外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

エジプト・カイロ滞在記2011年5月~マルグの猫煙草おじさん編~

2021-02-27 18:21:21 | エジプト

カイロの交通手段のひとつ、三輪タクシー「トゥクトゥク」

 

 

今回は、カイロ北東部の郊外、地下鉄1号線(ヘルワン=マルグ間)の終点マルグのスーク(市場)に行った時の写真。ちなみにウィキペディアによると、この路線はアラブ・アフリカ諸国初の地下鉄だそうだ(最終的に1989年開通)。

 

なぜマルグに行ったかというと、他にやることがなかったから。適当に地下鉄に乗って、終点で降りて散歩でもしようと思ったのだ。私はバスや電車などの公共交通機関が好きで、無目的に乗って気が向いたところで降りて少し散歩し、すぐまた戻ってくるというタイプの暇つぶしを外国ではよくやっていた。日本では交通費が嵩むからやらないが。

 

スークは地下鉄駅から歩いてすぐだった。

 

 

印象に残ったのは、ウサギ屋さん・・・

 

 

ニワトリ屋さん・・・

 

 

パンツ重ね履きのマネキン・・・

 

 

モデルになってくれた非常にフレンドリーな女の子

 

 

一通りお店を見て回って、スークの外れの壁際にたどり着いた時、とてつもなくラブリーな風景を目撃することになった。

 

 

猫煙草を吸っているおじさん

 

猫(まんざらでもないにゃ~)

 

 

彼は靴磨き職人らしかったが、仕事用の台の上に大きな猫をはべらせており、私がカメラを向けると、水煙草の吸い口の部分を猫に当ててみせた。それがまるで、猫型の水煙草を吸っているように見えたのだ。(本物の水煙草セットは後ろにある)

 

 

猫の表情も絶妙で、おじさんごと日本に連れて帰りたいくらいだった。これはカメラ音痴の私が今まで撮った中で一番いい写真かもしれない。何の用事もないのにはるばるマルグまで行った甲斐があったというものだ。

 

 

写真が尽きたので、2011年5月のエジプト・カイロ滞在記はこれにて終了。ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございました~

 

 

(参考)

エジプト政府のトゥクトゥク廃止政策についての記事

 

「エジプト政府は人気のトゥクトゥクの廃止に乗り出す」

https://www.arabnews.jp/article/arts-culture/article_5460/

 

 

(終わり)

 

 

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エジプト・カイロ滞在記2011年5月~タハリール広場の平和なデモ編~

2021-02-23 19:57:28 | エジプト

コシャリの屋台、安くてそれなりに美味しい

 

 

今回はカイロ中心部のタハリール広場で見かけた平和なデモの風景をお届けする。

 

チュニジアで2010年12月に始まり、翌年1月にベンアリ政権を崩壊させた、いわゆる「ジャスミン革命」がアラブ世界の各地に波及し、自由と変革を求める民衆の運動が広がって、「アラブの春」と呼ばれるようになった。この民主化運動が思いがけない形でエジプトでも始まって、1月25日にカイロのタハリール広場を中心に大規模なデモが発生し、やがて2月にはムバラク政権が倒れて、軍による暫定統治期間に移行した。この流れについては、覚えておられる方も多いと思う。私はその様子をエルサレムからアンマン、イスタンブールへと移動しつつ、テレビやネットで眺めていた。

 

関係ないが、私はジャスミンが好きだ。小さくて白い可憐な花なのに、ねっとりと濃厚な香りを放ってくるところがツボにハマる。ダマスカスは「ジャスミンの街」と呼ばれる。

 

 

私が訪れた2011年5月のカイロは、そういう状況にあり、タハリール広場に集まっていた人々の顔は、大きな犠牲を出しながらも自分たちの手で独裁政権を崩壊させ、革命を成就させたという満足感と未来への期待感で輝いて見えた。革命の様子を記録したDVDや革命記念グッズを売る屋台もあった。(買っとけばよかった)

 

その後選挙が行われ、2012年6月末にムスリム同胞団出身のムハンマド・モルシー氏が大統領に就任したが、人々の生活状況は一向に改善されず、治安も悪化するなどして支持率が下がり、そうこうしているうちに当時国防相だった軍人のアブドゥルファッターハ・シシ氏が2013年7月にクーデターを起こして政権を掌握、やがて自身が大統領に就任した。モルシー氏は投獄され、2019年6月、出廷中に倒れて病院で亡くなった。現在のシシ政権はかつてのムバラク政権以上に強権的な手法を用い、ムスリム同胞団を始めとする反体制派を厳しく弾圧しているので、事態は「アラブの春」以前よりも悪化していると言える。経済状況も好転する兆しはない(コロナ以前の話)。

 

でも、だからと言って「アラブの春は間違った動きだった」「民主化運動などを起こさず、大人しくしていれば良かったのに」と言うのは、何か違うと私は思う。チュニジアでの革命成功(政権崩壊)は、長きにわたって独裁政権に耐え、沈黙してきた人々に「もしかしたら、自分たちにも国の状況を変えられるかもしれない」という希望を与えた。民主化運動の拡大は、あの流れにおいて必然だったのだと思う。シリアやリビアなどでも、それは同じだ。結果だけを見て、「外から、後から、上から目線で」批判するのは容易いけれど、それは自由を得るために命がけで戦った(戦っている)現地の人たちに対して、失礼だと思うのだ。

 

前置きが長くなったが(長すぎるわ)、そういうわけで、革命の熱気もまだ冷めやらぬ、人々がまだ希望に満ちていた頃の平和で和やかなタハリール広場のデモを見物してきたわけだ。

 

タハリール広場に隣接する政府の集合庁舎「ムジャンマア」(エジプト風に発音すると「モガンマア」)

かつてここで滞在許可を更新してもらったものだ。当時は簡単に更新できたが、その後難しくなったと聞いた。

 

 

私がタハリール広場を通りかかったのは金曜日の昼頃で、青空の下での集団礼拝の後にデモが開始した。屋台も色々出ていた。

 

 

9月の戸外での礼拝はやりやすそう。真夏は厳しいからね。

 

 

子供も参加

 

 

この時のデモには色んな団体が参加していて、テーマも様々だった。奥にイスラエルを象徴する人形が吊るされている。

 

 

キリスト教徒とイスラム教徒の団結の必要性を訴えかける人達

 

 

翌日の土曜日に通りかかった時も、デモが行われていた。この時は、パレスチナへの連帯を示す内容だった。

 

 

若者中心のデモで、皆非常に楽しそうだった。

 

 

女性の姿も目立った。

 

 

支援のためにガザとの境界に向かう人々を乗せていたバス。

 

 

写真を撮ってたら、「君はジャーナリスト?」と聞かれた。私はわりとそう思われがちだ。

 

 

これは地下鉄駅で見かけた広告

「私はエジプト人 

 前向きに生き、間違ったことにはノーと言う。私はエジプト人だから。

 自分の権利と義務を自覚する。私はエジプト人だから。

 私は自分の国と自分自身を誇りに思う。なぜなら、私はエジプト人だから」

と書いてある。

 

 

なんだか、ほんの10年ほどの間に色んな事が変わってしまったなあ。しんみり・・・

 

 

(関連記事)

強権復活、自由は抑圧 革命10年も閉塞感―エジプト

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021012400222&g=int

 

 

 

 

(終わり)

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エジプト・カイロ滞在記2011年5月~ダハブホステルとインドミー編~

2021-02-17 17:16:38 | エジプト

ディスプレイのセンスが光るカイロの果物屋さん。なんとなく賽の河原を連想したのは私だけか。

 

 

今回からは、2011年5月にトルコから帰国する際、カイロに寄った時の話をする。といっても、滞在したのはたったの5日間だし、例によってもう記憶の奥の方の地層に沈み込んでいる上、写真もろくに撮っていないので、そのわずかな写真を2,3回に分けて載せる程度だが。

 

最初に泊ったのは、市内中心部のエジプト考古学博物館から徒歩3分のところにある「ダハブホステル」(HPはこちら)。タハリール広場からは徒歩10分。

 

このホステルは、雑居ビルの屋上(ルーフトップって言うんですかね)に入っていて、見晴らしがよかった。見えるのは周囲に密集した茶色い老朽化したアパートなどで、ステキ感は全くなかったが、私の好みにはピッタリだった。屋上のあちこちに長屋風の小屋(お洒落な言い方が思いつかない)が建っていて、その中が客室になっている。私はトイレ・シャワー共同のシングルを借りた。トイレ・シャワー付きの部屋は私にはちょっと高かったのだ。

 

部屋や共有スペース等の写真は撮っていないので、ホテルのPVを参照にして下さいませ。

 

 

私が撮ったのは、猫の写真だけ。このホステルは猫スポットで、テラスのあちこちを猫がうろついていたのだ。

 

 

片隅に張られたベニヤ板の隙間に、よく見たらみけちゃんが!

 

 

建物の前に渡された木製の通路。 泊り客が食事をおすそ分けしてくれるのを待ってるのかな? 

 

 

この子は何か考え事に耽っていそう。エジプトの革命の行方を憂えていたとか・・・・

 

 

花壇もあり、サボテンやその他の植物が生えていた。白猫にはサボテンがよく似合う。

 

 

ダハブホステルは場所もいいし、猫だらけだし、スタッフもフレンドリーでよかったのだが、やはり部屋にトイレとシャワーがないと不便だった。しかも、私は年齢的にも性格的にも、世界中のバックパッカーが集まってワイワイ交流する雰囲気がどうも肌に合わないのだ。結局2泊だけして、タラアト・ハルブ広場の近く(たぶん)で見つけた、もっと安いホテルに移動した。ビジネスホテル的なところだ。(写真なし)

 

 

適当に歩いていて通りかかったオラービー広場。カイロのダウンタウンには、パリを彷彿とさせる優雅な歴史的建造物が多い。

 

 

近づいてみると、どれも老朽化して黒ずんでいるわけだが。

 

 

暗くてボケているが、これはインターネット屋さん。お客の大半は男の子で、延々と戦争ゲームに熱中していることが多かった。

 

 

カイロの地下鉄、インドミー仕様。インドネシアのインスタント麺インドミーにはよくお世話になった。

 

 

かつてダマスカス大学付属の語学センターでアラビア語を勉強していた時、同級生だったトルコ人の女の子は、1日2回、毎日昼食と夕食にインドミーを食べていると言っていた。カイロで借りていたアパートの同居人だったフランス人の女の子も、よくインドミーを食べていた(そして食べた後の食器を流しに放置してゴキさんを餌付けしていた)。カイロ大でアラビア語を教えてくれた女の先生は、「インドミーは美味しいけど、いつも食べると体に悪いわよ」と言っていたが、全くその通りだ。

 

私は焼きそばタイプが好きだった。具なしで麺だけぞぞぞぞっと食べるのが。

 

 

うう、書いていてインドミーが食べたくなってきてしまった。日本でもカルディなどで買えるのだが、やっぱり体に悪いよな・・・

 

 

(続く)

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エジプト・カイロ滞在記・2010年3月末~2010年9月末(6)最終~バハレイヤ・オアシスの白砂漠編~

2021-02-07 19:11:36 | エジプト

 

今回は2020年9月下旬、エジプト出国の少し前に西部のバハレイヤ・オアシスに旅した時の話。

 

早朝にカイロから長距離バスに乗り、約5時間後にバハレイヤ・オアシス観光の拠点となっている村に到着した。バスを降りたら、オアシス観光ツアーの客引きさんたちが我先に寄ってきたので、一緒に行った友人たちと相談しつつ交渉し、ガイド付きの4駆を借り切って1泊2日で見どころを回るツアーを選んだ。夜は砂漠でキャンプ。夕食と朝食はガイドの男性が作ってくれた。翌日の昼頃に村に戻って、車でカイロ行きのバス乗り場に送り届けてもらう予定だった。

 

車は広大なバハレイヤ・オアシスの砂漠を疾走し、火山岩の玄武岩からなる「黒砂漠」、水晶のかたまりが小さな丘状になっている「クリスタルマウンテン」、温泉の足湯スポットのようなところなど、点在する観光名所を何か所か回ってくれたのだが、その中で私が写真に撮ったのは、石灰岩の奇岩がニョキニョキ生えている「白砂漠」だけだった。白砂漠があまりにステキすぎて、他のものにはあまり目がいかなかったの・・・

 

「白砂漠」はこれ。 ステキじゃないですか??

 

現代美術のアーティストが気まぐれで作ったメレンゲのようで、なんとなく美味しそうでもある。きっとサクサクで甘いのよね。(妄想) 岩の周りの地面も雪が積もったみたいに白くなっていて、これまたハートわしづかみだ。

 

白砂漠の1番の見どころはここ。「キノコとめんどりの対話」と名付けたい情景だ。

 

白い石灰岩のキノコとめんどり。キノコくんが「雨が降ったりすると、少しづつ顔が剥がれ落ちていくんだけど、どうしたらいいだろう」と相談して、めんどりさんが「宇宙の全てのものがいずれ形を失って消えていく運命だから、気にしないでいいのよ」とか言ってそう。(妄想2)

 

夕暮れ時の砂漠。清少納言がこの風景をみたら何と言っただろうか。

 

 

 

 

静かに夕陽に沈みこんでいく岩山と砂漠。薔薇色の空から次第に光が失われ、薄闇の中に小さな星が輝き始める。ああ、遥々ここまで来てよかった、うっとりこ・・・となる私。しかし、こういう場所でキャンプをすると、トイレに困るのもまた事実である。美しいものには棘があるものよね・・・

 

 

ガイドをしてくれたのは地元の若い男性で、ネグリジェのような伝統的な男性の衣装ガラベイヤを着ていた。彼が車を運転し、説明し(多くは語らなかったが)、焚火を熾して食事やお茶を用意し、テントを張るなど、なんでもこなしていた。

 

 

 

夜はどこからともなく彼のお友達が現れて、焚火を囲んでお喋りしていった。ガイド仲間とのことだった。

 

 

砂漠のキツネも登場し、ペットボトルに用意された水を飲んでいった。星の王子様の世界だ。

 

夕食は、鍋でトマトやジャガイモなどを炒め煮したものと、その鍋で炊いた米という簡素なものだったが、びっくりするくらい美味しかった。焚火のせいか、素材がいいのか、砂漠のマジックか。肉料理もあったかもしれないが、よく覚えていない。お茶も美味しかった。翌日の朝食は、パンと卵の焼いたもの等だったと思う。(たぶん)

 

朝、村に戻る道中で立ち寄った観光スポットで私たちがのんびりして、長い時間を過ごしても、ガイドの彼は全然急かそうとはせず、やりたいようにやらせてくれた。その結果、村に戻るのが遅くなり、カイロ行きの公共バスに間に合わなくなるという事態が発生してしまった。とりあえずホテルで昼食を取って待機。結局、ツアーを催行した会社がミニバスを出してカイロまで送ってくれることになった。大きい公共バスよりも快適で楽なので、私たちは得をしたわけだが、ガイド氏はボスからかなり怒られたと思われる。気の毒な事をした。コロニャで今は仕事がないと思うが、彼や他の村人はどうやって暮らしているんだろうか。

 

(参考)

エジプトの秘境バハレイヤ・オアシスは在住歴9年の私が教えたくない絶景が待っている

https://tabippo.net/bahariya-oasis/

 


エジプトにある一面真っ白な砂漠の風景『白砂漠』

https://wondertrip.jp/11581/

 

 

これで、2010年3月末~2010年9月末のエジプト・カイロ滞在記は終わり。ここまで読んで下さった忍耐強い方、どうもありがとうございました~

 

(終わり)

 

 

 

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エジプト・カイロ滞在記・2010年3月末~2010年9月末(5)~アレクサンドリア編~

2021-02-02 08:41:28 | エジプト

 

今回は、2010年9月にカイロからアレクサンドリアに遠征した時の話。

 

アレクサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市で、マケドニア王国のアレクサンドロス大王が東征の過程で建設したらしい。地中海に面した港町なので、内陸の砂っぽいカイロと違って明るく開放的な印象があり、ヨーロッパ風の優雅な建物が並ぶ、雰囲気の良いところだった。ちょっと住んでみたい街だ。

 

行った時はイスラム教の断食月ラマダーンが終わる直前で、当時ヨルダンで働いていた日本人の友達が断食明けのイード(祝祭)の休暇に先立ってカイロに遊びに来てくれていたので、一緒にちょっと足を延ばしてアレクサンドリアに旅行することにしたのだ。この時のことは、もはや脳内の無意識の層に沈み込んで、ほとんど覚えていなかったのだが、一緒に行った友達に話を聞くうちに、断片的にではあるが、多少の記憶は蘇ってきた。

 

今回は、冒頭の写真を含め、友達が撮影した分も使わせてもらっている。

 

カイロからアレクサンドリアへは、列車で旅をした。3時間程度で着くので、気軽な小旅行という感じだが、事前にカイロのラムセス駅でエジプト人に混じって窓口に並んで切符を買うのはけっこう大変だった。ネットか旅行会社で買えばいいんだが、私の内なるスピリチュアルな声が「ネットや旅行会社で買ってはいけません」って言うから・・・でも、なんとか無事に買えた。

 

エジプトで長距離列車に乗るのはこの時が初めてだったが、なぜか写真は撮っていないし、道中のこともさっぱり記憶にない。友達の写真にも列車本体の写真はなく、車窓から見えた謎の風景が写っているだけだった。以下、友達に借りた写真は、(と)と注記する。

 

 

(と)

 

線路を普通に人が歩いていて、何をしているのかわからない人もいる・・・エジプトって、謎が多い。さすが古代文明の国だ。(?)

 

ちなみに、エジプトでは大きな列車事故がちょくちょく起こるので(例えばこういう事故)、鉄道旅行はリスクを伴う。当時私はそれを知らなかったので、何も心配せず、のんきに乗っていたが、今後エジプトに旅をする場合は、列車での移動は避けると思う。

 

とにかく、私たちは何事もなくアレクサンドリアに着いて、ホテルに向かった。友達が予約してくれたちょっと高級感のあるホテルで、宿代は彼女のおごりだった。

 

ラマダーン中で、日中は外で食事が取れなかったため、途中のお店でコシャリをテイクアウトして、ホテルに持ち込むことにした。コシャリの店に着いてみれば、こんな魅惑的な風景が私を待っていた。アレクサンドリアに来てよかったと思った瞬間だ。

 

おひるね猫たち。暑い午後だったからね。

 

あ、起こしちゃった。

 

 

後ろ髪をひかれつつ猫たちに別れを告げて、コシャリの袋を抱えてホテルに向かう。

 

エジプトの安価で腹が膨れる大衆的な食べ物の代表であるコシャリの匂いをプンプンさせながら高級ホテルにチェックインし、部屋で早速食べた。

 

美味しいコシャリだった。

(と)

 

ホテルの部屋はヨーロッパのプチホテル風で、金と赤の色遣いがお洒落だった。(映っているのは友達)

 

 

この後、一休みしてから夕方にホテルの近くを徒歩で散策したら、イードに合わせて出現したと思しき移動遊園地に遭遇した。小さな観覧車などを若者が手動でぐるぐる回すタイプのやつだ。

 

エコと言えばエコ、原始的と言えば原始的。

(と)

 

こういう人力で稼働する遊園地は、シリアにもイードの時期に出現していた。一度観覧車に乗ってみたら、若いお兄ちゃんが2人がかりでものすごい勢いで回すので、気分が悪くなってすぐ降りた。たぶん、恐怖で3年くらい寿命が縮んだはず。

 

このアヒルかなにかよくわからないまつげの長い鳥さんが気になった。

 

 

夕食は、ギリシャ料理店でとった。カイロではギリシャ料理にはなかなかありつけない。さすが地中海沿岸の街だ。

 

魚介類って、素晴らしい。

(と)

 

 

翌日は、当然例の図書館に行った。古代アレクサンドリアにあった、名高い図書館を再建したものだ。

 

 

(と)

 

2002年に新たに建て直されたという図書館は、巨大で現代的な観光スポットだった。

 

一番私の目を引いたのは、本が鍵盤になっているピアノ。

 

 

図書館見学を終えたら、海辺に行ったり、モンタザ宮殿というところを見に行ったり、トラムに意味もなく乗って、適当に降りてウロウロしたりした。

 

地中海と10年前の私。今はあの頃より年を取った分だけ色々アレになってるけど、服装はずっと同じだな・・・

(と)

 

モンタザ宮殿。一般公開されていなかったので、庭園を歩き回っただけ。

 

 

街中で見かけた「左折禁止」の手書きの看板

 

 

あの時は、帰りの列車の時間があるので、あまりゆっくり観光することはできなかったが、いつかまた訪れたい街だ。でも、政権が変わってからの方がいいかな・・・カイロで拷問死して遺体で発見されたイタリア人の学生ジュリオ・レジェーニさんのことがあるので、うっかりデモの写真とか撮って治安当局に捕まったらと思うと恐ろしい。普通に観光している分には問題ないと思うが。

 

(参考記事)

クレオパトラも愛したアレキサンドリア お勧め観光スポット15選!

https://skyticket.jp/guide/100273?page_number=1#articleHead_1

 

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