毎日毎日垂れ流しされるテレビのワイドショーを見ていれば分かることだが、どうも日本人というのは「他人のスキャンダル」に異常な興味を持つ人種のような気がしてならない。問題に対して真正面から向き合わず、絶えず誰かの「スキ」を覗い、その誰かが「失敗」すればすかさずその「失敗」をつつき、その相手が「参った」と言うまで決して許さない、このような僕らの精神構造を何と言えばいいのか。たぶん、そのような精神の在り方に拍車を掛けているのが「ネット社会」が公認している「匿名」での他者批難(否定)、例えば「2ちゃんねる」に代表される掲示板の無責任としか思えない言説なのではないか、と思う。
というようなことは常日頃考えていることなのだが、先に僕が栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」について僕の経験に照らしていくらかの「不満」を漏らしたところ、栗原氏の友人である小谷野敦氏(「谷崎潤一郎伝」や「恋愛の昭和史」等々の著作者、僕は彼の本を4,5冊購入して読んでいる)をはじめとして、学生A,B,C,D等から「コメント」が多数寄せられたことから、改めて日本人の「スキャンダル好き」を実感したということがある。もちろん、コメントが多数寄せられた理由の一つに、栗原氏の著作に対する僕の「批判」が言葉足らずだったからということも考えられるが、それ以上に多くの奥様方などが「芸能人ニュース」や「皇室ニュース」に群がるのと同じ精神構造で、他者の「スキャンダル」(?)に対して、異常な関心を寄せるということがあるのではないか、ということを今度改めて実感したということである。たぶん、栗原氏の著作「<盗作>の文学史」もそのような日本人の心性を鑑みての刊行だったのではないか。「帯文」を見てそう思った。
<剽窃は文化である。――ん?
つくづく人間(作家)は面白い。盗作、パクリ、剽窃、無断引用、著作権侵害、作家のモラル、……をめぐって繰り広げられたドタバタ(悲喜劇)を博捜し、事件としてでっち上げられる過程を冷静に考察した〝盗作大全〟。すべての作家、作家志望者、文学愛好家必読必携の書>
実はこの本を読んだ一番の理由は、「事件としてでっち上げられる過程を冷静に考察し」とある部分を読んで、この著者は「盗作事件」の多くが「でっち上げられたもの」と考える批判者なのではないかと思ったからであったのだが、内実は違っていた。
だから僕は、僕の多少なりとも関わった井伏鱒二の「黒い雨」盗作疑惑と立松和平の「光の雨」事件、小檜山博の盗作事件に関わって僕の考えを述べたのだが、どうも僕の考えを「批判」した人たちの大半は、件の小説「黒い雨」や「光の雨」などを読んでいないのではないか、栗原氏にしても「事件」の推移を追うのに忙しく、他人(新聞や雑誌、あるいは「盗作」を叫ぶ人の「対照表」などはつぶさに検証したとしても、実際の作品、例えば「黒い雨」で問題になった「重松日記」など読んでいたのか、それを読んで「黒い雨」盗作説の言い出しっぺである「老耄歌人」(これは本人が僕への私信で書いてきた言葉)の豊田清史氏の言説を厳密に比較検討した上で、この「盗作」事件をあつかったのか、と疑問を持たざるを得なかったということがある。関係者の多くが「よくぞこれほどの嘘を並べることができるな」と驚くほど、嘘に嘘を重ねるような言説を未だに振りまいている豊田氏は、恐らくこの栗原氏の著作を知れば、「鬼の首を取った」如くに喜び、早速「東京の一流言論人が自分の考えに賛成した」といった主旨の言説を振りまくことだろう。豊田氏というのは、そう言う人である。彼は勝手に彼の主宰する短歌雑誌「火幻」を勝手に送ってきてその礼状を出すと、いつの間にか「私の考えに賛同してくれた中央の文化人」として名前を列記するような「厚顔無恥」な人である。
何故このようなことをくどくどと書いたかというと、「盗作」という言葉の意味するものは、確かに「スキャンダル」ではあるが、一人の作家にとってそのような疑惑を掛けられただけで、山崎豊子のように何度も同じようなことを繰り返す人は別にして、「作家の死」を意識し、この世から消えたいと思うような重大な出来事なのである。現に、8月末に久しぶりに札幌で会った小檜山博は、事件が「毎日新聞」で報じられたとき、とっさに「自殺を考えた」としみじみと語っていたが、立松和平も1週間毎日友人だった中上健次の墓に参り(和歌山県新宮市にある)、中上と対話していたという。
もちろん、このように書いたからと言って、僕が「盗作」を認めるということではない。ただ、「事実に忠実に」という思いから、無意識のうちに「原作」と近い表現を行ってしまう(立松の「光の雨」の場合など)ということもあり、意図的に「氷雪」や「盗作」を行わない限り、もちろん指摘するのはいいが、「糾弾」し「人」のような扱いをするのはいかがなものか、と思う。それは、豊田氏のように「ためにするでっち上げ」もあるということを、嫌と言うほど味あわされたからである。
それと、開き直ったように聞こえるかも知れないが、いくら「盗作」疑惑を掛けられても、いい作品はいい作品として歴史に残っていくのではないか。例えば、「黒い雨」や「光の雨」のように。栗原氏の著作が問題なのは、前には書かなかったが「糞味噌一緒」のように思える、という点である。明らかに「盗作」を意図したものと意図しなかったもの、そのことの区分けが大切だと僕は思っている。
以上長々と書いたが、多くの人がこのことについて考えて欲しいと思う。
というようなことは常日頃考えていることなのだが、先に僕が栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」について僕の経験に照らしていくらかの「不満」を漏らしたところ、栗原氏の友人である小谷野敦氏(「谷崎潤一郎伝」や「恋愛の昭和史」等々の著作者、僕は彼の本を4,5冊購入して読んでいる)をはじめとして、学生A,B,C,D等から「コメント」が多数寄せられたことから、改めて日本人の「スキャンダル好き」を実感したということがある。もちろん、コメントが多数寄せられた理由の一つに、栗原氏の著作に対する僕の「批判」が言葉足らずだったからということも考えられるが、それ以上に多くの奥様方などが「芸能人ニュース」や「皇室ニュース」に群がるのと同じ精神構造で、他者の「スキャンダル」(?)に対して、異常な関心を寄せるということがあるのではないか、ということを今度改めて実感したということである。たぶん、栗原氏の著作「<盗作>の文学史」もそのような日本人の心性を鑑みての刊行だったのではないか。「帯文」を見てそう思った。
<剽窃は文化である。――ん?
つくづく人間(作家)は面白い。盗作、パクリ、剽窃、無断引用、著作権侵害、作家のモラル、……をめぐって繰り広げられたドタバタ(悲喜劇)を博捜し、事件としてでっち上げられる過程を冷静に考察した〝盗作大全〟。すべての作家、作家志望者、文学愛好家必読必携の書>
実はこの本を読んだ一番の理由は、「事件としてでっち上げられる過程を冷静に考察し」とある部分を読んで、この著者は「盗作事件」の多くが「でっち上げられたもの」と考える批判者なのではないかと思ったからであったのだが、内実は違っていた。
だから僕は、僕の多少なりとも関わった井伏鱒二の「黒い雨」盗作疑惑と立松和平の「光の雨」事件、小檜山博の盗作事件に関わって僕の考えを述べたのだが、どうも僕の考えを「批判」した人たちの大半は、件の小説「黒い雨」や「光の雨」などを読んでいないのではないか、栗原氏にしても「事件」の推移を追うのに忙しく、他人(新聞や雑誌、あるいは「盗作」を叫ぶ人の「対照表」などはつぶさに検証したとしても、実際の作品、例えば「黒い雨」で問題になった「重松日記」など読んでいたのか、それを読んで「黒い雨」盗作説の言い出しっぺである「老耄歌人」(これは本人が僕への私信で書いてきた言葉)の豊田清史氏の言説を厳密に比較検討した上で、この「盗作」事件をあつかったのか、と疑問を持たざるを得なかったということがある。関係者の多くが「よくぞこれほどの嘘を並べることができるな」と驚くほど、嘘に嘘を重ねるような言説を未だに振りまいている豊田氏は、恐らくこの栗原氏の著作を知れば、「鬼の首を取った」如くに喜び、早速「東京の一流言論人が自分の考えに賛成した」といった主旨の言説を振りまくことだろう。豊田氏というのは、そう言う人である。彼は勝手に彼の主宰する短歌雑誌「火幻」を勝手に送ってきてその礼状を出すと、いつの間にか「私の考えに賛同してくれた中央の文化人」として名前を列記するような「厚顔無恥」な人である。
何故このようなことをくどくどと書いたかというと、「盗作」という言葉の意味するものは、確かに「スキャンダル」ではあるが、一人の作家にとってそのような疑惑を掛けられただけで、山崎豊子のように何度も同じようなことを繰り返す人は別にして、「作家の死」を意識し、この世から消えたいと思うような重大な出来事なのである。現に、8月末に久しぶりに札幌で会った小檜山博は、事件が「毎日新聞」で報じられたとき、とっさに「自殺を考えた」としみじみと語っていたが、立松和平も1週間毎日友人だった中上健次の墓に参り(和歌山県新宮市にある)、中上と対話していたという。
もちろん、このように書いたからと言って、僕が「盗作」を認めるということではない。ただ、「事実に忠実に」という思いから、無意識のうちに「原作」と近い表現を行ってしまう(立松の「光の雨」の場合など)ということもあり、意図的に「氷雪」や「盗作」を行わない限り、もちろん指摘するのはいいが、「糾弾」し「人」のような扱いをするのはいかがなものか、と思う。それは、豊田氏のように「ためにするでっち上げ」もあるということを、嫌と言うほど味あわされたからである。
それと、開き直ったように聞こえるかも知れないが、いくら「盗作」疑惑を掛けられても、いい作品はいい作品として歴史に残っていくのではないか。例えば、「黒い雨」や「光の雨」のように。栗原氏の著作が問題なのは、前には書かなかったが「糞味噌一緒」のように思える、という点である。明らかに「盗作」を意図したものと意図しなかったもの、そのことの区分けが大切だと僕は思っている。
以上長々と書いたが、多くの人がこのことについて考えて欲しいと思う。
また小檜山博について、私は黒古先生が、何か「剽窃」(黒古先生、「氷雪」になっていますよ)ではないという根拠など示していないではありませんか。「自殺を考えた」から剽窃ではない、とでもおっしゃるのでしょうか。
黒古先生は、立松、小檜山氏らと知己の関係にあるようですが、結局「自分の仲間をかばう」という党派心で動いているとしか思えません。
つまり作品の根底に在って、人々の心を無意識の領域から揺り動かしてくる「もの」です。そしてこれは歴史のフィルターを通過することによって、いずれ明らかになることと思っています。多くの読者が証明することになるでしょうから。
小谷野さん、読者は決して馬鹿ではありませんよ。長い歴史のスパンで眺めたら、民衆は大筋では本質を見失うことはありません(具体的なリストが必要でしょうか)。
冷静かつ客観的に、ここ数日のやり取りを拝見する限り、黒古さんは紳士的態度で穏やかに語りかけて居られます。一方の小谷野さんは、ここに来て漸く落ち着いた語りに変わられましたが、
>黒古先生は、立松、小檜山氏らと知己の関係にあるようですが、結局「自分の仲間をかばう」という党派心で動いているとしか思えません。
との発言は、ご自身のことを言われたように聴こえてなりません。あくまでも私の感じ方ですが。
不愉快な発言がありましたらお詫び致します。それでは私はこれで失礼しますね。
それはちょっと言い過ぎかもしれませんよ。小谷野さんも時々良い発言、鋭い発言をされることがあります。今回の盗作云々の件についてはよくわかりませんが。
とはいえ個人的には、「禁煙ファシズム」の共著者・栗原氏の援護をする暇があるなら、ぜひ私との公開討論に応じていただきたいと思っています。
先日、ある集まりを見学しました。禁煙学会の理事長や長年禁煙活動をされているW氏など多くの方がいらっしゃいました。
そこでは「小谷野敦」さんという名前がでるだけで「まともに議論に応じられないダメな人」として、失笑が漏れていました。
小谷野さんにはぜひ、正々堂々と話し合いに応じて汚名を返上されることを期待しています。
先生のことが2chで話題です。
鎌倉時代末期の『寝覚記』には「くちにあぢあふ所をばなむべからず」との表現がありますよ。
『日本国語大辞典』の「あじわう」の項には、その『寝覚記』の該当箇所が用例として引かれてるが、「口にあぢはふ所をなむべからず」という表記になってるぞ。
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