二〇一六年十月九日 NO・四三―二八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)箴 言 十三章(月) 〃 十四章
司会 みつ子師(火) 〃 十五章(水) 〃 十六章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十七章(金) 〃 十八章
招詞祈祷 詩編百四六編一~六節 (土) 〃 十九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二四番 ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎「オアシス稲毛」三四号ができました。
交 読 文 詩編百十九編ペー・ ツァデ ◎次週は「祈りのこころ」の読書会です。
讃 美 讃美歌二六九番 ◎二三日(日)粂川信夫師を招いての特別礼拝です。
献 金 感謝の祈り 志村姉
讃 美 聖 歌五二一番 わたしは、あなたがたが
説 教 Ⅰコリント一章四~九節 キリスト・イエスによって
讃 美 聖 歌四六八番 神の恵みを受けたことについて、
祈 祷 高澤兄 いつもわたしの神に感謝しています。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント一章四節
感謝の根拠―主イエス・キリスト
四節は「感謝します」という言葉で始まっている。パウロは感謝の人であった。四~九節で、パウロは、神がコリント信徒になしてくださったことに対する感謝を神に捧げている。その感謝は、たとえコリントの信徒が問題を抱え、非難すべき点があっても決して失われない。
感謝の第一は、キリスト・イエスによって、神がコリント信徒に「恵み」を与えられたこと、具体的には「すべての言葉とすべての知識」に富む賜物(十二章八節参照)が与えられた者とされたからである。これは真の神を知る知識のことである。私たちは主イエスによって、真の神を、つまり義にして愛なる神を知る者とされた。
感謝の第二は、「主イエス・キリストの現れを待ち望む」者とされたことである。それは「主の日」であり、最後の審判においても、恐れることなく立つことができる者とされているからである。最後の審判を司るのは、主イエス・キリストである。それゆえキリスト者は、恐れるというよりも、主イエスにお会いできる日として首を長くして待ち望んでいるのである。新約聖書の最後が「主イエスよ、来てください」で結ばれているように、初代教会以来、キリスト者の祈りの中心は、「キリストの来臨」を切に求めることであった。その日、その時、悪の罪と死の世界は一掃され、死も悲しみも涙もない「神の国」が出現し、神と主イエス・キリストが完全に統治される世界となるのである。
感謝の第三は、「主イエス・キリストとの交わり」に招かれていることである。それは教会におけるキリスト者の交わりとして具体化する。そこには男と女、自由人と奴隷、ユダヤ人とギリシア人など、性差、身分、民族の違いを超えて、主にある兄弟姉妹として交わることのできる自由と恵みの中に置かれたことである。これは当時においてどれほど革命的であったことか!
最後に一~九節に、ほぼフルネームで「主イエス・キリスト」という呼び名が、九回も出てくる。パウロにとって、この名前こそ、恵みと救いの源、すべてのすべてであったことを際立たせている。
礼 拝 次 第 (日)箴 言 十三章(月) 〃 十四章
司会 みつ子師(火) 〃 十五章(水) 〃 十六章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十七章(金) 〃 十八章
招詞祈祷 詩編百四六編一~六節 (土) 〃 十九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二四番 ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎「オアシス稲毛」三四号ができました。
交 読 文 詩編百十九編ペー・ ツァデ ◎次週は「祈りのこころ」の読書会です。
讃 美 讃美歌二六九番 ◎二三日(日)粂川信夫師を招いての特別礼拝です。
献 金 感謝の祈り 志村姉
讃 美 聖 歌五二一番 わたしは、あなたがたが
説 教 Ⅰコリント一章四~九節 キリスト・イエスによって
讃 美 聖 歌四六八番 神の恵みを受けたことについて、
祈 祷 高澤兄 いつもわたしの神に感謝しています。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント一章四節
感謝の根拠―主イエス・キリスト
四節は「感謝します」という言葉で始まっている。パウロは感謝の人であった。四~九節で、パウロは、神がコリント信徒になしてくださったことに対する感謝を神に捧げている。その感謝は、たとえコリントの信徒が問題を抱え、非難すべき点があっても決して失われない。
感謝の第一は、キリスト・イエスによって、神がコリント信徒に「恵み」を与えられたこと、具体的には「すべての言葉とすべての知識」に富む賜物(十二章八節参照)が与えられた者とされたからである。これは真の神を知る知識のことである。私たちは主イエスによって、真の神を、つまり義にして愛なる神を知る者とされた。
感謝の第二は、「主イエス・キリストの現れを待ち望む」者とされたことである。それは「主の日」であり、最後の審判においても、恐れることなく立つことができる者とされているからである。最後の審判を司るのは、主イエス・キリストである。それゆえキリスト者は、恐れるというよりも、主イエスにお会いできる日として首を長くして待ち望んでいるのである。新約聖書の最後が「主イエスよ、来てください」で結ばれているように、初代教会以来、キリスト者の祈りの中心は、「キリストの来臨」を切に求めることであった。その日、その時、悪の罪と死の世界は一掃され、死も悲しみも涙もない「神の国」が出現し、神と主イエス・キリストが完全に統治される世界となるのである。
感謝の第三は、「主イエス・キリストとの交わり」に招かれていることである。それは教会におけるキリスト者の交わりとして具体化する。そこには男と女、自由人と奴隷、ユダヤ人とギリシア人など、性差、身分、民族の違いを超えて、主にある兄弟姉妹として交わることのできる自由と恵みの中に置かれたことである。これは当時においてどれほど革命的であったことか!
最後に一~九節に、ほぼフルネームで「主イエス・キリスト」という呼び名が、九回も出てくる。パウロにとって、この名前こそ、恵みと救いの源、すべてのすべてであったことを際立たせている。