【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

【評伝】高田ちえさん享年100 岡田克也さんの背中を押したたった一人のおばあちゃん

2009年01月31日 16時23分23秒 | 岡田克也、旅の途中

 正月2日早朝に、民主党副代表・岡田克也さんのおばあさん、高田ちゑ(高田ちえ)さんが亡くなりました。享年100。老衰。ここ数年は入退院を繰り返していたそうです。 岡田さんの55年間の前半生でただ一人のかけがえのない祖父母がちえさんでした。

 高田家は三重県菰野町の旧家(地主)で岡田さんのお母さんの実家です。

 岡田家(父方)は三重県四日市の老舗、岡田屋呉服店。岡田卓也さん(イオン創業者・名誉会長)夫妻のもと、長男の岡田元也さん(イオン社長)、次男の克也さん(衆議院議員)、三男の高田昌也さん(中日新聞政治部記者)がいます。いわゆる岡田3兄弟です。

 高田ちえさんは三重県海山町(いまの紀北町)出身。菰野町の旧家に嫁ぎながら連れ合いを亡くし、苦労しました。それでも3人の娘(一人は岡田さんのお母さん)を女手ひとつで育て上げたうえ、その経験から、自分と同じような境遇、つまり母子家庭、シングル・マザーを支援する活動を半世紀以上続けました。

 1949年(昭和24年)2月から最近まで「菰野町母子福祉会」の会長。県組織では、三重県母子福祉会(現在の名称は三重県母子寡婦福祉連合会)会長(1971年~1990年)、全国組織では、全国母子寡婦福祉団体協議会(全母子協)副会長(1979年~1989年)を務めました。
 
 国会議員、陳情者、官僚、マスコミ御用達の「国会議員要覧」というガイドブックがありますが、巻末の主要団体の連絡先の一覧にも「全母子協」が載っています。

 【動画】麻雀好きの明るい人でした――ただ1人の祖母、逝く(岡田かつや週刊ビデオメッセージ)

 このおばあちゃん、岡田さんにとって、「イオン創業に奔走しあまり夕食をともにした記憶がない父」との心のすきまをうめ、「大阪の高校進学&父との2人ぐらし」という思春期の大決断を助け、通産官僚から代議士への転身という岡田さんの人生の節目節目でその背中を押してあげた「政治家・岡田克也」誕生に不可欠な人物だったことが分かりました。

 ◇

 私は高田ちえさんのことを書き記すことは、いずれ現代史の大事な資料になると思い、このエントリーを書くことにした次第です。

【しごとに明け暮れる父母、10キロ離れたおばあちゃんの家へ自転車で】

 「1953年7月14日、私は三重県四日市市で生まれた。父はいまでこそイオングループの創業者として知られているが、当時は四日市で代々つづいた家業の呉服店の後継者だった」「母も地元で生まれ、父と結婚した当初は売場に立っていた」(岡田克也著『政権交代』49ページ)。

 

 「私にとってはあくまでものんびりした一地方都市で、こうした街で育ったことが自分の人格を形成する、大事な要素になっていると思う」「毎日忙しくしていて、父と夕食をともにした記憶はほとんどない」。

 公立の小中学校で学び、「社会にはいろいろな人がいる」という感覚が体に染みついた克也少年ですが、仕事にあけくれるお父さんとそれを支えるお母さんに反感を覚えていたのではないでしょうか。

 克也少年の淋しさを埋めてくれたのは、たった一人のおばあちゃんだったようです。四日市から片道10キロ離れた高田家に1人で自転車に乗って、よく遊びに行っていたそうです。

 「大変明るい人で、趣味は麻雀。私が中学校時代に麻雀を教えてもらったのも祖母からで、最近はあまりやりませんが、大学時代や社会人になってから、あまり上手くない麻雀を一生懸命やった、そのもとは祖母に教えられたものです」(1月7日付「岡田かつやTalk-About」)

 こういったことを岡田さんがあかすのはまれです。

 「1969年、私は大阪の高校を受験することにした。私にとっては初めての大きな決断だった」(「政権交代」51頁)。「都会の高校に行ってみたい」「それまであまり話したことのない父といっしょに暮らしてみたい」。

 この決断の裏にはおばあちゃんとの“雀卓談義”があったと思われますが、そこはちょっと分かりません。


【東大法学部、知らずに追いかけていた父の背中、おばあちゃんの背中】

 東大法学部に進んだ克也青年。

 「卒業後の進路を考えはじめる頃になっても、やはり公のために働きたいという思いがずっと心の中にあった」(「政権交代」55頁)。

 岡田さんは、通産省と厚生省から就職内定をもらいました。

 本人は気付いていないかもしれませんが、通産省はお父さんの会社の所管官庁、厚生省はおばあちゃんの団体の所管官庁です。克也青年は無意識にお父さんの背中とおばあちゃんの背中を追いかけていたのではないでしょうか。

 「どちらに行くべきだろうか。正直なところ、大変に迷った。公のために働くのであれば、年金や福祉の仕事など、厚生省のほうがよりふさわしいだろうか、という思いもあった。しかし、生きた経済や企業を相手にしながら、省内が生き生きしているような実感があって、通産省に決めた。入省は1976年である」(『政権交代』56頁)。


【志ある若者の背中をそっと押す高田家 孫文と岡田さんの意外なつながり】

 岡田さんは2008年7月25日付の訪中報告ブログで、次のようなエピソードを明らかにしています。

 高田家に今からおよそ100年前、のちに中国で辛亥革命(中華民国建国)をなしとげた孫文が泊まったことがあるそうです。孫文を経済的に支援する日本人グループの1人だったとのこと。

 孫文は中国同盟会を1905年8月20日に東京で結成しました。時の東京は日露戦争の勝利が確実で、「坂の上の雲」にのぼったような気持ちでいたころです。この中国同盟会が清王朝を滅ぼし、辛亥革命をなしとげることになります。

 孫文は革命を目指して香港、シンガポールに滞在し、宮崎滔天(宮崎寅蔵)ら支援者の力で日本国内も転々としていました。昨年、胡錦涛・国家主席が来日した際も、日比谷公園内の孫文ゆかりの「松本楼」を訪れました。岡田さんのひいおじいちゃんもそういった孫文の支援者の一人だったようです。

 孫文は高田家に一宿一飯のお礼に「博愛」という書を残しました。岡田さんが代議士になると、孫文の書を高田家の蔵から東京に運び、衆議院議員会館の自室に掲げました。



[写真は孫文が高田家に残した「博愛」の書]

 あの広い中国大陸で辛亥革命をなし遂げた孫文。その背中を押してあげた高田家。高田ちえさんも岡田さんが1988年、通産省を辞めて政治家になると「決めたときには、一生懸命応援をしてもらった」(1月7日付ブログ)。

 高田家には、志ある若者の背中をそっと押してやる思いやりが受け継がれているようです。高田家は養子縁組みした昌也さん、つまり岡田さんの実弟が跡を継いでいます。

 孫文は58年間の生涯で「中国革命の父」となりました。中国人、台湾人、日本人の大多数が偉人だと一致するおそらく唯一の人物ですが、最期は「革命未だならず」と無念さをにじませました。

 
[中華民国時代の北京・天安門にかかる孫文の肖像=1月24日付朝日新聞]

 岡田さんも若く見えますが55歳。狭いこの国で、革命ではなく政権交代をするのは、ずっと簡単なことに思えます。民主党が政権をとり、その政権がいずれ腐り、もう一つの二大政党に政権が再びかわる。そういうプロセスを経て、日本に政権交代可能な二大政党制を確立するには向こう15年間はかかります。岡田さんには「政権交代未だならず」など絶対に許されません。

 私はこの訃報に接するまで、「高田ちえ」さんのお名前も存じ上げませんでした。「政治家・岡田克也」にこれだけ大きな影響を与えた明治女性がいたとは驚くばかり。なぜだかよく分からないけど、「ありがとうございました」と感謝したい気持ちになりました。

 心からご冥福をお祈りします。

高田ちえさん死去 岡田卓也イオン名誉会長相談役の義母(共同通信) - goo ニュース

 高田 ちえさん(たかだ・ちえ=岡田卓也イオン名誉会長相談役の義母)2日死去、100歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。お別れの会は2月16日午前11時から三重県四日市市安島1の3の38、四日市都ホテルで。喪主は長男昌也(まさや)氏。

以上です。



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