マキペディア(発行人・牧野紀之)

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索引の意義

2013年04月18日 | サ行
 最近、ますます「索引」の重要性を痛感するようになっています。本にしても、ブログとかホームページにしても、とにかく何らかの情報を集めたものでは索引があるか無いかが、その本の使いやすさ、あるいはその情報の価値を大きく左右すると思うようになりました。

 昔は、そういう意識はありませんでした。そのため自分の作った本などでも、索引を作らなかったと思います。自分で鶏鳴出版から出していた時代は1回も索引を付けなかったはずです。未知谷さんから出していただくようになってからも、初めの内は作っていません。索引を付けたのは増補新版『西洋哲学史要』(2007年春出版)からだと思います。

 ではその間に何があったかと考えますと、多分、ブログで「マキペディア」、最初の名前は「マクシコン」ですが、それを出した事が大きかったと思います。これが2006年10月のことです。

 どこかに書いたと思いますが、かねてから「ヘーゲル哲学辞典」という名で、「ヘーゲル哲学の辞典」であると同時に「ヘーゲル的哲学観に基づく辞典」を作りたいと思っていました。1度にはできないから、少しずつ作れればいいと思っていました。インターネット・ホームページが出来て、この「少しずつ作る」という事の可能性が生まれました。しかし、実際には更新が大変でした。その後、ウィキペディアという「フリー百科辞典」が生まれました。「これだ!」と思いました。しかし、私の書いた記事がド素人によって簡単に改ざんされるのを見て、「これは話にならない」と気づきました。

 その後、ブログが出て来て、その簡便さに驚嘆しました。そして、ブログのように簡単に更新できるものでホームページが作れないかな、と考えました。色々と考えた結果、「ブログは日記を前提しているから日付で管理している。だから、1日に1つの事を書き、日付けを頁番号のように使えば辞典が作れる」と気づきました。

 かくして、マキペディアが始まったのですが、その後「索引」を改良して行きました。そもそも名前からして、長い間「総目次」として来ましたが、先日「総索引」に改めました。その前には、3年ほど前ですが、索引専用のブログを作りました。リンクの貼り方もうまくなったと思っています。

 では、私は読者として索引をどう考えてきたでしょうか。本とかで、索引に関心を持った事はないか、と考えてみますと、「いえ、あります」という答えになります。いつ関心を持ったかと言いますと、国民文庫版のマルクスやエンゲルスや、特にレーニンの『唯物論と経験批判論』には詳細な索引が付いていて、それを使った記憶があります。

 その索引は、今見てみますと、まず人名索引と事項索引の二つに分かれています。そして、事項索引は、ただ頁番号を記すだけでなく、核心的な内容も書いてあります。これは親切です。

 最近気づいたのですが、或る項目について沢山の、具体的な数字を出しますと、例えば5個以上の参照頁がある場合、それぞれの参照頁にはその項目についての何が書いてあるか、簡単な示唆があると親切だな、ということです。間もなく出るであろう『関口ドイツ文法』の例を引きますと、例えば「英語(英文法)」という項目があるのですが、それの参照頁が全部で80か所以上も挙げてあるのです。関口さんの英文法についての発言をこれ程引用しているのです。

 しかし、その個々の参照頁には英文法のどういう事が取り上げられているか、それは書いてないのです。これでは使いにくいと思います。そこで、英語とフランス語については、その後、その内容を記した「索引」を作りました。つまり、現状は少ない数字から順に、ただ、頁番号を並べただけですが、改正後は、「1未満の数、565, 一般疑問文、1223, 過去進行形、752, 仮定法、1020, 感覚動詞、906、(以下、略)」内容をアイウエオ順にして、頁番号を添えたのです。こうではなく、頁番号は少ない順位して、それに内容への示唆を付けるという案もあると思います。今後、更に研究します。

 しかし、これは、本には載せられませんでしたので、出版後にアップする「関口ドイツ文法のサポート」というブログに載せる予定です。

 山口祐弘(まさひろ)の訳した『論理の学』(存在論)も細かい索引が付いていますが、例えば「媒介」とか「反省」には沢山の参照頁が挙げられています。しかし、それぞれの頁の内容は書いてありません。

 国民文庫のものでも例えばレーニンの『哲学ノート』の訳には索引はないようです。

 先に、マキペディアの「総目次」を「総索引」に替えたと書きましたが、目次と索引はどう違うでしょうか。言うまでもなく、目次は内容の掲載順に紹介するものです。それに大抵は本の前の方にあります。それに対して、索引は項目名のアイウエオ順に並べるのが普通です、そして、本の最後の方にあります。内容的にも、索引なら1つの項目が2つ以上の所に挙げられていることがあります。例えば、マキペディアの索引ですと、「寺沢恒信氏と哲学」という記事は「寺沢恒信」の所と「哲学」の所とに挙げてあります。

 ネット時代になって、情報をネットで探す事が多くなりました。本なら、多くの人がアマゾンで先ず探すでしょう。しかし、本を探すのに、アマゾンがあればそれで十分かという問題があります。逆に言うと、本屋には存在価値がないのかということです。

 何を探しているのか、その書名とか著者名とかが分かっていれば、アマゾンでいいでしょう。しかし、未知の本と出合うには本屋に行かなければなりません。ネット上の情報における「索引」の役割はこの本屋の役割に似ていると思います。

 図書館でも同じ事を経験しました。我が浜松市の図書館は合併後、1つのネットにまとめられたのですが、名前の分かっているものを探すのにはネットで出来るのですが、そうでないものは図書館で棚を見てみる必要があるのです。かつて朗読のCDにどんな物があるかな、と探していて、或る図書館で、「朗読のCDはどこにまとまっているのですか」と聞いたところ、係員は「何の朗読ですか?」と聞き返してきました。「それが分かっていたら、ネットで検索しますよ」と言ったことでした。

 ネットで「朗読」と入れて、朗読のCDの一覧表が出て来るように作ってあるならば、好いのですが、そこまでは行っていないのです。

 そもそも存在する事すら知らない物に出会うには、偶然その図書館の棚で発見する以外にないでしょう。浜北の図書館で「シュタイナー教育」のVTR(5巻組)を見つけた時は本当に驚きました。「こんな物が出ているんだ」と思いました。又、別の図書館で「懐かしの奥山線」だったかな、ともかく今は廃線となっている奥山線のVTRを見つけた時もびっくりしました。

 索引自体が1冊の本に成っている物もあります。例えば「聖書辞典」は聖書の索引でしょう。索引だけではなく、説明もありますが。「資本論辞典」も資本論の索引を膨らませたものです。

 大学の情報学部の学生に聞いたところ、「整理されていない情報は無意味だ」ということは聞いているようですが、その整理の仕方のいろいろ、あるいは上下については説明がないそうです。大学のホームページは、私が知っている限り、どこのホームページもみな、非学問的で、真実を隠すように出来ていますが、それも当然と言わざるを得ません。

     関連項目

マキペディアの総索引

牧野論文の索引