ジェンダーコロキアムでお話しを聴いたあと、
『リハビリの夜』の著者の熊谷晋一郎さんと綾屋紗月さんが書かれた
『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』を買ってきて、読みました。
「リハビリの夜』
とってもおもしろかったです。
『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』も『リハビリの夜』も
≪ケアをひらく≫のシリーズの本です。
最近、書店で『発達障害に気づかない大人たち』を買ってきて読んだので、
いっしょに紹介します。
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明日は、岐阜市内で「市民派議員になるための選挙講座」を開催するので、
資料などの準備をしていて、やっとめどがついたところ。
ちょっと遅くなったのですが、これから夕ご飯の買い物に行ってきます。
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『リハビリの夜』の著者の熊谷晋一郎さんと綾屋紗月さんが書かれた
『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』を買ってきて、読みました。
「リハビリの夜』
とってもおもしろかったです。
『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』も『リハビリの夜』も
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≪シリーズ ケアをひらく≫ 発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい 著:綾屋 紗月/熊谷 晋一郎 判型 A5 頁 228 発行 2008年09月 定価 2,100円 (本体2,000円+税5%) ISBN978-4-260-00725-2 序 文 / 書 評 / 目 次 あふれる刺激、ほどける私。 なぜプールサイドを歩けないのか、なぜ空腹がわからないのか、なぜ看板が話しかけてくるのか、なぜ月夜の晩は身体がざわめくのか……。外部からは「感覚過敏」「こだわりが強い」としか見えない発達障害の世界を、アスペルガー症候群当事者が、脳性まひの共著者とゆっくりていねいに探った画期的研究。「過剰」の苦しみは心ではなく身体に来る! 序 文 ページの先頭へ はじめに 「まとめあげが、ゆっくりで、ていねい」という自閉観 「明らかに人と交われる気がしない。一線を感じる自分はいったい何者なのか」 物心ついたころから途方に暮れ、長年“アイデンティティ探し”を続けてきた私は、自分がアスペルガー症候群に当てはまると知ったとき、他の自閉圏の人びとと同様、「やっと答えを見つけた」と思った。 しかし、そのすぐ後から、表面に出てくる症状としてはたしかにこれに当てはまるものの、なぜそのような症状が出現するかという諸説に対しては、はっきりとした違和感を覚えた。 これまでの自閉症スペクトラムに関する研究においては、「他人との社会的なかかわり合いに問題を示す」というコミュニケーション障害が第一義的な原因としてあげられている。 しかし、そもそもコミュニケーションにおける障害とは、二者のあいだに生じるすれ違いであり、その原因を一方に帰することのできないものである。たとえるなら、アメリカ人と日本人のコミュニケーションがうまくいかないときに、「日本人はコミュニケーション障害がある」というのは早合点であろう。 そのような従来の研究とは別の切り口から私は自閉の概念をとらえなおしたい。コミュニケーション障害なるものをはじめから仮定するのではなく、まず私自身の体験を可能な限り詳細に記述する。 その際、体験の記述にとどまらず、自閉とは何かという問いに、オリジナルな説を与えることも意図している。その説とは、私たち自閉圏の人間は、「意味や行動のまとめあげがゆっくり」なのだとするものだ。本著では、この仮説にもとづいて、私の体験と一致するかどうかを照らし合わせていく。 このように本書では主に自閉症について考察していくが、タイトルには「発達障害」という言葉をつかった。その理由は、本書で触れる私の体験のすべてが「従来の」自閉症概念に収まるわけではないという可能性を自覚しているからである(たとえば、識字障害や発声障害など)。 従来の自閉症概念に合うように私の体験を編集しなおすことなく、発達障害という大きい枠の中で自由に語ることから始め、その自由な《私語り》を起点に、従来の自閉症概念をずらしていくのが、この本の目的である。 -------------------------------------------------------------------------------- 【寄稿】『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』を読む 「他者」と「つながる」ことの意味 斎藤 環(爽風会佐々木病院診療部長・精神科医) 私は精神科医だが,発達障害に関する知識は,ほぼ文献的なものに限られている。そういう「門外漢」として言うのだが,この領域の当事者本は極めて「面白い」ものが多い。それらはしばしば,専門家による臨床的記述をはるかに凌駕する。 綾屋氏と熊谷氏の共著である本書もまた,まず「面白い本」という角度から読むことをお勧めしたい。このジャンルでは永らく古典とされていたドナ・ウィリアムズ『自閉症だった私へ』(新潮社)に匹敵する,と言っても過言ではない。 それでは,何がそんなに「面白い」のか。 本書を読みはじめて,まず意表を突かれるのは,綾屋さんの抱える困難が,心理ではなく身体的なものとして描かれている点だ。私はここで,ドナ・ウィリアムズの「自分が自分であることに対して,体ほど大きな保証はない」という言葉を連想した。しかし綾屋さんの記述は,ドナよりもはるかに詳細である。 アスペルガー障害のひとたちは,しばしば〈私たち〉にとって自明と思われる認識や行動が不得手だ。例えば綾屋さんは,じぶんの空腹感や気温の高低や,疲労感をうまく感じたり,適切に対処したりすることができないのだという。なぜだろうか。 彼女によれば,それは「大量の身体感覚を絞り込み,あるひとつの〈身体の自己紹介〉をまとめあげる」作業に,人よりも時間がかかるためらしい。この障害を持つひとたちが,過敏でありながら時に鈍感にみえることがあるのは,このためなのだ。 例えば,長く食事をしないでいると,「ボーっとする」「動けない」「血の気が失せる」「頭が重い」「胃のあたりがへこむ」といった,バラバラの感覚情報が彼女を襲う。しかしこれらの感覚は,彼女の中で,ひとまとまりの「空腹感」を構成しないのである。 しかし,そのままにしておけば,低血糖で倒れかねない。それゆえ彼女は,「一定の時間になったら上司に断ってソバ屋でソバを食べてまた戻って仕事をする」という行動パターンを自分の中に登録しておき,必要に応じてそのパターンを呼び出すというルールを設けて対処している。 もちろん,いつもそれでうまくいくとは限らない。わずかでも予想外の事態が起こると,このパターンはすぐに混乱してしまうからだ。空腹の例で言えば,もしソバ屋でソバが売り切れだったり,別の選択肢を勧められたりすると,彼女は容易に混乱に陥り,時にはパニックになりかねないのだという。 * 綾屋さんの抱えている困難は,人工知能研究で言う「フレーム問題」によく似ている。これは,ある結果を出すための行動を求められたコンピュータが,その結果に至りうるまでの,無限の行動の選択肢をすべて考慮しようとしてフリーズしてしまう,という困難を意味している。 〈私たち〉は,ほとんど無意識に,じぶんが置かれた状況の文脈を理解し,その都度一定のフレーム(枠組み)の内部で選択を行うため,こうした混乱を免れている。綾屋さんが言う「身体内外からの情報を絞り込み,意味や行動にまとめあげる」とは,まさにこうしたフレームを作り上げる過程を意味するのだろう。 フレームが作れない困難は,〈私たち〉の想像を絶している。その意味では本書を,共感的に読むことは難しい。しかし,「もし〈私たち〉がフレーム問題に直面したらどうなるか」という思考実験として読むなら,本書ほど刺激的な本も少ないだろう。 自明とされることを徹底的に懐疑するところから哲学がはじまるとすれば,本書が投げかけるのはすぐれて哲学的な問いでもある。私はかつて,ドナ・ウィリアムズの著書の感想として「哲学的障害」という言葉を記したことがある。〈彼ら〉の言葉には,〈私たち〉の知覚や認識,あるいは感情や行動が,どのようにして成立しているかを解き明かすヒントが数多く含まれているからだ。 本書をさらに読み進めれば,この障害を持つ人たちを「自閉」的と形容することが果たして適切か,という疑問すら湧き起こってくる。それというのも,綾屋さんの記述を読む限り,〈彼ら〉はあまりにも「他者」に対して開かれているがために自閉的に見えているだけなのではないか,としか思えないからだ。 綾屋さんにとっての「他者」とは,自分に「侵入」してきては,ひとまとまりの自己像を容易に混乱させてしまう存在である。「他者」は「所作」「まなざし」「キャラ」として彼女に侵入し,ときに彼女を乗っ取ってしまいかねない。もっとも,こうした過剰な同一化能力をうまく活かせれば,誰かのキャラを取り込むことで,社交をスムーズにこなすことも可能だ(ドナ・ウィリアムズの本にも,こうした多重人格性の記述がある)。しかしそれは相当の苦痛を伴うものであるらしい。 「他者は地獄だ」とサルトルは言ったが,まさに真の他者とのかかわりは,「侵入」されるか「取り込む」かを迫られる「地獄」なのだ。その意味で〈私たち〉の他者とのかかわりは,ある種の鈍感さや錯覚の「賜物」なのかもしれない。 * しかし本書は,単に困難を提示しておしまい,という本ではない。綾屋さんは自らの困難を克服すべく,「手話」に注目する。「ろう文化」によるアシストが,彼女のコミュニケーションを助けるくだりは,本書の白眉とも言える部分だ。とりわけ「手話歌」を知ることで,感情を持ったキャラを獲得していく過程は感動的ですらある。 個人的には,次のくだりにはまさに膝を打つ思いがした。 「音声に手話がついて,『両方を同時に』表されたとき,不思議にも,情報が増えているのに感覚飽和にならず,急速な意味理解へとつながる」。 おそらくここには,発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。複数のコミュニケーション・スタイルで,一つのメッセージを伝えようとすること。ここにはひょっとすると,「フレーム問題」を突破する契機すらも含まれているのではないか。 綾屋さんは,「植物や空や月」となら,つながれるという。しかし「ヒトの集団」には決してつながれない,というあきらめも抱いている。だからせめて,「楽しそうな笑顔の群れを見て,つながっている気分のおすそわけをいただく」にとどめている。 それだけに綾屋さんの「人はやはり,だれかとつながってこそ人なのだと思う」という言葉は重い。そう,〈彼ら〉と〈私たち〉との間に,決定的な隔たりなど存在しないのだ。本書を読むことで,間違いなく〈あなた〉にとっての「障害者」というフレームは更新されるだろう。それは同時に,〈他者〉の敷居が,少しだけ下がる経験でもあるはずだ。 斎藤環(さいとう・たまき)氏 精神科医。専門は思春期・青年期の精神病理学,病跡学。「社会的ひきこもり」問題の治療・支援に取り組むかたわら,ラカン派精神分析に依拠した評論・執筆活動は多岐にわたる。現在,爽風会佐々木病院診療部長,社団法人青少年健康センター参与。 主な著作に,『文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』(青土社),『社会的ひきこもり』(PHP新書),『文学の徴候』(文藝春秋),『生き延びるためのラカン』(バジリコ),『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房),『心理学化する社会』(河出文庫)など。 |
『発達障害に気づかない大人たち』 (星野仁彦 (著) /祥伝社新書) 内容紹介 片づけられない、すぐキレる、話を聞けない… あなたのまわりにもそんなちょっと「困った」大人たちがいないだろうか? あるいは、あなた自身がそう思われている可能性はないだろうか? そうだとしたら、それは「発達障害」かもしれない。 落ち着きに欠け衝動的な「注意欠陥・多動性障害(ADHD)」、対人スキルや社会性に 問題のある「アスペルガー症候群」、読み書きなどの習得に難のある「学習障害」などの 総称である「発達障害」。 子どもだけのものと思われがちなこの発達障害だが、実は「大人の発達障害」の人も 数多く存在する。しかも、大人になってからのほうが、うつ病や依存症につながるなど 大きな問題を引き起こしやすいのだ。 一方で、ピカソなど一流の芸術家たちが発達障害だったように、磨けば光る能力を 持っているという側面もある。 これまであまり知られてこなかった「大人の発達障害」の実態から治療法、日常生活 での注意点やサポート方法までを解説。これ一冊ですべてがわかる。 著者について 1947年、福島県生まれ。心療内科医・医学博士。福島学院大学大学院教授。 福島県立医科大学卒業、米国エール大学児童精神科留学、福島県立医科大学神経精神科 助教授などを経て、現職。専門は、児童精神医学、スクールカウンセリング、精神薬理学 など。 著書に、『知って良かった、アダルトADHD』『気づいて!こどものこころのSOS』 (以上ヴォイス)、『機能不全家族』(アートヴィレッジ)など。 |
明日は、岐阜市内で「市民派議員になるための選挙講座」を開催するので、
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