内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史的想像力について

2017-01-27 23:51:32 | 講義の余白から

 古代史の講義の中で、いわゆる歴史的事実はいかにして構成されるのかという問題を学生たちに考えてもらうために、毎年引用するテキストがある。それは、ポール・ヴァレリーが1932年に高校生たちを前に行った講演 « Discours de l’histoire » の一部である。例えば、次の箇所である。

« Il faut donc choisir, c’est-à-dire convenir non seulement de l’existence, mais encore de l’importance du fait ; cette convention est capitale. […] Mais puisque nous ne pouvons tout retenir, et qu’il faut se tirer de l’infini des faits par un jugement de leur utilité ultérieure relative, cette décision sur l’importance introduit de nouveau, et inévitablement, dans l’œuvre historique. » (Œuvre, vol. I, Gallimard, coll. « Pléiade », p. 1130-1131)

 科目としての歴史なんて「事実」を覚えることに尽きると思っている学生も少なくない。それが理由で歴史はちっとも面白くもないと決めつけている者たちさえいる。いや、歴史にとても興味がある学生たちでも、事実は事実でしょ、それは動かしがたいでしょ、そう信じていることが多い。だから、学生たちに、一度、「歴史的事実」とは何か、より端的に「事実」はいかにして作られるか、考えてほしくて、上掲の引用箇所を読ませる。
 どんな歴史書であれ、広く読まれている歴史の教科書でさえ、その歴史記述が行われる際に新たに導入された重要度の基準―より正確には、相対的な事後的有用性という基準―に照らして、無数の事実の中から選択された「事実」によって歴史は構成されている。これは資料的制約が大きい古代史に限られた問題ではなく、むしろ現代史においてこそ鋭く提起されなくてはならない、歴史記述についての根本問題である。
 この問題を現代史の事例に即しつつ深く掘り下げた一冊に、ロシア人でフランス近代史の専門家である Nicolay Koposov が書いた De l’imagination historique, Éditions de l’École des Hautes Études en Sciences Sociales, coll. « Cas de figure », 2009 がある。本文は200頁ほど、それに引用文献についての詳細な後注が80頁余り付いているが、いずれも小さな活字でぎっしり組まれており、少し持ち重りがするほどである。問題へのアプローチも大変重厚である。例えば、固有名詞の定義をめぐって、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキまで引き合いに出されており、歴史家の余技などといって済ませられない本格的な議論が展開されている。
 少し読み込んでから、拙ブログでも紹介したいと思っている。