むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

天神城(群馬県)

2022年05月31日 | 百名城以外の城
天神城てんじんじょう
別名
構造崖端
築城者沼田顕泰
築城年代1557年(弘治3年)
指定史跡
場所群馬県利根郡川場村天神 地図
御城印あり

沼田城主沼田顕泰が三男朝憲に家督を譲り、末子平八郎を連れて
1557年(弘治3年)に隠居城として築城された天神城へ移ったと伝わります。
しかし、顕泰(長尾派)の嫡子である朝憲(北条派)を殺害したことで対立し、川場合戦が勃発。
多勢に無勢で顕泰は平八郎を連れて会津の蘆名氏を頼り落ちて行きました。
会津に落ちた顕泰は、その後長尾景虎を頼りに越後へ移り沼田城を奪還し再び沼田城主として入城しています。




富士山横塚線を走っていると天神地区に入ったところで城址への案内の矢印看板を発見!
某マップではここで曲がれと言ってくれないので駐車場へは案内してもらえず本丸下で行き止まってしまいます。
矢印看板に従って進みます。



舗装路へ行きたいでしょうが、看板どおりに砂利道へ。


駐車場

行き止まりに駐車場がありまいた。
駐車場の草が刈ってあったので、どうやら城址見学者ウェルカムということですね(^-^)



登城路もきれいに草刈りがされていてありがたいです。


土橋

細尾根のような道を進んで行きます。


虎口

いよいよ本丸のようです。
案内看板も見えています。



烽火台?とも思えるような小振りな曲輪ですが
城址碑と案内看板が設置されたしっかり管理された城址のようです。


城址碑

後から分かったことですが、やはり城址碑の裏に何か書いてあったようですね。
私も裏を覗き込んでみたのですが草木があって断念しました。
多分花が咲く樹なので刈らずに残してあったのでしょう。
ちゃんと、百合?なんかも残して草刈りされてあったので、
気を使いながら草刈り作業をされていたんだなあと思います。


川場かるた

城址碑の隣には「川場かるた」があります。
群馬県では上毛かるたというのが有名ですが、県内には多くの郷土かるたが存在しています。
各地の文化がわかるかるたになっているのでお城を巡っていると、
たまにかるたの札の場所に遭遇することがあります。


案内看板

案内看板とパンフレットがあります。
パンフレットは川場村の観光マップで、城址のパンフレットではありませんでした。



三方が崖地になっていて、徐々に削れて狭くなってきているようです。





眺望

眺望と言っても周囲に木があり、正面にはやまがあって良い眺めとはいきませんが
一応周囲の田んぼを見下ろすことが出来ます。



明治初期までは1反(約300坪)あったようですが…ひょっとしたらそのうち
自然に無くなってしまうのでは?と心配になる面積です。



帰り道、ここもどんどん削られているのであろうか…。
道もなくなっちゃいそう。



ここも曲輪だったのかな。


遠景

木々にかくれてしまっていますが、写真の中央に天神城があります。
よ~く見ると看板の裏側が写っているのですが、みつけられるかな😁


御城印が販売になっているというお城ということで訪ねてみました。
駐車場もあり、草刈りもされていてとても気軽に寄れる城址でした。
こんなにコンパクトながら、城址碑や看板もあり手入れされている状態を見ると地元愛を感じます。


令和4年5月29日登城


今回の参考本




古谷館(群馬県)

2022年05月25日 | 陣屋・館
小谷館こややかた
別名潜龍院館・郷原御殿
構造
築城者真田昌幸
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字郷原923  地図

天正10年に織田・徳川連合軍に攻められた甲斐の武田勝頼は、武田家の再挙を図ろうと
真田昌幸が岩櫃城へ招き入れ、麓のこの地に御殿を築きました。
しかし、勝頼は天目山で自刃してこの地に来ることありませんでした。
その後、勝頼のために築かれた御殿は祢津潜龍斎昌月に与えられ山伏寺は「潜龍院」とされました。



古谷

古谷登山口駐車場を利用して潜龍院へ向かっていざ、出陣!
近くには古谷登山口 トイレも完備されていて、そこにはパンフレットも用意されています。
左手には密岩神社があります。



看板に従って民家の間の道を進みます。



看板や矢印を見ながら行けば、迷うことなく行くことが出来ます。



ここから道幅がぐっと狭くなり、普通車では入って行けなくなります。


虎口

ここは、最初に訪れた時に道の両側に岩が門のようにあることに気付き
虎口か?と思った場所で城門かつ、要害となっていたと思われます。






草刈りなどもされて管理されています。


岩櫃山登山口

岩櫃山へはここから山頂を目指すことになります。
見ているとハイカーだけなく、ロープを持った登山家もこの奥からやって来ます。



ちょっと覗いただけで、とてもこの先へ行こうという気がしない(^^;


岩櫃山

こ~んな岩山絶対登れないし。


潜龍院跡

さて、本題に戻って潜龍院です。
現在は石垣しか残っていませんが、ここに勝頼を迎え入れるための御殿が建てらていました。
当時はとにかく急いで勝頼をこの地へ逃れさせようとの思いで、突貫工事したとのことで
御殿はたったの三日で建てたとも伝わります。


案内看板

石垣の前には案内看板があります。
この石垣だけでも数日かかりそうなものですが、昔の人間の力は恐ろしい。



有事の時なので御殿を建てた際に、この石垣まで築かれたかどうかまでは疑問で、
後の潜龍院とされた頃に改めて石垣を築いたのではないかと勝手に想像してしまいます。



とても広い平地になっています。



潜龍院の向いには物見か古墳のような土塁があります。
その背後は大きな岩が見えます。


土塁

土塁を隠すかのように南面に巨大な岩があります。
土塁の上に石碑らしきものが見えますが、それが何かは分かりません。
寺院跡ということなのでもっといろいろな石碑や石塔があっても不思議ではない。



北東の奥の方にお墓があります。
そして、道なりに東の方へ進むとハイキングコースの途中で
岩櫃城と潜龍院を中継する郷原城があるので、時間があったら行ってみて下さい。





武田勝頼がもしここに来て居たら歴史がどう変わっていただろうか。
真田一族もどんな手法で織田・徳川連合軍を迎え撃っていただろうか。
もしかすると勝頼が自刃する場所が天目山から潜龍院に変わっただけだったかもしれない。
いろいろ想像してしまう。

ここに来て、岩櫃山を見上げたら
なんとなくいろいろな勇気が湧いてくるような「錯覚?」に陥ります。


令和2年5月30日訪問
令和4年5月22日再訪問


今回の参考本



棚草城(静岡県)

2022年05月20日 | 百名城以外の城
棚草城たなくさじょう
別名
構造平山城
築城者朝比奈氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所静岡県菊川市棚草殿ノ谷 地図

棚草城は、今川氏の家臣である朝比奈氏の関係城であったと考えられますが
詳しいことは分かっていません。
雲林寺のあった三の郭にある今川氏宮には今川氏真と朝比奈孫十郎が祀られています。



虎口

三の郭の入り口です。
三の郭には現代まで牧野氏が管理されていた雲林寺がありました。



ここから上の本城山にある茶畑が主郭となります。


今川さま

小屋の右手には牧野氏献納したという石仏が祀られています。
左手には今川さまと朝比奈孫十郎が祀られているようです。
お稲荷様に守られているのが、今川氏らしい。


雲林寺跡

雲林寺の本堂があった場所です。
現在はこのように建物は無くなっています。



こちら側からも上に登れそうだったのですが、その先が藪っぽいので
登り始めてすぐに引き返してしまいました(^^;



1566年(永禄9年)に、今川氏真から朝比奈孫十郎に
「前例の如く地頭に任せる」という朱印状にが届き、棚草用水の整備が行われています。


予定していなかったちょい寄りで、雲林寺跡より上にいっておらず、
肝心な主郭攻めはお預けとなりました。
頭に縄張図が入っていなかったため、雲林寺の跡地を見て建物が無いことに
あれ?あれ?記憶違い?となって茶畑まで行くことなく帰って来てしまいました。
どのみち、詳しいことはわかっていないのでもう少し得られるものがないか調べるのが今後の課題です。


令和4年3月27日登城





厚木とん漬け(神奈川県)

2022年05月19日 | グルメ

厚木とん漬けの歴史
江戸時代の末期、荻野山中藩(現在の厚木市近辺)で人寄せがありました。
しかし、思いのほか集まった客人が多く料理が不足してしまったのです。
何とかならないかと思案した結果、猪の肉に味噌を塗ったものを出すことにしました。
ところが、当時の武士は四ッ足の肉(牛や豚、馬や猪、鹿や兎など四本足の動物)を食べる事を嫌っていました。
そこで、何の肉か分からぬよう味噌を塗ったまま焼き、それを膳に添えたところ意外にも美味いと評判になりました。
これが「とん漬」の始まりと言われています。



主人のお友達(ラリーとお城好き)のKさんから頂いたのですが、肉が柔らかく味がしっかりしていて
ご飯が何杯でもいけちゃう危険な御馳走を知ってしまいました✨
焼いた写真撮るのも忘れて食べてしまいました(^^;
これはリピートしてしまいます。ありがとう!


令和4年4月24日





唐津城(佐賀県)

2022年05月18日 | 続百名城
唐津城からつじょう
別名舞鶴城
構造平山城
築城者寺沢広高
築城年代1602年(慶長7年)
指定史跡
場所唐津市東城内8-1 地図
スタンプ設置場所唐津城天守閣1階
御城印唐津城天守閣1階

唐津城は、豊臣秀吉の側近であった寺沢広高が1602年(慶長7年)に
名護屋城の解体資材を使用して7年かけて築いた平山城です。
本丸には天守、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸には藩士が住み
外曲輪には町人が住み、町奉行所が置かれていました。
廃藩置県によって廃城となった後は舞鶴公園となり、市民の憩いの場となっています。



地下道

市営駐車場から地下道を通って登城口へ向かいます。



地下道の中のは地下通路ギャラリーになっていて、
つい足を止めて見入ってしまいます。


登城口

このあたりはにゃんこがお出迎えしてくれます。


案内看板



東城内

左手の校舎がある場所は、かつて二の丸御殿があった場所です。



現在は早稲田佐賀中学校・高等学校になっていますが、周囲には石垣が残されています。


エレベータのりば(下)

なんと、天守などの建物ではない場所にエレベータがあります。
あちこちの山城に設置してほしい(^^;


斜行エレベーター

このエレベーターは外の景色が見える訳ではないのですが、
山の斜面に沿って登って行くのが扉の窓から見えて、斜めに登っていることに驚きました。


エレベータのりば(上)

100円で本丸まで楽ちんに到着!
これは素晴らしい(^-^)



本丸に降り立って、まっすぐ天守に向かうつもりが
眺めが良くて吸い寄せられるように海を見に行ってしまいました。


天守

唐津城の天守は記録が残っていないため、肥前名護屋城図屏風に描かれている名護屋城をモデルに
模擬天守が造られています。
天守台はあったが、天守は造られなかったというのが通説のようです。


入口




ここから先、博物館内は撮影が禁じられているので最上階までは
カメラの出番はありません。



さて、いろいろな展示物を見ながら最上階へやって来ました。


眺望

真下に見えるのが下曲輪、駐車場が花畑と城米蔵があった場所になります。


虹の松原

唐津湾の海岸沿いに緩い曲線が見えます。
「虹の松原」と呼ばれる場所で、唐津藩初代藩主の寺沢志摩守広高が
暴風と暴潮を避けるために植林したと伝わり、今では三大松原のひとつに数えられています。





猿回し

この日は本丸の休憩所前で猿回しが催されていました。
ここで秀吉に会うとは!(※お猿さんの名前は秀吉ではありません)


旗竿石

この石はもともと鍋島陣跡にあった旗竿石ですが、名護屋城へ運ばれて茶室または庭園の手水鉢として
使われていたと推定されます。
その後、唐津城へ運ばれて来たという経緯があります。



天守と化粧櫓の間を抜けて二の曲輪へ。



化粧櫓下の石垣前です。
近年本丸石垣の修復を行い、江戸時代より古い石垣がみつかるなど修復だけでなく
調査も進み名護屋城解体材使用信憑性も深まって来ました。


金刀比羅神社

二の曲輪に神社があります。
よ~く見ると鳥居の上に石がいくつも載っています。
鳥居の上に石を載せると願いが叶うという謂れがあるようです。
親切なことに、この鳥居はちょっと低めに出来ています。


井戸

天守下の二の曲輪にある井戸



井戸のあたりで天守を見上げると、この迫力です!





本丸櫓門

エレベーターを使わず、徒歩で坂口門の方から登って来ると
ここから本丸へ入ることになります。
天守の撮影スポットとして絶好の場所です。


藤棚

本来なら今頃が見ごろのはずでしたが、年々早くなっているようで
残念ながらすでに花は散ってしまったようです。


総締門跡




振り返ると桝形であるのがよく見えます。


坂口門跡

下を向いて歩ていると、お金が落ちていたくらいにニヤリとしたくなる穴発見!
ここは坂口門があった場所なので、ここには門の柱があったと思われます。


多宝塔

唐津城築城前は松浦川と町田川の水害から守るための寺社がいくつかあり、
そのうちの海仙寺というお寺が建てた多宝塔がありました。
土台より上の部分は既に失われており、今は小石がいっぱい積まれています。



早稲田佐賀中学校・高等学校以前は、舞鶴小学校があったという石柱ですね。
そして気になるこの出っ張った半円筒状の石垣はなんだろ?



遺構なのか現代のものなのかわかりません。
いずれにしても気になる構造物だ。


地下通路

再び地下通路を通って駐車場へ戻ります。


舟入門

藩主の出入りや米蔵に入れる米などの食料などの出入りに利用されていました。


城内橋

この橋の向こう側にも町割りと、水田が造られていました。


水手門

現在駐車場となっている場所は、花畑、城米蔵、更に先に水手門がありました。
舟入門から運び込まれたお米は、こちらの城米蔵へ運び込まれていました。


夜の唐津城

夜はライトアップされるというので、夜になって再び訪れてみました。



紫色に照らされた唐津城。(藤の色を表してる)
美しくもあり、不気味にも見える色合いです。


九州入りしてまず訪れたのが唐津城でした。
次に名護屋城へ行き、ライトアップが見たいのでまた戻って来ました。
最近は土の城を巡っていたので、やはり建物があると初心に返った気がしてお城に来たぞという気がします。
海と天守(建物)は群馬では味わえない光景なのでとても新鮮な気分です。


令和4年5月1日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



福山城(広島県)

2022年05月12日 |  百名城
福山城ふくやまじょう
別名久松城
構造平山城
築城者水野勝成
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所福山市丸之内1-8 地図
スタンプ設置場所福山城天守閣内
御城印福山城博物館天守閣受付(管理事務所)
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

1619年(元和5年)水野勝成が領主となり、武家諸法度後に1622年(元和8年)福山城が築城されました。
明治6年、廃城になると天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除きほとんどが取り壊しとなりました。
更に昭和20年の戦災により天守と御湯殿が焼失ししてしまい、焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は
現在、国の重要文化財に指定されています。




広島県立歴史博物館の有料駐車場を利用して城さんぽ開始です!
正面には現在耐震工事中の足場の組まれた天守が見えます。


案内看板




天守へと続く入口は、残念ながら現在立入禁止になっています。


案内看板

立入禁止場所の案内表示があります。


天守

耐震工事中の天守。
天守に入れないのは残念ですが、今回は令和の大普請を見に来たのでこれで満足です。
この時期でしか見られない光景なので会津の鶴ヶ城や姫路城、熊本城など、チャンスがあれば工事中に
狙って見に行くことにしています。


天守礎石

現在の天守を復興する際に、礎石保護のためこちらに移して保存しています。
天守北側の下でかつての天守の礎石をここで見ることが出来ます。


鬼門櫓跡

かつて、この先の角に鬼門櫓がありました。



これより本丸です!


本丸

本丸の東側、管理事務所までは入ることが出来ます。


福山城管理事務所

御城印は本来であれば天守入口の受付にて販売となっていますが、工事期間中はこちらにて販売されています。
日本100名城のスタンプや、パンフレットなどもこちらに置いてあります。


100名城スタンプ設置場所

日本100名城のスタンプはこちらにあります。
信長の野望のキャラクターパネルが飾られていたり、プレハブ小屋には天守から外された鯱が展示されています。




今回の工事で破損、劣化が見つかったので新しいものと交換することになりました。
平成からずっと見守って来た鯱です。
ご苦労様でした。


鏡櫓

廃城の際に取り壊されたが、昭和48年に復元されました。
現在は福山城関係の古文書などを保管する倉庫なっています。


月見櫓

こちらも廃城の際に取り壊されましたが、天守復興の際にこちらも復興されました。
眺望が良いため、藩主などの到着をここで見極めていました。


御湯殿

かつて国宝に指定されていた御湯殿は、伏見城の御殿にあったものを移築していました。
昭和20年の戦災によって焼失してしまいました。
福山城では、掛け造りになっているこの湯殿が一番見たくて楽しみにしていました。
中が見学できないのが残念ですが、次回へのお楽しみにとっておくことにします。


筋鉄御門

1602年(慶長7年)に再建された木幡伏見城からの移築門で、昭和20年の空襲での焼失を免れた
現存建物のひとつなのでじっくり見学したいところでしたが、こちらも外壁漆喰壁修復工事のため
足場が組まれ、残念ながら幕で見えませんでした。
でも、天守ともども工事が完了したらまたぜひ訪れたいと思います。


門扉

筋鉄御門の名前の由来ともなった門扉にが縦に筋鉄が打ち付けられているのが確認できます。


御湯殿

現在、御湯殿、月見櫓とも立入禁止区域内にあるので入ることが出来ないのですが
平時には貸会場として貸し出されているようです。


鐘櫓

鐘櫓、格好良いです!
ひとめぼれしました。
一部現存というか、空襲で残存した部分を生かして復興しているとのことですが
とにかく、一目見てこんな立派な太鼓櫓があるとは、流石に城内(本丸)にあるだけあって見た目が違うなあ。


伏見櫓

伏見城松の丸から移築された伏見櫓です。
二階の梁に「松の丸やくら」の墨書がみつかっています。
また、伏見城と言えば豊臣秀吉の指月伏見城を真っ先に思い浮かべるのですが、
ここに移築されている建物は、徳川家康が木幡山に再建した木幡伏見城のものです。


阿部正弘銅像

福山藩七代目藩主の銅像です。
阿部氏十代の中でも最も親しまれた城主様だったことが窺い知れますね。



次回訪れるのを楽しみにして、今回はここまで。


三の丸西御門櫓台

さて帰ろうと駐車場から車を出したところで、前方の鉄道高架下に段ボール??
いや、石垣?と近付いてみると、やっぱり石垣でした!



ここには重臣屋敷にあてられた三の丸の西御門があった場所で
新幹線工事の際発掘調査がされ、そのままこの地に保存されたということです。
櫓台は出枡形になっていて、この櫓台跡に連なる三之丸西外堀の石垣跡が
市営三之丸駐車場南西隅に現存しているとのことですが、こちらは後から知ったので今回見逃してしまいました。


今回は、工事の最中の登城となりましたが以前の私だったらとてもがっかりしていたのですが
だんだん考え方も変わって、この時期、この時代の改修、修理を見られるのは今しかないんだ!と考えるようになり、
見えない、入れないところは多いですがあえてこの時期を見計らってあしを運ぶことが楽しみになりました。
今回は念願の御湯殿の掛け造りが見れたので満足です(^-^)
次に訪れる時はがっつり見て周ることにします。

令和4年5月3日登城

日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス




敏満寺城(滋賀県)

2022年05月10日 | 百名城以外の城
敏満寺城びんまんじじょう
別名敏満寺遺跡
構造平山城
築城者佐々木氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所滋賀県犬上郡多賀町敏満寺 地図

清涼山敏満寺城は、飛鳥時代に胡宮神社の境内に建立された寺で、
湖東の有力寺院のひとつとして西教寺・金剛輪寺・百済寺に並ぶ大寺院でした。
室町時代には佐々木氏がこの寺を守り、代々住職をつとめていました。
戦国期になると敏満寺周辺では六角氏、浅井氏の対立が激しく、浅井氏の軍勢に火を掛けられています。
町や村を守るために敏満寺は城塞化せざるを得なかったとみられ、織田信長に逆らったことにより焼き討ちされています。
発掘調査によって単なる寺院遺構ではなく、城郭としての機能を持っていたことがわかっています。
現在名神高速道路上り線の多賀サービスエリアの中で僅かな遺構を見ることが出来ます。



名神高速道路多賀サービスエリア(上り)

名神高速道路上り線の多賀サービスエリアにやって来ました。
このサービスエリアには敏満寺遺跡が眠っています。
ここはかつて城であったということで、休憩を兼ねて散策しました。
ちなみに、下り線からも連絡路(歩道橋)を使って来ることが出来ます。



スタバと喫煙所の間から郭や空堀が見られます。


案内看板

喫煙所脇に敏満寺遺跡の説明板があります。



石垣と井戸があったようですが、今はまったくそれらしきものは残っていません。
発掘調査後に保護のため埋め戻しているとのことです。


空堀

この坂道を見ると空堀の名残であることが地形から感じられます。


櫓台

ドッグランの方へ向かって行くと土塁が見えて来ます。
郭は土塁で囲まれていたようで、土塁上の角地には櫓があったと推定されています。


土塁

かなりの高さがあってしっかり造り込まれていたのがわかります。
また石垣もあったようですが、彦根城築城の際に多くの石をここから運んでいます。



手前は公園、奥がドッグランになっています。
左手奥の角に本来の虎口があったのですが、やはり真夜中だったのでフェンスがあったりしてよく確認できませんでした。
今度明るい時に寄った際は、ここを重点に散策してみたいと思います。



ドッグランを含む公園内は周囲を土塁に囲まれています。
まるで意図して造られたようですが、郭と土塁の再利用ですね。


歴史人物紹介

公園内は近江の歴史上の人物を紹介する板が複数設置されているので散歩をして
楽しめる構造になっています。
サービスエリアでのトイレ休憩くらいでは時間が足りないかも💧


石碑

土塁の上に「清涼山敏満寺跡碑」があります。
サービスエリア全体を飲み込むほどの広大な土地を持つ巨大な寺院でした。


連絡路

この歩道橋を使って上下線のサービスエリアを往来出来ます。
時間さえあれば、どちらからでも攻城出来るようになっているのがありがたい。


九州行の際、下り線側のサービスエリアを捜索したのですが上り線に遺構や看板があるということがわかり、
連絡路入口だけ確認して帰りにもう一度リベンジすることにしました。
行きも帰りも深夜になってしまい、明るいところでの登城とならずまた何かの機会で寄ることも
あると思うのでその時に虎口などもう一度確認しようかと思います。


令和4年5月1日登城
令和4年5月4日再登城





大穴城(埼玉県)

2022年05月08日 | 百名城以外の城
大穴城おおあなじょう
別名大穴館・大穴山館
構造平山城
築城者
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所埼玉県坂戸市東坂戸1 地図

中世に築かれたと思われる大穴城は、城であった当時のあまり記録がなく
近くにある大堀山館との関連があると推定されますが、詳しいことはわかっていません。
江戸時代初期に旗本の本多九蔵秀玄が館を改修して陣屋を置いたと伝わります。




団地の建設でほとんど遺構は見られない状態です。
ここも公園化されていてどのあたりがどこなのか、地図で見ても面影すらみつけるのが難しい状態です。



公園の一番高い場所に案内看板がありました。
ここが五反山または御殿山と呼ばれていた場所なのでしょうか。


案内看板

城跡を利用して江戸時代には陣屋が置かれていたようです。



手入れされていない公園の外の茂みに何かありそうな予感。


土塁

これは土塁のようですが、これが「コ」の字状に残っていたとされるものの一部なのでしょうか。



危険そうな場所ではないのですが、ゴミが捨てられたり迷惑行為の結果が
このように立ち入り禁止となり、貴重な遺構が見られないようになってしまっています。
とは言え、私有地であればそもそも仕方のない話ではあるのですが。



かろうじて見える土塁と、中に郭があったであろうと思われる場所が外から覗き見することが出来ました。


公園側は何も残っていない感じで、多少高低差は見られるもののこれだけで
どこにあたるのかは想像、妄想は出来ても判断がつきませんでした。
西側の茂みはそれなりに遺構が残っているように見受けられたのですが、立ち入り禁止になっている以上
外から眺めるしかあるまい。
それでも土地改変されることなく残されていくのであれば、まだましなのかなとも思うのでここまでとしましょう。


令和4年2月27日登城


今回の参考本