するほど私の中ではかなりお気に入りの城跡となりました。


平成30年7月21日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

蒲原津城(新潟県)

2018年08月03日 | 百名城以外の城
蒲原津城かんばらのつじょう
別名
構造平城
築城者小国政光
築城年代1335年(建武2年)
指定史跡
場所新潟市中央区上所上 地図

蒲原津城は南北朝時代に南朝の拠点として小国政光により築かれた平城で、
金宝寺の建つ金鉢山にあります。


金宝寺

小国氏は摂津源氏の流れを汲む源頼行の孫の源頼連がルーツとされています。
鎌倉時代に現在の新潟県長岡市小国町の地頭となり小国氏を称したのがはじまりです。
天神山城を拠点に越後での南朝方として活躍した人物で、1335年(建武2年)に蒲原津城を築城しています。
小国氏をはじめ、池氏、河内氏、風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏ら南朝方の拠点として機能していましたが、
1341年(暦応4年)、北朝方によって落城しました。
その後、越後は北朝の支配下となり、蒲原津城は金宝寺ともに廃城となりました。
戦国時代末期になると上杉謙信によって金宝寺が再建されました。



小国氏と言えば、御館の乱で上杉景勝が勝利すると景勝の命により
直江兼続の弟樋口与七が小国重頼の養子になり小国実頼として家督を継いでいます。
その後、姓を大国実頼と変えています。



小国政光ゆかりの城跡として山形県鶴ケ岡市小国に「小国城址」があります。
こちらもぜひ訪れてみたいです。
金宝寺を散策してみたのですが、遺構はまったくみつからず撮影するものも無く
さみしいページなるのかと思ったのですが
直江兼続繋がりでもう少しじっくり調べて訪ね歩きたくなりました。
今後の課題として山形の小国城と共に掘り下げてみたいと思います。


平成30年7月21日登城


食事の覚書



甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

与板陣屋(新潟県)

2018年08月01日 | 陣屋・館
与板陣屋よいたじんや
別名與板陣屋・与板城・與板城
構造陣屋
築城者牧野康成
築城年代1634年(寛永11年)
指定史跡
場所長岡市与板町与板甲 地図

与板城は越後長岡藩主牧野忠成の次男、康成が1万石で与板藩を立藩し、
陣屋を築いたのが始まりです。
牧野氏が信濃国小諸藩に転封になると、
1706年(宝永3年)静岡県掛川市から井伊直矩が入封しました。
1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には新政府軍につき、
与板藩兵と同盟軍との間で激戦が展開された。
与板城は戦火で焼失。大手門と切手門の焼失は免れ、
現在は移築され長岡市の文化財として 残されています。


天地人通り

天地人通りは、旧長岡鉄道(昭和50年に廃止)跡地に、近年整備された遊歩道です。


下丁

昨年よく見た家紋があります。
この地域には井伊藩の武家屋敷がった地域で、武士は武術を鍛錬し、寺子屋で学問も学び
文武両道を修めていました。


與板藩城館跡

与板町ふれあい交流センターにある與板藩城館跡。


冠木門

与板城をイメージして建てられた冠木門。


案内看板
冠木門脇にある木製の案内看板。


与板町ふれあい交流センター

こちらの駐車場をお借りして周囲を散策。
高齢者がスポーツや趣味、学習、児童との交流やふれあいを通して
健康でいきがいを持った生活を具現するたに造られた施設だそうです。
与板城に関してのパンフレットが置いてないかとお邪魔してみたのですが
そのようなものはみつかりませんでしたが、
建物に入って右手の壁には与板城に関して書かれたものがありました。


城館跡碑

与板町ふれあい交流センター敷地内中央に城館跡碑があります。


長丁

「丁」は武士が居住する地域を意味するとされ、
「長丁」は城下の各分野の長(おさ)がこの地に多く住んでいたことから
この名前が付いたという説があります。



本願寺新潟別院

大手門の現存しているということでやって来ました。
与板藩と与板別院との繋がりは深く、1830年(天保元年)藩主である井伊直経が
建立したとされています。


大手門(現存移築)

この大手門はかつて旧大手の通りにあったもので、戊辰戦争の戦火から免れ
この地に移築されました。



現存している移築門はここにある大手門の他に
恩行寺の山門になっているという切手門があります。
(今回切手門の方は行っていないので画像はありません)



門柱を礎石の上に直接建て、門扉は枠の中に縦に厚板を張り、鉄板を使用しています。



与板別院が完工したのが明治3年。その翌年の廃藩置県の年に移築され、
与板別院の第一の門となりました。


兼続、お船ミュージアム

与板別院に隣接してある兼続、お船ミュージアム。
こちらの駐車場を拝借して大手門を見た後、JAFの会員証を提示して割引してもらい
見学しました。
中は撮影禁止のものが多く撮影出来なかったのですが、
ここでも直江状(写し)が見ることが見ることが出来ました。


レンタサイクル

かわいいレンタル自転車があります。
景綱号、よいたん号、謙信号の三種類の自転車が借りられるようです。


直江山城守兼続公

与板衆および領民と共に与板の町づくりの基礎をつくったとして銅像が建立されました。



直江兼続が与板城城主になったのは1581年(天正9年)のことです。
与板城は通称:山城と呼ばれていたことから、兼続といえばヤマシロの愛称?で親しまれています。
その理由がここでわかった(にぶい!)ので、なるほどです。
私も直江兼続が好きですが深追いしていなかったので与板に来て知ることが出来て良かったです。

それにしても「直江状」はいつ見ても、よくこんな長文書き連ねたなあと感心するとともに
家康もこんなにタラタラと文句?を書き連ねられたら腹立つよなあとも思います。^^;
しかし、兼続の頭の良さは現地でも自慢のように言われ、
秀吉がとても欲しがった人物であるというのにはうなずけます。
大河ドラマ「天地人」をまた見たくなりました。


平成30年7月22日登城


甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館