マキペディア(発行人・牧野紀之)

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春華堂

2010年08月01日 | サ行
 浜松市西部の工業団地。自動車部品工場が立ち並ぷ一角に、週末ともなれば観光バスが次々と押し寄せる。

 お目当ては、あの「うなぎパイ」の生産ラインを見学できる春華堂の工場「うなぎパイファクトリー」。2005年のオープン以来、旅行会社のツアーにも組み込まれるぼどの人気を誇り、全国各地から年間50万人以上が訪れる。

 創業者の山崎芳蔵は1865(慶応元)年、東海道・岡部宿(現藤枝市)で茶店を営む一族に生まれた。江戸時代には、参勤交代の大名行列で店は大にぎわいだったという。

 茶店を継いだ芳蔵は1887年、当時まだ珍しかった甘納豆を独自に創作し、菓子職人として「春華堂」の看板を掲げた。2年後の東海道線全通に合わせ、浜松駅近くに移転。2代目の幸一は、卵型のもなか「知也保(ちやぼ)」を考案し、和菓子屋としての基礎を築いた。

 春華堂の名を一躍全国区に押し上げたのが、ウナギのエキスを生地に練り込んだうなぎパイ。甘納豆やもなかに代わる新しい看板商品を考えあぐねていた幸一が、「ウナギをテーマにした、浜松らしいお菓子を作ろう」と社内コンペで呼びかけたのがきっかけだった。しかし、同社にとって洋菓子作りは初めての挑戦とあって、かば焼き風にパイを串に刺して焼くなどの失敗を重ねた。ようやく完成したのは、1961年のことだ。

 「夜のお菓子」のキャッチフレーズは「一家だんらんのひとときに楽しんでほしい」という願いを込めたものだが、精力増強と結びつける誤解も目立った。そこで、これを逆手にとり、当初は青色だったパッケージを、当時の栄養ドリンクに用いられていた赤、黒、黄色に変えたら、売り上げが一気にアップ。東海道新幹線開業や東名高速道路開通も追い風となり、発売翌年に60万枚だった生産は4年後に700万枚を記録した。

 順風満帆だった業績が危機に直面したのが、創業から120年を超えた2008年ごろ。総売り上げの9割を占めるうなぎパイには国産の上質なバターが欠かせないが、バター不足が全国で深刻化した。山崎貴裕副社長(36)は「会社始まって以来の危機。原材料が高騰したことはあったが、手に入らなくなったことは一度もなかった」と振り返る。

 山崎副社長は自ら全国の酪農団体を回って頭を下げ、2ヵ月で50トン近くのバターをかき集めた。ようやく確保した国産バターはすべてうなぎパイに回し、他のお菓子は海外から輸入したバターを使ってしのいだ。

 浜松市中区にある本社の事務室には、「温故創新」と書かれた額が飾ってある。山崎副社長は「うなぎパイを超える新しいものを作らなくては、というプレッシャーはない。l0年、20年、100年と続いてきた伝統を守っていくのが、ぼくらの仕事」と話す。

 (朝日、2010年07月30日。滝沢隆史)