むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
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[カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」
萩原 さちこ
マイナビ出版





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伊勢長島城(三重県)

2020年08月09日 | 百名城以外の城
伊勢長島城いせながしまじょう
別名長島城・松箇島城
構造平城
築城者藤原道家
築城年代 1245年(寛元3年)
指定史跡
場所三重県桑名市長島町西外面 地図
城郭検定 出題あり

長島城は、文明年間(一四六九~八七)に伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられる
伊藤重晴が長島を治め築城したと言われています。
長島一向一揆の時には織田信長の攻撃を受け、天正二年(一五七四)に包囲され敗れました。



長島城跡は現在長島中部小学校と中学校の敷地になっています。


案内看板

案内看板のある道路向い側に駐車場もあります。



長島城は明治5年の廃城後、伊勢暴動で焼失し、堀も徐々に埋め立てられました。
多くの建物が焼失した中、残った奥書院の居間は深行寺本堂に移築され、
大手門は蓮生寺表門となり現存しています。


長島の大松

そして、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上のクロマツがこの地に残っています。


ちょい寄りだったので現存建物はおろか、周辺地形の確認すらしてこなかったので
ほぼ行っただけのようなものになってしまいました。
縄張図と現在の地図を見比べると、当時の面影も見えて来るので
それを基にもう一度散策してみたいなあと心残りが…。
またの機会に。。。


令和2年7月25日登城




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上津部田城(三重県)

2020年08月08日 | 百名城以外の城
上津部田城こうづべたじょう
別名御城屋敷
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所三重県津市一身田上津部田 地図

上津部田城は、いつ、誰が築城したのか分かっていません。
この付近には御城屋敷が三ヶ所あったとされ、そのうちのひとつでは
ないかと推定されています。
三ヶ所ある御城屋敷のうち、判明しているのがこの地から東に500mほど
離れた場所にある峯治城です。


駐車場

上津部田城へのアクセスはいくつか選択肢があるのですが、道路の下から攻めるか
上から攻めるかというところで、私は上から攻めてみようと、
三重県総合文化センターのA-1の駐車場へやって来ました。




駐車場から堀切を覗き込んでいます。
大きな堀を挟んで、茂みの側が主郭になります。



三重県総合文化センターの裏を遊歩道の方(三の郭)へ抜けて行きます。


遊歩道

遊歩道が通るこの辺りが三の郭になります。




舗装が無くなると主郭を囲む堀底に出ます。
堀底を歩き南西の虎口を目指します。



案内看板が見えて来ました。
この階段を登ると主郭です。


案内看板

ちゃんと案内看板があります
縄張図も想像図もあって良かった!(あまり資料を持ち合わせていないもので)


主郭

草だらけで建物跡は見えません。
雨の中の訪問で、足元はとても滑る状態です。
土塁を下るのも一苦労です



トンネルの真上を見ています。
一応公園なのですが、
草だらけで普通の人は、とても入って行ける状況ではありません。



それでも、看板と井戸が見えるので吸い寄せられるようにやって来ました。
ここまでなら多少、草も低い。



この先に虎口の門跡(礎石)もみつかっているようですが…草が行く手を阻んでいます。
藪というほどではないので行けなくはないのですが、雨露もあるのでここで
濡れる訳にもいかないのでこれより先は断念します。
せめて晴れていたらなあ。。。


井戸

円形で石組みのない、素掘りの井戸がみつかっています。


建物跡

草に埋もれていた建物跡が、こちら側から見ることが出来ました。
でも一部しか現れていないので実際の規模はよくわかりません。


土塁

主郭の土塁は良好に残っている?のかな。
それとも、公園になった時に復原されたものなのかな。


虎口

東側に開いた虎口。
四の郭へと繋がるようです。



先ほどの、主郭西の案内看板のある虎口まで戻って来ました。
この階段を下り、右へ下ると下の道路に出ます。(トンネル脇)
左へ行くと四の郭の方へ。


四の郭

道のように見える部分は主郭との間の空堀です。


駐車場

駐車場C-9へやって来ました。
今度は下から見上げてみました。


案内看板

駐車場C-9の他にC-8から先ほどの三の郭の遊歩道側からのルートもあります。
どの駐車場からも近いので助かります。




道路建設で失った遺構をこのような形で復元されるだけ、有難いのかなと思います。

余談ですが、ここも春風亭昇太さんが来られていたのですね。
また先を越されてしまった!!
私の地元も、わりと先を越されている城があるので、競ってるつもりはないのですが、
意識してしまいます
でも、先を越されたと思うたびに「ガチだなあ」と嬉しくなってしまいます


令和2年7月25日登城


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若山城(三重県)

2020年08月02日 | 百名城以外の城
若山城わかやまじょう
別名亀山古城・丹陵城・粉蝶城
構造平山城
築城者関実忠
築城年代1265年(文永2年)
指定史跡
場所三重県亀山市若山町 地図

若山城は、亀山城の前身であり、関氏歴代の居城でした。
しかし、1573年(天正元年)織田信長により関父子は若山城を追放され
信長の子である神部信孝に与えられました。
1583年(天正11年)羽柴秀吉が攻城した際、秀吉側に付いた関氏が
再び若松城の城主となりました。
その後、関氏は陸奥の白河城へと移されると、岡本良勝が入城するが
1590年(天正18年)新たに亀山城を築き、若山城は廃城となりました。



城址石柱

若山城南側の交差点に城址碑が立っています。



ふと足元を見ると、マンホールの蓋が亀山城の本丸石垣と東南隅櫓ではないか!
あやうく踏みそうになって、反射的に避けてました^^;
いや、お城が描かれていたら踏めませんて。。。


案内看板

城址碑の他に案内看板も設置されています。
しかし、登城口が見当たらないのでとりあえず歴史博物館に行けば
何か分かるかもしれないので、まずはそちらに行ってみようと思います。


歴史博物館

手掛かりを求めて歴史博物館へやって来ました。
早速、受付で聞き込みしました。
…残念ながら私有地のため城址を見ることは出来ないとのことでした。



公園側から最も古城へ接近出来る場所を探してみることにしました。



フェンスの外が若山城なのですが…。
ここまでかな。


若山家中屋敷

この古城の住宅地になっている辺りは、亀山城の西出丸外縁部北側に設けられた
家中屋敷で、5軒の屋敷がありました。
現在ある住宅がその方たちのものかどうかはわかりませんが
若山城廃城後は亀山城の家中屋敷になっていたようです。


若山別墅跡

正面の池の先の森林が若山城跡です。
ここは若山別墅跡で、1654年(承応3年)に亀山城主であった石川昌勝によって
築かれた景勝地です。
また、北側に流れる椋川が天然の堀の役割を果たしていたものと考えられています。


亀山城とセットで歴史博物館を訪れると、自然に古城へ足を運んだことになります。
残念ながら個人宅があって本丸辺りを散策することは叶わなかったのですが
そもそも案内看板を読むと、明確な遺構も出ていないとのことです。
城の有無も分かっていないし、範囲も明らかでないのが現状のようです。
しかし、地形から見ると段差もあり、歴史博物館を含む亀山公園全体と
北側を流れる椋川までが城域だったのではなかろうかと想像することが出来ます。
※古城と記された記事や絵図などは残されています。


令和2年7月25日登城


今回の参考本


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船江城(三重県)

2020年07月31日 | 百名城以外の城
船江城ふなえじょう
別名
構造平城
築城者本田氏
築城年代1415年(応永22年)
指定史跡
場所三重県松阪市船江町549 地図

船江城は、参宮街道沿いの浄泉寺あたりにありました。
北畠氏が応永年間に挙兵した際に、「船江城軍は強固で、
屈強の軍兵であるので城を抜くことは容易ではないから、迂回作戦をとり、
山際を通ってまず阿坂城を攻めることとした」という記述を「勢州軍記」に載せています。
現在遺構は残っていませんが、境内に沿った用水路が堀の名残ではないかと
思われています。



駐車場

浄泉寺東側に隣接する参拝者の駐車場をお借りして
参拝しながら散策です。
東側から境内に入るととても近いですが、山門からお入り下さいと
書いてあるので南側へ回って山門から入りましょう。


山門

山門から入る理由として、
山門は三門(東西南)で知恵門・慈悲門・方便門で
悟りの障害を取り除く門
また、三解脱門とも言い、空=宇宙観 無和=無差別 無作=無欲を表した門であり
本堂と一体化し心身を清める意味があります。
浄泉寺では、このような表示をしています。


鬼瓦(寺紋)と飾瓦(狛犬)

山門にも本堂にも魔除けの飾り瓦が載っています。


本堂

本田左京亮の菩提寺となった浄泉寺。
散策前にとりあえずお参りが先決です。


観音堂

1738年(元文3年)に建立された観音堂。


立ち葵の紋

寺紋の立ち葵の紋は本田家の紋です。
至る所に寺紋で、家紋でもある立ち葵が目に入ります。


宝筐印塔

宝筐印塔があるということは歴史がある(古い)ということですね。


沿革碑

1626年(寛永3年)現在地船江城址に本田家子孫真寮上人浄泉寺を建立と記されています。
案内看板などはありませんが、この地が船江城であったことがこの石碑から
読み取ることが出来ました。


地蔵堂

1846年(弘化4年)に建立。


弁天様

弁天様は七福神の中で財宝を司る女神です。
治水や土地、農業の神様です。


857年(天安元年)開基で、本田家の氏寺として別の場所(中之町)にありました。
ところが1577年(天正5年)に焼失、徳川の世になってから船江城のあった現在の地に
浄泉寺を建立したようです。
小雨の中、急ぎ足での訪問となり、周辺の散策は割愛したため、唯一の名残である
水路、または背後にある百々川の様子は見ていませんでした。


令和2年7月24日登城



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