(このエントリーの初投稿日時は10日午前7時で、それから2016年2月9日付にバックデートしました)
[写真]公明党の石田祝稔政務調査会長と、民主党の岡田克也代表=ともに衆議院ウェブサイトから。
政府は、「児童扶養手当法改正法案」(190閣法26号)を平成28年2016年2月9日(火)の閣議を経て、衆議院に提出しました。
ひとり親世帯の児童扶養手当を、月額で、第1子4万2000円に重ねて、第2子が1万円(現在は5000円)、第3子以降が6000円(現在は3000円)とする法案。成立すれば、8月1日に施行し、12月支給分から適用。年収227万円から460万円にかけて漸減するのは現在と同様。
法案の概要は、厚労省ウェブサイトに載っています。
国会での審議は、「労働基準法改正案」(189閣法69号)よりも先行するとみられますが、より多くの人の負担を減らす「雇用保険法改正案」(190閣法9号)を前に持ってくる気配があり、第190回通常国会(6月1日まで)での成立は半々、といったところでしょうか。
2015年11月の当ブログ内エントリー(児童扶養手当法改正案提出、与野党に機運 第2子以降増額、2016年通常国会)にもある通り、11月の衆議院予算委員会閉会中審査で、公明党の石田祝稔(いしだ・のりとし、シュクネン)政務調査会長が、就任早々、提案。塩崎厚労相の答弁は、補正予算案での対応と思われるものでしたが、民主党の岡田克也代表が記者会見で「民主党単独でも、国会に法案を出すことも含めて検討したい」と後押ししたことが実現しました。石田政調会長と岡田代表は、衆議院初当選同期で、新進党結党メンバー。
岡田さんのお母さんは、母子家庭の3人娘で、岡田さんはひとり親世帯のバックアップに初当選以来取り組んでいます。
[当ブログ内から関連エントリーの全文引用はじめ]
[写真]官邸・国会に続く、初夏の坂道、2015年6月、筆者・宮崎信行撮影。
児童扶養手当法改正案提出の機運が与野党に高まってきました。
児童扶養手当法(昭和36年法律238号)は、その第5条で「手当は月4万1000円とする」「2人以上の場合は、それぞれ3000円、そのうち1人は5000円とする」と書いてあります。
要するに、母子(シングルマザー)・父子など寡婦のひとり親世帯では、子ども1人なら月4万1000円ですが、2人だと月4万6000円、3人だと月4万9000円。2人以上のひとり親世帯の負担感が問題となっていました。
今週の衆議院予算委員会閉会中審査では、公明党の石田祝稔・政務調査会長が質問しました。石田さんは前月に5年間務めた前任者が入閣したため、政調会長になり、NHK日曜討論に続き、テレビ入り予算委でもトップバッターとなりました。
石田さんの質問に対して、塩崎厚労相は「年末までに加算額の拡充も含めて検討したい」と答弁しました。
これを受けて、民主党の岡田克也代表は12日(木)の記者会見で、「国会に法案を出すことも含めて検討したい」と語り、政府から閣法が提出されない場合も、民主党独自の議員立法を、平成28年2016年通常国会に提出するかまえを見せました。このため、いずれにせよ、児童扶養手当法改正法案が提出される公算が高まりました。
塩崎厚労相の発言は、今月とりまとめる政策パッケージ「1億総活躍社会」に入れ込んで、補正予算案のメニューに入れることを念頭に置いた可能性があります。これについて、岡田代表は「補正だと1回きりになる。恒常的な制度が必要だ」とし、補正ではなく、本予算で対応すべきだとの基本を明示しました。
子どもの貧困は、今さらながら、今年になってから、世論の関心が高まっており、一気に解決するチャンスです。ただ、厚生労働委員会は積み残しが多く、とくに残業代ゼロの労働基準法改正案とのかけひきが予想されます。かけひきですが、「残業代ゼロよりも、子どもの貧困対策だ」との世論が高まれば、参院選を前に政府・自民党も柔軟な国会対策に応じ、政策実現につなげることはできそうです。
このエントリー記事の本文は以上です。
(C)宮崎信行 Nobuyuki Miyazaki
(http://miyazakinobuyuki.net/)
[全文引用おわり]
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【評伝】高田ちえさん享年100 岡田克也さんの背中を押したたった一人のおばあちゃん
正月2日早朝に、民主党副代表・岡田克也さんのおばあさん、高田ちゑ(高田ちえ)さんが亡くなりました。享年100。老衰。ここ数年は入退院を繰り返していたそうです。 岡田さんの55年間の前半生でただ一人のかけがえのない祖父母がちえさんでした。
高田家は三重県菰野町の旧家(地主)で岡田さんのお母さんの実家です。
岡田家(父方)は三重県四日市の老舗、岡田屋呉服店。岡田卓也さん(イオン創業者・名誉会長)夫妻のもと、長男の岡田元也さん(イオン社長)、次男の克也さん(衆議院議員)、三男の高田昌也さん(中日新聞政治部記者)がいます。いわゆる岡田3兄弟です。
高田ちえさんは三重県海山町(いまの紀北町)出身。菰野町の旧家に嫁ぎながら連れ合いを亡くし、苦労しました。それでも3人の娘(一人は岡田さんのお母さん)を女手ひとつで育て上げたうえ、その経験から、自分と同じような境遇、つまり母子家庭、シングル・マザーを支援する活動を半世紀以上続けました。
1949年(昭和24年)2月から最近まで「菰野町母子福祉会」の会長。県組織では、三重県母子福祉会(現在の名称は三重県母子寡婦福祉連合会)会長(1971年~1990年)、全国組織では、全国母子寡婦福祉団体協議会(全母子協)副会長(1979年~1989年)を務めました。
国会議員、陳情者、官僚、マスコミ御用達の「国会議員要覧」というガイドブックがありますが、巻末の主要団体の連絡先の一覧にも「全母子協」が載っています。
【動画】麻雀好きの明るい人でした――ただ1人の祖母、逝く(岡田かつや週刊ビデオメッセージ)
このおばあちゃん、岡田さんにとって、「イオン創業に奔走しあまり夕食をともにした記憶がない父」との心のすきまをうめ、「大阪の高校進学&父との2人ぐらし」という思春期の大決断を助け、通産官僚から代議士への転身という岡田さんの人生の節目節目でその背中を押してあげた「政治家・岡田克也」誕生に不可欠な人物だったことが分かりました。
◇
私は高田ちえさんのことを書き記すことは、いずれ現代史の大事な資料になると思い、このエントリーを書くことにした次第です。
【しごとに明け暮れる父母、10キロ離れたおばあちゃんの家へ自転車で】
「1953年7月14日、私は三重県四日市市で生まれた。父はいまでこそイオングループの創業者として知られているが、当時は四日市で代々つづいた家業の呉服店の後継者だった」「母も地元で生まれ、父と結婚した当初は売場に立っていた」(岡田克也著『政権交代』49ページ)。
「私にとってはあくまでものんびりした一地方都市で、こうした街で育ったことが自分の人格を形成する、大事な要素になっていると思う」「毎日忙しくしていて、父と夕食をともにした記憶はほとんどない」。
公立の小中学校で学び、「社会にはいろいろな人がいる」という感覚が体に染みついた克也少年ですが、仕事にあけくれるお父さんとそれを支えるお母さんに反感を覚えていたのではないでしょうか。
克也少年の淋しさを埋めてくれたのは、たった一人のおばあちゃんだったようです。四日市から片道10キロ離れた高田家に1人で自転車に乗って、よく遊びに行っていたそうです。
「大変明るい人で、趣味は麻雀。私が中学校時代に麻雀を教えてもらったのも祖母からで、最近はあまりやりませんが、大学時代や社会人になってから、あまり上手くない麻雀を一生懸命やった、そのもとは祖母に教えられたものです」(1月7日付「岡田かつやTalk-About」)
こういったことを岡田さんがあかすのはまれです。
「1969年、私は大阪の高校を受験することにした。私にとっては初めての大きな決断だった」(「政権交代」51頁)。「都会の高校に行ってみたい」「それまであまり話したことのない父といっしょに暮らしてみたい」。
この決断の裏にはおばあちゃんとの“雀卓談義”があったと思われますが、そこはちょっと分かりません。
【東大法学部、知らずに追いかけていた父の背中、おばあちゃんの背中】
東大法学部に進んだ克也青年。
「卒業後の進路を考えはじめる頃になっても、やはり公のために働きたいという思いがずっと心の中にあった」(「政権交代」55頁)。
岡田さんは、通産省と厚生省から就職内定をもらいました。
本人は気付いていないかもしれませんが、通産省はお父さんの会社の所管官庁、厚生省はおばあちゃんの団体の所管官庁です。克也青年は無意識にお父さんの背中とおばあちゃんの背中を追いかけていたのではないでしょうか。
「どちらに行くべきだろうか。正直なところ、大変に迷った。公のために働くのであれば、年金や福祉の仕事など、厚生省のほうがよりふさわしいだろうか、という思いもあった。しかし、生きた経済や企業を相手にしながら、省内が生き生きしているような実感があって、通産省に決めた。入省は1976年である」(『政権交代』56頁)。
【志ある若者の背中をそっと押す高田家 孫文と岡田さんの意外なつながり】
岡田さんは2008年7月25日付の訪中報告ブログで、次のようなエピソードを明らかにしています。
高田家に今からおよそ100年前、のちに中国で辛亥革命(中華民国建国)をなしとげた孫文が泊まったことがあるそうです。孫文を経済的に支援する日本人グループの1人だったとのこと。
孫文は中国同盟会を1905年8月20日に東京で結成しました。時の東京は日露戦争の勝利が確実で、「坂の上の雲」にのぼったような気持ちでいたころです。この中国同盟会が清王朝を滅ぼし、辛亥革命をなしとげることになります。
孫文は革命を目指して香港、シンガポールに滞在し、宮崎滔天(宮崎寅蔵)ら支援者の力で日本国内も転々としていました。昨年、胡錦涛・国家主席が来日した際も、日比谷公園内の孫文ゆかりの「松本楼」を訪れました。岡田さんのひいおじいちゃんもそういった孫文の支援者の一人だったようです。
孫文は高田家に一宿一飯のお礼に「博愛」という書を残しました。岡田さんが代議士になると、孫文の書を高田家の蔵から東京に運び、衆議院議員会館の自室に掲げました。
[写真は孫文が高田家に残した「博愛」の書]
あの広い中国大陸で辛亥革命をなし遂げた孫文。その背中を押してあげた高田家。高田ちえさんも岡田さんが1988年、通産省を辞めて政治家になると「決めたときには、一生懸命応援をしてもらった」(1月7日付ブログ)。
高田家には、志ある若者の背中をそっと押してやる思いやりが受け継がれているようです。高田家は養子縁組みした昌也さん、つまり岡田さんの実弟が跡を継いでいます。
孫文は58年間の生涯で「中国革命の父」となりました。中国人、台湾人、日本人の大多数が偉人だと一致するおそらく唯一の人物ですが、最期は「革命未だならず」と無念さをにじませました。
[中華民国時代の北京・天安門にかかる孫文の肖像=1月24日付朝日新聞]
岡田さんも若く見えますが55歳。狭いこの国で、革命ではなく政権交代をするのは、ずっと簡単なことに思えます。民主党が政権をとり、その政権がいずれ腐り、もう一つの二大政党に政権が再びかわる。そういうプロセスを経て、日本に政権交代可能な二大政党制を確立するには向こう15年間はかかります。岡田さんには「政権交代未だならず」など絶対に許されません。
私はこの訃報に接するまで、「高田ちえ」さんのお名前も存じ上げませんでした。「政治家・岡田克也」にこれだけ大きな影響を与えた明治女性がいたとは驚くばかり。なぜだかよく分からないけど、「ありがとうございました」と感謝したい気持ちになりました。
心からご冥福をお祈りします。
[全文引用おわり]
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