むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

城の腰城(群馬県)

2022年04月23日 | 百名城以外の城
城の腰城じょうのこしじょう
別名城山
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県甘楽郡南牧村砥沢字城の腰 地図

中道院の裏山に位置する城の腰城は、市川氏の砥沢城の支城と考えられます。
谷を挟んで中道院の西側は市川氏の館があり、その背後の山に砥沢城があります。
城の腰城と砥沢城の位置関係を見ても接しているほど近い関係にあることからも
両方の城が一体化して機能していたとも思われ、市川氏にとって重要な砦であったと考えられます。



中道院入口

この谷を挟んで左手の山が「城の腰城」、右手の背後の山が「砥沢城」になります。
今回は城の腰城へ登城を試みたいので、左の道を登って中道院へ向かって登って行きます。


中道院

中道院の駐車スペースをお借りして、いざ登城!


山門

立派な山門の先に墓地があり、城址はその先の山頂にあります。
また、中道院のあるこの場所は中郭にあたり、館を構えていた可能性が高いです。



この墓地の先に登城路があると思われます。
行ってみましょう。




めっちゃカエルの鳴き声がします。
どこ?とさがしてみると…



大きなカエルが居ました。


登城口

急斜面にお墓があり、階段で上へ上へと登って行きます。
どこを登って行くと墓地を抜けられるのかは、勘で行くしかありません(^^;


墓地

墓地の中に、いくつか登る道があるので、とにかく上に登って行けそうな道を選んで
進んで行きます。



墓地を登りきると、急角度な細尾根が待っています。
滑りやすい、脆い地盤なのでここからが難関です。



見下ろしと、墓地もかなりの角度の斜面に造られていることが分かります。


墓地の先の細尾根に登ってみると、尾根はかなり削られていてめちゃめちゃ怖い。
近頃平らな場所でも転ぶようになったので、油断できません。(2週間前に転んだ膝がまだ痛い💧)
地盤がボロボロとした土なので崩れやすく滑りやすいので、無理はせずここで一旦引き返すことにしました。
安全対策をしてリベンジしたいと思います。


令和4年4月16日登城


今回の参考本



星尾城(群馬県)

2022年04月18日 | 百名城以外の城
星尾城ほしおじょう
別名城山
構造山城
築城者市河(市川)氏
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県甘楽郡南牧村星尾 地図

星尾城は、砥沢城の支城で物見と烽火のつなぎの砦であったと考えられています。
東西に細長い尾根上に築かれており、斜面は急で山頂は岩場と断崖で
平場の部分はわずかなため、兵は見張り程度の少人数の番兵が置かれていたと思われます。
戦国期の監視用の砦として使用されていたことが想像されます。



南牧関所跡

ここは、かつても南牧関所があった場所です。
こちら側から星尾城のあるトンネルを目指して行きます。


関所の石碑

武田信玄がここに関門を置き、砥沢城主でもある市河(市川)氏が関守を務めていました。
この石碑を目印に、林道道場線へと向かいます。



途中、分かれ道で左折して道場に近いところまでひたすら林道を走ります。
すると、ようやく左に建物、正面にポイントとなるトンネルが見えて来ました。


トンネル

トンネル目指してやって来ました。
トンネルの名前は「阿久津隧道」と記されています。



トンネルの上に城跡があるというのだけれど…。
宮坂氏の鳥瞰図を見ると、こちらのトンネルの左手に道があるようなのですが
周囲を調べてみ居たのですが崩れてしまったようで、登れそうな場所がありません。



トンネルを抜けて振り返ってみると、トンネルの上に尾根が見えました!
こっちだった!!



石垣も見えます。
こちら側からならなんとか登れそうな気がします。



とはいうものの、結構な傾斜なうえに、道らしき道はありません。
地盤は崩れやすく滑りやすい地質でイヤ~な感じ。


尾根

とりあえず足軽(旦那)を先に出動させ、尾根の様子を見に行って貰いました。



トンネルの上の尾根は細尾根になっています。











堀切

ちょっと浅いですが、堀切られている様子も見受けられます。



私も後を追って登り始めたのですが、前日の雨で斜面も濡れていたりで
途中で登ることは断念しました。


おまけ

それにしても、よくこんな所に粗大ごみが捨てられたものだ。(冷蔵庫あり)
堀切に捨てられているのはよく目にするけど、
道より上に運ぶの大変だったと思う。
だって、トンネルの上なんだもん。😖



この辺りの山々は斜面が急で、岩場が多く、脆い地質でボロボロと崩れて来ます。
常に滑りやすい状態にあるので、それなりの対策をしてから挑まないととても危険です。
ということで、今回は無理をせず後日しっかり準備してリベンジしようと思います。

また、6月11日(土)はこちらの林道は全日本ラリー(モータースポーツ)開催のため通行止めが予定されています。
星尾城跡へお出掛けされる場合は6月11日(土)を避けてお出掛け下さい。
もちろん、ケガをしないように準備はお忘れなく!

令和4年4月16日登城


今回の参考本



住吉城(群馬県)

2022年04月14日 | 百名城以外の城
住吉城すみよしじょう
別名仲村城
構造平山城
築城者住吉玄蕃
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県高崎市我峰町 地図

住吉城は、箕輪城主長野氏に仕えた住吉玄蕃が築城したと伝えられています。
箕輪城の支城として築かれ、住吉氏ののちに清水小内記正智が城主となりました。
長野、武田両軍の決戦では長野勢の重要な拠点になったと思われます。
近くには長野氏が開発した用水路の長野堰があります。




烏川と白川の合流点の河岸に位置し、現在は長野堰と道路によって
遺構はほとんど残っていません。
しかし、この「すなっくリバー」のところに立派な城址碑があります。


城址碑

この城址碑には、城主清水小内記正智の名が刻まれています。
清水氏の子孫の方が管理の城址碑のようです。



城域には住宅が立ち並び、ほとんど遺構は残っていません。


長野堰用水

城址碑のある北側に流れる用水路は、長野氏が築いた長野堰です。
住吉城が廃城になってからこの地に水路がひかれたと考えられます。


案内看板

戦国の世が終わると、各地で水争いが起こり
長野氏は、安定した水の供給を得るため烏川からサイホン方式で
対岸へ水を流すという画期的な用水路を確立させました。



長野堰の原形は、古いもので室町時代から農業や生活に利用されていました。
それを箕輪城主の長野氏が携わって用水路を改修したということです。
1814年にはサイホン方式で榛名白川を横断させる高い土木技術で
長野堰用水を開削しています。


城域の中にこのような用水路が通っていることは、城域も狭くなり、
城が機能していた時代には考えにくいことから、用水路は廃城後の整備であり、
城址としても消えつつあったものと思われます。
城域は改編されても、城址碑があることでこの地に城が存在したことを
語り継がれて行けるのだと思います。


令和4年1月4日登城


今回の参考本




下小屋城(群馬県)

2022年04月12日 | 百名城以外の城
下小屋城しものこやじょう
別名下の小屋城
構造崖端城
築城者伊香保地衆
築城年代1572年(元亀3年)
指定史跡
御城印伊香保温泉 お宿 かつほ 
場所群馬県渋川市伊香保町湯中子 地図

下小屋城は、1572年(元亀3年)武田軍の侵攻に備えるために伊香保衆が築いた城です。
沼尾川とその支流に挟まれた、断崖に囲まれた自然の要害に守られた構造です。
北からの武田軍の攻めの強化を重視しており、主に北側に土塁が築かれているのが
今ででも確認すること出来ます。


登城口

県道155号線(伊香保村上線)沿いにある入口です。
駐車スペースもあるので、こちらに車を置いてここから徒歩で入城です。


追手口

城域へと真っ直ぐ伸びる入口。
城への進入路はここだけになります。
自然の土盛りが門のような役割をしています。


石垣

大きな石で入口を補強しています。


土居

振り返ってみると意図的に積まれた石だと判ります。


堀切土橋

入口から城内への追手道は、両側堀切で土橋を繋いでいる状況です。
ここまで来ると、左前方で何か大きな獣が居るのが見えました。
周りは崖なので、カモシカ城主さまであることを祈りながら進むことに。


二の郭

中に入ると開けていて、手前が二の郭、奥に主郭が配されています。


土塁

郭を囲うように低い土塁が造られています。
その土塁の向こうは断崖です。



沼尾川を挟んで北側から見ています。
相変わらず写真では表現しきれていないのですが、この天然の要害を目の当たりにして
断崖で囲まれているこの場所は、攻め入るのは難しいぞという立地であることを認識させられました。


入城してすぐに目撃の獣がカモシカなのか熊なのか、恐る恐る進んで行ったのですが
断崖に囲まれているこの城の逃げ道は1か所ということで、正直怖くて奥まで進むことは出来ませんでした。
護りは1か所で済む反面、入口を抑えられたらアウトでもある構造です。
相手が武者なのか獣なのかの違いですが、どっちにしても怖い城でした。


令和4年4月3日登城

今回の参考本



宇津ノ谷峠(静岡県)

2022年04月06日 | 関所・宿場
宇津ノ谷峠うつのやとうげ
街道名東海道
設置年代1590年(天正18年)
廃止年代
指定史跡
場所静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷82-2「道の駅宇津ノ谷峠」  地図

宇津ノ谷は、静岡市の西部にある峠の入り口です。
峠越えの道は、古くは「蔦の細道」と呼ばれ「伊勢物語」にも記されていました。
そして宇津ノ谷峠は、豊臣秀吉が小田原攻め際に「蔦の細道」よりも西側に
大軍を通すために伐り開き、江戸時代に東海道として整備したのが旧東海道です。
宇津ノ谷峠を挟んで静岡市側には丸子宿、藤枝市側には岡部宿があります。



道の駅宇津ノ谷峠

道の駅宇津ノ谷峠へやって来ました。
宇津ノ谷トンネルの静岡側にある道の駅です。
朝ごはん食べられるかなあ?と寄り道してみました。



約700年~1590年頃まで使われていた東海道は「つたの細道」と呼ばれ、
平安時代の「伊勢物語」にも登場、戦国期秀吉が造った道は江戸時代に整備され
東海道となり参勤交代をはじめ海外の使者や旅人が行き交う街道となりました。
明治になると、日本で初の通行料を払って通るトンネル(銭取りトンネル)が出来ました。
このように、この峠は昔から難儀していたことを時代を追って見ることが出来ます。


とろろ汁

手前の丸子宿ではとろろ汁が名物で、道の駅でもとろろ汁が食べられます。
何と言っても朝7時から食べられるのがありがたいです。
一般的なだし汁で、見た目は白いが、しっかり味付けされていました。
ごはんは無料でおかわり出来、とろろ汁の量もたっぷり2杯分はあるのでお腹いっぱい食べられます(^-^)
私としては、味噌味よりこちらの方が食べ慣れた感じで好みかなあ。


しぞ~かおでん

とろろ汁定食がリーズナブルだったので、しぞ~かおでんを1品足してみました。
特徴的なのは青のりとだし粉を振り掛けるところでしょうか。
ここは、静岡おでんでは名の知れている天神屋さんのお店だったんですね。


自然薯

道の駅では、地元名産の自然薯も売られています。
スリムで長い山芋です。


「宇津ノ谷峠」のタイトルですが、内容はほぼ食事処といった感じになってしまいました。
ちゃんと自分の足で東海道を歩いていればもっと違った記事になっていたことでしょう。
車にてご勘弁を。。。


令和4年3月27日訪問

予想より時間がかかってしまった…300ピース、なめてました💦(むぎ)



丁子屋(静岡県)

2022年04月04日 | グルメ
丁子屋ちょうじや
街道名東海道・丸子宿
創業年代1596年(慶長元年)
廃業年代現在も続く
指定史跡国登録有形文化財
場所静岡県静岡市駿河区丸子7丁目-10-10 地図

1596年(慶長元年)丸子宿に丁子屋平吉が宿場の茶屋として創業したのがはじまりです。
自然薯が採れる時期に旅人にとろろ汁をふるまい、
この先の難所である宇津ノ谷峠を越えるために精を付けようとする
旅人で賑わったといわれます。


広重さんの部屋

部屋は9部屋あり、それぞれ丸子宿や静岡にちなんだ名前が付けられているとのことで、
この日は広重さんの部屋へ通され、江戸四大浮世絵絵師の一人である歌川広重の「東海道五十三次」を見上げながらの
食事となりました。
「東海道五十三次」の中で丸子宿は、ここ「丁子屋」が描かれています。


とろろ汁

丁子屋のとろろ汁の特徴は、江戸時代から変わらない味という秘伝の「自家製みそ」です。
味噌味のとろろ汁は初めて食べました。
ちょっと衝撃的な味で、脳内変換するのにちょっと時間がかかりました(^^;


芭蕉さんの部屋

松尾芭蕉も「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」と俳句を詠んでいます。
丁子屋の建物は、江戸・明治・大正・昭和の古民家が使われているそうで、
各部屋で雰囲気や造り違うそうです。


資料館

お店を入って、正面奥に資料館があります。
食事の後に寄ってみました。
近くに高札場もあるので、大政奉還を伝えた時の高札などが展示されています。


ずっと来たいと思っていたお店だったので、念願叶い大変満足致しました(^-^)


令和4年3月27日訪問


今回、作ってみたら2時間かかりました。(むぎ)



堤城(静岡県)

2022年04月01日 | 百名城以外の城
堤城つつみじょう
別名遠江堤城・丘山城
構造丘城
築城者松井信薫
築城年代1504年(永正元年)
指定史跡
場所静岡県菊川市下平川堤 地図

牛渕川にかかる城下橋の東側の小山が堤城跡になります。
永正年間に今川家臣の松井左衛門尉信薫が築城したと伝わります。
後に城主となった信薫の弟の宗信が1529年(享禄2年)に、
二俣城へ移ったことで廃墟となりました。




駐車場が無いので、牛渕川にかかる城下橋の近くに駐車スペースをみつけて
そこへ車を置いて登り口へ。



出丸側を見上げると、「堤城跡」の標柱が見えます。



バイク屋さんの裏手の小川沿いに小道があるので
近道をして登り口へ向かいます。


案内看板

登り口に案内看板があります。


松井氏の墓

少し登ったところで「城主松井氏の墓」という看板が見えて来ました。
見ると、右手にお墓がありました。


天満天神宮

いわゆる、菅原道真公をお祀りした「天満宮」でしょうか。
学問の神様とあればお参りに力が入ります。
近頃脳の衰えも否めない…(^^;



更に上へと登って行きます。


城山配水池

一段高くなっています。
階段があるのでとりあえず登ってみるとしよう!



主郭に作られた配水池でした。
この一段高くなった部分は後世に造られた配水施設で、
岐阜県の土岐高山城と同じような仕組みになっていたのを思い出しました。


津島神社・八幡神社

主郭にある津島神社と八幡神社。


富士山の見どころ

更に東へ進むと「富士の見どころ」がありました。
この日は雨あがりで、どこへ行っても富士山が見えず残念。
木々の隙間から見えないかなあと目を凝らせてみたけど、やっぱり見えませんでした。



現在墓地のある松井屋敷跡へと続く道があります。



東端まで来てみました。
ここで引き返すことに。


松井屋敷跡

墓地になっているこの平坦な場所に松井屋敷があったとされています。
そして奥に見える山が本城です。
あの林の中に千畳敷をはじめとする郭などがあるらしいのですが…。


標柱

近道をして登り口へ行ったものの、結局周囲を散策して標柱に出会う。


随分コンパクトだなあと思ったら、こちらは出丸だったのですね。
本城の千畳敷はどこ~と入口場所を探してみたのですが
「塩の道」からはとてもよじ登ることも出来そうに無い…と早々に断念。
案内板や標柱のある出丸でとりあえず攻城というこにしておこう(^^;


令和4年3月27日登城