福田の雑記帖

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映画「アオギリにたくして」 アオギリの語り部・故沼田鈴子氏の人生

2014年08月22日 04時34分30秒 | 映画評
 秋田「上映する会」の主催による映画「アオギリにたくして」の上映会が8月22日秋田市文化会館で行われた。原爆関連で関心があるテーマだったからである。

 映画「アオギリにたくして」は広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下でたくさんの子供たちに被爆体験を語りアオギリの語り部と呼ばれた被爆者・故沼田鈴子氏の人生を紹介した作品。脚本と監督は中村柊斗氏。

 沼田氏は結婚式の3日前、勤務先の広島逓信省、爆心地より1.3Km、で被爆、瓦礫に左脚を潰され左腿から切断を余儀なくされた。戦時下の物資不足のため、切断手術はほとんど麻酔なしだったと言う。

 退院後、義足で復職したものの、被爆者や障害者への差別や偏見に遭い、半年で自ら辞表を提出。次第に心が荒び、やがて自殺寸前にまで陥った。
 そんな矢先、被爆で今にも枯れそうなアオギリを目にした。そのアオギリから新しい葉が芽吹いている様子を目にし、生きる気力を取り戻した。後に教師職に就き28年間、教員生活を送った。

 50歳代後半から原爆の惨事を後世の人々に伝える使命に目覚め、原爆の恐ろしさと愚かさを世界中に伝えることを決意し、修学旅行生たちへの被爆証言を始めた。一時期には証言相手の学校は年間200校もあった。証言を聞いた子供たちの数はのべ10万人にのぼった。海外へ出かけての証言も10数ヶ国に及んだ、と言う。

 2011年3月11日に東日本大震災,原発事故そしてが発生。自分の唱えてきた放射能の危険が現実のものとなったことで激しいショックを受け、同年7月12日に心不全で死去。没年齢87歳であった。
 沼田氏は不自由な身体をかかえ、広島市民による被爆者への偏見・差別に心を閉ざし、和服でひっそりと暮らしていた。それを乗り越えたのは人生も半ば過ぎであった。それ以降は障害ある姿を隠す事無く洋服で活動したと言う。

 氏は自らの体験を通して、戦争の愚かさ、平和の尊さ、核の恐ろしさ、そして平和づくりの大切さを死の直前迄伝え続けたが、氏がもっとも辛かったのは被爆者に対する地元の偏見でなかったのか? 日本人の偏見の文化,これは恐ろしい文化である。私はこの映画を通じてそれを感じ取った。

<資料>会場で以下の資料を購入し,上記の参考にした。

■書籍 シネ・フロント 2014/3月号「アオギリにたくして」
■CD「アオギリにたくして」サントラ版12曲収録 ミューズの里KK
■中村 柊斗「アオギリにたくして」徳間文庫 2013/7
コメント (1)
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