むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

石田屋敷(滋賀県)

2023年02月24日 | その他
石田屋敷いしだやしき
別名石田三成屋敷跡
指定史跡
場所長浜市石田町 滋賀県長浜市石田町 地図

石田三成が生まれ育った屋敷跡地です。
その生家跡に建てられたのが石田会館で、こちらには石田三成の生立ちや足跡などの資料が展示されています。



石田治部少輔三成屋敷跡石碑

県道243号線と県道509号線がぶつかる交差点に石碑と看板があります。


石田会館

8年ほど前に一度訪れているのですが、写真の入ったデータを失くしてしまったため
再び訪れてみたのですが、この日は新型コロナウィルス感染拡大防止のため閉館していました。
調べて来なかったため、資料館が見学出来なかったので周辺を散策することにしました。


石田三成公 史跡案内図

近くに石田三成ゆかりの地がいろいろあります。
今回、山城に登る時間はないのですが、気になるところにちょっと寄ってみようと思います。


案内看板

掘端池の前にある案内看板です。
石田三成出生屋敷跡の説明や周辺のゆかりの地の説明が書かれています。


掘端池(治部池)

屋敷にあった堀の一部と伝わる池があります。


歌碑

昭和16年に五輪塔などが発掘された際に訪れた吉川英治が
詠んだ句が石碑に残されています。


顕彰歌碑

石田三成公の歌?
どんな曲なのか聴いていないのでなんとも言えないのですが
戦に負けたとは思えない、英雄石田三成って感じの歌詞ですね。
私も好きなので良いと思います!👍


関ケ原軍記を読む

東西一決関ケ原に戦う
鬢髪冠を衝き烈士憤る
成敗存亡 君問う勿れ
水藩の先哲 公論あり

脇に添えられている看板にはこのような訳があります。
西郷隆盛が「関ケ原軍記」を読んで評価した句のようです。



石田会館を出て八幡神社の方へやって来ました。


八幡神社(石田神社)

石田氏の氏神とされる神社です。



八幡神社の裏には石田三成公一族と家臣の供養塔があります。
こちらは近年になってから、八幡神社境内に埋められたという石田家の墓石などの塚から
掘り起こし、供養している場所ということで、見学にやって来ました。


歌碑

残紅葉 散り残る紅葉は
ことにいとおしき
秋の名残はこればかりぞと   

石田三成公の自筆の歌が刻まれています。


供養塔

かつては、八幡神社の境内(この地)に盛土がありました。
関ヶ原の合戦の後、徳川方の追及を逃れるために神社を隠れ蓑にして
密かに埋め隠したものと思われます。
そして、「それに触れると腹が痛くなる」という言い伝えがあり、発掘を避けて来ました。
時代も進み、昭和16年に盛土を発掘すると、
打ち壊された墓石や五輪塔の石が出土し、これが石田家の墓であることが確認されました。
現在はこうして石田三成公の供養塔と、一族、家臣の供養塔が祀られています。


歌碑

筑摩江や芦間に燈すかがり火と
ともに消えゆく我身なりけり

これは石田三成公辞世の歌です。


石棺蓋(唐戸橋ばし)

こちらは、古墳の石棺の蓋です。
朽木街道の小川を渡る唐戸橋の一部に使われていたものが、近年になってこの場所に運ばれたものです。
橋がいつしか不要となり、この地で保存されることになりました。


三成庵






最初に訪れた時は、石田会館にて説明を聞きながら展示室を案内していただきました。
この時は石田三成の足跡を見て、昔の人はよくこれだけの距離歩いたなあと驚いた記憶があります。
今回は石田会館が閉まっていたため、見学すること叶わず残念でした。
しかし、前回訪れていない周辺を散策出来たのでそれはそれで良い時間が過ごせました。


平成23年5月3日訪問
令和4年10月2日再訪問






大洲城(愛媛県)

2023年02月21日 |  百名城
大洲城おおずじょう
別名
構造平山城
築城者宇都宮豊房、脇坂安治
築城年代14世紀前半 、1610年(慶長15年)
指定史跡県指定史跡 国重要文化財
場所大洲市大洲903 地図
スタンプ設置場所台所櫓入口(大洲城内入口)
城郭検定出題あり

守護宇都宮氏の時代には大洲は以前大津と呼ばれていたが、
脇坂安治の時代に近せ城郭として改修、地名も大洲と改められた。



暗り門跡

かつてここにあった櫓門は天守に至る最後の城門で、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていたことが暗り門の名の由来である。

サザンカの落ち花で作られたハート型。
もちろん、ここで二人で記念の写真を撮ったのですが恥ずかしいのでお見せできません(^^ゞ
「幸せになれますように。。。」


井戸

井戸丸の井戸は国内でも本丸井戸としては最大級として知られています。
かつては屋根が掛けられていたらしい。



高欄櫓

二階に縁と高欄がある櫓で、籠城の際の監視や月見の宴に使用されていた。


台所櫓

天守と多門櫓で結ばれていた台所櫓。
小天守の役割を担ったとされる。


石落し

外壁の一部を石垣上に張り出して、下に向けた開口部から攻撃できるように造られています。
外部は下見板張りになっています。


大洲城天守雛型

復元された現在の天守の木組模型。


武者走り

広くて明るい造り。


ふるさとからの旅立ち

原画制作 松本零士
松本さんが戦時中に疎開し通った愛媛県大洲市の新谷小学校にある壁画の原画です。
2013年に小学校の新校舎を建設した際に壁画として設置され、
小学校の許可が得られれば壁画も見られるそうです。


上棟札
大洲城天守閣復元工事の無事を祈願した札がある。


上棟祭用具

梁の上には平成15年4月4日の上棟式に使われた上棟祭用具が納められています。


破風の間

つい入ってみたくなる空間。ここからも敵を攻撃します。


鯱瓦

大洲藩お抱えの瓦師「原喜右衛門藤原政之」作と伝わる。





樹齢350年の木曽桧を使用。


本丸上段

本丸は二段に分かれており、二の丸は三段に分かれている。


500円で武将になれる!

職員の方が着つけてくれて、小道具は旗と刀を貸してもらえて本丸で自分のカメラで自由に撮影。(10分間)


野面積みの高石垣



苧綿櫓

元禄の古地図に記載されていることから元禄以前に建てられたと推定する。
現存する櫓は天保14年に再建されたものである。
二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けている。


お殿様公園
大洲城三の丸南隅櫓公園には大洲市埋蔵文化財センターと旧加藤家住宅主屋見ることができます。


三の丸南隅櫓

大洲高校のグラウンドに面した二重櫓。
明和3年に再建された櫓で、大洲城に現存する最古の建物です。


櫓一階



櫓二階

壁の下部は、中に小石や瓦を詰めて厚く造った太鼓壁になっている。
弾丸にも強い造りで蓋付きの狭間から銃撃できる仕組みになっていて、蓋で外からは狭間が見えない隠狭間が備えられている。

グラウンドの隣とあって、グラウンドに面している白壁にはボールの当たった痕があるとか。


旧加藤家住宅主屋

旧大洲藩主の加藤家が大正14年に建築した木造二階建ての住宅。



映画「男はつらいよ」の舞台となり撮影に使用された。



平成27年12月28日登城




日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

今村城(愛知県)

2023年02月15日 | 百名城以外の城
今村城いまむらじょう
別名松原城
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所愛知県瀬戸市共栄通5丁目66 地図

今村城は、1473年(文明5年)に松原下総守廣長が八王子神社の本殿の改修を行っており
城、神社ともそれ以前の造営のものと思われますが、詳しいことは解っていません。
廣長が1482年(文明14年)に桑下城主である永井氏との戦乱で敗れ、廃城となりました。



八王子神社

今村城築城時と創建が一緒と推定されており、
文明五年癸巳年九月初五日大檀那松原下総守広長と書かれた棟札が
みつかっていたようですが、現在その棟札は行方知れずとなっています。


神社境内の配置図

左上を見ると、お城の堀跡とされている池があります。
県道61号線(瀬戸街道)を北限として、八王子神社の池(堀跡) までが
城域であったと推定されています。


連理の椿(夫婦椿)

御神木の藪椿です。
縁結び・夫婦和合・家内安全などの御利益があるようです。



城内は、この池(外堀跡)より正面に見える住宅地の方向になります。


堀址の碑

かつてお堀であったことを示す石碑が立てられています。


外堀跡

現在は池になっていますが、かつての水堀を生かせて造られているもののようです。



こうしてみると幅もあって、水堀が巡っていたことを想像出来ます。


お鶴の井戸

井戸がここにあるということは、この地下から水が湧き出ていて
堀の一部として池にした場所としては納得出来ます。



堀から見上げて、境内が一段高くなっているのがわかります。



八王子神社の裏手から稲荷殿の方へ。



東側には、いろいろな石碑や銅像が並べられています。



朱色の鳥居が沢山並んでいるということは…稲荷社ですね。


稲荷殿




松原下総守広長公が城外の浮地を選んでこの社を勧請造営したと云われているので
八王子神社の境内は城外で、城内というのは宅地化されて現在はまったくわからない状態にある
ということなのですね。


今村城跡見取図という絵図を見たのですが、現代の地形と重ねてみると神社はやはり城の外で
主郭となる城域は、八王子神社より北東の住宅地ということになります。
だいぶ家も密集しているので写真も撮れる状況ではないので、
外堀(池)だけが唯一の城の名残ということで御勘弁を。


令和4年10月30日登城





本佐倉城(千葉県)

2023年02月06日 | 続百名城
本佐倉城もとさくらじょう
別名将門山城
構造平山城
築城者千葉輔胤
築城年代1469年〜1486年(文明年間)
指定史跡国指定史跡
場所印旛郡酒々井町本佐倉 地図
スタンプ設置場所酒々井町中央公民館(8:30~17:00)
京成本線大佐倉駅
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  

本佐倉城は千葉氏代々の居城であった千葉城が内紛により戦場となり荒廃したため
新たに築いた城で豊臣秀吉によって滅ぼされるまで居城とした城です。
城の周囲には酒々井宿、本佐倉宿、鹿島宿、浜宿湊と東西南北に城下町が広がっていました。



酒々井町中央公民館

まずは酒々井町中央公民館で続100名城のスタンプを押しに来ました。



玄関を入るとわかりやすい看板があります。
右奥のトイレの前にあります。


スタンプ設置場所

スタンプ設置場所の右側にはパネルや展示物、パンフレットがあるので
ここで入手してから城跡へ向かいます。


駐車場

入口には標柱がります。
東山馬場に駐車場とトイレがあります。


城跡碑と案内看板

案内看板横にあるボックスの中にパンフレットがあります。
このパンフレットは散策マップになっていてとても便利な逸品ですので
ぜひ、入手してから散策しましょう!


東山馬場(Ⅴ郭)

沢山の矢盾が見えるこの場所はその名の通り馬場で、馬の飼育がされていました。
ここからは建物跡は発見されていません。


Ⅳ郭

右側には堀底道に沿って塀があり、正面に門があったと考えられています。


大堀切

城山と奥ノ山を分ける堀切で、ここから門の跡が見つかっています。
城山と奥ノ山を繋ぐ木橋が架かっていたことも推定されています。


城山通路

この道は主郭への唯一の通路です。
当時は砂によって舗装されていました。


城山虎口

「左折れの坂虎口」と言われる虎口で門を入ると
土塁にぶつかり直角に左へ曲げられる構造になっています。


城山門跡

ここにも主郭への最後の門がありました。
周囲は土塁と塀で囲まれていていました。


城山(Ⅰ郭)

主殿や遠侍があり、城主の生活の間であり来客を迎えたり、
宴を催したりする空間がありました。



台所や倉庫のような建物もあったとみられ、
庭園も築かれていたようです。



城山通路を戻り、途中の分岐から奥ノ山(Ⅱ郭)へ向かいます。


奥ノ山(Ⅱ郭)

妙見宮があり、儀式や儀礼のために使われていた郭です。
5代目と8代目の城主はここで元服しました。


妙見宮跡

この辺りから妙見宮のものと思われる約15m四方の基壇がみつかっています。
妙見様は千葉氏の守り神です。





倉跡(Ⅲ郭)

倉跡は3段で構成されていました。



奥ノ山から見た一番広い倉跡です。
セッテイと隣り合った場所になります。



炭化米がみつかっていて、倉などがあったことから
倉跡の名が付いた郭です。



東山馬場まで戻って、東山虎口の方へやって来ました。
ビューポイントがあるので土塁の上に登ってみたいと思います。


ビューポイント

見張り台にするために盛られた土塁でしょうか。


眺望
晴れていれば筑波山が見えるはずですがあいにくの天気で見えません。
当時は目の前まで湿地帯が広がっていました。


東山虎口

東山虎口は蛇行した道と両側の土塁の上から中を見下ろせて
門も二つ設置された厳重な虎口になっています。



東山虎口を出てセッテイの方へ向かいます。


東光寺ビョウ(Ⅵ郭)

セッテイに向かって右手に開けた場所が東光寺ビョウ(Ⅵ郭)になります。



この先目の前奥は倉跡とセッテイの間にある堀切です。


南奥虎口

ここには木戸や柵列が設置されていて虎口から中の様子が
見えないようになっていました。


セッテイ(Ⅶ郭)

この通路の左手の茂みの奥がセッテイです。
そして、セッテイ山は人質郭とも接待館郭とも考えられています。


竹林の小径
この竹の近くに看板があるのですが、周囲を見渡すと
竹林の中でもこのあたりだけにこの変わった色の竹が生えているのがわかります。
金明竹」という節と節の間に緑と黄色の模様が入った珍しい竹を見ることが出来ます。
きれいな竹ですよね



ざっくり急ぎ足で巡って来ました。
まだまだ周囲の城域跡までは散策出来てないのですが
もらったパンフレットには千葉氏ゆかりの寺院や侍屋敷跡など
見所が沢山あるので時間のある方は散策してみてはいかがでしょうか。


京成本線大佐倉駅
最後にもうひとつの続100名城のスタンプ設置場所である京成本線大佐倉駅へ
スタンプの確認にやって来ました。
こちらは酒々井町中央公民館より長い時間開いているので酒々井町中央公民館で押しそびれて
しまったらこちらに来てみると押せるかもしれません。
※夜間どうなっているかまでは未確認です。


最初に寄った酒々井町中央公民館でもらったパンフレットは
何種類かあって、その中でも散策マップが現地の案内看板と一緒に
照らし合わせながら歩くととてもわかりやすいすぐれものです。
現地を歩く前にぜひ入手しておきたいパンフレットです。
これにより、急ぎ足ながらも効率良く見て回ることが出来ました。



平成31年3月23日登城






続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


高天神城(静岡県)

2023年02月02日 | 続百名城
高天神城たかてんじんじょう
別名土方城
構造山城
築城者不明
築城年代1416年
指定史跡国指定史跡
場所掛川市上土方嶺向3136 地図
スタンプ設置場所大東北公民館(9:00~17:00)
城郭検定出題あり

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退しました。
その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、1574年(天正2年)高天神城は武田勝頼により落城しました。
高天神城奪還のために徳川家康は、横須賀に砦として横須賀城を作り、
さらに高天神城を孤立させるために周辺を囲んで攻撃しようと6つの砦を築きました。
この6つの砦は「高天神六砦」と呼ばれ、
「小笠山砦」・「能ヶ坂砦」・「火ヶ峰砦」・「獅子ヶ鼻砦」・「中村砦」・「三井山砦」がありました。
この砦により、高天神城への補給路が断たれ、高天神城からの脱出も出来なくなりました。
すると兵糧も弾薬も尽き、覚なる上は全ての兵が城から討って出て激戦の末、全員討ち死にとなり高天神城は落城しました。



鳥居

「遠州を制せんとせば、まず高天神を制すべし、
高天神を制せずして、遠州を制すること能わず。」と言われる重要な城であったため、
徳川と武田が争奪戦を繰り広げていました。


搦手門跡

ここは、城の裏口である搦手門があった場所です。
先ほどの大きな鳥居は高天神城内にある神社のもので、
1601年(慶長6年)に横須賀城主大須賀出羽守忠政が造営しました。


案内図

こんな感じの山城です。
整備された遊歩道をどんどん登って行きます。


三日月井戸

三日月井戸の標柱が見えて来ました。



確かに三日月形の水溜まりがあります。
これは城内にある二つの井戸のうちのひとつで、礫層を染み出た水が自然に三日月形に溜り
三日月井戸と呼ばれるようになりました。



尾根に到着しました。
東西に道が分かれていますが、まずは本丸へ行って見ることにします。


的場曲輪跡

弓の練習場であったと推測され、この名が付いたものと思われます。


大河内石窟

この先に洞窟状の牢屋があります。
徳川家臣の大河内源三郎が武田に屈することなく勝頼の命に背き幽閉されました。
8年間もの長きに幽閉されていましたが、徳川家康が城を奪還し幽閉が解かれました。
家康から恩賞を与えられ、労をねぎらってもらいました。
後に長久手の戦いで討死しています。


本丸虎口

本丸の入口は枡形の虎口になっています。


本丸

近年の発掘で倉庫跡と思われる遺構も発見されています。
掘立柱建物跡と礎石建物跡の二種類が本丸北西で発見されました。


元天神社

現在高天神社は西の丸にありますが、最初はこの地にありました。
ここでは台風ごとに修繕をしなくてはならない状況だっため、
8代将軍徳川吉宗の代に西の丸へ遷宮されました。


御前曲輪

1934年(昭和9年)に、地元出身の軍医が私財を投じて
コンクリート製の天守閣(鶴翁閣)を建て、地元のシンボルタワーとしました。
天守閣(鶴翁閣)は落雷で焼失し、土台だけが残っています。
顔出しパネルがあったのでお約束の記念撮影(※お見せできません)はしましたよ😆


眺望



三の丸

小笠原与左衛門清有が大将を務めたことから与左衛門平とも呼ばれています。



三の丸に残る土塁です。


井戸曲輪

井戸曲輪には「かな井戸」があります。
鉄分を多く含む湧き水であることが
「かな井戸」と呼ばれる由来になったという説もあります。
武田信玄が城攻めの際に水脈を切ったために井戸が枯れたという。
次は左手に見える石段を登って西の丸へ。


西の丸

西の丸は岡部丹波守真幸が守備していたことから、
丹波曲輪とも呼ばれています。
こちらが先ほど行った元宮にあった高天神社です。


堀切

西の丸と馬場平の間の見事な堀切です。
西の尾根から攻めて来た敵を落とすここで防御するぞという意気込みが見えます!


馬場平

馬場平に到着しました。
見晴らしが良さそうです!



ここで馬の管理をしていたことから馬場平と呼ばれるようになったと言われています。
もしそれが本当であれば、馬をここまで連れて来るって…馬も人間も大変だったでしょうね。
実際は物見番所があった場所ではないかと推測されています。


眺望

奥の方に海が見えます。
眼下には高天神城を囲むように徳川軍の砦があります。
その動きをここから見ていたことでしょう。


甚五郎抜け道

天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の
武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの
険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去りました。
そして、この道を犬戻り猿戻りと言います。


犬戻り猿戻り(甚五郎抜け道)

この先は、犬や猿でも引き返すという細尾根の難所があります。
登山ルートはまだまだ続いています。
時間が無いので、今回はここで井戸曲輪まで引き返すことにします。



井戸曲輪まで戻って来ました。
今度は、二の丸から北へ行ってみましょう。


二の丸

二の丸は発掘調査によって大きく三段に分かれていたことが判明しています。
建物や柵があったと思われ、焼けた跡のある礎石がみつかったことから
落城後に焼き払われたという伝承が、より現実的な話に近付きました。


袖曲輪



戦死者碑

堀切の間を下ると、正面に石碑があります。
「天正二年戦死者之碑」と刻まれています。


戦死の址

天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、
武田軍の銃弾に当たり、討死しました。
この墓碑は1737年(天文2年)に末裔の本間惣兵衛が建てたものです。





切割

尾根伝いに攻めて来る敵を遮断するための切割(堀切)がされています。
曲輪の上から見ても、下から見ても見応えがあります。
ここでは井楼曲輪に向かって二ヶ所の切割が見られます。


堂の尾曲輪

ここで本間氏の武装が朝日に照らされ、それを目掛けて射撃されました。
弾は首のあたりに当たり、介抱虚しく命を落としました。
亡くなった兄に代わり、弟の丸尾氏が指揮を執っていたのですが
丸尾氏も銃弾を胸に受け、この日のうちに兄弟は亡くなってしまいました。


大東北公民館


続日本100名城のスタンプ設置場所になっています。



靴を脱いで、中に入らせていただきました。


スタンプ設置場所

スタンプを押して、御城印を購入しました。
すると、職員の方が説明をして下さり、二階へと案内してくれました。



武田方に落ちた高天神城を奪い返すため、
徳川家康が山頂から城を監視したと言われる楞厳寺山も見えるというので
この場所を案内してくれました。



掛川城へ行く時など、何度か入口近くを通過するたびに行かなくちゃと思っていて
なかなか時間を取れずにいましたが、ようやく登城出来ました。
山と言ってもしっかり整備されているので思ったより歩きやすかったです。
この日は三日月井戸を少し下ったところで、石壁から蛇が頭を出していて
目線の高さにいたので見つめあってしました。
にらめっこは私の勝ち!で蛇の方が去って行きました。
三日月井戸に住む神様だったのかな。。。

どうする家康では、高天神城の戦いはどう描かれるのか楽しみです。

令和4年3月27日登城