マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

「スーパー誤訳」への書き足し

2017年12月22日 | サ行
   
    ──活動報告を兼ねて──

 『小論理学』の三校が来たのは11月25日でした。この仕事ががどのくらい大変か、いつ頃終わるか、従って出版はいつ頃になるか、などを見極めてから報告をしようと思っていたために、遅れてしまいました。

 現時点の考えとしては、①仕事の速度としては、1日に20頁進むくらいが限度である。それ以上頑張ると命を縮める恐れがある。②全部で1248頁の大著に成りましたので、三校を終えるのは、早くて1月末、遅ければ2月末くらいでしょう。③従って、出版は早くて2月、遅くて3月くらいかな、というのが現時点での感想です。

 あせらずに仕事をするのは好い事も多いです。今回は「付録」を3本付けましたが、その「付録3」は「ヘーゲル論理学における概念と本質と存在」という題で、特にヘーゲルの言う「概念」の「存在論的意味」(頭の中にある概念ではなく、客観的に存在する概念とは何か)を考えたものです。その最後の段落がこのテーマに相応しくないことに気付き、書き直しました。

 それと、先日発表しました「スーパー誤訳」で論じたことに関して参考になる言葉をこの『小論理学』の中に見つけました。第19節への付録2の最後の段落はこう書かれています。

──他方、思考によってしか最高のものつまり真理は捉えられないとして、思考の科学である論理学を高く評価する人もいます。従って、論理学が思考の働きとその産物〔である観念や概念〕を考察する(その時、思考は無内容な働きではありません。というのは、それは観念と概念を産出するからです)ものだとするならば、その論理学の内容を成すものは一般に超感性的世界(die übersinnliche Welt)であり、それに携わるということは超感性的世界に(in dieser Welt)留まるということです。〔超感性的世界と言うとすぐにも思い出されるのが数学ですが、たしかに〕数学は数や空間といった抽象物(die Abstraktionen der Zahl und des Raumes)を扱っています。しかしこれらは抽象的に感性的なものであり、そのものとしては現存しないものだとは言ってもやはりまだ感性界に属するもの(ein Sinnliches, obschon das abstrakt Sinnliche und Daseinslose)です。〔しかるに〕思考はこの感性的なものの最後の名残りさえも捨て去って(Abschied von diesem letzten Sinnlichen nehmen)自由に自己の許にあり、感性的なものは外にあるもの〔感覚に与えられる人間外の世界〕も内にあるもの〔人間の体内の感覚的世界〕もみな放棄し、個人的な関心や傾向性をすべて遠ざけるのです。ですから、論理学がこの〔ような性質を持つものである思考という〕地盤を持つ限り、それは普通に考えられている以上に高く評価されなければならないでしょう。(引用終わり)

 数学の数(2とか3とか)や空間(円や三角形など)を「抽象的に感性的なもの」と言っています。これは多分、「2」なら「2個のリンゴ」とか「2頭のゾウ」とかは「感性的に、目で数えられる」という事でしょう。たしかに「2」という数概念は、2個のリンゴや2頭のゾウからその「2」という一面だけを「抽象」しなければなりません。しかし、触覚で確かめうる事柄ではあると思います。ですから「抽象的に感性的なもの」といったのだと思います。円や三角形にしても同じです。

 要するに、私の言いたいことは、こういう用語法はドイツ語では当たり前に行われているということです。