こころに湧き出る泉

 「彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:11-14)

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 ここでイエスが言う渇きとは、いわば心の渇きのこと。
 たとえば、「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレト1:2新共同訳)というのは、心の渇きを超えて干からびきってしまっている。
 そして、このように心がからからに干からびてしまった人は、少なくないに違いない。そうであること自体に気づかない人は、もっと多いだろう。

 この渇きを一時的に潤すことはできる。
 ヒルティが否定的に言うところの「教会行事」、遊興の類、さらに、日々の仕事ですらそうだろう。
 だが、こうしたものはごまかしにすぎず、あくまで一時的でしかないので、何度も何度もやらなくてはならない。
 対症療法なのだ。井戸の水を飲んでも、すぐにまた渇いてしまう。
 ここでイエスが与えようとするものは、対症療法の類ではなく抜本的な治療である。

 イエスは、その人の内側に泉という水源そのものを与えるのである。
 その泉からは尽きることなくいのちの水があふれ出て、絶えず心を潤してくれる。
 もちろんこの世は荒んでいるので、私たちもたまに心荒むことはある。
 私たちはアダムの肉を持つ身にすぎないので、そのようになりかけること自体は当然のことである。
 けれども、その内側の泉からの水が流れてきて再び潤してくれる。
 だから、倒れそうになっても倒れない。
 空しさを感じるときがあるとしても、一時的なものにすぎない。
 なにより、しんから絶望することがない。
 それがすなわち「いのち」であり、イエスは求める者誰にでも、この「いのち」を分け与えてくださると約束している。

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[一版]2014年 6月 7日
[二版]2017年 2月 4日(本日)

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