むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

お城・史跡めぐり(目次のページ)

2030年11月01日 21時33分39秒 | その他史跡



日本100名城

続日本100名城

日本100名城以外の城


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写真館・別館




私が紹介する城址は、「私でも行けるよ」、「こんな場所ですよ」ということが
お伝え出来ればと思って書いていますので訪れる参考にしていただけたら幸いです。  むぎ




私が利用している訪問したお城を記録できるサイトですサポーター(個人スポンサー)しています。
 地図は攻城団から許可をいただき使用してます。※ブログの内容について攻城団には一切の責任はありません。
画像・内容等自主的に自己責任の下攻城団に提供させて頂いてます。




日本百名城塗りつぶし同好会

ブログ内で未登城の城画像はラリー(自動車競技)のお友達であるまゆみさまより協力いただいております。




コメント (10)

荒砥城(長野県)

2019年07月22日 07時14分00秒 | 百名城以外の城
荒砥城あらとじょう
別名新砥城
構造山城
築城者山田氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所千曲市上山田 地図

村上氏の支族である山田氏に築かれた山城です。
川中島合戦の頃には武田軍と上杉軍による争奪戦が繰り広げられました。
1582年(天正10年)武田氏滅亡後、上杉景勝の川中島統治時代には屋代秀正が上杉に従いますが、
その翌年には屋代秀正が徳川家康と通じて荒砥城に籠城、上杉諸将に責められ落城したと伝えられています。



戸倉上山田温泉
戸倉上山田温泉の背後の山に荒砥城が聳えます。
「戸」の上に櫓が見えるのがおわかりいただけるでしょうか。


県道聖高原千曲線

県道聖高原千曲線を進むと見えて来る荒砥城の看板。
看板に従って右折をすると駐車場と入口はもうすぐです。
また、聖高原方面は現在工事中で全面通行止めになっています。


駐車場(下)
先ほどの地点を右折してすぐに駐車場が見えて来ます。
この上にまだ駐車場があるので、上の駐車場が満車の際はこちらを利用します。


バス停

下の駐車場まではバスが来ているようです。
本数は少ないようですが、バスはここで転回して行きました。
ちなみにお客さんは一人乗っていて、ここで降りました。


駐車場(上)

ここが車で登れる終点で、駐車場になっています。
ここからは歩いて登ることになりますが、道は整備されているので歩きやすくなっています。


千曲市城山史跡公園案内図

遊歩道の入口には案内看板があります。


トイレ

遊歩道を歩いて一度くの字に折れて、間もなく石垣とトイレが見えて来ます。


城址碑
建物と城跡碑が見えて来ました。
下がトイレ、冠木門の手前にあるのが案内所です。
また、トイレの奥が四の郭になります。


案内所

こちらで入園料300円を払い、パンフレットをもらっていざ出発です。
ここからはトイレや飲み物も無いので夏場は熱中症にならないように
水分の対策をして行きましょう。
うちわの貸し出しも行ってましたよ(^^)


三の郭

道の途中にある三の郭。
と言っても知らなければまったく見過ごすような郭です。
もちろん、公園化にともない元の形は留めていないものと思われます。


城門

この門の上に登ることが出来ます。
石垣も復元なのですが平べったい石を積み上げたとても特徴的な石垣です。





井楼櫓

狼煙台としても機能していたであろう場所でもあり、その眺望は抜群です。
さらにこの井楼櫓に登って眺めた景色はすばらしいです。


眺望

眼下には戸倉・上山田は温泉地として栄え、街並みや干曲川が一望できます。


櫓から見た本郭

城主の館と兵舎が再現されています。


パノラマ

ここから見える景色の中には多くの山城が入り込んでいます。
三角で特徴的な山には、大河ドラマの「真田丸」でおなじみの寺島進さんが演じた
出浦昌相の名が知られ、注目されるようになった出浦城があります。
出浦城も冬になったら行ってみたいと思っているところです。


兵舎

兵舎を再現して展示室としています。


映像室

荒砥城が築かれた頃の様子や戸倉上山田温泉の観光案内のビデオを上映しています。
ここでめっちゃ蚊にさされたので、この時期は虫よけはお忘れなく!


展示室

山の城と麓の城の紹介や出土品の展示をしています。


冠木門

本郭と二の郭との区切りの門です。


城門

本郭への入口です。
撮影のセットのよう…実際撮影に使われているのでセットと言っても過言ではない^^;


館と兵舎

こちらは以前訪れた時の画像です。
時間外なので扉は閉まっていて中の様子は見られませんでした。




今回は開園している時間でのリベンジだったので中の様子もちゃんと見られました。



ここに偉そうに座って記念撮影しちゃいました


裏側
裏側は食糧庫にしていたであろうという想定で再現されている造りになっています。


兵舎内部

本郭の兵舎内部はNHKの大河ドラマの収録の様子が展示されています。



NHKの大河ドラマ「風林火山」や「江」にも使用されました。


展望台

とにかく多くの山城や砦がいっぱい見えるところなので
景色が良いというだけでなく山城好きにはヨダレものです。



雨上がりで靄がかかり幻想的な雰囲気の中での登城でした。
残念な天気だなあと思ったものの、少し晴れ間も見えて来てこれもまた良い雰囲気でした。



かくれんぼ?
後ろから丸見えです^^;
この写真も以前訪れた時のものですが、風景は今とほとんど変わらないのですが、
ここに写る我子は、もう高校生になっています。



さて、そろそろ帰りましょうか。





以前訪れた時は夕方で、かろうじて受付に係員さんが居たのですが残念ながら城址は戸締りをした後でした。
それでも親切にせっかく来てくれたのだからと城址には入れてくれました。
その後我々が帰るまで待っていてくれたので入口で引き返すこともなく外からだけですが
見学することが出来ました。
今回は入園料を支払って建物内も見学して参りました。
今回は小雨の中での登城となり、ここでは天気に恵まれないのだなあと…。
それでもこれだけの景色が楽しめる場所なのでを持って散歩に来るのも
ありかなと思います。
そしてここから背後にある本城や小城は冬に出直したいと思います。


平成24年9月22日登城
令和元年7月20日再登城


甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館
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常陸太田城(茨城県)

2019年07月18日 06時48分18秒 | 百名城以外の城
常陸太田城ひたちおおたじょう
別名佐竹城・舞鶴城・青龍城
構造平山城
築城者藤原(小野崎)通延
築城年代 1109年(天仁2年)
指定史跡
場所常陸太田市中城町151 地図

常陸太田城は、小野崎通延が築城し馬坂城を居城としていた佐竹隆義が
小野崎氏を小野崎城へ追いこみ常陸太田城を入手、佐竹氏の本城としました。
佐竹氏は会津上杉討伐や関ヶ原合戦に参陣しないなど
徳川家康に反抗的態度が多かったために、秋田に国替えを命じられました。
秋田移封後は水戸藩の支庁が置かれ明治初期に廃城となりました。



西本郭

太田小学校へやって来ました。
学校はお休みで、職員室を訪ねてみたのですが先生方はいらっしゃいませんでした。
通報されないように体育館に居た保護者の方に声を掛けて、
事情(城跡を見に来たこと)を告げました。


舞鶴城址碑

西本郭の太田小学校の門を入ってすぐに城跡碑があります。


今上(昭和)陛下御駐蹕の碑

小学校裏の現存土塁とされる場所付近にある石碑は
1929年(昭和4年)に陸軍特別大演習が行われ、
その際に、天皇陛下が太田小学校にお立ち寄りになられたことを
記念して建てられたものです。


日下部父子の碑と益習館跡

水戸藩が庶民の教育機関として設けた郷校のひとつで
益習館の初代館守を務めた日下部連と、その子である伊佐治の功績を称えた碑です。



埋蔵文化財発掘調査

ここは日本たばこ産業が所有していた旧太田倉庫跡地です。
三の郭に位置する場所に来てみたら…発掘調査中でした。



住宅地にするための発掘調査のようです。



この後、9月以降は住宅地建設となっていくのでしょうか…。
そもそも工場があった場所なので今更ながら遺構がどうのという感じではないかもしれません。
しかし、ここに舞鶴城があったことを研究し、語り継いでいる方々に敬意を表したいと思います。



学校にある城址碑だけかなとあまり期待せずに行ってみたのですが、
広く城址の面影(土塁や堀)と地名など名残がのこり、発掘調査中であったりと
思いの外歴史を感じる場所じゃないか!と思いました。
三の郭から9月までに何が出て来るのか、新発見があることを期待します。


令和元年7月13日登城



改訂版 図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会
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小野崎城(茨城県)

2019年07月18日 06時47分54秒 | 百名城以外の城
小野崎城おのさきじょう
別名
構造平山城
築城者小野崎通盛
築城年代1145年―1151年(久安年間)
指定史跡
場所常陸太田市瑞竜町小野崎 地図

小野崎通盛は、小野崎に館を構えていたことから小野崎新太夫と称しました。
佐竹昌義の家臣となり、その勢力は宿老・守護代へと発展していきました。
その後佐竹領の拡大に伴い、小野崎城から櫛形城へと所領替えとなり
小野崎城は廃城となりました。



城址碑

常陸太田市立瑞竜中学校にある城跡碑の撮影許可を取りに職員室を訪ねました。
撮影許可と他に遺構がないか尋ねてみたのですが、残念ながら遺構は残っていないとのこと。
東側の一段下(里川側)から遠景で見ると城(館)を置きそうな地形であることがわかります。
しかしそれ以外城跡であったことを偲ぶ材料がみつかりませんでした。
近くには白鷺神社が目につく。
ここには今宮館跡があるらしく、入口にはバイクの先客がいました。
佐竹永義の館があった場所とされますが、現在館跡には白鷺神社の境内になっています。


城址碑以外学校敷地内の撮影は遠慮致しました。
遠景を見てその立地条件から、かつての城跡を想像しながら後にしました。


令和元年7月13日登城


ドライブレコーダー 前後カメラ 2019最新版 32GB SDカード付き 永久保証付き 1080PフルHD 1800万画素 LEDライト付き 4インチ 170°広視野角 SONYセンサー/レンズ 常時録画 G-sensor( WDR)
Silintion
Silintion



日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社
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総社城(群馬県)

2019年07月12日 08時02分50秒 | 百名城以外の城
総社城そうじゃじょう
別名植野城
構造平城
築城者秋元長朝
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所前橋市総社町総社 地図

総社に封ぜられた秋元長朝は蒼海城を放棄し、この地に築城したのが総社城です。
秋元氏は天狗岩堰の揚水灌漑工事を行い、城下に水路を引き、城下町の整備も行いました。
秋元泰朝の時代になると甲州谷村に移封され、廃城となりました。



城川公園

現在、本丸と二の丸の一部は利根川に削り取られて失われています。
また、残った二の丸部分と三の丸も宅地化が進み遺構は残っていません。



この壁、和風にはみえないですが、塀に開いた穴が狭間に見えます。^^;


案内看板
城川公園に設置されている案内看板です。


堀跡

城川公園から振り返って道の東側を見ると堀の名残なのか?と想像するにも
ちょっと難しいような二の丸跡があります。
今も造成が続いていて、その面影はもはや想像をもしがたい状況です。


物見台

給人町屋敷側から見た物見台。
住宅化が進み、現在残る遺構としてはこの物見台くらいです。


遠見山古墳
城川公民館へやってきました。
遠見山古墳を利用した物見台です。
この日は何やらイベントがあるらしく、地元の方々が何かの準備をされていたので
駐車は出来そうになかったので、車から私だけ降ろしてもらってひとりで散策へ。
※行事等何もなければ城川公民館への一時的な駐車は可とされています。



すると、そのイベントに来た?のか近くにある「前橋市総社歴史資料館」の方が
私を見つけて話しかけて下さり、総社城と秋元氏と天狗岩用水の説明をして下さいました。
現地で詳しい話が聞けてラッキーでした。
また、「前橋市総社歴史資料館」へ行けば総社城や秋元氏に関しての資料が
あるとの話でした。


天狗岩用水路

早速教えていただいた天狗岩用水路を見に来てみました。
ここは熊谷稲荷の東側を流れる水路です。
秋元氏が総社の町を豊かにしたとして二代30年余りでしたが
転封後もなお領民に愛されました。


熊谷稲荷神社・天満宮

熊谷稲荷神社があります。
秋元氏が甲州へ転封になり、高崎城主安藤重長の領地となり陣屋を構えたのも
この付近になります。



陣屋を構え、高田弥兵太代官が支配するようになると重税で農民たちは困窮し
熊谷稲荷神社に参集し、加護を祈ったそうです。
この時、江戸に直訴に行った際に助けてくれたのが秋元氏であったことも
総社の民にとってどんなに救われたことか。



前橋市総社歴史資料館の方に偶然出会えてラッキーでした。
この辺りの地元の方々はとにかく秋元氏推しなのだそうで、秋元氏愛を力説されたので
もう少し秋元氏について調べてみたくなりました。
甲州へ転封の後に館林城へ転封になっているので、場所は違うけど群馬には帰って来られたのですね。
折を見て「前橋市総社歴史資料館」を訪れてみたいと思います。
秋元氏愛にあふれた総社城訪問でした。。。。


令和元年6月16日登城


日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社
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