もともと、何が理由でなんかわかりやしない。気がついた時には、そうだったのだ。自分に足らない、「素直」さ。
今、自分に必要なのは、その2つだ。考えてみれば、誰もが当たり前に持つという「素直さ」を持つ――それは、ある意味、いつかに書いた、憎んでしまう「無邪気さ」や「天真爛漫さ」につながるものだと思う。
所謂、年上という大人という存在(学校教諭)を、私は、5歳の頃、6~9歳の頃、13~18歳の頃に、憎むべき存在として君臨していた。そんな中で、特に13~15の頃は、「内申書」や「通知表」という目に見えない武器をつきつける教諭達も嫌だったし、学習塾ですら、私というを認めようとしない(それは、私の学習意欲の低さも起因していたと思うけれど)講師達を憎む事がほとんどだった。
単なる「反抗期」としてそれはとらえられるかもしれないが、「権力で押さえ付けよう」とする彼等を許すことが出来なかった。
そして同時に、そんな彼等の前で、「嘘か誠か解らないが反抗しつつもッ〝服従〟し、〝素直さ〟を見せる自分と同じ年齢の人間達もまた大嫌い」で、私は今もそんな諸氏達を許せないし、認められない。 ズルイと思うのだ。それを「世渡り上手と言うのであれば、人間の醜さ」だと私は思う。
故に、私は「素直」になる事は、自分の過去の行いを全て「否定し、負けを認める事」になり「後悔する」は嫌だし怖いとおもい、なりたくはないのだ。けれども、それを今要求され、戸惑っている。醜い感情達の1つ。
今、自分に必要なのは、その2つだ。考えてみれば、誰もが当たり前に持つという「素直さ」を持つ――それは、ある意味、いつかに書いた、憎んでしまう「無邪気さ」や「天真爛漫さ」につながるものだと思う。
所謂、年上という大人という存在(学校教諭)を、私は、5歳の頃、6~9歳の頃、13~18歳の頃に、憎むべき存在として君臨していた。そんな中で、特に13~15の頃は、「内申書」や「通知表」という目に見えない武器をつきつける教諭達も嫌だったし、学習塾ですら、私というを認めようとしない(それは、私の学習意欲の低さも起因していたと思うけれど)講師達を憎む事がほとんどだった。
単なる「反抗期」としてそれはとらえられるかもしれないが、「権力で押さえ付けよう」とする彼等を許すことが出来なかった。
そして同時に、そんな彼等の前で、「嘘か誠か解らないが反抗しつつもッ〝服従〟し、〝素直さ〟を見せる自分と同じ年齢の人間達もまた大嫌い」で、私は今もそんな諸氏達を許せないし、認められない。 ズルイと思うのだ。それを「世渡り上手と言うのであれば、人間の醜さ」だと私は思う。
故に、私は「素直」になる事は、自分の過去の行いを全て「否定し、負けを認める事」になり「後悔する」は嫌だし怖いとおもい、なりたくはないのだ。けれども、それを今要求され、戸惑っている。醜い感情達の1つ。