二〇二二年十月九日 NO・四九―二八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十九章(月) 〃 二十章
司会 みつ子師(火) 〃 二一章(水) 〃 二二章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二三章(金) 〃 二四章
招詞祈祷 イザヤ二章二~五節 (土) 〃 二五章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 九 番 ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎天路29号ができました。ご活用ください。
交 読 文 詩 編 八一編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌二六二番
献 金 感謝の祈り 松田兄
讃 美 聖 歌四〇八番
説 教 ヘブライ十二章十四~二四節 すべての人との平和を、また聖なる生活を
讃 美 聖 歌五五三番 追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、
祈 禱 高澤兄 だれも主を見ることはできません。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章十四節
平和と聖さを求めよ
苦難を子に対する神からの愛の訓練として受け止め、それによって鍛え上げられた者に期待され求められているのは、「平和と聖さ」である。「すべての人との平和を追い求めなさい」という勧告がなされているのを不思議に思う人がいるかもしれない。平和を願わない人はいないと思うからである。しかし私たちの周りにも、社会、国家間にも平和はまれである。なぜなら私たちは互いに自分の考えや主張を相手に押し付け、相手の要求を退けやすいからである。それゆえ、私たちは父なる神からの訓練を通して、謙遜と従順を学び、それが身にしみることなしに、「平和に満ちた実を結ぶ」(11節)ことはできない。
「聖さ」については、10節でも取り上げられた。この聖さは、単に倫理的に罪を犯さないとか、聖人のようになるということが言われているのではなく、すでに主イエスの死の犠牲、十字架の血によって、「聖なる者とされた人たち」(2章11節)として神との関係が深められることが言われている。だから続けて「聖さなしにはだれも主を見ることはできない」と言われているのである。
続いて15節で「神の恵みから外れるような人がないよう……注意を払いなさい」(岩波訳)と言われる。私たちは「平和と聖さ」を熱心に追い求めなくなると神の恵みから外れる危険がある。さらにそれによって、私たちの心に「苦い根が現れ」、互いにいがみ合うようになるのである。
16~17節のエサウの例は、彼が神から与えられた「長子の権利」を軽んじ、目先の肉の欲求を優先した生き方を示す。彼は悔い改めたのではなく後悔しただけで、神に対して心は頑ななままであった。
18~22節は、旧約と新約、律法と福音の対比である。18~21節は、神の聖と尊厳の前に、人々が恐れを抱き、近づくことができない姿が語られている。それとは対照的に22~24節は、主イエスの注がれた血によって、私たちは恐れることなく神に近づくことができる者とされたことが語られている。これこそ私たちに備えられている神の御国の姿である。黙示録22章3~4節に描かれているように、そこで「御顔を仰ぎ見る」のである。旧約では、神を見る者は死ぬと言われたが、主イエスの救いによって、私たちは神の御顔見ることができる。今はその価値が分からないとしてもこれに優る光栄はないのである。
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十九章(月) 〃 二十章
司会 みつ子師(火) 〃 二一章(水) 〃 二二章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二三章(金) 〃 二四章
招詞祈祷 イザヤ二章二~五節 (土) 〃 二五章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 九 番 ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎天路29号ができました。ご活用ください。
交 読 文 詩 編 八一編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌二六二番
献 金 感謝の祈り 松田兄
讃 美 聖 歌四〇八番
説 教 ヘブライ十二章十四~二四節 すべての人との平和を、また聖なる生活を
讃 美 聖 歌五五三番 追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、
祈 禱 高澤兄 だれも主を見ることはできません。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章十四節
平和と聖さを求めよ
苦難を子に対する神からの愛の訓練として受け止め、それによって鍛え上げられた者に期待され求められているのは、「平和と聖さ」である。「すべての人との平和を追い求めなさい」という勧告がなされているのを不思議に思う人がいるかもしれない。平和を願わない人はいないと思うからである。しかし私たちの周りにも、社会、国家間にも平和はまれである。なぜなら私たちは互いに自分の考えや主張を相手に押し付け、相手の要求を退けやすいからである。それゆえ、私たちは父なる神からの訓練を通して、謙遜と従順を学び、それが身にしみることなしに、「平和に満ちた実を結ぶ」(11節)ことはできない。
「聖さ」については、10節でも取り上げられた。この聖さは、単に倫理的に罪を犯さないとか、聖人のようになるということが言われているのではなく、すでに主イエスの死の犠牲、十字架の血によって、「聖なる者とされた人たち」(2章11節)として神との関係が深められることが言われている。だから続けて「聖さなしにはだれも主を見ることはできない」と言われているのである。
続いて15節で「神の恵みから外れるような人がないよう……注意を払いなさい」(岩波訳)と言われる。私たちは「平和と聖さ」を熱心に追い求めなくなると神の恵みから外れる危険がある。さらにそれによって、私たちの心に「苦い根が現れ」、互いにいがみ合うようになるのである。
16~17節のエサウの例は、彼が神から与えられた「長子の権利」を軽んじ、目先の肉の欲求を優先した生き方を示す。彼は悔い改めたのではなく後悔しただけで、神に対して心は頑ななままであった。
18~22節は、旧約と新約、律法と福音の対比である。18~21節は、神の聖と尊厳の前に、人々が恐れを抱き、近づくことができない姿が語られている。それとは対照的に22~24節は、主イエスの注がれた血によって、私たちは恐れることなく神に近づくことができる者とされたことが語られている。これこそ私たちに備えられている神の御国の姿である。黙示録22章3~4節に描かれているように、そこで「御顔を仰ぎ見る」のである。旧約では、神を見る者は死ぬと言われたが、主イエスの救いによって、私たちは神の御顔見ることができる。今はその価値が分からないとしてもこれに優る光栄はないのである。