むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

お城・史跡めぐり(目次のページ)

2031年01月01日 | その他
                                                
写真:岩国城


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清水袋城(静岡県)

2022年08月19日 | 百名城以外の城
清水袋城しみずふくろじょう
別名清水城・袋城・浜清水袋城
構造海城
築城者武田信玄
築城年代1569年(永禄12年)
指定史跡
場所静岡県静岡市清水区本町 地図

清水袋城は武田信玄が築いた海城で、武田水軍の根拠地となった城です。
巴川河中に扇状に突き出して築かれた珍しい縄張で、馬場美濃守信房がが担当したものと伝わります。
1582年(天正10年)武田勝頼が滅亡すると、徳川家康の支配となり武田水軍は徳川水軍へと
変わり、城も家康の持城となりました。
慶長13年、家康が駿府城へ隠居するとこの城の存在価値を失い、
本城の外堀を埋めて町屋を建てて廃城とし、清水における武田の支配はわずか14年でした。


上総稲荷神社

江戸時代初期には廃城となり、堀は埋め立てられ町屋にしているので
現在は遺構も残っておらず、宅地になっています。


旧袋城の石

「旧袋城の石」と黄色い文字で記されていた唯一の遺構?がこの石のようです。
文字はすでに消えています。
でも、これって消えると誰か書き直してくれているのではないだろうか…。


社殿

袋城内にあったと伝わる稲荷神社を遷座したと伝わる上総稲荷神社は、1837年(天保8年)に創建されました。
安政南海地震により社殿が倒壊したため、1873年(明治6年)に再建されました。



やはり周囲を見渡しても、地図を見ても、名残らしきものもみつからず…。


巴川口を扇状に埋め立てて、船が停泊できるように構築したという、武田式海城を見てみたかったです。


令和4年8月15日登城


今回の参考本



小川城(静岡県)

2022年08月17日 | 百名城以外の城
小川城こがわじょう
別名法永長者屋敷
構造平城
築城者長谷川正憲
築城年代1394~1428年(応永年間)
指定史跡
場所静岡県焼津市小川城内 地図

小川城は、堀と土塁で囲まれた「長者屋敷」と呼ばれる平城で
焼津の海岸線から約1kmほど内陸に位置し、小川湊にも近いこともあり、
海と陸を押さえるための要所として築かれました。
城主は小説やドラマでお馴染みの「鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵の祖となる
長谷川正宣で、今川氏と関係が深く小川城にて龍王丸(今川氏親)を匿ったこともあります。
その後小川城は、武田信玄の駿河侵攻によって廃城となりました。



城址碑と案内看板

発掘調査後遺構は埋め戻され、宅地と化していて現在遺構を見ることは出来ません。
しかし、長谷川氏が龍王丸を匿う間、次期今川家当主を担うことが出来るよう
小川城で武士のしきたりなど龍王丸の教育の場として武家屋敷のような主殿を構えていたと
考えることが出来るような遺構や建物跡がみつかっています。


案内看板

発掘調査では多種多様な発見がされており、建物跡、井戸、板塀、柵、門といった遺構のほか、
周辺では陶磁器や茶道具、人々が生活に使っていた下駄も出土しており、
城下町も繁栄していたことも伺い知れます。


虎口方面

この方向に館正面の堀や虎口(出入口)がありました。
堀は障子堀なのですが、ここでの堀内の区切りは敵の侵入を防ぐためのものではなく
内部に均等に水を溜めておくための仕組みとされていたようです。
もちろん、堀そのものは敵の侵入を防ぐために造られた仕組みではありますが。


住宅地の中にある城址碑と案内看板。
駐車場も無いので、本当にここを見るだけで周囲の住民の迷惑にならないよう慌てて立ち去ることに。
城の遺構は残っていませんが、今川義忠の死後に起きた家督争いの際、義忠の正室北川殿が幼い龍王丸を連れ、
城主の長谷川正宣を頼りに小川城へ身を寄せていたことと、
後に北条早雲の活躍と、ここで身に着けた教養によって今川家の家督を継ぐことができたということを
城址碑と看板があることで知ることが出来ました。


令和4年8月14日登城


今回の参考本



立川氏館(東京都)

2022年08月11日 | 百名城以外の城
立川氏館たちかわしやかた
別名立川城・立河氏館
構造平城
築城者立河宗恒
築城年代鎌倉時代
指定史跡都指定史跡
場所東京都立川市柴崎町4‐20‐46 地図

立川氏館は、武蔵七党西党日奉氏の支族である立川氏の居館です。
鎌倉時代に居館の中に寺を建立し、その後現在の普済寺となっています。
中世以降は小田原北条氏に仕え、後北条氏が滅亡すると水戸藩徳川家へ仕官し
常陸国へと移って行ったとされています。



普済寺入口

随分新しい立派なお寺が見えたと思いきや、1995年(平成7年)に火災で焼失してしまったため、
本堂など新たに建て替えています。


閻魔堂



山門

立派な山門があります。
この山門は火災を逃れたもので江戸時代からの現存のようです。


木像

この日、門の上の扉が開いており、顔を覗かせていた木像は聖徳太子とのこと。


堀跡

この橋の下付近から堀跡がみつかっているようです。


案内看板

土塁脇には案内看板も設置されています。
この日は庭の手入れをされている業者さん?がいらっしゃっいました。


土塁

一番分かりやすいのが本堂東側の土塁です。



本堂東側から山門へ向かって残る土塁。



東側の土塁を外側から見ています。
この辺りの発掘調査では、区画を示すV字溝もみつかっています。


井戸

発掘調査で井戸もみつかっているようなので、これがその井戸なのかなあ?
とても古井戸には見えないので違うのかもしれないと思いつつも、やっぱりこれしかないよなあ。


心源庵

江戸時代に心源庵で庶民の教育機関として寺子屋教育が始まりました。
1872年(明治5年)に学制発布され、明治8年には柴崎学校と改称し、
本格的に学校教育が開始されました。
その後、明治11年に普済寺近くに校舎ができて、現在の立川市立第一小学校へと引き継がれました。
という訳で、ここが立川教育文化発祥の地だとのことです。


六面石幢

仁王像(阿金剛・吽金剛)と、四天王像(持国天・増長天・多聞天・広目天)が
六面の石板に刻まれた国宝「六面石幢」があるのですが、現在保存修理と新保存庫への移設を行うため、
令和6年度まで拝観を停止しているのでこちらの拝観目的の方はご注意を。


土塁

墓地側に土塁と、この道路が区切りとしての堀の名残であろうか。


残堀川

残堀川側から見ると、この川と崖が要害になってるのが分かります。


立川氏に関しては、鎌倉時代には「吾妻鏡」の中に立河三郎兵衛基泰の名が登場しますが、他に資料が無く謎が多い。
しかし、館跡に関しては東西に土塁が残っており居館としての縄張りを見ることが出来ます。


令和4年2月5日登城


今回の参考本



稲庭城(秋田県)

2022年08月08日 | 百名城以外の城
稲庭城いなにわじょう
別名早坂館・鶴ヶ城・貝館
構造山城
築城者小野寺重道
築城年代1193年(建久4年)
指定史跡
場所秋田県湯沢市稲庭町梺  地図

稲庭城は、下総国出身の小野寺氏の本拠地で、源頼朝に戦の褒美としてこの地を賜りました。
1600年(慶長5年)山形の最上義光の3千の兵に攻められ、自ら稲庭城に火をかけて背後の山から横手城へ逃れるも、
関ヶ原の戦いで上杉景勝軍(西軍)に加勢したことで改易となり、石見国津和野へお預けの身になり稲庭城は廃城となりました。
現在、二ノ丸に建つ稲庭のシンボル模擬天守は観光スポットとして建てられ
スロープカーが運航し、難儀することなく二の丸まで運んでくれます。



稲庭城址入口

国道398号線を走っていると稲庭城址入口が見えて来ました。
ここからが本来の登城口と思われますが、この先に駐車場があるのでそちらに行くことにします。


駐車場

稲庭城へはこちらに駐車して登ることになります。
ここからスロープカーで行くことが出来るので気軽に行くことが出来ます。
もちろん、遊歩道が整備されているので昔ながらの道のりを楽しむことも出来ます。


古館庵

スロープカーのチケットはこちらで購入します。


スロープカー乗り場

GWに行った唐津城では斜行エレベーターで楽して登りましたが、
今回もスロープカーを使って楽して登っちゃいます👍



折れのある本来の道を目で追いながら進んで行きます。


二の丸

スロープカーの到着場所は二の丸です。
そして模擬天守が出迎えてくれます!


夫婦松

正面には、小野寺道勝がこの地を去る際に、
自分と奥方の身代わりに植えていったと伝わる松の木が二本あります。


烽火台

夫婦松の隣には烽火台があります。
登ってみると、周囲は樹木で眺めは望めません。


古城碑

烽火台の上にある古城碑。
この石碑に記されている内容は模擬天守最上階に展示しています。
「稲庭城古城碑文」という読み下し文にしたチラシも作成して置いてあるので頂くことも出来ます。


模擬天守

天守受付で御城印を購入することが出来ます。
帰りのスロープカーは受付で呼んでもらうことか出来るので、
自分の都合でゆっくり見学出来るのがありがたい。


稲庭うどん

受付の方の話によると、江戸時代初期に稲庭地区で佐藤市兵衛という人物が干しうどんを作り、
その製法を二代目の佐藤(稲庭)吉左エ門が引き継ぎ稲庭うどんの始まりとなりました。
佐藤家に伝わる稲庭うどんの製法は、佐竹藩より門外不出にすることを命ぜられ、一子相伝の技として子孫に伝えられました。
将軍家や大名たちの間で稲庭うどんの評判が広まり、明治時代には宮内庁御用達になりました。
現在は私たちも食することが出来る「稲庭うどん」ですが、当時は一般庶民が食べらるようなものではなかったのだと説明してくれました。


黄金の間

金箔貼りの黄金の間は、値段が付けようがないほど。
天守に展示されているものを見ると、伝統的な職人の技術が
町の産業を支えていることがものすごく押し出され、地元の繁栄がよくわかる展示になっています。


稲庭城復元想像図

この図を見ると、スロープカーから下を覗き込んだ時に見えたジグザクの遊歩道が
昔からの登城路であったことが分かりました。
夏でなければ歩くのもいいなあと思いつつも、スロープカーはやっぱり楽ちん!
結局、往復使ってしまいました(^-^;


ジオラマ模型

現在模擬天守があるのは二の曲輪です。
ということは、本丸はいずこへ?と思った時にこの模型。
本丸までは、もう城域に居るのだからそう大変なことではない…と思う。


展望台

最上階へやって来ました。
烽火台にある古城碑の説明とチラシがここにあります。
石碑の内容が気になる方はこちらで読み下しの紙をもらって読んでみてください。


眺望

現在の国道398号線が小安街道で、かつて後三年合戦の際に源義家らが
多賀城から横手方面へ進軍したルートとされているだけあって
この方向には多くの城址があります。


二重堀

道路でわかりずらくなっていますが、道路から両側を覗き込んでみると
堀切があるのが確認できます。


堀切

まだ遺構が残っています。


不動岩

この時期、木々で見えずらいのですが
小野寺侯が信仰したお不動様を祀っていたという不動岩が見えます。


主郭へ

この辺りは熊の親子が出没するそうで、危険なので行かない方が良いと
模擬天守の受付の方に言われたので入口の確認だけして引き返すことにしました。



階段を登った先はこんな具合で酷い藪なわけではなかったのですが
とても心配されていたのでこのまま戻って天守受付に無事を報告、スロープカーの迎えを
手配して頂きました。



スロープカーの乗降口へやって来ました。
5分ほどでやって来るというのでそれまでちょっと散策。


鞍掛神社

二の曲輪の一段下に石祠と鞍掛神社がありました。



迎えが来たので帰ります。



最大勾配33度、なかなか楽しい乗り物でした(^-^)


稲庭城へ行こうと決めた時から楽しみにしていたのがスロープカー。
3年前にリニューアルしたということで、デザインが少しシンプルになり、
足元が良く見えるよになっていました。
高所恐怖症の方にはちょっと怖いかもしれませんが、昔の道(遊歩道)の折れを
見ながら登って行くのが見どころのひとつということで、歩かなくても様子を知れて得した気分!
本丸までは熊の出没しない時期にリベンジできたらなと思います。

令和4年7月16日登城

今回の参考本