二〇二四年五月十二日 NO・五一―六 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 アジア祈禱日 (日)使徒言行録 十七章 (月) 〃 十八章
司会 坂 本兄(火) 〃 十九章 (水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章 (金) 〃 二二章
招詞祈祷 ミカ六章六~八節 (土) 〃 二三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六二番 ◎十六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎アジア祈祷日献金は地震で被害を受けた輪島教会に
交 読 文 詩 編百三六編 送金します。
讃 美 讃美歌四六一番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌四二七番 神の憐みによってあなたがたに勧めます。
説 教 ローマ十二章一節 自分の体を、神に喜ばれる
讃 美 聖 歌五〇〇番 聖なる生きたいけにえとして献げなさい。
祈 祷 高澤兄 これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十二章一節
日常生活のすべてが神礼拝である
11章までは、神がイエス・キリストを通して、私たちのために成し遂げて下さった救いについて語られた。12章から、その救いに与った者として、私たちがなすべきことについて語られる。とは言え、前者と後者は切り離すことはできない。なぜなら私たちの行為は自力によってなされるのではなく、どこまでもイエス・キリストによる救いによって与えられたものによってなされるからである。つまり1章17節で明示されている「(キリストの)真実により(私たちの)信仰へ」ということが、キリスト者の生の根幹であり、私たちの歩みはここから生み出されるのである。
1~2節は、以下で語られる勧めの中心主題を提示する。「こういうわけで」という言葉で始まっているのは、これから語られることが先に(11章まで)語られたことを受けていることを示している。次に、 ここでパウロは「勧める」と述べているのであって「命じる」と言っていない。旧約の律法は行うように命じるのであるが、しかしキリスト者は「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6章14節)。だから「神の憐みによって(基づいて)あなたがたに勧める」と言われているのである。「この勧告も福音そのものを語っている」(ケーゼマン)のである。それゆえ「勧め」は同時に「慰め」の言葉である。
第一に勧められているのは、「自分の体を、神に……献げなさい」である。これこそ以下で語られる具体的勧めの根幹にあるものである。「自分の体」というのは、自分の全存在の意味である。すなわち体を通して営まれる日常生活のすべてを、思いも言葉も行いもすべて献げるように言われているのである。
「いけにえとして献げる」とは、旧約における礼拝を念頭に置いている。旧約の礼拝は、神殿で祭司を通して動物の供え物を殺して献げることによってなされた。しかしここではもはや「動物の犠牲」ではなく、自分自身を生きているまま献げるようにと勧められる。それは神殿や祭司に制限されるようなものではなく、日常生活すべてが神に献げられた礼拝であるということである。だから「これこそあなたがたの理にかなった礼拝です」と言われているのである。罪と死の支配ではなくキリストによって命に移された者として、私たちの生活のすべてが神の恵みにあることを証することが真の神礼拝(神奉仕)である。
礼 拝 次 第 アジア祈禱日 (日)使徒言行録 十七章 (月) 〃 十八章
司会 坂 本兄(火) 〃 十九章 (水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章 (金) 〃 二二章
招詞祈祷 ミカ六章六~八節 (土) 〃 二三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六二番 ◎十六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎アジア祈祷日献金は地震で被害を受けた輪島教会に
交 読 文 詩 編百三六編 送金します。
讃 美 讃美歌四六一番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌四二七番 神の憐みによってあなたがたに勧めます。
説 教 ローマ十二章一節 自分の体を、神に喜ばれる
讃 美 聖 歌五〇〇番 聖なる生きたいけにえとして献げなさい。
祈 祷 高澤兄 これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十二章一節
日常生活のすべてが神礼拝である
11章までは、神がイエス・キリストを通して、私たちのために成し遂げて下さった救いについて語られた。12章から、その救いに与った者として、私たちがなすべきことについて語られる。とは言え、前者と後者は切り離すことはできない。なぜなら私たちの行為は自力によってなされるのではなく、どこまでもイエス・キリストによる救いによって与えられたものによってなされるからである。つまり1章17節で明示されている「(キリストの)真実により(私たちの)信仰へ」ということが、キリスト者の生の根幹であり、私たちの歩みはここから生み出されるのである。
1~2節は、以下で語られる勧めの中心主題を提示する。「こういうわけで」という言葉で始まっているのは、これから語られることが先に(11章まで)語られたことを受けていることを示している。次に、 ここでパウロは「勧める」と述べているのであって「命じる」と言っていない。旧約の律法は行うように命じるのであるが、しかしキリスト者は「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6章14節)。だから「神の憐みによって(基づいて)あなたがたに勧める」と言われているのである。「この勧告も福音そのものを語っている」(ケーゼマン)のである。それゆえ「勧め」は同時に「慰め」の言葉である。
第一に勧められているのは、「自分の体を、神に……献げなさい」である。これこそ以下で語られる具体的勧めの根幹にあるものである。「自分の体」というのは、自分の全存在の意味である。すなわち体を通して営まれる日常生活のすべてを、思いも言葉も行いもすべて献げるように言われているのである。
「いけにえとして献げる」とは、旧約における礼拝を念頭に置いている。旧約の礼拝は、神殿で祭司を通して動物の供え物を殺して献げることによってなされた。しかしここではもはや「動物の犠牲」ではなく、自分自身を生きているまま献げるようにと勧められる。それは神殿や祭司に制限されるようなものではなく、日常生活すべてが神に献げられた礼拝であるということである。だから「これこそあなたがたの理にかなった礼拝です」と言われているのである。罪と死の支配ではなくキリストによって命に移された者として、私たちの生活のすべてが神の恵みにあることを証することが真の神礼拝(神奉仕)である。