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村上陽一郎などの原発推進論者のたわごと

2011年06月07日 | マ行
 最近目に付いた原発論を引いて感想を書きます。

01、原発反対論に思う(安曇野)

 発生以来1ヵ月が経過したのに、福島第一原発の事故は一向に収まりそうにない。発電所自体の事故収束はいつなのか、放射能の拡散はどのくらいなのか、関連地域の住民の不安、不信は大きくなる一方である。

 当然予想されたように、原発反対の意見が勢いを増している。ここで注意したいのは、原発をこれまで容認していた人たちも、けっして手放しで全面的に賛成していたわけではない、ということだ。つまり、われわれの日常生活に必要な電力需要確保のために、原発なしではエネルギー政策は成立しないと考え、多くの人たちは原発に消極的に賛同していたのだ。

 この視点で考えると、原発反対論に欠けているのは、次の2点である。

 第1に、仮に原発を認めないとして、代替の電力エネルギーをどうするのかの議論である。皆が期待する太陽光、風力などはまだ安定した電力供給とはなりえない。

 水力も頭打ちである。となると石油、石炭などの化石燃料に依存するしかない。これに依存したとき生じる地球温暖化はどうなるのかに、まともな返事は聞こえてこない。

 第2に、となると電力需要をどう抑制するかの視点が欠かせない。しかしながら原発反対の論者には全くと言っていいほど、具体的な提案がない。

 おそらく便利になりすぎた日常生活を30~40年ほど前に戻すぐらいの覚悟がないと、原発反対に現実味がないのだ。さらに、国民に対して、これらの課題をどう実行させるかの具体策も必要だ。

 以上、2点についての国民的な検討は不可欠である。単に原発は嫌だからという感情論だけでは、議論は進まない。(朝日、2011年04月22日)

02、感想(その1)

 これは「原発に消極的に賛同」しているという仮面をかぶった推進論者のエセ理論でしょう。真の問題は「方向として脱原発を取るか否か」なのですが、その点を不明にしています。もし本当に脱原発の立場に立っているなら、言うところの「2つの難点」に「どう解決するか」という主体的な態度で臨むはずです。

 原発を全部止めるには「日常生活を30~40年ほど前に戻す覚悟が必要」という主張には根拠がありません。2007年、総発電量は1兆1928億キロワット時(総使用量は1兆0755億キロワット時)でした。その内、原発による発電量は2638億キロワット時でした。つまり、原発依存度は22.1%でした。

 原発分を除くと、総発電量は9290キロワット時となります。これは1992年か1993年の総発電量です。つまり、今原発を止めても、せいぜい15年近く前に戻るだけです。

 この15年間の省エネ技術の発達を考慮しますと、「日常生活を30~40年ほど前に戻す覚悟」は必要ありません。「有識者」として、朝日新聞にコラムを書くなら、きちんと調べてからにするべきでしょう。

03、村上陽一郎・東洋女学院大学長の話から

 今の段階で、原発を全廃することはあらゆる面で不可能、日本の電力は原子力への依存度が30%を超えている。(週刊東洋経済、2011年04月30日~05月07日号)

04、感想(その2)

 村上氏は、同誌によると、かつて原子力安全・保安部会の部会長を務めていたとのことです。多分、いわゆる「原子力村」の1人なのでしょう。村上さんも安曇野さんと同様、「根本的方向」の問題を「今の段階で」の問題にすり替えています。原発依存度も調査せずに3割としています。

 こういう人が「教養」とやらについて云々しているのですから、いい加減なものです。この際、はっきりさせておきますが、私は大学の教養学部時代、村上さんと同級でした。話した事はありませんが。

 村上さんについて有名な事は次の事です。1958年春、学生になった我々を迎えたのは教員の勤務評定反対闘争でした。4月末、学生ストライキが行われました。その直後、墨痕鮮やかな達筆で書かれた批判文が大学の掲示板に掲載されました。その筆者が村上さんでした。スト参加者の態度を「正門前にヤクザの如くたむろし」と罵ったもので、肝心の勤務評定についての自分の態度は述べないものでした。

 村上さんの『あらためて教養とは』(新潮文庫。『やりなおし教養講座』NTT出版の改題・新版)を読んでみますと、学生時代に経験したであろう60年安保闘争にどう関わったかということが全然語られていません。60年代末の東大闘争の時、どこにいたのかは知りませんが、どういう態度を取ったのでしょうか(その後分かった事は、1968年3月に東大の大学院を満期退学したこと、1965年から上智大学で助手をしていたことです)。村上さんの教養とはこのように「政治から逃げ回る教養」なのです。あるいは、「自分に都合の悪いことは黙ってやり過ごす教養」なのです。

 その本では「規矩(きく)」とかいう余り聞かない言葉が振り回されていますが、「やってはいけない事をしない慎み深さ」のようです。では、編集者から「先生、先生。こちらでテープ起こしをしますから、教養について話して下さい」と言われて、話をして、本を出す事は、「やっても好い事」なのでしょうか。

 出版社がこれを思いついたのは、「国家の品格」と「女性の品格」がミリオンセラーになったので、3匹目のドジョウを狙った事であるのは明白ではないでしょうか。見事に失敗しました。村上さんのために好かったと思います。

04、「サザエさんを探して」(2011年06月03日、朝日)から

 原子力発電の原点となる「原子の火」が日本で初めてともったのは、1957(昭和32)年8月27日午前5時23分だ。茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)の実験用1号原子炉が、初の臨界に成功した。

 当日の朝日新聞は1面トップ6段抜きの破格の扱いで報道した。社説は「紙の上だけの原子力時代に別れを告げ、実物を備えた新段階へと、記念すべき一歩を踏み出す」と、もろ手を挙げての歓迎ぶりだ。

 その日の「サザエさん」が掲載作だ。「原子時代」の到来と喜ぶ波平とマスオ。波平は余勢で、七輪を「旧弊なもの」と切り捨てる。一方のサザエは七輪を「原始炉」と呼び擁護する。科学の進歩という言葉に弱い男性と、生活感覚に根ざした女性との対比が鮮やかに描かれた。

 「原子の火」がなぜこうも歓迎されたのか。当時は東大の学生で後に日本原子力研究所の研究員となったたての舘野淳(たての・じゅん)・元中央大学教授(74)は「当時の日本では、科学が希望の火だった」と説明する。

 敗戦後の暗い世相の中、1949年に故湯川秀樹博士が原子核理論でノーベル賞を受賞した。「暮らしは低く、思いは高く」と言われたこの時代、若者たちは第二の湯川博士を、日本は科学立国を目指したのだ。

 日本学術会議は原子力開発について1954年、「公開・民主・自主」の平和利用三原則を打ち出した。日本人が自力で地道に研究を積み上げながら開発しよう、と考えたのだ。

 一方で産業界は早急な原子力実用化を目指し、米国の技術に頼る道を望んだ。その代表が1956年に初代原子力委員長に就任した正力松太郎・読売新聞元社長だ。原子力委員に名を連ねた湯川博士は、三原則を無視した委員会の姿勢を拙速で強引だと批判し、就任から1年で辞任する。

 「その後、原子力委員会は産業界の意向に従って、後追い的に開発計画を作るようになった。政治的要求や行政の前に、科学がひざを屈した」と舘野さんは振り返る。(以下略)

 05、感想(その3)

 その「政治的要求や行政の前にひざを屈した」科学者の末裔の1人が村上陽一郎さんだったのでしょう。

 逆に、脱原発の立場から粘り強い発言を続けている人の1人に赤川次郎さんがいます。氏は、「三毛猫ホームズと芸術三昧」(朝日夕刊、金曜日)というコラムで発言しています(他の所での発言は私は知りません)。06月03日のコラムは大阪松竹座に歌舞伎を見に行って考えたことがテーマでした。最後はこうなっています。

──夜の部を見終わって外へ出ると、道頓堀の明るさが目にまぶしい。帰りの新幹線が東京駅に近付くと、東京の暗さがいっそう際立って感じられてしまう。

 東京電力は夏の電力不足を言い立てているが、従来もしばしば原発が事故で停止した状態で、夏を乗り切ってきているはずである。「原発存続」が狙いの「情報操作」ではないか、と東京新聞(5月12日「こちら特報部」)が訴えている。

 他のマスコミも、東電の発表をそのままうのみにして記事にするのではなく、「事実かどうか検証する」 という「当然の仕事」をしてほしい。福島第一原発の事故から2カ月余り。報道にはまた東電への遠慮が戻っているように感じられる。

 今の東電幹部や原子力安全・保安院への批判で国民の不満を解消させることで、「原発は本当に必要なの か」という本質的な議論から逃げているのではないか。

 まだまだ大きな余震の可能性のある日本列島。第二、第三の「フクシマ」が起これば、この狭い国土に安 全な地はなくなりかねないというのに……。(引用終わり)

 素晴らしい見識だと、又又感心しました。