黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

混迷・混乱する現在にあって

2011-01-31 17:08:50 | 文学
 新年を迎えたと思ったら、瞬く間に1ヶ月が過ぎてしまった。この1ヶ月、俺は何をしてきたのだろうか、という思いに囚われることしきり、という心境にあるのだが、この前の「お知らせ・3題」にも書いたように、別にことさらサボっていたわけではないのだが、修論、博論の最後の指導(発表会やら審査委員会やら)ということが中心になるような生活を送っていたということもあって、総体としては「内向き」傾向にあり、結果的に「外側」の出来事に対する関心が希薄になってしまった、ということがある。
 別に「おのれの生活」さえ順調ならば、とも思っていたわけではないのだが、僕が日頃心がけてきた(というより、現在のような仕事や生き方を選択したときから)「時代=社会と人間=個人の関係」を軸に、文学現象や社会現象、人間の在り方(生き方)を考えるという思考の基本を忘れがちになっていた、ということはある。
 ちょうど1週間前になるが、仕事の打ち合わせをかねて遅い「新年会」を親しい新聞記者と出版社(小出版社)の社長で行った夜、帰ろうと新馬駅の広場(通称「機関車広場」)にさしかかったとき、TBS・TVにマイクを差し出され、「今夜のサッカー日韓戦を見ますか」、「どちらが勝つと思いますか」、「日本が勝って欲しいですか」という街頭インタビューに遭遇した。僕は、時間的な余裕があったので「見ると思う」「どちらが勝つかわからない」「どちらが勝つかはどでもいい、面白い試合になれば」と答えたのだが、プロデューサーを名乗る30代前半と思える若い男は、どうも僕の答えが不満だったようで、何度も繰り返して「日本にかって欲しいですか」を繰り返していた。短時間だったので、TBS・TVにどのような意図があったのかはわからないが、僕の感じではどうもサッカーの日韓戦をダシに「国威(ナショナリズム)称揚」を目論んでいたように思い、気分は決していいものではなかった。
 もちろん、TBS・TVに明確にそのような意図があったとは思わないが、最近どうも気になるのが、不必要に(声高に)「国威称揚」「ナショナリズムの喚起」が叫ばれていることである。折しも、東京都教育委員会が教師たちに強制している「君が代斉唱・日の丸掲揚」に関する裁判で、東京都のやり方は「違憲」であるとした地裁判断が、高裁で覆されるという「事件」もあった。かつて1990年代の後半に「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」とするという法律が制定されたとき、確か国会で時の総理大臣も文科大臣も、そして総務大臣などもこぞって「思想・信条の自由を守る」「国旗掲揚・国歌斉唱は強制するべきものではない」と明言していたはずなのに、今では多くの教育現場・公式行事で「国旗掲揚・国歌斉唱」は、強制的・半強制的に行われている。
 その先鞭を付けたのが、石原慎太郎が都知事になってからの東京都教育委員会である。石原都知事については、先頃も青少年条例の改正で同性愛者や性同一性障害者に対して「差別」的な発言をして恬として恥じない態度を示したばかりだが、「太陽の季節」で芥川賞を受賞し「性風俗紊乱者」という「名誉ある」反逆者=常識の破壊者であった石原慎太郎が、今やネオ・ファシストとして君臨するようになったこの日本社会というのは、何度も言うようだが、一体どうなっているのかと思わざるを得ないのだが、この1ヶ月(だけでなく、昨年末からずっと)そのような感性を鈍らせていたこと、大いに反省している。
 それにしても、僕の感性が鈍くなってしまったのか、それとも社会が「停滞」し、未来への展望が描けなくなったためなのか、今期の芥川賞作品、西村賢太の「苦役列車」及び朝吹真理子の「きことわ」を読んでも、そこから「時代」(が抱えた問題)を感じることはできず(読み取ることはできず)、ただ「自分」や「技巧」だけが浮き上がっている作品になっていた。これらの2作品に比べれば、芥川賞候補になっていた小谷野敦の「私小説」の装いをした「社会小説」と言っていい「母子寮前」の方が、よほど読み応えがあった。「時代」や「社会」がすっぽり抜け落ちた現代文学というのは、一体何なのか。
 明日から2月、どのような日々になるのだろうか。

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1 コメント

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Unknown (小谷野敦)
2011-02-04 02:46:43
ありがとうございます…。
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