むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

お城・史跡めぐり(目次のページ)

2030年11月01日 | その他



日本100名城

続日本100名城

日本100名城以外の城


現存12天守


陣屋跡・館跡   関所跡・宿場跡      その他           

御殿   古戦場跡   物見台・狼煙台   イベント・行事


御当地自動販売機


写真館

写真館・別館


日本城郭検定 第16回 2020年6月7日(日)中止決定
次回     第17回 2020年11月15日(日)開催予定 

日本城郭検定に挑戦してみよう! 過去問へ



私が紹介する城址は、「私でも行けるよ」、「こんな場所ですよ」ということが
お伝え出来ればと思って書いていますので訪れる参考にしていただけたら幸いです。  むぎ




私が利用している訪問したお城を記録できるサイトですサポーター(個人スポンサー)しています。
 地図は攻城団から許可をいただき使用してます。※ブログの内容について攻城団には一切の責任はありません。
画像・内容等自主的に自己責任の下攻城団に提供させて頂いてます。



内閣府認定・公益財団法人
日本城郭協会
公式ホームページはこちら 
会員:17151653


日本百名城塗りつぶし同好会


ブログ内で未登城の城画像はまゆみさまより協力いただいております。



むぎの城さんぽ - にほんブログ村



[カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」
萩原 さちこ
マイナビ出版





コメント (10)

若山城(三重県)

2020年08月02日 | 百名城以外の城
若山城わかやまじょう
別名亀山古城・丹陵城・粉蝶城
構造平山城
築城者関実忠
築城年代1265年(文永2年)
指定史跡
場所三重県亀山市若山町 地図

若山城は、亀山城の前身であり、関氏歴代の居城でした。
しかし、1573年(天正元年)織田信長により関父子は若山城を追放され
信長の子である神部信孝に与えられました。
1583年(天正11年)羽柴秀吉が攻城した際、秀吉側に付いた関氏が
再び若松城の城主となりました。
その後、関氏は陸奥の白河城へと移されると、岡本良勝が入城するが
1590年(天正18年)新たに亀山城を築き、若山城は廃城となりました。



城址石柱

若山城南側の交差点に城址碑が立っています。



ふと足元を見ると、マンホールの蓋が亀山城の本丸石垣と東南隅櫓ではないか!
あやうく踏みそうになって、反射的に避けてました^^;
いや、お城が描かれていたら踏めませんて。。。


案内看板

城址碑の他に案内看板も設置されています。
しかし、登城口が見当たらないのでとりあえず歴史博物館に行けば
何か分かるかもしれないので、まずはそちらに行ってみようと思います。


歴史博物館

手掛かりを求めて歴史博物館へやって来ました。
早速、受付で聞き込みしました。
…残念ながら私有地のため城址を見ることは出来ないとのことでした。



公園側から最も古城へ接近出来る場所を探してみることにしました。



フェンスの外が若山城なのですが…。
ここまでかな。


若山家中屋敷

この古城の住宅地になっている辺りは、亀山城の西出丸外縁部北側に設けられた
家中屋敷で、5軒の屋敷がありました。
現在ある住宅がその方たちのものかどうかはわかりませんが
若山城廃城後は亀山城の家中屋敷になっていたようです。


若山別墅跡

正面の池の先の森林が若山城跡です。
ここは若山別墅跡で、1654年(承応3年)に亀山城主であった石川昌勝によって
築かれた景勝地です。
また、北側に流れる椋川が天然の堀の役割を果たしていたものと考えられています。


亀山城とセットで歴史博物館を訪れると、自然に古城へ足を運んだことになります。
残念ながら個人宅があって本丸辺りを散策することは叶わなかったのですが
そもそも案内看板を読むと、明確な遺構も出ていないとのことです。
城の有無も分かっていないし、範囲も明らかでないのが現状のようです。
しかし、地形から見ると段差もあり、歴史博物館を含む亀山公園全体と
北側を流れる椋川までが城域だったのではなかろうかと想像することが出来ます。
※古城と記された記事や絵図などは残されています。


令和2年7月25日登城


今回の参考本


コメント

船江城(三重県)

2020年07月31日 | 百名城以外の城
船江城ふなえじょう
別名
構造平城
築城者本田氏
築城年代1415年(応永22年)
指定史跡
場所三重県松阪市船江町549 地図

船江城は、参宮街道沿いの浄泉寺あたりにありました。
北畠氏が応永年間に挙兵した際に、「船江城軍は強固で、
屈強の軍兵であるので城を抜くことは容易ではないから、迂回作戦をとり、
山際を通ってまず阿坂城を攻めることとした」という記述を「勢州軍記」に載せています。
現在遺構は残っていませんが、境内に沿った用水路が堀の名残ではないかと
思われています。



駐車場

浄泉寺東側に隣接する参拝者の駐車場をお借りして
参拝しながら散策です。
東側から境内に入るととても近いですが、山門からお入り下さいと
書いてあるので南側へ回って山門から入りましょう。


山門

山門から入る理由として、
山門は三門(東西南)で知恵門・慈悲門・方便門で
悟りの障害を取り除く門
また、三解脱門とも言い、空=宇宙観 無和=無差別 無作=無欲を表した門であり
本堂と一体化し心身を清める意味があります。
浄泉寺では、このような表示をしています。


鬼瓦(寺紋)と飾瓦(狛犬)

山門にも本堂にも魔除けの飾り瓦が載っています。


本堂

本田左京亮の菩提寺となった浄泉寺。
散策前にとりあえずお参りが先決です。


観音堂

1738年(元文3年)に建立された観音堂。


立ち葵の紋

寺紋の立ち葵の紋は本田家の紋です。
至る所に寺紋で、家紋でもある立ち葵が目に入ります。


宝筐印塔

宝筐印塔があるということは歴史がある(古い)ということですね。


沿革碑

1626年(寛永3年)現在地船江城址に本田家子孫真寮上人浄泉寺を建立と記されています。
案内看板などはありませんが、この地が船江城であったことがこの石碑から
読み取ることが出来ました。


地蔵堂

1846年(弘化4年)に建立。


弁天様

弁天様は七福神の中で財宝を司る女神です。
治水や土地、農業の神様です。


857年(天安元年)開基で、本田家の氏寺として別の場所(中之町)にありました。
ところが1577年(天正5年)に焼失、徳川の世になってから船江城のあった現在の地に
浄泉寺を建立したようです。
小雨の中、急ぎ足での訪問となり、周辺の散策は割愛したため、唯一の名残である
水路、または背後にある百々川の様子は見ていませんでした。


令和2年7月24日登城



コメント

西尾城(愛知県)

2020年07月27日 | 百名城以外の城
西尾城にしおじょう
別名鶴城・鶴ヶ城・錦丘城・西条城
構造平山城
築城者足利義氏
築城年代1221年(承久3年)
指定史跡市指定史跡
場所愛知県西尾市錦城町231-1 地図

西尾城は、1221年に起った承久の乱の戦功により
三河国守護に任じられた足利義氏が築いたと伝わる城です。
やがて義氏の子孫が吉良を名乗るようになり、吉良荘と呼ばれる西尾地区を
統治することとなりました。
西尾城の特色として、天守は本丸ではなく二の丸にあり、城下を堀で囲む
総構えで城下町と結ぶ主要個所に五つの門を設けていました。



駐車場

二之丸丑寅櫓、同櫓と天守台を結ぶ土塀の復元が完成した二の丸駐車場に
車を置いて、いざさんぽです!


天守台

まずは外側から眺めてみます。
綺麗に石垣が積まれた部分が天守があったという天守台を復元したものです。



綺麗に隙間なく石が積まれています。


丑寅櫓と土塀

折れのある土塀と丑寅櫓です。
塀と土塁が2ヶ所も折れているのはめずらしいらしい。


折れ

丑寅櫓から天守台につづく土塀は、木造で控え柱である構造で、「屏風折れ」と言われる土塀です。
折れに対応して土手も張り出しているのが特徴ですが、宇都宮城の土塀を思い出しました。


二の丸

本丸より広い二の丸に天守が築かれていたという。
(本丸には神社があり、手狭だったからという説があります。)



天守台の下にある大きな石は、発掘調査で出土した石を展示しています。


出土石

正面真ん中の周囲と少し色の違う石は、出土した石を再使用したものです。


天守台

西尾市が開発したスマートフォン用アプリをダウンロードして行くと、現地でのARや
現地でなくても楽しめるVRでCG化された天守や城内の様子が見ることが出来ます。



今後、ここに天守が建つことが計画にあるので
完成が楽しみですね。
私が元気なうちにぜひ完成させてもらいたいものです。



内側から見た土塀の折れです。


二之丸丑寅櫓

朝なのでまだ入り口の扉は開いていません。
しかも新型コロナウイルスの影響で中に入っての見学も出来ないようです。



シンプルながら印象に残るデザインの櫓です。



さて、本丸方面へ行ってみましょう。
まずは鍮石門を通って行きたいと思います。


案内看板

西尾城は、現在公園として市民の憩いの場になっています。


鍮石門

鍮石門は、城主の居所である二之丸御殿に至る表門でした。
扉に真鍮が飾られていたとからこの名が付けられたとも言われています。



鍮石門の内側です。


土塁

鍮石門両脇に残る土塁の上にも土塀が復元される計画があるようです。


丸馬出

綺麗な庭園になっている丸馬出です。



発掘調査により二重堀の丸馬出があったことが判明しています。
白い砂利の部分が発掘調査後に埋め戻された掘の跡です。


旧近衛邸

茶の湯文化を伝える旧近衛邸は、島津家によって江戸後期に建てられたものです。
書院と茶室があり、お茶を一服(和菓子付きで450円)いただけます。
庭園を眺めながらのんびり過ごしたいものです。


大名櫓型時計塔

ボタンを押すと歴史ガイドや歌が流れる仕組みなっています。
なんとな~くこの時計に見覚えがあるような


本丸水堀

だいぶ草に覆われてしまっています。


西尾神社

戦後に造られたという西尾神社。
他にも本丸内には御剱八幡宮があり、天守は…本丸の外。(二の丸)
城主さまより神様の方が偉い!


御剱八幡宮

足利義氏が西条城を築城する時に今の場所へ移し、
源家相伝の宝剣「髭切丸」と「白旗一流」を納めたと伝えられています。


拝殿

1678年(延宝6年)に当時の西尾城主・土井利長が再建したもので、
屋根は檜皮葺です。


城址碑



本丸井戸

本丸の井戸は、織田信長が吉良荘へ鷹狩りに訪れた際に使用したと伝えられています。


御殿緋桜

西尾藩大給松平氏が愛でたという寒梅桜。
まだ、若い樹のようなので何代目なのでしょうか…。


本丸丑寅櫓入口

朝早かったので、まだ開いていません。
以前訪れた時には見学をしているのですが、その時の写真は見つからず…


本丸表門跡

姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門がここにありました。
現在は南側の土塁と石垣は失われ、丑寅櫓側の石垣と礎石のみが残されています。


本丸丑寅櫓

平成8年に再建された本丸丑寅櫓は、本丸の北東の隅に建てられた櫓です。
以前訪れた時は中の見学をしました。
今は違うと思いますが、埃だらけのスリッパを履くのを躊躇われた思い出が残っています。
(そんな思い出かい!すみません


姫丸

以前はまったく意識しなかった縄張りですが、資料館のあるこの辺りは
姫丸と呼ばれる曲輪だったんですね。


西尾市資料館

姫丸にあるこの資料館も以前は見学しました。
また、ここからお堀の「亀」を子供たちと喜んで見ていたのを思い出されます。
今は子供たちもお城に飽きて⁉近頃はあまり着いてきてくれなくなってしまいました。



東の丸(西尾小学校)と姫丸の間の堀です。



まだまだ整備の計画があるようなので、次回はいつになるのかな?
天守が完成したらまた訪れるかもしれません。


二の丸丑寅櫓と土塀の完成の話題を見て、行ってみたくなりました。
初の訪問だと思いきや…本丸丑寅櫓と資料館はよ~く覚えています。
????来たことあったっけ????鍮石門?あったっけ??
実は初めて岡崎城を目指した際に、吉田城とともに訪れていたことをすっかり忘れていました。
当時はとにかく建物のある城しか興味が無く、ネットで櫓などある城址を検索して
ただただ観て回っていたので、西尾城と吉田城とごちゃ混ぜの記憶しか残っていなかったことに
驚きました。
攻城団のような行った記録を残しておけるサイトが当時は無かったので、沢山巡っているうちに記憶が
ごちゃごちゃになってしまっていたようです。
今はブログと攻城団の記録があるので、思い出の引き出しがいつでも引き出せて便利なものです。
これは吉田城の方も、もう一度行き直しをしないと、西尾城ミックスの記憶のままですね…


平成24年6月24日登城
令和2年7月19日再登城


今回の参考本


組立も簡単、お手頃でおすすめ!
コメント

渋見城(三重県)

2020年07月26日 | 百名城以外の城
渋見城しぶみじょう
別名渋見砦
構造山城
築城者乙部藤政
築城年代1558~70年(永禄年間)
指定史跡市指定史跡
場所三重県津市渋見町城 地図

渋見城は、織田信長の伊勢侵攻に対し築城されました。
1570年(永禄13年)織田信長の弟信包に攻められ、城は落城しました。
藤政は家所へ逃れ自殺したとも、織田軍に加わったとも、寺に入ったとも
諸説ありますが、詳細は不明です。



公園北側出入口

住宅団地造成され、現在は渋見砦跡公園になっています。
周囲に駐車場は無いので通行の邪魔にならないよう端に寄せて素早く散策しました。



この日はあいにくの雨で、誰もいません。
もともと乙部氏の乙部城は平地にあったため、信長の伊勢侵攻に対し戦略上不利なため
山地の渋見に場所を移し築城したと言われています。
ちなみに、城址碑の前には海抜110mの表示がされています。


城址碑

一段高くなった場所に城址碑があります。
案内看板はありませんが、碑の裏に説明文が刻まれています。



公園南側の出入口にも大きく看板が建てられているので
どちらから来ても目に止まります。



丘になっていることがわかる道路です。
この先の道路下の一段下がった宅地が奥屋敷跡と思われます。


位置的には津の中心部のおさえの場所ではありますが、城としては未完成だったようです。
かつては丘陵地の北には堀と土塁、西には土塁が巡らされた郭と、
その東側には一段高くなった東郭を中心に南側にも小さな郭があったようです。
三重県環境生活部文化振興課のホームページで縄張図を拝見すると
結構造り込んであったじゃんて感じがするんですけどね。
残念ながら遺構は残っておらず、地図を上から見るとかろうじて
位置を推測できる形になっています。


令和2年7月25日登城


今回の参考本



コメント (2)