秋晴れの一日でした。
「岡山、社会福祉の旅」は、bonn1979先生と二人旅となりました。
先生は、この日、鹿児島から新幹線を乗り継いで岡山に入られました。
予想以上に楽に来ることができたと、とてもお元気でした。
鹿児島駅~新八代駅間の九州新幹線を絶賛されていました。
来年春には全線開通だそうです。
鹿児島から大阪まで4時間を切る計画だそうです!
鹿児島ががぜん近くなります。
これから岡山市内を歩くのですから、移動でお疲れではと案じていたのですが、
ホッとしました。
まず、市電を利用して石井十次やアリス・アダムス女史が活躍した東山まで行きました。
下車後、岡山博愛会病院を訪問しました。
岡山博愛会は、日本で初めて都市型セツルメントを導入したアリス・アダムス女史が設立した会です。
その病院前に石井十次の胸像があります。
石井十次とアリス・アダムス女史のつながりを象徴しているようです。
岡山孤児院発祥の地、三友寺は本堂が戦災で焼失してしまい、残ったのは山門のみです。
本堂があった辺りは保育園になっています。
三友寺山門には、「ピンポン伝来の地」という石碑があります。
碑文です
「旧制第六高等学校の言語学教授として明治32年に来岡した英国人エドワード・ガントレットはここ三友寺に寄宿していた。
彼の義弟山田耕筰はその自叙伝『若き日の狂詩曲』の中で「義兄より作曲・エスペラント語と共にピンポンの指導を受けた」と
記述している。これは坪井玄道教授が日本に卓球を伝えたといわれる明治35年よりも3年早いことである。
ここに耕筰生誕120年を記念してこの碑を建立し、後世に伝えるものである。平成18年9月9日 岡山県卓球協会」
ガントレットの妻が山田耕筰の実姉ということになります。
日本キリスト教婦人矯風会の会長を務めたガントレット恒さんです。
日本キリスト教婦人矯風会は、現在も活動を続けており禁酒活動にも力を入れています。
岡山には禁酒会館という大正期の建物が戦災を免れ当時のままの姿で残っています。
この建物も訪問しました。
さて、岡山孤児院に戻ります。
岡山孤児院は、明治20年に設立されます。
一時1200名の院生が住んだというわけですから多くの建物(家庭舎が中心)が建つ広大な土地でした。
明治40年代、孤児院は十次の故郷である宮崎に移転します。
孤児院の跡は、住宅地になってしまい、現存する建物はここにはありません。
岡山市民でも、孤児院がどこにあったから知らない人が多いのはそのためです。
ただ、道や水路はかつてのままです。
昔を偲んで歩きました。
電車道に戻り、山陽学園の前を通り東山公園に上りました。
ここは、岡山市で初めての洋館といわれる宣教師館があったところです。
アダムス女史が最初に住んだ場所でもあります。
ここのベンチで休憩しました。
先生とはブログを通じて、3年間の交流があります。
初めてお会いした方とはとても思えませんでした。
話は、鹿児島、奄美、神奈川、石川、北海道と尽きることはありません。
ブログ上で知り合った方々の消息もとても興味深くうかがいました。
このような体験は初めてだと思いながら。
※写真は明治期の岡山市街地図。岡山駅と岡山城は当時のまま。
県庁と市役所は現在地とは異なります。
東山地区は、地図の右下です。
私は、日々の雑務に追われ、
また、あちこちを転々としてきた身で、
あまり、自分の住んでいるところに興味をもつ
という機会に恵まれていません。
幸にして、当面、今の所を動くことはなくなりました。
少し、自分の住んでいる町や
市や県の歴史といったところから、
福祉の歩みをみてみたくなりました。
それにしても、お三方でどのようなお話しがすすんだのか・・・。
これからのblogやtweetが楽しみです。
くしゃみしませんでしたか。
非常に好意的な話でしたのでご安心ください。
bonn先生のお話が面白く、耳ダンボ状態でした。
トロヨ先生の伝道師ぶりにも驚きました。
これからが楽しみですね。
書いていただきました。
昨日の
遊び振りを
「介護福祉研究」にメモしました。
第1日に
教わったことを活用しています。
今日は
7時32分岡山発で
服部へ向かいます。
びっくり仰天です。
倉敷経由総社で、岡山でも懇親会とは。
そして今日は朝早くから県立大ですね。
脱帽です。