二〇二二年十月二日 NO・四九―二七 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十二章(月) 〃 十三章
司会 高 澤兄(火) 〃 十四章(水) 〃 十五章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十六章(金) 〃 十七章
招詞祈祷 イザヤ三五章三~四節 (土) 〃 十八章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 七 番 ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は、聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編 八十編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌二六二番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌四〇七番 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものでは
説 教 ヘブライ十二章四~十三節 なく、悲しいものと思われますが、後になると
聖 餐 式 それで鍛え上げられた人々に、
讃美祈祷 聖 歌六一五番 高澤姉 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章十一節
訓練(苦難)の意味するもの
4~5節の勧告は、当時の教会の状況を反映している。3節の「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」や12節の「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」は、迫害などによって信仰が動揺している信仰者を懸命に慰め励まそうとしている。
「罪と戦って」と言われている「罪」とは、道徳的なものだけを指すのではなく、私たちを信仰から引き離そうとするすべてのものと見ることができる。「血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉は、徹底的に罪と戦う覚悟を持つようにと言っていると見るのが普通であるが、加藤常昭師は、3節と4節をつなげて、主イエスがあなた方に代わって十字架上で血を流して下った。それゆえあなたがたは、血を流さないで来れた。だからイエス様を見上げなさい、というように理解する。5節以下の言葉も、読者を叱責するというよりは、慰め励まそうとしていることを思えば、是認できる。
5~6節は、箴言3章11~12節の引用である。神が私たちを鍛錬するためにお用いになるものは、人によって千差万別である。ある人には病気や怪我、ある人には家庭や職場関係のトラブル、また生活苦などである。神は、それらの困難の中で、私たちがいよいよ神に頼ることを学ばせられる。
7節以下は、肉の父によるしつけを例に出して父なる神の鍛錬がいかに優れているかを語っている。神は愛する者を訓練(鍛錬)される。訓練は、どんな種類のものであっても、当座は苦しいのであり、決して喜べない。しかし神は、私たちが御自身の「子」にふさわしい者となることを願ってなさるのである。それは「「御自分の神聖にあずからせる」(10節)ためである。そして一時の苦難と悲しみを経験した後に、「それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」ためである。
この世の人にとって、自分の身に起こるすべての困難は、単に不幸にすぎない。しかしキリスト者にとって、すべての困難は、神から差し出される愛の訓練であり、それを通して、私たちは神の子供たちにふさわ整しいものとえられるのである。主イエスでさえ「苦しみによって従順を学ばれた」のである(5章8節)。私たちはこのように苦難の意味を理解する時、忍耐できる力を与えられる。
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十二章(月) 〃 十三章
司会 高 澤兄(火) 〃 十四章(水) 〃 十五章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十六章(金) 〃 十七章
招詞祈祷 イザヤ三五章三~四節 (土) 〃 十八章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 七 番 ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は、聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編 八十編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌二六二番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌四〇七番 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものでは
説 教 ヘブライ十二章四~十三節 なく、悲しいものと思われますが、後になると
聖 餐 式 それで鍛え上げられた人々に、
讃美祈祷 聖 歌六一五番 高澤姉 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章十一節
訓練(苦難)の意味するもの
4~5節の勧告は、当時の教会の状況を反映している。3節の「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」や12節の「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」は、迫害などによって信仰が動揺している信仰者を懸命に慰め励まそうとしている。
「罪と戦って」と言われている「罪」とは、道徳的なものだけを指すのではなく、私たちを信仰から引き離そうとするすべてのものと見ることができる。「血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉は、徹底的に罪と戦う覚悟を持つようにと言っていると見るのが普通であるが、加藤常昭師は、3節と4節をつなげて、主イエスがあなた方に代わって十字架上で血を流して下った。それゆえあなたがたは、血を流さないで来れた。だからイエス様を見上げなさい、というように理解する。5節以下の言葉も、読者を叱責するというよりは、慰め励まそうとしていることを思えば、是認できる。
5~6節は、箴言3章11~12節の引用である。神が私たちを鍛錬するためにお用いになるものは、人によって千差万別である。ある人には病気や怪我、ある人には家庭や職場関係のトラブル、また生活苦などである。神は、それらの困難の中で、私たちがいよいよ神に頼ることを学ばせられる。
7節以下は、肉の父によるしつけを例に出して父なる神の鍛錬がいかに優れているかを語っている。神は愛する者を訓練(鍛錬)される。訓練は、どんな種類のものであっても、当座は苦しいのであり、決して喜べない。しかし神は、私たちが御自身の「子」にふさわしい者となることを願ってなさるのである。それは「「御自分の神聖にあずからせる」(10節)ためである。そして一時の苦難と悲しみを経験した後に、「それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」ためである。
この世の人にとって、自分の身に起こるすべての困難は、単に不幸にすぎない。しかしキリスト者にとって、すべての困難は、神から差し出される愛の訓練であり、それを通して、私たちは神の子供たちにふさわ整しいものとえられるのである。主イエスでさえ「苦しみによって従順を学ばれた」のである(5章8節)。私たちはこのように苦難の意味を理解する時、忍耐できる力を与えられる。