むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

近世念珠ヶ関址(山形県)

2022年07月27日 | 関所・宿場
近世念珠ヶ関址きんせねずがせきし
街道名羽州浜街道
設置年代1596年〜1615年(慶長年間)
廃止年代1872年(明治5年)
指定史跡市指定史跡
場所山形県鶴岡市鼠ヶ関  地図

鼠ヶ関には二つの関所址があり、ここ近世念珠ヶ関址と南へ約1キロの県境に古代鼠ヶ関址と呼ばれる関所址があります。
古代鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並ぶ奥州三大関所のひとつとされていました。
そして古代鼠ヶ関と区別するようにこの地には近世念珠ヶ関址が江戸時代に存在していました。
この番所は沖を通る船の監視や港に入る船の取り締まりも行っていました。




国道7号線を新潟方面から山形方面へと向かっていると、石碑と看板が目に留まりました。
ストップ!戻れ~!
と足軽ドライバーに命令、確認しに車を降りる。
どうやらここは関所跡のようなので、止められたようだ。
(誰も止めてません、私が勝手に止めました)


関所跡

羽州浜街道は鼠ヶ関から鶴岡を経て日本海の浜に沿って久保田へ至る街道です。
越後と出羽を結ぶ玄関口で、越後の米や日本海の漁場で獲れたタラやハタハタ、ズワイガニなどの
流通が盛んで、庄内藩主酒井忠勝が入封するとこの先のあつみ温泉には湯役所を設けるなど
旅人たちの往来も監視する重要な関でもありました。


案内看板

冠木門の脇にある案内看板。
道路から見ると裏向きなのに、近頃は看板や標柱、石碑といったものが
ほんとよく視界に入ってしまいます(^^;


絵図

案内看板にある延宝二年と弘化三年の絵図を拡大してみました。
街道には門、両脇には高さ6mの柵が立てられていたようです。


源義経上陸の地

兄の源頼朝に追われた源義経一行は、奥州平泉を目指して京の都から琵琶湖を経て日本海を北上し、
船で念珠関に入ったと伝わる港です。
歌舞伎の「勧進帳」の舞台になった関所はここではないかとも云われています。


朝食を求めてこの先の道の駅をめざしていたら、通りすがりにここに寄ることが出来ました。
知っていたらもう少し周辺の散策をしているところでしたが、またこの道を利用することがあったら
きっと寄り道することになるでしょう。。。


令和4年7月16日訪問





鞠智城(熊本県)

2022年07月25日 | 続百名城
鞠智城きくちじょう
別名久々知の城
構造朝鮮式山城
築城者ヤマト政権
築城年代7世紀後半
指定史跡国指定史跡
場所山鹿市菊鹿町米原 地図
スタンプ設置場所歴史公園鞠智城・温故創生館

鞠智城は、1350年前にヤマト政権が築いた城で、白村江の戦いで敗れた際、唐や新羅の侵攻に備えて築かれた
日本書紀などに記された重要な拠点であると考えられています。
九州を統治していた大宰府を守るために、大野城や基肄城に武器や食料を送る拠点として機能していました。



歴史公園入口

八角形の建物が見えて来るのですぐにわかると思います。


駐車場

無料の駐車場もあるのでゆっくり見学出来ます。
…が、すでに夕暮れ時です。
急がなくては続100名城のスタンプが押せません💦


温故創生館

到着した時にはすでに17を過ぎてしまっていました。
9:30~17:15(入館は16:45まで)ということですでに閉館していました。
管理人らしき方が外を歩いていらっしゃったので、ダメもとで声をかけてみたら神対応をしてくれました!



閉館したばかりでまだ職員の方がいらしたので中に入れてもらえました。
しかもスタンプだけでなく1階を案内してくれました。(本当に申し訳ない)



大した予備知識もなくやって来て私どもに
説明までして頂き、本当に感謝です。



外の施設もわざわざ私が見学するまで施錠を待ってくれていたので
急いで開いている建物の見学へ。


八角形鼓楼

鞠智城では、発掘調査によって八角形の建物が2基みつかっています。
実際どのような建物であったかは不明で、その特異な格好から想像して
鼓楼か見張台であったのではないかと考えられ、八角形鼓楼として復元されています。



この釘を使わない複雑で奇麗な内部も見られて良かった(^-^)


米倉

21棟の礎石建物跡がみつかっており、その中のひとつ米倉が復元されています。
ここでは炭化した米が出土していることから高床式で通気性が良く、
鼠返しが備わった建物を復元しています。


兵舎

いくつかみつかった建物跡のひとつで、わりと大きな建物跡だったことから
兵舎をイメージして復元されています。
こちらには沢山の資料が展示されていてとても見応えがあります。



鞠智城のイメージキャラクター「ころう君」がお出迎えです!
ころう君はこの兵舎に住んでいる鞠智城の巡回警備員さんなんだって。



ここ鞠智城跡だけでなく、日本にある朝鮮式山城や神籠石系山城など
古代山城を紹介したパネルが多数展示されています。





板倉

「落としはめ方式」を使った板壁を採用したことから板倉と呼ばれています。


宮野礎石群

大型倉庫「長倉」跡です。
ここからは焼けた瓦が出土していることから、屋根は瓦葺だったと考えられ、
火災が起きたことも考えられます。





貯水池跡

木簡や朝鮮半島の百済で造られたと思われる銅造菩薩立像など貴重なものが見つかっています。


長者山

「米原長者伝説」言い伝えがある長者山です。
現在は共同墓地になってますが、かつては4棟の建物跡が残り、
「米原長者の御金蔵」があった場所と伝わります。


長者山展望広場休憩所

この地に似合う立派な休憩所があります。



眺めが良さそうな雰囲気に期待してしまいます(^-^)


灰塚展望所

頂上に到着。
展望台があります。



360°の大パノラマが楽しめます。



天気が良いと遠くの方に雲仙普賢岳が見えるそうですが…霞で見えません。


不動岩

とても気になる突起を見つけたのでズームしてみました。
このレンズではこれが限界でした😢



この先は南側の防衛ラインとなる土塁や門跡が見られます。
時間の都合上今回はそちらまで見学せずに戻ることに。


鞠智城温故創生之碑

鞠智城整備事業を記念して建てられたモニュメントです。


西側の古代の城は日本国内の争いのために築かれたのではなく、唐や新羅との直接の戦いの舞台になる危険性が
あったため、大宰府を守ろうと周辺に築かれた城が沢山あるということを学びました。
鞠智城は、それらの城の支援基地として築かれた城であったと考えられています。
大宰府周辺や、西日本の古代の城について考え方が変わる訪問となりました。


令和4年5月2日登城


今回の参考本





六郷城(秋田県)

2022年07月22日 | 百名城以外の城
六郷城ろくごうじょう
別名
構造平城
築城者六郷道行
築城年代1558年~1569年(永禄年間)
指定史跡町指定史跡
場所秋田県仙北郡美郷町六郷 地図

六郷城は、六郷氏が永禄年間に築いて本拠地とした城です。
関ケ原の戦いの後、徳川家康によって常陸へと国替えを命じられました。
その後慶長7年佐竹義重が居城し、一国一城令により廃城となりました。
六郷は六郷氏、佐竹氏両名によって城下町が形成されました。



田岡神社

田岡神社の周囲にはあちこちに標柱があります。
神社があるということは、とりあえず城の中心部はここか!と攻めてみる。


主郭

神社の奥には立派な石碑があります。
佐竹義重没後300年を記念して建てられた通庵佐竹公館阯碑です。


二の丸跡

本丸より東側にあるのが二の丸で、こちらも標柱があります。


内濠跡

交差点で信号待ちをしていると、今度は内濠跡の標柱がるではないか!
そして後から知ったのですが、近くに案内看板も設置されていたんですね。
見逃しました、残念…。
でも、通りすがりに発見出来たのはラッキーでした。


横手市街を目指して車を走らせていると、標柱が視界に入り「城」という文字が見えたので
早速Uターンしてみると、「六郷城跡」という標柱でした。
既に日が暮れてしまっているのですが、寄らない訳にいかない。
カメラも頑張って働いてくれたけど、この通り色合いが少し変ですよね。
しかし、この日は雨あがりの夕焼けでそもそも空も色付いていて奇麗でした。
上手に夕焼けを撮れないものかなあなんて思ったりもしましたが、
まだまだ私には上手に撮ることはできまいと諦めていたところでした。
やっぱり難しいものですね。
たぶんスマホの方が奇麗に撮れていたことと思います(^^;


令和4年7月16日登城





富岡城(群馬県)

2022年07月11日 | 百名城以外の城
富岡城とみおかじょう
別名城山
構造山城
築城者富岡氏
築城年代戦国期
指定史跡
場所群馬県富岡市上高尾 地図
御城印あり

富岡城は丘陵頂部の斜面に盛り土して造成され、縦堀と横堀が配された戦国期の城郭です。
高田川側からは急崖で、かつては西と北東に堀切があったとされますが
簡単な造りであったことから現在は確認することが難しく現代の改変により原形はみられない。
県道より西側にある城山公園にある十王山の砦がこの城の烽火台であったのではないかと考えられています。




県道10号線から東に入ると、そこから更に南に入ります。


入口

軽自動車でも両サイド小枝で擦る状態ですが、とりあえず鉄塔までは車で
突き進むことが出来ます。


鉄塔

先ず目標としていた鉄塔までやって来ました。
道はまだ続いてますが、ひとまず車で入って来れるのはここまでです。



鉄塔のある場所は、草が刈られて開けているので郭のように見えます。



段差もあるのでとても気になるのですが、やはり夏場は草でよくわかりません。
縄張図で見ると、ここも郭らしい。



この先が主郭になるのですが…藪のようなので今は行きたくありません。💦



現在、富岡城は県道10号線(西毛広域幹線道路)が城域を分断しています。
右手の山に十王山烽火台があります。
かつては尾根伝いに城山公園の方へと往来し、物見台だったり
城としての機能があったのではないかと思います。
いや、むしろ城山公園側の方が素人が見ると城らしい気がしてしまいます。(^^; 


いつもは横目に素通りですが、御城印が発売されたこともあり様子を見に行ってみました。
やはり夏季は行っても藪なので主郭への突入は諦めました。(獣も居たし)
冬季になったらもう少し奥の様子を見に行ってみようと思っています。


令和4年7月10日登城


今回の参考本



広島城(広島県)

2022年07月04日 |  百名城
広島城ひろしまじょう
別名鯉城・在間城
構造平城
築城者毛利輝元
築城年代1589年(天正17年)
指定史跡国指定史跡
場所広島市中区基町 地図
スタンプ設置場所1層ミュージアムショップ(休館日12/29~1/3)
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

広島城は、吉田郡山城を本拠としていた毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を始め、
築城前に訪れた豊臣秀吉の聚楽第に感銘し、参考にして本丸御殿が建てられました。
天守、御殿の他に櫓88基、門10基、外観は下見板張に漆喰塗で統一された
築城当初から大規模な築城がなされていました。
築城中に豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われ、この時名護屋城へ向かう秀吉が広島城へ立ち寄ったと伝わります。
毛利氏が築き、福島氏、浅野氏と大大名に継がれ、浅野氏は12代(250年)続き、明治維新を迎えました。



二の丸平櫓と二の丸表御門



木橋

二の丸と三の丸を繋ぐ橋は木橋です。
ここでは敵の侵入を防ぐため、すぐに落とせる木製の橋を使っています。



広島城の別名(鯉城)にもなっている鯉が堀を泳いでいます。


平櫓

櫓の内部を見学出来るようになっているので
早速中を見学に行ってみましょう!


出入口

ここで、靴を脱いで中に入ります。
コロナ前はスリッパを使用していたようですが、今はスリッパが用意されているものの
感染予防のためスリッパは使用せず、靴を脱いでそのままで上がれます。
スリッパを履こうとすると、そのままでいいよ~と声を掛けられました。
(できれば靴下は履いていた方が良いかもね)


平櫓内部

まずは近い平櫓を見に来ました。
畳敷になっていて優雅そうに見えているのに、いくつもの狭間が目に入ります。
このギャップが面白い。


二の丸表御門内部

櫓門からはしっかり橋から攻めて来る敵を狙い撃ちする構造になっています。


棟札

平成になってからの復元なのでまだ新しい棟札ですが、次に解体する時が来たら
きっと歴史を感じる年代になり、この頃はお城ブームだったんだなあなんて語られる日があるのかな。。。
なんて想像しちゃいます。


多門櫓内部

多門櫓の内部は多くの展示物があります。


模型

平成3年に復元された二の丸の建物の構造模型がそれぞれ展示されています。


太鼓櫓内部

その名の通り太鼓で時を知らせたり、
太鼓の合図で城門の開け閉めがされていた場所です。
太鼓は1階に展示されていますが、当時は櫓の二階に釣られていました。


馬屋跡

二の丸は角馬出になっており、馬屋も設けられ馬出に兵を


中御門

本丸と二の丸の間にある土橋を渡ると、枡形に格式のある櫓門がありましたが
原爆で焼失してしまいました。


被爆した石垣

そして、原爆により燃えた石垣。
石の色が変色し、角が欠けて丸くなっています。


本丸下段

廃藩置県後広島県庁が置かれ、大日本帝国軍の建物が次々に建てられるようになり、
広島城の天守に付属していた小天守や多くの建物がこの時、取り壊されました。
日清戦争で広島大本営が置かれると、明治天皇が広島に滞在し、帝国議会も開かれました。


護国神社

プロ野球球団「広島東洋カープ」が必勝祈願に訪れることで有名な広島護国神社。
毎年5月5日に赤ちゃんの健康を願う「泣き相撲」が行われる予定で準備がされていました。



本丸は下段と上段に分かれており、売店隣の階段を登ると
いよいよ天守の見える上段になります。


本丸上段

太平洋戦争では本丸に中国軍管区司令部が置かれ、
そのために原爆投下の標的に!
爆心地の原爆ドームから約700m離れていたものの、下段にあった地下通信室(防空作戦室)から
見た光景はすべての建物が倒壊、残っていたのは石垣だけだったという惨劇でした。



広島城の縄張りは京都の聚楽第を参考とし、天守は大坂城を参考にしたといい、
豊臣秀吉との謁見は輝元にとって、相当の影響を受けたものと想像出来ます。


復元天守

目の前の石垣の上には、かつて南小天守がありました。
そして入口の張り出した屋根のある場所に天守と南小天守を繋ぐ渡櫓があったのですが、
南小天守が残っていたり、復元されていたとしたら
ここからの天守の見え方がぜんぜん違っていたでしょう。


100名城スタンプ

天守入口前の渡櫓跡に設置されている日本100名城のスタンプ台です。



ここから先は指定の場所以外は撮影禁止となっています。


攻城団チラシ

売店の前の柱に攻城団チラシが!!
どこに行っても大体他のパンフレットに紛れて探すのに少々時間かかるのですが
こんな単体で置いてあるとは👍(広島城好感度超アップ!)



中には撮影OKの場所も設けられています。



最上階の廻縁に出てみました。
華頭窓に装飾され、外観としてはやはり華頭窓は目立ちます。



こうやって中から城主気分で外を眺められるのもあと3年程しかありません。


原爆ドーム

爆心地からこの距離ですから、恐ろしいです。
原爆ドームには中学生の修学旅行で訪れているのですが、広島城がこの距離でも
やはり団体行動なので残念ながら見学叶わずでした。


天守礎石群

昭和33年の天守再建の際に、旧天守の柱が載っていた礎石をこの地に移しました。


東小天守跡

東小天守は戦災まで東廊下が残っていたのですが天守復元の際には
南小天守同様に復元されることはありませんでした。


お抹茶とお菓子

本丸にある売店で一休み。
お抹茶に添えられていたお菓子はもみじ饅頭。
やっぱり広島と言ったら、もみじ饅頭ですよね。


中御門桝形

中御門に門柱や扉に鉄板を打ち付け頑丈な鉄門が戦前まで残っていました。



広島城の特徴として、関ケ原合戦後に入城した福島正則による改修は膨大な数の二重櫓を置いたこと。
最も多い時で88棟もの櫓が造られ、要塞化し全国で最も櫓の多い城となりました。
しかし、1619年(元和5年)に幕府に届けず石垣を修復したことが武家諸法度違反となり、
改易となっています。
これが台風による水害で修復したというのだから、ちょっと理不尽な気もする。(個人的な感情)



沢山の櫓と二重の水堀で平城の守りを堅固にした広島城。


太鼓櫓

外から見た太鼓櫓。
太鼓櫓ってなんだか格好いい。
やはり時代が比較的新しい浅野氏の時代の建物だから違って見えるのかなあ。



耐震性を満たしていないことから2025年に復元天守閉館すると聞いて、これは行っておかなければ一生後悔する!
ということで今回の遠征で絶対外せない城となった広島城。
「広島城三の丸歴史館」を三の丸に建設して現在天守に展示しているものを展示するというのです。
願わくば、やはり天守の木造復元が叶うと良いですね。
たとえ、木造じゃなくても広島城には復元天守が必要だと思っています。
元国宝の広島城を吹き飛ばした憎き原爆の恐ろしさを後世に伝えて欲しいものです。



令和4年5月3日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス