マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

言いやすい人に言う

2013年11月28日 | ア行
 先日、NHKの教育テレビで、母体保護法(旧・優生保護法を改めたもの)の発効(1996,09,26)を契機に、「命の質を選べるか」という番組が放映された。2日連続の番組の2回目である。その中で、妊娠中絶に関して、女性の体のことは女性自身に決定権があるとして、「女の自己決定権」を主張する意見があった。私はこれを聞いて少し疑問をもった。

 なぜ妊娠中絶をしたいと思うのだろうか。その理由としては、大きく分けて、次の4つが考えられる。①強姦などによる不本意な妊娠の場合、②避妊したかったのだが、避妊が出来なかった場合、③避妊したのだが、失敗した場合、④産むつもりだったが、後に考えが変わった境合、である。さて、この4つのパーセンテージを考えてみると、②の場合が圧倒的に多いのではあるまいか。①も③も④も、ゼロではないだろうが、非常に少ないと思う。

 そうすると、次に、②はなぜ起きるのか、という問題になる。それは、女性が避妊を希望したが、男性が受け入れなかった場合と、そもそも女性が何らかの理由で避妊の希望を男性に伝えなかった場合である。ということは、この段階で「女の自己決定権」が通っていないということである。

 さて、そうだとすると「女の自己決定権」を通す場合が2つあることになる。そして、前者(避妊)の方が根本である。なぜなら、前者があれば、後者(妊娠中絶)はほとんど問題にならないからである(ほとんど、というのは、①③④の場合があるからである)。そうすると、テレビに出てきた女性は、前者の「自己決定権」にはほうかむりして、後者の「自己決定権」だけを声高に叫んでいることになる。なぜこういう不公平な事をするのだろうか。多分、それは前者の方が言いにくいからであろう。個人としての主体性をより強く要求されるからであろう。私はこれは非常に卑劣な事だと思うのである。

 しかし、世の中にはこういう事はとても多いと思う。学生に書いてもらう援業のアンケートを見ていても、これを感じることがある。私に対して個人的な反感を書いてくれる人がいるのである。あるいは、理由も挙げずに、「お前の授業は、予備校の素晴らしい授業に比べて全然魅力がない」と書いてくれる人がいるのである。こういう事を書く人は、たいてい、次の授業から出てこなくなるから、成績もつかないのだが、たとえ出たとしても、又勉強が出来たとしても、私は成績を付けないつもりである。これを少し論じたい。

 私の授業を全否定する学生は他の授業に対してはどういう態度を取っているだろうか。多分、どんなお粗末な授業に対しても、何も言わないだろう。なぜなら、ほとんどの教師はアンケートを取らないし、まして悪い教師は取らないからである。すると、この学生は、アンケートを取る教師には勝手な事を言い、アンケートを取らない教師に対しては文句があっても言わないということになる。これこそ卑劣な態度ではなかろうか。

 民主的人間関係の第一原則は「公正」ということである。私の授業がどんなにお粗末なものであるにしても、少なくとも、年度の途中で何度もアンケートを取って生徒の意見を聞いているという点で、私は公正さの最低条件を満たしている。逆に、この点すら評価せずに、アンケートを取る「言いやすい教師」には言うい、言わせない教師には言わない学生の態度は、最も不公正である。だから、私は、このような人を自分の生徒とは認めず、成績を付けないのである。

 ついでに、それでは、すべての悪い教師に対して公平に批判しているならよいかという問題を考えたい。私は、それでも不可にする。なぜなら、その学生と私との間に最低限度の師弟関係すら存在していなかったと思うからである。私が授業の一環として取るアンケートは、師弟関係を前提した上での話し合いであり、微調整である。だから、それは「より良い授業のために」と題されている。

 もし、教師が根本的に悪いとか、或る教師の授業がおよそ大学の授業と認められないというなら、学長か学部長に訴えるべきである。もちろんこういう窓口を設置している大学はなく、それは大学が根本的にはまだ民主的でない証拠である。しかし、それは私の授業の責任ではない。

 大学の授業とは認められるが自分は嫌いだというなら、実はこういう類の批判が多いのだが、その場合には、自分でその授業を辞めるしかないだろう。

 人間には間違いがある。しかし、間違いを直すにも正しい方法がある。二人以上の人間が集まれば意見の違うのは当たり前である。だから、意見が違った場合の処理方法を確定し、常々改革していく必要がある。今の日本の学校の根本的な欠点は、教師には間違いはないと暗黙に前提して、教師に問題のあった場合の是正方法を作っていないことである。そして、人間関係に疑問を感じた場合にどう処理するのが認識論的に正しいかを考える授業が、必山修科目になっていないどころか、そういう授業が一つも無いことである。
(1996,09,28。雑誌「鶏鳴」第141号から転載)

付記

 あまり好い例でもなかったと思いますので、一般論として説明し直します。要するに、「言いやすい人に言う」という事は、正確に言い換えますと、「言いやすい人にだけ言う」という事であり、更に正確に言い換えますと、「言うべき人には言わないで、言いやすい人にだけ言う」という事です。

 「言うべき人に言わない」のは「義を見てせざるは勇なきなり」と言われますように、大きな悪であり、「言いやすい人にだけ言う」のは、内容的に間違っている場合は論外として、内容的に正しい指摘だとしても、せいぜい「小さな善」でしかありません。従って、「言うべき人には言わないで、言いやすい人にだけ言う」という事は、「大きな悪」を隠すために小さな善をする事であり、正真正銘の偽善です。

 大学での最後の年、或る学生が私の小さな間違いを捉えて指摘してくれました。この学生はこう言う事を何回かしてくれました。批判すると、「先生が間違っているから指摘したのだ」ということでした。私は、「まず学長の大学運営を批判的に検討するのが、学問的に正しい順序である」と述べました。他者の間違いだからといって、何でも指摘して好いという事にはならないと思います。

 最近は、我がブログへの批判的なコメントを公開するか否かの基準を厳しく考えるようになりました。コメントを投稿したが載せられなかったという方は、自分の牧野批判が本当に公正だろうかと、今一度反省してみて下さるようにお願いします。

    関連項目

偽善

議論の認識論