イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
私の主
「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)
---
私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。 もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。
この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続けて自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないほどにまでなった。
しかしそのような私たちは、恵みによってキリストの十字架と同じ極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。
そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということと同じで、私たちの中で預言は成就した。
この、内なる「助け主」が私たちの行ないに深く関わる。
なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかについては、この内から突き上げてくるものがある。
以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分の身を突き動かしては律法に違反していたのであるから、私たちが罪赦されて神と和解できたということは、私たちの主(しゅ、あるじ)が肉から「助け主」へとがらりと変わったということなのである。
そういうわけで、「罪を犯そう」とはそもそもならないのである。
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[一版]2019年10月18日
[三版]2024年 2月18日
イエス様の平安がありますように!
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また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)
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私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。 もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。
この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続けて自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないほどにまでなった。
しかしそのような私たちは、恵みによってキリストの十字架と同じ極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。
そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということと同じで、私たちの中で預言は成就した。
この、内なる「助け主」が私たちの行ないに深く関わる。
なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかについては、この内から突き上げてくるものがある。
以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分の身を突き動かしては律法に違反していたのであるから、私たちが罪赦されて神と和解できたということは、私たちの主(しゅ、あるじ)が肉から「助け主」へとがらりと変わったということなのである。
そういうわけで、「罪を犯そう」とはそもそもならないのである。
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[一版]2019年10月18日
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