むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

猿ヶ京関所(群馬県)

2020年08月30日 | 関所・宿場
猿ヶ京関所さるがきょうせきしょ
別名
街道名三国街道
設置1631年(寛永8年)
廃止1869年(明治2年)
指定史跡県指定史跡
場所群馬県みなかみ町猿ヶ京温泉  地図

三国街道は、佐渡街道とも呼ばれ五街道に次ぐ重要な街道のひとつです。
江戸と佐渡の連絡路にある越後諸大名の参勤交代や旅人の往来、
諸物資の輸送等、交通が頻繁になったことで関所を設けるようになりました。
最初は真田氏が支配していましたが、改易になると公領支配となり、後に
高野・片野・木村・戸部の四氏が代々関守を務めていました。
明治2年正月、明治政府の関所廃止が発令されると猿ヶ京関所も廃止されました。



駐車場

駐車場は無料で関所資料館の隣と裏にあります。


冠木門

駐車場脇からも出入り出来ますが、まずは正面の冠木門をくぐって入ります。



冠木門の脇に、なにやら紙芝居のようなものがあります。(紙ではありません)
これ、おもしろい!
実際に触って読んでみて下さい。


関所跡碑

冠木門から入ると、関所跡碑と案内看板があります。


案内看板

関所の説明が書いてあります。


やる気稲荷

猿ヶ京温泉では神仏へのお願いごとを「おがんしょかけ」といい、街道沿いの地蔵様にお参りをし、
願いが 成就すると地蔵様や神々にお供えをしてお参りをして「おがんしょばたし」をするという風習があります。
関所資料館で「猿ヶ京お願しょめぐりマップ」をもらい、スタンプラリーを楽しむことができます。
その、「おがんしょ巡り」の4番のやる気稲荷がこちらにあります。


関所資料館

趣のある建物の前にやって来ました。
ちなみに、この建物は番所ではなく番所の奥にあった役宅(現存)です。


旧庭園

いよいよ関所資料館へ…と思いきや、庭園が目についてしまったので
先に見に来てしまいました。
こじんまりしていて、中には樹齢約350年の高野槙が植わってました。


駕籠

関所資料館の縁側に展示されているのは、
身分の高い女性が乗る駕籠かと思ったら、庶民が乗る駕籠だそうです。
庶民も駕籠に乗れたんですね。
確かに飾りのないシンプルな造りです。



庭を散策して、それではいよいよ関所資料館の中に入ってみましょう!


玄関

入館料250円支払って、いざ!


物販

玄関を入ってはじめの部屋が茅葺天井の間です。
ここでのお目当て、猿ヶ京城の御城印がありました!
入ってすぐに飛びついたのですが、「慌てず、見学してから買いましょうね」と
旦那に諭され、帰りに買うことに。


古書

博物館にありそうな古書が、ここでは手に取って読むことが出来ます!
えっ?ほんとに触ってもいいのですか?
と聞き返したのですが持ち出しは出来ないが、ここで読むのはOKとのこと。
これにはびっくりです。



やはり、ここは群馬。
中にはこのような本もあります。


奥の間

展示物の撮影もOKです!


食事(メニュー)

天保11年7月18日に、佐渡金山奉行川路三左衛門赴任のため通行した際の食事。
左の膳が夕食、右の膳が朝食です。


北の間

天保13年の大日本道中細見図は、今で言う地図ですかね。
これがなかなか面白いというか興味深いというか。
私だったらこれだけ大雑把だとあっと言う間に迷子になるだろうなあ。
でも、見れば位置は大体合ってるからうんうんと頷けます。
昔の人はこれで旅するのだから方向音痴はいないのかなあと見入ってしまいました。


脇の間



関所の図

この図を見て気が付いたのですが、冠木門は裏門だったのですね。
表門じゃなかった^^;
※冠木門は実際の位置ではない



では、このまま門を出てまっすぐ猿ヶ京城へと行くとするか。


猿ヶ京は馴染があるのに、夜間に訪れることがほとんどなので
関所も城もあったことに気付いてませんでした。
最も、目的が違うことで来ているのでまったく念頭にありませんでした。
明るい時にあらためて訪れてみて、良い堀あるじゃ~んてびっくりした次第です。
御城印ブームに乗って、メリハリのある堀をぜひ見に来て下さいませ。
熱~い温泉もありますよ

令和2年6月20日訪問


桑名城(三重県)

2020年08月22日 | 百名城以外の城
桑名城くわなじょう
別名東城・扇城・旭城・九華城
構造平城
築城者桑名行綱
築城年代1186年(文治2年)
指定史跡県指定史跡
場所三重県桑名市吉之丸 地図

桑名城は、京と江戸を結ぶ東海道の海路です。
「七里の渡し」に隣接し、港町として栄えていました。
関ヶ原の戦いの翌年に本多忠勝が城主となり桑名城を築きました。
桑名城最後の藩主、松平定敬は会津藩主松平容保の実の弟だったために
戊辰戦争後に、城は新政府軍により徹底的に破壊されました。



吉之丸駐車場

三の丸公園隣にある無料駐車場にやって来ました。


本多忠勝像

九華公園駐車場の西側にある本多忠勝像です。
北大手門前にどっしりと座っているこの本多忠勝像は、
立坂神社所蔵の画像がモデルだそうです。


案内看板

西側に回り、大手にやってきました。
水堀の前には大きな案内看板があり、縄張絵図がとても見やすく掲げられています。



本来は西側には北大手門と南大手門があり、中央にあるこの橋は無かった橋です。
今は本丸まで一直線に延びる道があり、そこに橋が架けられています。


外堀

船が浮かべられるほどの十分な広さがありますね。


内堀

今年は特にコロナ禍で中止となってしまったようですが、春になり
お花見シーズンには、いくつもの橋をくぐりながら遊覧出来る
「桑名城お堀めぐり」というのも行われているようです。


二の丸

かつては廊下橋が架けられていた場所に公園の景観に似合う
赤い橋が架けられ、橋を渡った先が二の丸になります。
二之丸は、松平定勝就封 後に、増築されています。(三の丸より後?)


神戸櫓跡

現在築山になっているこの地には、神戸城から移築した天守が建ち
江戸初期に本多忠勝が改修した際には隅櫓として利用しました。


辰巳櫓跡

本丸東隅にやって来ました。
ちなみに、桑名城には元禄大火後に再建された時点で
51の櫓があったと記録されています。



新政府軍に壊滅的に破壊された櫓の中で、辰巳櫓がシンボル的な櫓のあった場所として
大砲が置いてあるということは、やはり戊辰戦争を想像させられ
無言の主張のようにも見えます。


本丸

元亀以前に始めて城を築いたのは伊藤武左衛門で、当時は東城と称していました。
文禄年間になると、一柳右近が神戸城の天守閣を移して東城から桑名城と称することになりました。
そして、関ヶ原の戦いの後本多忠勝が桑名の町割り整備を行い、城下町を形成しました。


天守台

四重六階の天守があったという天守台です。
しかし、1701年(元禄14年)松平定重の時代に大火によって焼失。
その後は天守は再建されることがなく、辰巳櫓が天守の代わりとなりました。


案内看板

天守台まえにある看板です。
この案内看板の他に、「石垣崩壊の危険があるため立ち入りを禁止しています」という看板が!
と言う訳で天守台には立ち入れず、ここから眺めるだけとなりました。


戊辰殉難招魂碑

戊辰戦争で戦死した桑名藩士を弔うために
明治20年に建てられた戊辰殉難招魂碑があります。


鎮国守国神社

桑名藩の藩祖といわれる松平定綱と、
寛政の改革で知られる松平定信が祀られている神社です。


三の丸

本丸の西側が三の丸です。
三の丸は本多忠勝の時代に城普請によって形成され、
この時に堀や城下町も創っています。


三の丸外堀

石垣も残り、沢山の船やボートが停泊しています。
ここでは「海道の名城」と称賛された城の面影を覗くことが出来ます。


七里の渡し

江戸と京都を結ぶ東海道が制定されると、桑名宿と熱田の宮宿の間は東海道唯一の海路として結ばれました。
熱田・宮の渡しから桑名まで海上で七里あったことから「七里の渡し」と呼ばれました。


蟠龍櫓

現代(2003年)になって建てられた揖斐川治水のための水門統合管理所です。
景観を配慮して、外観は蟠龍櫓を模して建てられました。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、
海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。


水門統合管理所

櫓の中は無料開放されていて中に入ることが出来ます。
一階は水門管理室、二階は展望室になっていて、資料も展示しています。
パンフレットを頂いて、係員さんとしばしお話をさせていただきました。


勢州桑名城中之絵図

蟠龍櫓は、この絵図に描かれたものを参考にして造られています。
と、言いつつ肝心な部分が光の反射で見えないですね


蟠龍

「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。
これと同じものが揖斐川の方を向いて屋根に載っています。
蟠龍櫓についても、航海の守護神として屋根に蟠龍据えられたものと考えられています。



蟠龍はじっと揖斐川の方を向いて見守っています。
展望台からは名古屋市街、三河湾や知多半島、
木曽御嶽山や中央アルプスまで見渡せると伺いました。
故郷のある方角を見渡してみたかったのですが、残念ながら天気が悪く
長野方面は霞んで見えませんでした。



右奥に見える鳥居は、伊勢国東の玄関口ということで、伊勢神宮の一の鳥居があります。
日没から22時までライトアップされていて、揖斐川沿いの夜景が楽しめるようです。


水門

現代の蟠龍はこの水門の管理、監視をしています。
このところ全国各地で川が氾濫しているので心配ですが、
ここは蟠龍がいるので心強いですね。



本多忠勝の孫である本多忠刻が家康の孫娘である千姫と結婚したことで、
千姫は姫路城に移封になるまで、桑名城内に住んでいたこともありす。
桑名はとても注目される出来事が多いのに、扱いが小さいと思ったら…
やはり戊辰戦争の影響が大きいのですね。


ブログを書いていて知ったのですが、三重県三重郡朝日町小向にある、名刹・浄泉坊の書院は
桑名城の三の丸御殿を移築したものと伝わるそうで、いつか寄れる機会があったら
ぜひ観てみたいものです。
それと、桑名には伊藤武左衛門の東城(桑名城)と樋口内蔵の西城、
そして矢部右馬允の三崎城の「桑名三城」と呼ばれる城があったというので
これは、三点セットで巡るべきでしたね。
これも次の課題です^^;


令和2年7月25日登城


9月3日発売!攻城団出版本です


今回の参考本


万木城(千葉県)

2020年08月18日 | 百名城以外の城
万木城まんぎじょう
別名万喜城・満喜城・富山城・万騎城
構造山城
築城者土岐氏
築城年代天文年間
指定史跡
場所千葉県いすみ市万木834 地図

万木城は、1412年(応永19年)土岐時政が摂津国富山城からこの地に移り
築城したと伝わりますが、定かではありません。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅亡すると
徳川家康の重臣である本多忠勝が入城しましたが、忠勝の大多喜城入城に伴い
万木城は廃城となりました。



城址公園駐車場

麓の区民センター前に広い城址公園の駐車場があります。
大手口なのでここから歩いても良いのですが、やはりできるだけ近くまで車で行きたいので
私はまだ先まで車で行きたいと思います。


万木城址公園入口

この入口にある石碑も気になるところですが、とりあえず先を急ぎます。


石碑

こんな石碑もあるんですけど…パッと見では何の碑かわかりません。



この先がすでに城域となるので、郭群や切岸など
数軒ある民家の間からチラチラと見えるのでめっちゃ目が泳ぎますが
道は狭いのでわき見運転注意!です。


駐車場とトイレ

大手道を進んで行くと、トイレと駐車場があります。
なぜか、車がよく来る(先客も2台)ので人気のトイレ?です。
みなさんここで引き返しちゃいます


信号機

トイレと駐車場のある所から先は道が細く、すれ違いが出来ません。
そのために信号機が設置されています。
運転に自信の無い方は、ここで車を置いて歩いて行くのをお勧めします。


駐車場

三の丸にある駐車場。
車で乗り入れられるのはここまでです。


三の郭

遠くから見えていた模擬天守?の真下まで来ました。


信号機

大手虎口に設置された信号機。
帰りもこの信号機に従って帰ります。
ちなみに、この信号のある区間に民家が一軒ありますのでご注意を。



この先道なりに進むと、一の郭下の二の郭に出ます。
途中、今でも水が湧いているという井戸があります。



左手に階段が見えて来ました。
この階段を登ると二の郭に出るのですが、
ここは逸る気持ちを抑えて、まずは真直ぐ進みましょう!
と言うのも、この先右側に井戸があるからです。
私はここで階段を登ってしまい、その井戸を見逃して来てしまいました。


二の郭

広い郭です。
周辺は土塁で囲まれています。
アスファルトからの熱気がたまらなく暑いです


空堀跡

二の郭から先ほどの道に繋がる空堀のあった場所です。
正面のコーナーの先に井戸があります。
現在空堀跡は、公園化していてまったくわかりません。


マス台

ここは、物見を兼ねた天守台のようなもので
人工的に高台を盛り上げてあります。



蜂の羽音がする中、天守型の展望台へと登って行きます。


城山公園の石碑

登りきったところに城山公園の石碑があります。
とても狭く、まさに物見のようなスペースです。
かつてはここに城の鎮守である妙見を祀っていた所であるとも言われています。



鉄筋コンクリート製の展望台です。


眺望

眼下には天然の堀の役割をする夷隅川が見えます。
敵が侵入してくる様子を見張る役割をしていました。
特に大手道がよく見える場所で、これらの進入路に備えて
造られたものと考えられています。



三の郭(駐車場)が良く見えます。
右手に大手道があるのでここで敵を観察していたものと思われます。
ちなみに、条件が良ければ富士山も望めるようです。



では降りて、また周辺を散策したいと思います。


搦手虎口

ここから自然観察路として散策路が延びているはずなのですが、
立ち入り禁止のロープが張られています。


搦手道

この先にも郭群があるので楽しみにしていたのですが…。
立ち入り禁止の場所に踏み入るわけにはいかないので断念です。
やはり昨年の台風の影響なのでしょうか。


一の郭(倉ノ台)

一の郭の虎口が見えているのに…、立ち入り禁止のロープの向こうなのです。
南側には見晴台もあり、こちらは搦め手からの進入路を見張っていたものと思われます。
また、ここからは焼米が出土していることから、米倉があったと考えられています。


倉ノ台

この上が礎石や柱穴などが確認されている「倉ノ台」と呼ばれる一の郭なのですが…
登れないのが無念です。
早く立ち入り禁止が解除されることを祈ります。



一の郭より広く、実際の中心的な場所はこちら側だったと思われます。


プレイコーナー

こちらの郭にはトイレと遊具があります。
三の郭側になるのですが、三の郭では城内の役所や重臣の屋敷跡が見つかっています。



模擬天守のあるマス台の東側の小道です。
この小道を抜けて三の郭の駐車場へ戻ります。



大手虎口に戻って来ました。
虎口付近に階段が見えます。
なにやら郭がありそうなので覗いてみました。



一段高い郭には、社が見えます。


稲荷社

主要郭を見守るように大手入口の郭に鎮座しています。


遠望

一の郭と周囲の郭群も見たかった~
遊歩道を歩くと見られるらしいけど、荒れてしまっているんでしょうか。


以前2回ほどこの付近を通過した際、山の上に見えるお城風の建物が見えて以来、
これは一度行ってみなくては!と思っていたので、今回他の用事で近くまで
来たついでに寄ってもらうことにしました。
それにしてもこのところ死にそうな暑さがつづき、ずっと涼しい部屋に籠城していたので
注意はしていたものの、身体が暑さに慣れておらずこの後熱中症になってしまいました。
まだまだ暑い日がづづくので皆さまもご注意を。。。


令和2年8月15日登城


今回の参考本




攻城団が執筆した御城印ガイドブックが発売になります!(予約受付中)

鳥羽城(三重県)

2020年08月14日 | 百名城以外の城
鳥羽城とばじょう
別名鳥羽の浮城・錦城・二色城
構造海城
築城者九鬼嘉隆
築城年代1594年(文禄3年)
指定史跡県指定史跡
場所三重県鳥羽市鳥羽3-4 地図
御城印鳥羽市観光協会
城郭検定出題あり

鳥羽城は、1594年(文禄3年)九鬼嘉隆が築城し、
以後九鬼水軍の本拠地となりました。
関ヶ原の戦いでは、息子の守隆は東軍につき、嘉隆は西軍についたため、
守隆が父の助命を願い出て許されたたが、
家臣の間違った命令が原因で嘉隆は答志島で自害しました。
その後たびたび城主が交代しましたが最後は稲垣昭賢が入国し、
明治維新を迎えることとなりました。


三の丸

麓にある三の丸は、城の玄関口として整備されました。



岐阜県の岩村城を思い出させる段状の石垣。
苗木城主の遠山氏の影響か?などと勝手な想像をしてみたりして



鳥羽水族館から見えるこの部分が、とても気になるんですよね。
ここを通りかかったら絶対目に付きます!


パンフレット

あづまやの裏にある案内板の列の中央に扉があります。
扉を開けるとパンフレットが置いてあります。


二の丸と大手水門

線路と国道42号線の辺りに二の丸御殿が建っていました。
奥の鳥羽水族館の建つ場所には大手水門がありました。



途中運転を誤ったら三の丸に落ちてしまいそうな細い道を抜けて
旧鳥羽小学校へ。


駐車場

本丸南西側の下に駐車場があります。
道中すれ違いは出来ませんが、駐車場には15台ほど駐車出来ます。


旧鳥羽小学校

旧鳥羽小学校はこれでも、国の有形文化遺産です。
建てた当時は鉄筋コンクリート造りの校舎が珍しかったそうです。



国の有形文化遺産とはいうものの、おばけが出そうな荒れようです
娘はお城よりも、こちらの廃墟の方が興味津津


本丸南の石垣

草で見えないのですが、石垣に水抜き穴が開いているはず…。
(一応穴は確認出来ました)



いざ、本丸へ!


本丸

かつて望楼型の三重天守と本丸御殿がありました。
後に小学校のグラウンドとして使われていたそうですが、
こんな眺めの良いグラウンドとは羨ましい!
体育の苦手な私でも、ここなら何か運動したくなります


本丸御殿跡

本丸御殿は上段の間に床、棚、付書院、帳台構えの格式の高い
書院があったことが判明しています。


大井戸跡

大井戸は「雄井戸」と呼ばれ、本丸御殿に伴う大きな井戸でした。
岩盤を刳り抜いた素堀の井戸で、直径約2.7m、深さは当初45mあったとされていますが、
約17mまで埋められていました。
近年では小学校のグラウンド建設のため蓋がされ、現在も発掘調査後は蓋をして埋め戻されています。
井戸には龍が住み、相島へ通じているという言い伝えもあります。


眺望

奥に見える島が、九鬼嘉隆の胴塚、首塚がある答志島です。
関ヶ原の戦いで西軍に属した嘉隆は西軍敗北で答志島へ逃れ洞泉庵で切腹しました。



鳥羽城は九鬼水軍が有名ですが、城主の交代の中に苗木城主遠山氏や松本城主松平氏、
古河城主土居氏など、海無し県から多く入っていることに驚きました。
水軍を使うのは得意ではなさそうで、海城向きではないのでは?と思ったりもします。
しかし、それが徳川の狙いであまり脅威にならない人選をしたのかなあとも感じました。


本丸西の石垣

鳥羽城の代表的な遺構の石垣です。
鳥羽城の石垣の石材は、カンラン岩と千枚岩を使用しており、
近くの海岸で採取したものと考えられています。


鳥羽城詩碑

鷹羽龍年の鳥羽城詩碑があります。



三の丸、二の丸を見下ろす。
造船場が建設されたため、残念ながら遺構は残っていません。






右へ下ると家老屋敷跡へ。左の階段を下ると先ほどの三の丸広場へ。
そしてここは城山公園です。
この曲輪にはかつて、太鼓櫓がありました。


城山公園

公園として、トイレやモニュメント、ベンチや遊具が設置されています。
今の時期、ちょっと草木が元気なので眺望の妨げになってしまいますが、
ここからも鳥羽湾がきれいに見えます。



フォトスポットかな。
若者のデートスポット
鳥羽に来たぞというわかりやすい記念写真が撮れますよ



更に一段下がった曲輪があります。



大手門が海に向って水門になっているという九鬼水軍の城の特徴です。
ちなみに海に面する水門は全部で4つありました。
また、この真下の現在駐車場になっている場所は馬場でした。



これを下ると、妙慶川方面に出ます。
水堀はほとんど埋め立てられてしまいましたが、
ここだけ残っています。



下りきった所です。
津波の際は、ここを登って非難する「津波避難場所」看板も設置されています。
というのも、昔からたびたび大きな災害に見舞われていて、
1707年(宝永4年)、1854年(嘉永7年)の南海トラフ地震で
地震と津波の被害を受けているため、高台となる鳥羽城跡に非難するよう
城下では「津波避難場所」看板が見受けられます。


相橋口門

武士が武家屋敷から鳥羽城へ上がる祭に使用した橋です。
ここを境に志摩国と伊勢国の国境としていました。
鳥羽城側には相橋口門があり、志摩国と伊勢国が出会う橋ということで
「相橋」と呼ばれるようになりました。


水堀

妙慶川は鳥羽城の堀の役割を果たしていました。
ほとんどが埋め立てられてしまっているので、ここが
唯一の堀の遺構が見られる場所です。


石垣

相橋下の石積みは、江戸時代から残る堀の一部が残されたものです。
石垣は、この橋の下だけ残っています。


家老屋敷跡

家老屋敷跡には野面積みの石垣が残っています。



石垣の奥に続く細道。
その先には…

大山衹神社

大山衹神社があります。
もちろん、他にちゃんと鳥居のある参道が相橋側にあります。



左は家老屋敷跡、右は市民文化会館の駐車場があります。



家老屋敷跡には、旧鳥羽幼稚園がありました。





鳥羽水族館には子供を連れて2回来ているのですが、「鳥羽城あるんだよね~」と言って
水族館から眺めて、国道と線路を走って渡って見に行って来れないかなあ~なんて
思って水族館側から写真撮ったりもしたのですが、やっぱりちゃんと登城したいと
ずっと思っていたので、やっと念願叶いました。


令和2年7月24日登城


今回の参考本



津城(三重県)

2020年08月13日 | 続百名城
津城つじょう
別名安濃津城
構造平城
築城者細野藤敦
築城年代1558年~1570年(永禄年間)
指定史跡県指定史跡
場所津市丸之内 地図
スタンプ設置場所高山神社社務所(9:00~16:00)
御城印高山神社社務所
城郭検定出題あり

織田信包(信長の弟)が1580年(天正8年)に津城を創築。
その後、藤堂高虎公が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、
1611年(慶長16年)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し
その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。
本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れ 低湿地ながら防御には堅固な城でした。



駐車場

お城東駐車場へやって来ました。
以前登城した際も、ここに駐車して散策した覚えがあります。


津まんなかガイド詰所

料金所となりに津まんなかガイド詰所があります。
しかし、詰所は新型コロナウィルスの対策でお休みしているとのことです。
パンフレットと続100名城のスタンプは高山神社社務所にあると教えて頂きました。


QRコード

ガイドさんが不在ということでQRコードを見てみると…
スマホが代わりにガイドしてくれるみたいです。
これはなかなか良い仕組みです。
登城前にぜひ、QRコード読み取って行ってみて下さい!



駐車場から石垣が見えていましたが、
早速模擬三重隅櫓がお出迎えです!


東の虎口

ここは、本丸と東の丸を繋ぐ虎口で、
外門の東黒門と内門の東鉄門の櫓門があり、枡形虎口になっていました。
それぞれの門内に番所を設けて通行人の監視をしていました。



まっすぐ本丸に入って右側に、三重隅櫓に登る階段があります。


模擬三重隅櫓

樹が邪魔してますが模擬三重隅櫓の入口正面です。
そもそもここには三重櫓は無く、黒鉄門の多門櫓があった場所です。



戌亥三重櫓、丑寅三重櫓があったことから
模擬三重櫓を造ったと思うのですが、この向きから見た破風は
三重を強調した破風の迫力あるデザインです。



多門櫓になっていた石垣の上を歩いて丑寅三重櫓跡へ。


丑寅三重櫓跡

本来の三重櫓はこの丑寅隅の石垣上に建てられていました。
先ほどの模擬三重櫓よりシンプルで、外壁下端に1列の海鼠壁が特徴の
東向きにの多門櫓と丑寅三重櫓にはありました。



そして、丑寅三重櫓跡の角から見下ろしてみると…
高さもありますが、この角の揃った石垣の積み方を見て欲しいです。
高虎らしい、反りの無い、直線的な石垣です。


北多門櫓跡

丑寅三重櫓と戌亥三重櫓を結ぶ、北側の多門櫓が載っていた場所です。
以前訪れた時は、もっと石垣が見えていて、ここからの
石垣と水堀がとても印象に残っていたのですが、今回は草だらけの光景です。



以前は戌亥三重櫓跡まで歩いたような気がしますが…。
雨の中、この草むらを突き進むのはちょっと無理かな


本丸

本丸の中心部に降りて来ました。
やはり一番目に付くのは藤堂高虎の騎馬像でしょう!


藤堂高虎像

この銅像は記憶に残っていました
やっぱり凛々しいですね。


高虎遺訓

「可為士者常之覚悟之事
一、寝屋をでるより
其日を死番と可心得
かやうに覚悟極るゆへに
物に動する事なし是可為本意」

なんとも緊張感の伝わる碑です。


戌亥櫓跡

本丸から西の丸へと渡る土橋から戌亥櫓があった高石垣を見ています。
水際に見える幅1m程の犬走は、一度堀を埋められたために近世になってから
修復されたものです。


日本庭園

現在日本庭園となっていますが、かつては番所や倉庫が置かれた
馬出し状の小曲輪になっていました。


入徳門

藩校、有造館の講堂の正門で赤門と呼ばれていました。
有造館廃校後は小学校や中学校、女学校や幼稚園の門となり、
昭和46年、現在の場所に移築され保存されています。


西の丸虎口

西鉄門と西の丸二階門で構成された枡形虎口が設けられていました。


玉櫓台

正面の石垣の上には玉櫓がありました。




ここには木の橋が架かっていました。



南側の内堀です。
かつては幅100mもの広大な水堀になっていたのですが
埋め立てられて残されたのはこれだけの幅です。


城山稲荷大明社

赤い鳥居がとても目立ちます。
商売繁盛!どうかコロナに負けないよう宜しくお願い致します。。。


高山神社

藤堂高虎を祭神とし、現在の津偕楽公園に建立されましたが、
明治34年に津城に移されました。
まずはこちらでお参りをして、社務所へ。


社務所

まだ、午前7時半頃でしたが、社務所にいらした方が対応して下さり
続100名城のスタンプを押して、御城印とお守りを購入しました。
時間外でしたが嫌な顔ひとつせずに、親切に対応して頂き本当に感謝です。


スタンプ設置場所

社務所の窓口に出して頂いてありました。



天守台南側を通ってお城児童公園へ。
角は三木積みの野面積みの石垣で、折れが綺麗に見える場所です。


埋門

南多門櫓石垣にある埋門跡は、高虎の改修より前に造られた
「局丸」へ通じる門として南側の犬走に繋がっていましたが、
局丸は高虎によって取り除かれたと伝わります。


お城児童公園

この場所もかつては水堀だった場所です。
かなり幅の広い水堀が本丸を巡っていたようです。


石垣の切れ目

公園のパンダと猿のゴミ箱の裏手の石垣に
古くからの城壁と新しく積まれた石垣の切れ目が見える場所があります。


天守台

先ほどの埋門から本丸に入ると、左手に天守台が見えます。
織田信包が五層の天守を築いたのですが、関ヶ原の戦いで被害を受け、
それ以降、再建されることはありませんでした。



手前にスロープか階段か?天守台に登る場所はここ?
それとも当時は多門櫓を頼りに天守台から離れた場所から天守を目指したのか?
天守台に登る入口がみつかりません。(登っちゃダメなのかも)


月見櫓跡

東側の多門櫓の南隅にあった月見櫓跡です。



本丸内の堀のようなデザインの場所(トイレ付近)は、水がグリーンになってます。
別の意味で綺麗です^^;


東の丸

内堀の中に島になっていた東の丸ですが
堀を埋め立てられたため、現在は陸続きでその形も分かりません。


内堀

北西の内堀です。
これだけでも十分そうな水堀ですが、かつてはもっと広かったのですね。


津で一泊し、ホテルのチェックアウト前に朝食を食べて朝さんぽにやって来ました。
一度訪れているので記憶を辿りながら歩いたのですが、いかに以前は何も考えずに
歩いていたことか…。
断片的な記憶は、やはり曖昧で再登城というよりも初登城と変わらない
目線で歩きまわりました。


平成25年5月3日登城
令和2年7月24日再登城


今回の参考本




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

伊勢亀山城(三重県)

2020年08月11日 | 百名城以外の城
伊勢亀山城いせかめやまじょう
別名近世亀山城・亀山新城・粉蝶城・姫垣城
構造平山城
築城者岡本宗憲
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡県指定史跡
場所亀山市本丸町 地図
城郭検定出題あり

亀山城は、若山城の東に岡本宗憲が新たに築城した戦国期から続いた城です。
江戸時代初頭には上洛する将軍などの休憩所として
本丸御殿が使用されており、寛永11年には徳川家光の上洛前に
大規模な整備が行われています。
その後、明治6年の廃城令によって城内のほとんどの建物は取り壊され、
堀も埋め立てられてしまいました。
現在は石垣の一部と多門櫓を残すのみとなっています。



駐車場

以前訪れた時は本丸の多門櫓前に停められたのですが、そこは駐車出来る数が少ないので
今回は駐車場として案内されている西出丸の駐車場へやって来ました。


西出丸跡

本多氏が城主を務める寛永14年の改修時に築かれた曲輪です。
西端には二重櫓の関見櫓がありました。
また、曲輪内には米蔵があり近世前半には幕府の兵糧米が備蓄されていました。


土塁

駐車場北側や、テニスコートには今でも土塁が残っています。



この先が本丸になります。
では、本丸へ行ってみましょう!


本丸

現在遊具が置かれ、子供たちが遊ぶ公園になっている本丸御殿跡です。
将軍上洛御殿が設けられていましたが、御殿は1712年(正徳2年)に
取り壊され、その後再建されることなく空き地になっていました。
ところで…以前訪れた時は飛行機があったのがすごく印象に残っていたのですが…?
子供が小さかったのでこの公園で遊ばせた気がするのですが無くなっちゃったのかなあ。


亀山神社

1908年(明治41年)に亀山神社に合祀された古くより亀山城の鎮守であった三祇神社は、
かつて亀山古城(若山城)の本丸跡に祀られていました。


大久保神宮家棟門

市指定有形文化財建造物に指定されている棟門は、
南崎権現社の神官であった大久保家の門です。
亀山西小学校の裏門としても使用され、その後この地に移築されました。


亀山演武場

十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、
江戸の伊庭道場の長所を取り入れた道場が石川氏の隠居御殿近くに築かれたのが始まりです。
亀山演武場は、増築や移設を重ね、大正時代には現在のような間取りとなりました。
しかし、昭和60年に火災で焼失。
3年後に再建され現在も心形刀流保存赤心会の稽古が続けられています。


土塀

亀山演武場の裏にある復原された土塀には狭間が付いています。
しかしながら、古写真など江戸末期の写真からは土塀には狭間はなかったものと
みられているので他の復原土塀には狭間はありません。


土居

石垣と土居の繋ぎ目にあるこの部分は、平成19年に起きた地震で石垣が崩れたため
復旧の際調査で、石垣ではなかったことが判明し、そのまま石垣ではなく版築の土居に戻されました。
昭和46年に大雨で土居が崩れたことで石垣として造り替えられていたものでした。
石が足りなかったのかなあ?と思わせるような中途半端に見える土居ですが、これが本来の姿なのですね。


明治天皇行在所

明治13年、三重県下御巡幸の折、伊藤市次郎宅を明治天皇の行在所とされ、
市指定文化財として建物の一部を現在まで保存されて来ました。
井尻町や亀山小学校の敷地内、亀山城多門櫓北側などに転々と移築されながら
現在は、この地に落ち着き保存されています。


与助井戸

本丸の井戸です。
かつてここには民家である「与助鍛冶」がありましたが、城外へ移されたことから
与助井戸と呼ばれています。
また、城外への抜け穴伝説も残りますが定かではありません。


楠門跡

二之丸から本丸へ入る虎口となる門があった場所です。


多門櫓

高石垣の上には江戸時代後期から残る多門櫓が復原されています。
復原された当初は外観に違いがあり、平成の大修理で建築当初の姿に復原しています。



御朱印販売の案内看板です。
御城印も集め始めたので、後ほど買いに行ってみようと思います。



以前はこの多門櫓を見ることが目的で訪れました。
まったく変わりない光景です。



多門櫓の内部です。
明治以降、旧藩士により落札され失業士族の授産場に使用され
その後は会議室や展示室として幾度かの改造を受けています。



本来は土間だったそうですが、遺構保護のために床板を設けているとのこと。


火災による焼失部分

平成24年12月14日に火災が発生しました。
この火災が、何者かの放火だというから腹立たしい


根継補修

被害は独立柱の一部で、全焼しなかったのが不幸中の幸いでした。
この痛々しい姿…なぜ放火をしたのか



建築部材から見つかった「惣武具」や「武器蔵」といった文字から、当時は武具庫として
使用されていたと考えられているようです。
私もこの柱を見た時には、槍や鉄砲を掛ける柱の跡では?と思って撮影していました。


出入口

窓の無い北や西側には全部で3ヶ所の出入口を設けています。


高石垣

亀山城では最大の高さ(13.5m)を誇る高石垣です。
野面積みで転用石も使用されているとは…よ~く見て来るんだったなあ。


城址碑

二の丸から本丸への入口に建てられた城址碑です。
この周囲にはその他にも石碑があります。
やはり本丸の玄関口だけあって構えられた風景ですね。


二之丸

現在小学校になっている二之丸には、かつて二之丸御殿がありました。
本丸御殿は、将軍が上洛する際に宿泊所とされたので、城主の居館としては
二の丸御殿を利用されたとされています。


太鼓櫓跡

ここは城下に時を告げる太鼓が置かれていた三階櫓があった場所です。
姫垣外苑の石碑がありますが、亀山城の別名でもある「粉蝶城」・「姫垣城」と呼ばれる由縁の
低くて白い土塀が特徴だったことを示しています。
ちなみに「粉蝶」とはモンシロチョウのことだそうです。


太鼓門跡

太鼓櫓のあった所から道路を挟んで太鼓門の標柱があります。


二之丸帯曲輪土塀

二の丸北側から見ています。
二の丸の外側にあった出丸で、こちらも江戸時代末期の状態に復原されています。


本丸北外堀跡

池になっているこの窪地は、外堀の跡です。
山内一豊は、ここ亀山城攻めでの武功が認められたことで大名への道が開けました。
一豊の見た亀山城の光景のひとつにも登場する池がこの池です。


大手門跡

大手門があったという交差点にやって来ました。
現在は見ての通り何も残っていません。
この交差点付近に大手門があり、正面の見えている辺りは東三の丸になります。


案内看板

看板の古写真を見ると、櫓門と脇櫓から構成され石垣もあったようで
屋根にも鯱が載っていた様子が見えます。
東海道に面していただけあって、さぞかし立派だったんだろうなあ。
明治初期に破却されしまい、残っていないのが残念です。


高札場跡

交差点の南側には高札場であったことを示す看板もありました。
大手門の前に高札場が置かれていたのですね。


江ヶ室家中屋敷

亀山城門前は今やおまわりさんが守っています!
というわけで大手門のあった交差点には交番があります。
その奥はかつて家中屋敷が建ち並ぶ場所でした。


関宿

東海道五十三次の四十七番目の宿場町「関宿」です。
江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上も現存し、
国の重要伝統的建造物群保存地区や日本の道百選に選定されていて
時間があったらゆっくり歩き回りたいところです。


JR関駅

亀山城から5km以上離れているのですが、
御城印が欲しかったのでJR関駅へやって来ました。



奥に観光協会が見えますが、御城印を販売しているのは
こちらの駅構内の売店です。
無事買うことが出来ました!


ところで、三河国の挙母城から三宅氏が入封した後の話で
康盛の勘違いで天守の解体をしてしまったというなんともおかしな話が伝わります。
本当のところはどうなのか定かではないのですが、丹波亀山城の天守解体を命じたはずが
勘違いで伊勢亀山城の天守を解体、間違いを知った時は復旧に及ばずと再建されることなかったという。
一万石の大名に天守は不釣り合いなので行き違いを理由に壊させたのではないかとも…。
こんなことがあるのか

写真のデータを失くしてしまって以来、ずっとモヤモヤしていたのが
やっとすっきりしました。
やっぱり記憶と違っていたこともあったりして、こうしてブログとして記録しておく
ことでいつでも思い出を引き出せるっていいなあと実感しました。


平成25年5月4日登城
令和2年7月24日再登城


今回の参考本


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス




伊勢長島城(三重県)

2020年08月09日 | 百名城以外の城
伊勢長島城いせながしまじょう
別名長島城・松箇島城
構造平城
築城者藤原道家
築城年代 1245年(寛元3年)
指定史跡
場所三重県桑名市長島町西外面 地図
城郭検定 出題あり

長島城は、文明年間(一四六九~八七)に伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられる
伊藤重晴が長島を治め築城したと言われています。
長島一向一揆の時には織田信長の攻撃を受け、天正二年(一五七四)に包囲され敗れました。



長島城跡は現在長島中部小学校と中学校の敷地になっています。


案内看板

案内看板のある道路向い側に駐車場もあります。



長島城は明治5年の廃城後、伊勢暴動で焼失し、堀も徐々に埋め立てられました。
多くの建物が焼失した中、残った奥書院の居間は深行寺本堂に移築され、
大手門は蓮生寺表門となり現存しています。


長島の大松

そして、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上のクロマツがこの地に残っています。


ちょい寄りだったので現存建物はおろか、周辺地形の確認すらしてこなかったので
ほぼ行っただけのようなものになってしまいました。
縄張図と現在の地図を見比べると、当時の面影も見えて来るので
それを基にもう一度散策してみたいなあと心残りが…。
またの機会に。。。


令和2年7月25日登城





上津部田城(三重県)

2020年08月08日 | 百名城以外の城
上津部田城こうづべたじょう
別名御城屋敷
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所三重県津市一身田上津部田 地図

上津部田城は、いつ、誰が築城したのか分かっていません。
この付近には御城屋敷が三ヶ所あったとされ、そのうちのひとつでは
ないかと推定されています。
三ヶ所ある御城屋敷のうち、判明しているのがこの地から東に500mほど
離れた場所にある峯治城です。


駐車場

上津部田城へのアクセスはいくつか選択肢があるのですが、道路の下から攻めるか
上から攻めるかというところで、私は上から攻めてみようと、
三重県総合文化センターのA-1の駐車場へやって来ました。




駐車場から堀切を覗き込んでいます。
大きな堀を挟んで、茂みの側が主郭になります。



三重県総合文化センターの裏を遊歩道の方(三の郭)へ抜けて行きます。


遊歩道

遊歩道が通るこの辺りが三の郭になります。




舗装が無くなると主郭を囲む堀底に出ます。
堀底を歩き南西の虎口を目指します。



案内看板が見えて来ました。
この階段を登ると主郭です。


案内看板

ちゃんと案内看板があります
縄張図も想像図もあって良かった!(あまり資料を持ち合わせていないもので)


主郭

草だらけで建物跡は見えません。
雨の中の訪問で、足元はとても滑る状態です。
土塁を下るのも一苦労です



トンネルの真上を見ています。
一応公園なのですが、
草だらけで普通の人は、とても入って行ける状況ではありません。



それでも、看板と井戸が見えるので吸い寄せられるようにやって来ました。
ここまでなら多少、草も低い。



この先に虎口の門跡(礎石)もみつかっているようですが…草が行く手を阻んでいます。
藪というほどではないので行けなくはないのですが、雨露もあるのでここで
濡れる訳にもいかないのでこれより先は断念します。
せめて晴れていたらなあ。。。


井戸

円形で石組みのない、素掘りの井戸がみつかっています。


建物跡

草に埋もれていた建物跡が、こちら側から見ることが出来ました。
でも一部しか現れていないので実際の規模はよくわかりません。


土塁

主郭の土塁は良好に残っている?のかな。
それとも、公園になった時に復原されたものなのかな。


虎口

東側に開いた虎口。
四の郭へと繋がるようです。



先ほどの、主郭西の案内看板のある虎口まで戻って来ました。
この階段を下り、右へ下ると下の道路に出ます。(トンネル脇)
左へ行くと四の郭の方へ。


四の郭

道のように見える部分は主郭との間の空堀です。


駐車場

駐車場C-9へやって来ました。
今度は下から見上げてみました。


案内看板

駐車場C-9の他にC-8から先ほどの三の郭の遊歩道側からのルートもあります。
どの駐車場からも近いので助かります。




道路建設で失った遺構をこのような形で復元されるだけ、有難いのかなと思います。

余談ですが、ここも春風亭昇太さんが来られていたのですね。
また先を越されてしまった!!
私の地元も、わりと先を越されている城があるので、競ってるつもりはないのですが、
意識してしまいます
でも、先を越されたと思うたびに「ガチだなあ」と嬉しくなってしまいます


令和2年7月25日登城



若山城(三重県)

2020年08月02日 | 百名城以外の城
若山城わかやまじょう
別名亀山古城・丹陵城・粉蝶城
構造平山城
築城者関実忠
築城年代1265年(文永2年)
指定史跡
場所三重県亀山市若山町 地図

若山城は、亀山城の前身であり、関氏歴代の居城でした。
しかし、1573年(天正元年)織田信長により関父子は若山城を追放され
信長の子である神部信孝に与えられました。
1583年(天正11年)羽柴秀吉が攻城した際、秀吉側に付いた関氏が
再び若松城の城主となりました。
その後、関氏は陸奥の白河城へと移されると、岡本良勝が入城するが
1590年(天正18年)新たに亀山城を築き、若山城は廃城となりました。



城址石柱

若山城南側の交差点に城址碑が立っています。



ふと足元を見ると、マンホールの蓋が亀山城の本丸石垣と東南隅櫓ではないか!
あやうく踏みそうになって、反射的に避けてました^^;
いや、お城が描かれていたら踏めませんて。。。


案内看板

城址碑の他に案内看板も設置されています。
しかし、登城口が見当たらないのでとりあえず歴史博物館に行けば
何か分かるかもしれないので、まずはそちらに行ってみようと思います。


歴史博物館

手掛かりを求めて歴史博物館へやって来ました。
早速、受付で聞き込みしました。
…残念ながら私有地のため城址を見ることは出来ないとのことでした。



公園側から最も古城へ接近出来る場所を探してみることにしました。



フェンスの外が若山城なのですが…。
ここまでかな。


若山家中屋敷

この古城の住宅地になっている辺りは、亀山城の西出丸外縁部北側に設けられた
家中屋敷で、5軒の屋敷がありました。
現在ある住宅がその方たちのものかどうかはわかりませんが
若山城廃城後は亀山城の家中屋敷になっていたようです。


若山別墅跡

正面の池の先の森林が若山城跡です。
ここは若山別墅跡で、1654年(承応3年)に亀山城主であった石川昌勝によって
築かれた景勝地です。
また、北側に流れる椋川が天然の堀の役割を果たしていたものと考えられています。


亀山城とセットで歴史博物館を訪れると、自然に古城へ足を運んだことになります。
残念ながら個人宅があって本丸辺りを散策することは叶わなかったのですが
そもそも案内看板を読むと、明確な遺構も出ていないとのことです。
城の有無も分かっていないし、範囲も明らかでないのが現状のようです。
しかし、地形から見ると段差もあり、歴史博物館を含む亀山公園全体と
北側を流れる椋川までが城域だったのではなかろうかと想像することが出来ます。
※古城と記された記事や絵図などは残されています。


令和2年7月25日登城


今回の参考本



玉城グスク(沖縄県)

2020年08月01日 | 百名城以外の城
玉城グスクたまぐすく
別名玉城城・アマツヅ城・アマツズグスク
構造山城
築城者祖神アマミキヨの子孫か
築城年代 12世紀末~13世紀
指定史跡国指定史跡
場所沖縄県南城市玉城444 地図
城郭検定 出題あり



未登城の城





【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス