内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もう一つの近代の超克 ―「国語」の「主体」とその運命 ―

2017-01-30 23:59:59 | 哲学

 この週末は、三月下旬にストラスブール大学と CEEJA とで三日間に渡って開催される学会での発表要旨作成に費やした。先程その発表要旨を学会運営責任者の同僚に送ったところである。学会のテーマは、両大戦間の日本社会の「近代」再考。学会での発表言語は、英仏日のいずれかで、私は仏語で発表することにした。発表原稿を基とした論文集が仏語で出版されることが決まっており、それなら最初から仏語で原稿を準備するのが最も手っ取り早いからである。
 発表のタイトルは、「もう一つの近代の超克 ―「国語」の「主体」とその運命 ―」とした。「近代の超克」座談会に参加した西谷啓治や「世界史的立場と日本」座談会に参加した高坂正顕や高山岩男などによって当時盛んに使用された「主体」概念を、彼ら京都学派の哲学者たちとはまったく異なった文脈で、しかしほぼ同時期に盛んに使用している時枝誠記の言語過程説(当人は言語過程観と呼んでいた)が主な考察の対象である。
 この時枝独自の言語理論が京城帝国大学在任中に構想されたことと当時の朝鮮での国語教育に時枝が深く関与しなければならなかったこととの間には密接な関係があり、その関係の要に位置しているのが「主体」概念である。時枝の言語過程説も一つの近代の超克の試みであり、その可能性と限界は言語過程説における「主体」概念によく見て取ることができる。
 最近の日本での「近代の超克」論を一通り押さえた上で、言語過程説においてなぜ「主体」概念が前面に打ち出されることになったのかを、当時の歴史的文脈の中で、特に朝鮮での国語教育の現場という特定の状況の中で考察した後、時枝の「主体」概念の構想がソシュールの『一般言語学講義』(1928年に『言語学原論』という題名のもとに小林英夫訳が岡書院から出版されているが、これは『講義』の世界最初の翻訳であり、時枝はもっぱらこの邦訳によってソシュールを批判した)の誤読に基いており、そのことが時枝による近代の超克の試みを特徴づけているとともに、それを蹉跌へと導くことになるところまで論じるつもりである。