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仕事の遣り方 ヒルティ

2015年08月03日 | サ行
      

                   カール・ヒルティ著
                   牧野紀之訳

 訳者の「前書き」

 これの原文は、関口存男の出した参考書『労働術(Die Kunst des Arbeitens)』(三修社、1952年)です。ドイツ語についての詳しい注解に加えて「事柄の注解」も付いているものです。再読してみて、その内容は我々の「仕事の遣り方」を反省するのにも役立つと思いましたので、かなり意訳した上に、主として内容に関する私見を注解として加えることにしました。又、例によって「内容上の小目次」を作りました。

  内容上の小目次

第1節〔序論・仕事と休息との相互作用〕

第2節〔本論・マンネリを克服するコツ〕

①〔先ずマンネリを自覚し、利己的でない動機を持つこと〕
②〔仕事を習慣化すること〕
③〔序文と標題は後回しにせよ〕
④〔気分転換の為の仕事は休息と同価値〕
⑤〔無駄な仕事で力を浪費するな〕
⑥〔初版は「取りあえずまとめた」だけ、再版で「一応の完成」〕

 関口存男による解説から

 1、この論文はヒルティが学校の刊行物のために書いたものである。(労働術65頁)
 2、Arbeitenとは、語義としては広く労働一般であるが、この論文では、論者自身が断っている如く、主として精神労働、即ち頭でやる仕事について述べている。(労働術27頁)

  第1節〔序論・仕事と休息との相互作用〕

 仕事の遣り方ないし仕方というものはあらゆる技術の中でも最も重要なものです。この技術を習得したならば、どんな勉強でも能力でもこれまでより遙かに楽にマスターできるように成るでしょう。それなのに仕事の正しい遣り方を身に付けている人はいつの世でも稀にしかいないものです。現代(1) では「仕事」とか「勤労者」という言葉がかつてなく頻繁に話題に上るようになりましたが、どうもこの技術が目立って向上したとか広がったとかいった事実を確認することは出来ません。時代の趨勢は、働くのを出来るだけ少なくして、残余の人生を働かないで過ごしたいという方向に向っているようです(2)。
(1) ヒルティは1833年に生まれ、1909年に死にました。19世紀の後半が彼にとっての「現代」でしょう。最終段落から判断しますと、労働運動がかなり盛り上がっていたようです。
(2) 聞く所によりますと、ヨーロッパ人の多くはなるべく早く年金生活に入りたいと思っているそうです。しかし、これは必ずしも「働きたくない」という事ではなくて、「使われて働くのが嫌」で、「自分の考えで生活し、ボランティアなどをして世の中のために活動したい」という事のようです。もしこれが本当だとするならば、必ずしもヒルティの考えと矛盾しないと思います。

 では、そもそも働く事と休養する事とは一見してそう思われる程に相容れないものなのでしょうか。これが何をおいても先ず考えるべき第一の問題です。と言いますのも、働く事を肯定するのに反対する人はいないのに、だからといって、それが働く意欲には直結していないからです。実際、働くのが嫌だという感情は相当前から広まっている問題であり、今では多くの国で一種の病気と言っても好いくらいに成っています。働く事は理屈としては肯定せざるを得ないものですが、実際には誰しも働きたくないと思っているのです。それにも拘わらず、この社会問題の解決方法の提案がありません。本当は、この両者は対立しておらず、この社会問題は解決できるのです。

 先ず確認すべきことは、休息を望まない人はいないという事です。どんなつまらない人でも、どんな器の小さい人でも休息を得たいと思っています。逆に、どんなに高邁な精神の持ち主でも緊張が永遠に続くのは嫌でしょう。死後の幸福な生活を表現するのに「永遠の休息」という言葉があるではありませんか。ですから、もし働く事が絶対に必要な事であり、休息がその反対物ならば、「汝、額に汗して生活の糧を得よ」という聖書〔創世記3-19〕の言葉は本当に厳しい呪いの言葉となり、人生は嘆きの谷〔希望のない所〕と化するでしょう。もしそうだとするならば、人間はいつの時代でも、その一部の者しか人間らしい生活が出来ないことに成るでしょう。しかも、この幸福は他の人間に働く事を強制することでしか得られないという事になりますが、こうなってはこれこそ本当の絶望です。

 果して古代の文筆家たちはこう言っています。多くの者が労働奴隷として希望の無い生活を送ることが少数の者たちが自由な市民として生活するための前提条件だったのである、と。19世紀の今日においても尚、〔万人の平等を建前とする〕共和制国家の市民ともあろう者が、その頂点に立つ聖書を手に持ったキリスト教の聖職者たちも、「一部の人種は生まれながらにして他者のために働くように定められている」などと主張しています。文化は富という土壌の上に、富は資本の蓄積あってこそ、資本の蓄積は正当な賃金を与えられない人々の労働の集積の結果〔つまり、搾取の結果〕としてしか生まれない、それ故に文化は不正義の結果としてしか生まれない、というのです〔本当にそうなのでしょうか〕。これがまさに我々のテーマなのでした。

 本稿はこの課題のためではありませんから、この主張がどの程度当たっているかを検証することはしません。ただ賛成出来るように思われる事に限定して管見を述べたいと思います。即ち、全ての人が「正しく」働くならば、かの社会問題は解決するだろうし、これ以外の方法では解決しないだろう、と。つまり、私案は道徳的な方法ですから、その反対の強制という方法では問題の解決は難しいでしょう。力を使う後者の道はいつでも可能でしょうが、そこからはろくな生活は出てこないでしょう。従って、働きたいという意欲を呼び起こす事が問題だという事に成ります。かくしてやはり正しい教育とは何かという問題に帰ってきた訳です。

 働く意欲というものは自分で経験して考えて見る以外の方法では生まれて来ないものでして、説教などしても出てこないものです。毎日至る所で証明されていますように、身を以て示して見せても生まれません。自分で体験したいと思っている人なら、経験から次の事を学ぶでしょう。

 第1に、今問題になっています「休息」は、心と体を全然動かさない、あるいは可能な限り動かさないという方法で得られるものではなく、きっちりと計画された心身の活動から初めて得られるものだという事です。なぜなら、人間はその本性からして活動するように仕組まれているからです。ですから、人間が無理してこの性質を変えようとすると、ひどいしっぺ返しを受けるのです。人間〔アダムとイヴ〕が休息の楽園〔働かないでも自然に出来る物を取って食べれば好いエデンの園〕から追い出されたというのは事実です。しかし、神は「働け」と命令すると同時に、働く事が又慰めでもあるようにしたのです。

 つまり、本当の休息は〔文字通り全く活動しない事ではなく〕活動の中にあるという事です。課題の解決が大いに進んだのを確認できれば精神的な休息に成りますし、仕事中の適当な休憩時間とか、日々の睡眠とか、食事とか、更に日曜日という何物にも代えがたいオアシスのような休養日は、肉体的な休息です。このようにまっとうな休み時間という中断のある活動が持続することで成果が上がる時、人は最高の幸福を感ずるのです。こういう幸福以外に〔どこか仕事の〕外に幸福〔や真の休息〕を求めてはならないのです。

 そうです〔第2に〕、更に一歩を進めれば、これが分かりますと、幸福になれるか否かは仕事の性質〔どんな仕事をするか〕には何の関係もないという事も出てきます。どんな仕事でも単なるお遊びでない限りは、その仕事に熱中するや否や興味を持って取りかかれるものです。幸福感を生み出すのは、その仕事に創造と達成の喜びを感ずる事でして、活動の種類ではありません(1)。ですから、仕事をし、その成果を得て最後に喜びを得られることが幸福な生活なのでして、これの無い生活ほど不幸な事はありません。ですから、働くことは「人間の権利」なのであって、この権利を否定することは絶対にできません。これは全ての人権の中で最も根源的な権利なのです。
(1) これには必ずしも皆が同意できるとは限らないでしょう。「単なるお遊び」eine blosse Spielereiを除外するのは当然としても、意味の小さな単純労働などはどうでしょうか。確かに、半生記などを読んだり聞いたりしますと、与えられた仕事に腐っていたが、「この仕事の名人に成ってやろう」と決心して取り組んだら、やる気が出て、成果を出し、次の仕事を得られた、とかいった話を聞きますが、それも本当に「どんな仕事でもそういう可能性がある」と言えるのでしょうか。

 〔逆に、第3に〕為すべき仕事の無い人ほど本当の意味で不幸な人はいません。しかし、実際にはそういう人は沢山いるのでして、しかもそういう人はいわゆる上流層にこそ下流層よりも多いのです。下流層での無業者は仕事をしたいと思っているのですから失業者ですが、上流層の無業者は間違った教育を受けたために、あるいは本来の仕事をしてはならないとする偏見や社会通念の力によってこの最大の不幸を押しつけられて、希望の無い生活を相続するように定められているのです。毎年、これらの人々がその内面の荒廃と退屈を紛らわそうと我が国〔スイス〕の高地や保養地にやってきます。しかし、ここでも元気を回復することはできません。初めはいくらかでも体を動かしてその無聊という病気から一時的にでも解放されたいと夏にだけやって来ていたのですが、今ではそれでは不十分だという事で、冬までもそうするように成りました。そのために我が国の風光明媚な谷はどこでもそういう人のための病院に成ってしまっていますが、それを年間を通じて占領することに成るでしょう。こういう人たちは休息を求めてどこへでも行きますが、どこへ行っても心の平安は得られません。仕事の中でこそその平安は得られるのだということを知らないからです。

 「六日間働くべきである」〔出エジプト記23-12、申命記5-13〕と言われていますが、それ以上でも以下でもいけないのです。親が失業していたためにまっとうな教育を受けられず、自分も定職に就けないという場合を除くならば、この処方箋を守って治らない現代の精神病はほとんど無いはずです。そして、その時には療養地の医者や精神科医の多くが失業する事に成るでしょう。

 人生とはそもそも〔受動的に〕「享受する」べきものではなくて、成果を生むように〔能動的に〕作り上げて行くべきものなのです。これの分からない人は既に精神が病んでいるのです。人が何歳まで生きうるかということは、不時の災難を除いて考えれば、まずその人の持って生まれた体質によって最大限度は決まっているわけで、心掛けさえ良ければとにかくその最大限度まで生きられる筈ですが、しかし精神がこのように病んでいては、その限度まで身体を持たせる事が出来るかはなはだ疑問です。「人生は七十年、好く行って八十年」(詩篇90-10)ですが、心と体を煩わす仕事があるならば、素晴らしい人生に成るだろうと、かの格言は言うべきだったでしょう。ひょっとすると、元の意味はこういう事だったのかもしれません。

 とはいえ、次の但し書きが必要です。全ての仕事が同じ価値を持つわけではなく、外見だけの仕事、本当には為すべきでない仕事もあります。手持ち無沙汰にやる裁縫や編み物、単なる兵隊ごっこ(特にかつて行われたそれ)、下手で何の足しにもならないピアノ遊びのような「芸術」などの大部分、狩猟やその他のほとんどのいわゆる「スポーツ」、そして特に、自分の「財産管理」がそうです。利口で活動的な人はこういう満足の得られない「仕事」を避ける方が好いでしょう(1)。
(1) ヒルティは「仕事の種類」に価値的な差を見ているわけです。その基準は現在とは少し違う所もあると思いますが、大した問題ではないと思います。

 機械を使った仕事、あるいは機械的で部分的な仕事は一般的に言って充実感を与えないものだというのもここから来るのです。手工業者や農業者の方が工場労働者よりはるかに充実感を得ています。社会的不安定はこういう工場労働者と共に生まれたのです。この種の労働者は自分の仕事の成果を自分で確認することがほとんど出来ません。機械が主として働いていて、労働者は機械に不可欠の道具に成り下がっています。あるいは、時計製造を例とするならば、労働者はただ沢山ある歯車の中の1つを機械が作るのを手伝うだけで、1個の時計をまるまる自分で作ることはしません。自分で全部作ってこそ自分の作品としての喜びもあり、人間的な真の仕事の成果と言えるでしょうに。そのような機械に従属した仕事は人間の尊厳という概念と相容れません。この概念は本来の仕事ならどんな小さい仕事にでも在るものですが、機械的な仕事にはそれが在りません。

 これとは反対の在り方が仕事にまるまる没頭して仕事をしている者です。芸術家はその全精神がその対象と一体に成って仕事をしています。学者にとっては自分の専門以外の事柄は眼中にありません(1)。極めて狭い領域で自分の世界を作り上げて生きている「奇人、変人」でさえこの部類に入れることが出来ます。
(1) ここでの「学者」のような人は、現在の日本の「大学教員」について見るならば、その5%くらいだと、私は推測しています。後の注釈を参照。

 こういう人たちは皆、他者から見ると、多少どうかと思うくらい、世の中のためになる不可欠の仕事をしているのだと思っているのであって、遊びとは思っていません(1)。ともかく、そのように仕事に打ち込んでいる人たちは、持続的に刻苦精励していますし、身体的には必ずしも健康的な働き方をしているとは限りませんが、それにも拘わらず、たいてい、かなり長寿です。それとは逆に、それ程忙しく働いていない貴族の遊び人や有閑マダムを例として考えると分かりやすいでしょうが、これらのなるべく働らかない事を原理としている人たちは不断に自分の健康の増進に気を遣わなければなりません。
(1) なぜこういう事をここで言う必要があったのでしょうか。分かりません。

 ですから、今日の世の中で先ずしなければならない事は、身体の健康の維持にも心の健康の維持にも、従って自分の幸福のためには、意味のある仕事をするのが一番だという事を理解させ、体得してもらうことなのです。

 又、〔とかく誤解されがちな常識とは逆に〕仕事をする必要の無いヒマ人は「選ばれた人」でも「特別な羨むべき人」でもなく、実際は正常な生活を忘れた精神的欠陥者ないし精神的不健康者と言うべきなのです。ですから、ここまでに述べてきたような考えが一度(ひとたび)一般常識として認められるように成るならば、その時には、いや、その時に初めて、世界の新世紀が到来するのです。その時が来るまでは、一部の人たちが質的にも量的にも不正常な労働をし、他の人々が過小な仕事で苦しむというこの世の病気は治らないでしょう。両者は相互作用の関係にあるのですが、どちらが本当に不幸かは分かりません。

 本節の終わりに考えたい事は、以上で確認してきた諸命題は何千年にもわたる経験的事実であり、働いている人でも働いていない人でも日々自分の生活の中で検証できる事ですし、どんな宗教もどんな哲学も一致して説いていることなのですが、それなのに未だに十分には周知徹底されていないのはなぜでしょうか。そのために、信仰心の篤いマダムが聖書には明確には書かれていない死刑を強く支持する反面、明確に書かれている掟に逆らって、週に一日しか働かず、悪くすると一日も働かないのに平然としているという事態に成っているのですが、全く不思議です。これの最大の原因は仕事の分配と順序が正しくないことで、そのために仕事が実際、重荷に成っているからです。かくして、我々は「仕事の遣り方」という標題に戻ったわけです。

 ここでようやく幾ばくかの忠告が出来る所まで来たわけですが、ここで私が念頭に置いている人々とは、仕事の必要性を原則として認めている人で、すぐにも仕事をしたいと思っているのですが、いざやろうとすると、又々奇妙にも折悪しく邪魔が入ってしまって、先延ばしに成るという人たちです(1)。
(1) 関口の解説1にありますように、これは多分ギムナジウムの雑誌か何かに書いた物でしょうから、ここで念頭に置いているのは、論文を初めて書こうとしている生徒(十代の後半の生徒)でしょう。しかし、大学生やあるいは博士論文も既に書いた人に対しても「仕事の遣り方」を教えるで言い過ぎならば、「参考意見を提案する」ことは必要でしょう。つまり、ヒルティのこの「仕事の遣り方」論は、全体を見ていないという欠点(欠けている点)があると思います。

   第2節〔本論・マンネリを克服するコツ〕

 と言いますのも、芸術や技術ならそれぞれに独自のコツがあることは周知の事ですが、働く事でも同じでして、そこを掴めば仕事が著しく楽になる技巧があるからです。更に、仕事をしようと意欲する事だけでも大変な事ですが、更に仕事が出来るという事は決して易しい事ではないにも拘わらず、それを教える所がどこにもないのです〔ですから、ここにそれを6点に分けて提案してみようと思う次第です〕。

 ①〔先ずマンネリを自覚し、利己的でない動機を持つこと〕

 〔何事の場合でも〕障害を克服する第1歩はそれを障害と認識することです。しかるに働く能力にとっての障害は一般的に言うと「惰性〔マンネリ生活〕」です。人間は誰でも生来怠惰な存在です。そういう知性的とは言えない受動的な生活から脱し、「通常の生活」を止めて自分を高めるにはどんな場合でも相当の努力をしなければなりません。より良い生き方に対して怠惰であることは人間に元から備わっている根本的な悪癖です。つまり、生まれつきの働き者などという人はいないのです。生まれつきとか気性としてはせいぜい活発さに程度の差があるだけです。極めて活発な人でさえ働くよりも他のことで気晴らしをする方を採るのが人間の本性です。逆に言うならば、働き者というのはただ「知性なき惰性生活」よりも強い動機がある場合にしか生まれないのです。

しかるに、この強い動機となるものには二種類あります。第1は低級な動機です。つまり「やる気」ですが、特に名誉欲と所有欲がそれです。あるいは生きて行くためには働かなければならないという事情もこれの一種です。その強い動機の第2は責任感と愛情です。それは仕事そのものへのものであってもいいし、人間に対する責任感ないし愛情でも構いません。この第2の高貴な動機には次のような長所があります。それは前者の「やる気」よりも持続力があり、成果が上がらなくても腐ることがなく、失敗しても嫌にならず、一つの目的を達成したからといって満足してその後は力を抜くというような事をしないのです。ですから、これと比較しますと、前者の名誉心や所有欲といった動機に基づいて仕事をする人々は確かに勤勉な場合がありますが、本当にコンスタントにむら無く働く人は稀です(1)。そして、また、自分自身には利益があっても周りの人々には迷惑になるような事、つまり仕事らしきものをして満足するような場合もあります。昨今では一部の商人や製造業の仕事がその例ですが、そのほかに残念ながら、学者や芸術家の一部にもこういう性格の「仕事」をしている人がいます(2)。
(1) 「稀」ではあるかもしれませんが、「皆無」ではないと思います。いや、「かなりいる」かもしれません。
(2) ①先日、新聞で読んだのですが、アメリカン・ドリームを夢見てがんばる人々は、「自分が金持ちにに成れば好い」という考えではなくて、「金を儲けてそれを使って社会を好くするための活動をしたい」という人が多いそうです。②芸術家のことは知りませんが、学校教師には「消化試合」をしている怠惰な人が多いと思います。大学の教員でもそうですが、高校以下では一番問題なのは、特に校長にやる気のある人が少ないことでしょう。「毒にも薬にもならない」という言葉がありますように、無気力人間が一番否定的な影響を与えると思います。それがトップにいるとどうしようもありません。「組織はトップで8割決まる」のでして、「学校教育は校長を中心とする教師集団が行うもの」です。これをどうしたら好いかを考えないで、「社会人として生活し始める若い人」にだけ忠告をしているのが本論文です。視野が狭すぎると思います。

 従って、例えば社会人として生活し始める若い人に何かアドヴァイスをするとするならば、先ず第1に言わなければならないことは次の事でしょう。仕事をするならば、責任感から出発し、仕事への愛情と関係者への愛情に基づいた仕事をしなさい、と。そして、民族の政治的解放とか、キリスト教の布教とか、見捨てられた下層階級の生活の向上とか、過度の飲酒癖の矯正とか、何なら諸民族の恒久平和とか社会改革とか選挙制度の改善とか、刑法と監獄制度の改善など、こういう目的はいくらでもありますが、何らかの意味で人類の大義に連なる仕事をしなさい(1)。そうすれば、周りの人々からの刺激も得られて恒常的に前向きの推進力を獲得するでしょうし、若い内は特に大切な仕事上の良き仲間が得られるでしょう。今日の文明化された民族では、そのような良き仲間を沢山持たずしては、男性にせよ女性にせよ、若い人は偉く成れないのです。若い人はこのようにしてのみ向上し、実力を蓄え、持続力を増すことが出来るのであって、その結果、早い内から脱皮して成長し、自分だけで孤立した生活をするような事がなくなるのです。利己主義はいつの時代でも欠点であって、弱い人間を結果するだけです。
(1) 「少年よ、大志を抱け」です。ここで大切な事は「大志」であって、「小志」ではダメだという事でしょう。なぜかと言いますと、「大志」を目指してこそ、自分の可能性を百%生かし切る事が出来るからです。私の周りにいた同級生達を見てみましても、優秀な人は沢山いましたが、自分の才能を十分に生かし切った人は少ないと思います。「世の中のために」という「大志」が無かったからだと思います。

②〔仕事を習慣化すること〕

怠惰な心〔マンネリ生活〕と戦う次に有効な手〔第2歩〕は「習慣の力」を使うことです。通常はもっぱら知性に反する事に使われているこの巨大な力をもっと高尚な事に使って悪いという理由がどこにあるでしょうか。実際、人は怠け心、享楽欲、浪費癖、ハッタリ、貪欲を習慣化するだけでなく、その反対の、仕事をすること、節制、倹約、正直な態度、気前の良さを習慣にすることも出来るのです。そして、ここで同時に言っておかなければならない事は、徳性もそれが習慣化されていない限りその人のものとして定着したとは言えない、ということです。逆に、徳性が習慣化されるに従って、マンネリ生活の惰性も弱まり、最後には仕事をしたくてたまらないように成るのです。こう成ったら、生活上の困難の大部分を克服したことになります(1)。
(1) これはとても好い忠告だと思います。

さてここまで来ましたので、仕事好きが習慣に成るのを助ける小技をいくつか述べておきましょう。それは以下の通りです。

真っ先に言うべき事は、「とにかく始めてみる」ということです。或る仕事を始めるという事、その仕事に心を向ける事は根本的に言ってもっとも難しい事なのです。逆に言うならば、一度(ひとたび)手に筆を執り、最初の手を着けてしまえば、これだけで仕事は既に相当楽に成っているのです〔ですから、先ず始める事が大切なのです〕。それなのに、「始める前にしておかなければならない事がある」とか、「準備しなければならない事が沢山あるので着手出来ない(実際はこの言葉には怠惰心が隠れているのですが)」とか言って、始めない人が沢山いるのです。こういう人に限って、その準備が終わると今度は又、準備で時間が少なく成ってしまったために切迫感に押されて心のゆとりが無くなったり、時には熱が出たりで仕事に差し障りが出るのです(1)。
(1) この点は、私(牧野)にも経験があります。私は「哲学史研究」と「哲学研究」とは違うと考えていましたから、どうしても、他の人々のように、「哲学は哲学史と関係がある」という屁理屈で過去の「哲学者の考えの研究(つまり、哲学史研究)」で「哲学」したつもりに成るのはとても嫌だったのです。が、いかんせん、「自分の哲学」は打ち出せませんでした。ですから、どうしても、論文が書けなかったのです。修士課程を2回留年しました。その終わり頃になると、多くの人から、「そろそろ書いてもいいのでは」とか言われました。でも最後まで(修論提出期限まで。たしか1967年1月まで)書けませんでした。仕方なしに「『フォイエルバッハ・テーゼ』の注釈」というものを出しました。内容もその題名通りのもので、11個のテーゼを考える材料となる言葉を集めただけのもので、お恥ずかしい代物でした。
博士課程に進んでようやく何かが熟してきたのでしょう、「書けそうだな」と「感じ」ました。我が都立大学哲学研究室で出している雑誌に書くことになったのを機縁に「『フォイエルバッハ・テーゼ』の一研究」を書きました(1967年秋)。とにもかくにも「論文」を書いたのです。これから楽になりました。1969年の2月頃だったと思います、ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』の第204~212節)を読んでいて「唯物史観の論理的再構成が出来そうだ」とヒラメキました。これが「ヘーゲルの目的論とパヴロフの第二信号理論」です。雑誌『理想』の440号に載せてもらえました。この2つの「論文」が助走だったと思います。1971年の4月に有斐閣のPR雑誌『書斎の窓』に「『パンテオンの人人』の論理」を発表して、一人前に成れたかなと思っています。まあ、「ともかく始めることだ」と言っても、臆病心の結果の場合もあれば、実際に準備が出来ていない場合もあるとは思います。

特別なアイデアがひらめくまで待つという人もいます。しかし、アイデアというのは、仕事をしている最中にこそ一番好くひらめくものなのです。筆者の経験が事実として教える事は、初めに考えていた事は書いている間に変わるのが常で、休息中に思い浮かぶアイデア(1) で仕事中に出てくるアイデアより好いものや完全に新しいものはほとんど無い、という事です。
(1) ヒルティの考えでは、「真の仕事中」には「適切な休息」も含まれているはずですから、そういう「適切な休息中に浮かぶアイデア」は「仕事中のアイデア」に分類されるのだと思います。実際、仕事に集中し没頭している時は、食事中でも床の中でもアイデアは浮かぶもので、いつでもそれをメモ出来るように手元にメモ用紙を用意しておくことが必要だと思います。

結論として確認出来る事は、「先延ばしは絶対にするな」という事です。何らかの身体の不具合とか心の異常とかを言い訳にするな、という事です。毎日、決めた時間を仕事に当てなさい、ということです(1)。その時になっても、使徒パウロの言葉を借りるならば、狡猾な「最初のアダム」〔第1コリント15-45以下〕は、一定の時間は働かなくてはならないが、全ての時間ではないから、休息もして好いのだと言って、大抵、易々と、この期に及んでもまだ今日為べき事〔休息〕はどうしてもするのだと、心に決めるのです(2)。
(1) この「一定の事を毎日やると決めて、それを実行する」というのは「努力」の基本だと思います。拙稿「努力とは何か」(『囲炉裏端』に所収)を参照。
(2) ここは分かりませんでした。一応、こう取っておきました。そもそも、ここまで来て、習慣の力で「最初のアダム」を克服しようと提案している所で、なぜ「最初のアダム」を持ち出すのでしょうか。なお、「最初のアダム」とはエデンの園に住んでいて蛇の誘惑で堕落したアダムのことです。これに対して、イエスのことを「最後のアダム」と言う言い方もあるそうです(新教出版社編『聖書辞典』による)。

③〔序文と標題は後回しにせよ(1)〕

精神的な仕事に関わり、それも〔遊戯的でなく〕創造的な仕事をしている人なのに、どういう順序でやろうかとか、前書きをどうしようかとかいった事に時間を費やして意欲を摩耗してしまう人が少なくありません。こういう事はそもそも本人が意味深いと思っているだけで、わざわざ多大の準備をして書いた前書きなどは役に立たない無用なものが普通で、本文の中で書けば好い事を前以て取り上げてしまう不細工でしかありません。言うまでもないでしょう。そこで、どんな場合にも当てはまる忠告をしておきますと、「前書きや標題を考えるのは最後にせよ」です。
(1) これは「小技」の2番目でしょうか。準備が出来たら、「とにかく始める」のが最重要で、「前書きや標題は後」で好いと思いますが、「前書きや標題は役立たない」は言い過ぎだと思います。これを考えるのは文章の構成を自己反省するのに役立つと思います。現にこの文章でも、ヒルティは「節の題名」を付けておらず、第二節の①②③等々にも小見出しを付けていませんが、第1節が「序論」で、第2節が「本論」だということは、ヒルティは自覚していたでしょうが、読者はみな理解するでしょうか。少なくとも関口はこの点に注意していません。又、第二節の①から⑥までの6点は適切な配置になっているでしょうか。「小技」はどこからどこまででしょうか。私には分かりませんでした。

前書きをどうしたら好いかとか適切な標題などというものは仕事をしている間に自ずから頭に浮かぶものです。そのような事はしないで、助走を省いて直ちに自分の好く知っている事を扱った本論から始めれば好いのです。本を読む場合でも同じです。序言や第1章を先ずはすっ飛ばす事です。するととても楽に読めるものです。筆者は序言を最初に読んだ事は1度もありません。読了した後になって初めて序言を読むと、ほとんど例外なく、「ここにしか書いてない事は一つもないな」と思います。確かに序言が本文より好く出来ているような本もあります。しかし、そういう本は一般に読む価値の無いものです(1)。
(1) ヘーゲルやマルクスやエンゲルスの場合は、序文が一つの「論文」になっていたと思います。時代の風潮だったのでしょうか。ヒルティはヘーゲルを知らないようです。

敢えて一歩を進めて、「(序言か本文かに関係なく)ともかく自分にとって一番取っつき易い所から始めよ」と言っても好いでしょう。とにかく始めることです。そのようにすると、系統立てて仕事をしていないから当然、回り道をすることになるでしょうが、それでもともかく始めれば、始めないで色々考えていて失われる時間が無くなるだけでなく、それ以上の利益があるのです。

 最後に2点付け加えておきます。第1点〔第3の小技?〕は、「明日の日を思い煩うな。どの日にもその日の仕事がある」〔マタイ伝6-34〕ということです。人間は自分の力以上の事を空想するという危険な性質を持っているものです。そのため人は予定している仕事を全部、いっぺんに思い描きます。しかし、現実の能力はその仕事を少しずつ片付けるしかないので、一つ遣っては力を蓄え、又一つ遣っては又新たに力を貯めるという風にするしかないのです。つまり、常にいつもの通り、その日の仕事だけをすれば好いのです。明日は自ずから到来し、明日の仕事とそのための新しい力とを持ってきます。

 もう一つの点〔第4の小技?〕は、殊に精神的な仕事の場合についてですが、なるほど仕事はしっかりと遣らなければならないのですが、全部遣ってしまって、書くべき事や読むべき事が残っていないようにしてはならない、という事です。〔いや、それは遣ってはならないではなく〕そのような事をする力は誰にも無いのです。ですから、せいぜい比較的小さな部分に仕事を限定して、それは全部するが、その範囲を超えた部分は主要点だけ考えておけば好い、とするのです。沢山の事をしようとする人に限って少しの事しかできないものです(1)。
(1) これは「これまでの準備で論文が書けるかな」と迷い、躊躇している高校生には適切な忠告だと思いますが、完全に誰にでも、いつでも当てはまる訳ではないと思います。
 「目の前の仕事に集中せよ」という考えを私たち(鶏鳴の人たち)は「ベポ主義」と呼んでいます。ミヒャエル・エンデの『モモ』にベポという道路掃除夫が出てきます。ベポは、長い道を掃除しなければならない時には、先を見て「長くて大変だな」と思ってセカセカとやり出すような事はしない。それでは直ぐには終わらないから、結局息が切れて挫折するからです。ベポは目先の仕事、次に掃くべき所だけを見て、一つずつ片付けてゆく。そうすると、その内に独りでに終わるという遣り方をします。
 このベポ主義が適当な場合は多いと思います。私も、1500頁超の『関口ドイツ文法』の校正をやった時は、実に3校までやったのですが、毎回、ベポ主義を思い出して何とか完遂しました。しかし、仕事の全体像を頭の中に描き、時々反省する事自体はとても大切な事だとは思います。場合によっては「決定的に重要」な場合もあると思います。特に精神的な仕事の場合はそうでしょう。ですから、そこを修正しますと、「時々全体を見渡して、自分の位置を確かめ、自分の方向がこれで好いかを反省しつつ、目の前の一つ一つの仕事に集中して着実に歩を進める」という事になるのでしょう。

 ④〔気分転換の為の仕事は休息と同価値〕

 楽しく生き生きと仕事が続けられなくなったら、仕事を中止するべきです。始める時は「楽しく」なくても好いのですが、仕事で疲れを感じた時とかはただちに中止するべきです。それはその仕事全部を止めろという意味ではなくして、今遣っている仕事を止めて休息を取るとか、別の仕事をすると好いという意味です。〔例えば哲学の勉強に飽きたから数学の問題を考えて見るというような〕仕事を換える事には必要な休息と同じくらいの効果があるものです(1)。人間の本性がこのように作られているからこそ、人間の仕事能力は今日のようなものに成ったのです。
(1) マルクスは、経済学の研究に疲れた時には数学の研究をしたと言われています。

 ⑤〔無駄な仕事で力を浪費するな〕

 沢山の仕事をしようと思ったら、力を節約するすべを知らなければなりません。その実際的な方法として特に有効なのは無駄な仕事に力を割かないことです。こういう馬鹿な事をしてどれだけのエネルギーが失われ、やる気が削がれているか、言うまでもありません。その例として真っ先に上げなければならないのは新聞を読む事に多大の時間を割くことです。その次に気をつけるべきは、何かの会合に出る事であり、政治的な行動をしたり、政治談義にうつつを抜かすことです。

 実際、朝という仕事に最適な時(1) に新聞を読むことから一日を始め、夜は何かの会合に出たり「付き合い」に精を出してその日を終える人が沢山います。酷い場合は賭け事でその日を終える人もいます。もし朝には一つかあるいは複数の新聞を読んだとしても、翌日にはそれで得た知的な内容をどれだけ覚えているでしょうか。大抵の場合、ほとんど何も覚えていないでしょう。ハッキリと言える事は、新聞を読んだ後には何かの知的な仕事を喜んで遣る気が失せてしまっていて、たまたま別の新聞が手元にあると、それに手を出すことになるということです。
(1) ヒルティはスイス人のようですが、ドイツ人などを見ていますと、朝の時間を本当に大切にしているように感じます。学校などでも午後1時まで授業をしますが、これも「朝の時間」を増やす一つの手段なのでしょう。

 沢山の仕事をしたいと思っている人は、知的な仕事でも肉体的な仕事でも無駄な仕事は極力避けた方が好いという事です。そして、自分の遣るべき事に力を集中させることです(1)。
(1) この事は本当に大切だと思います。私にとっては、新聞を読むという事は完全に「無駄な仕事」とは言えません。「生活のなかの哲学」を標榜していますから、むしろ新聞を読む事は「生活の中にある課題」に気づき、考えるための非常に重要な仕事なのです。「文法研究のための用例を探す」という事でも、決して「完全に無駄な仕事」」ではありません。しかし、問題はどの程度の時間をそのために割くべきか、です。そして、これは自分の力、勉強のために1日何時間割けるかと関係しているのです。私はと言いますと、かつてはまだ体力も脳力もありましたから、最初に1時間半位掛けて丁寧に新聞を読んでも、その後に勉強が出来ましたが、今ではそれは出来なくなりました。新聞を読む代わりにインターネットを見る時間も増えました。ですから、今ではなるべく「先ず本来の勉強をしてから新聞等を読む」ようにしています。実行しない事もあり、この際反省しなければなりません。

 ⑥〔初版は「取りあえずまとめた」だけ、再版で「一応の完成」〕

 知的な仕事(もちろんここまで主としてそれを念頭において話をしてきたのですが)に大いに役立つ最後のコツは、「繰り返すこと」です。言い換えるならば、「改訂すること」です。大抵の知的仕事について言える事は、「最初はただ大まかにしか出来ない」という事です。再度取り組んで初めてそれを精密に仕上げて、十分に準備の出来たものになり、広く理解されるようなものに成るのです(1)。
(1) これは大切な観点だと思います。自分の仕事を振り返って見ても、初版は「とにもかくにもまとめました」というだけだと思います。初版を出して自分を対象化して欠点(欠けている点)や間違っている点を自覚し、それを直し補って再版で初めて「自分なりの一応の完成」を見るというのが、当然なのだと思います。拙訳『小論理学』の鶏鳴版と間もなく出るであろう未知谷版(既に準備はほぼ終えています)とを比較してもそれが言えます。『関口ドイツ文法』についても、この初版と再版(未発行)の関係は当てはまると思います。

 ですから、或る作家が言いましたように、本当の刻苦精励とは、仕事ばかりしていて全然休まないようなものの事ではなく、むしろ為すべき仕事に沈潜しているが故に、心に思っている事をハッキリした形で表現しようと、休んでいる間にも自然に意識が行ってしまうようなものの事なのです。世間で「勤勉」と言うのは、それなりの量の材料を物にして、一定期間内にその点で目に見える結果を残すことですが、それは当たり前の事です。それは当然の「前提」でしかありません。真の「刻苦精励」はそれ以上に高いものでして、適当な休憩を入れつつ仕事を続けて、倦むことを知らない活動のことです(1)。
(1) ここまでが「或る作家の言」だと思います。そう取って初めて次の段落の「この考え」が何を指しているかが分かります。
さて、ヒルティが支持し、関口が何も批評していないこの考えの内容ですが、こういう規定では不十分だと思います。最初は「先の事や全体像を考えずに、ともかく始めよ」と言ったのですから、「改訂作業」では特に「全体像を意識的に視野に入れて考え直し、その全体像の観点から始め方と中間の順序が適当か、又その展開の論理は本当に内在的か」を反省するべきでしょう。こういう点の欠けているのが本論文の根本的欠点(欠けている点)だと思います。これを指摘出来なかったのは、ヘーゲルの「論理学」を勉強しなかった関口の限界だと思います。

 この言葉はこの考えを表現する最良のものだと思います。つまり、仕事をこう理解してこそ、「仕事と休息とは排斥し合う矛盾なのではないか」という当初の疑念が最終的に解決できるのです。そして、必要な休息を挟みつつ為される仕事の連続性が確認出来るのであり、やはりこれが仕事の遣り方の理想だと分かるのです。

 仕事に沈潜するという本当の意味での刻苦精励を理解した時、人間は休み無く常に仕事をすることになります。そのような「長すぎる事の無い休息」を挟んだ後には、仕事が知らぬ間に大きく進んでいたと気づくのです。不思議な現象ですが、〔実行した人なら誰でも気づく〕本当の事です。分からなかった問題が急に氷解したように感ずる事も珍しくありません。最初に持っていたアイデアがふくらみ、はっきりした姿を採って見えて来て、そのまま文字に出来る程に成っていたりします。そして、残った仕事は、「何もしなかったのに完成間近に成っている材料をただ集めるだけだ」と思われたりするのです。

 「享受と休息の価値は仕事をした人にしか分からない」という言葉は好く引かれるものですが、そしてそれはその通りなのですが、仕事に対する本当のご褒美は以上のようなものなのです。〔逆に言うならば〕仕事をしなかったのにする「休息」は、食欲の無いのに食卓に着くようなものです。要するに、どんな場合でも、仕事をすることが、時間を過ごす最良で、最も楽しくて、報われる事の大きく、そして最も金の掛からない事なのです。

 校長先生、最後に、もし先生が、「なぜこのような分析を事もあろうに学校の雑誌に書いたのだ」と質問されるのでしたら、次のようにお返事したいと思います。即ち、教育という仕事の本質は、生徒に勉強への意欲を引き起こし、その技術を伝授すると共に、他方では、然るべき時が来たならば、生徒が何らかの大義のために身を挺する人間に成るように仕向ける事だと思うからです。

 今日の社会情勢を鑑みますに、19世紀の初頭において働き者の市民が怠け者の貴族や聖職者に取って代わって支配権を握りましたように、今度もやはり働き者の労働階級が支配階級に成ると正当にも考えて好いように思われます。

 この働き者であった市民がその後、自分の先行者たる貴族及び聖職者の轍を踏んで年金とかで暮らすように成り、他人の働きで生活するように成った今、市民が没落するのは必然です。

 いつの時代にあっても、未来は働く者の手中にあるのです(1)。
(1) 「ドイツの労働者階級こそが、ドイツの古典哲学の継承者である」と結んだエンゲルスの『フォイエルバッハ論』の結語を思い出します。しかし、労働者も被抑圧階級もひとたびその「未来を手中にし」「権力を手にする」と、今度は又「腐敗しない権力はない」という鉄則の作用を受けます。社会主義社会とは「全国民が公務員に成る社会である」とも言えるでしょうが、そうなると、その「全公務員」が「指導する公務員」と「指導される公務員」に分かれます。そして、やはり先の鉄則が働き始めます。ではどうしたら好いのでしょうか。本当の解決はどこにあるのでしょうか。これが問題です。
(2015年8月1日)